証なるもの

笹目いく子

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隠密衆(二)

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「そのお方を、なぜ薩摩が追うのですか。千川家がご改易となったからにございますか?」
「いかにも。庶子といえどもご当主の子息とあらば、生かしてはおかれぬのだ」

 不審に思って紀堂は眉根を寄せた。

「しかし、それはご公儀のお役目なのでは……」
「越前守様と大和守様の手が回っており、公儀は動けぬ。火盗改もお庭番らも同様だ。だから、我ら島津家の隠密に命が下った」
「──それは、どなた様の命なのでございましょうか」

 思わず傷を押さえる手に力がこもった。それほどまでにして、千川を滅ぼしたいのは誰だ。父と弟、家臣までもを虫けらのように殺したのは、誰だ。島津家当主の島津斉興か。……いや、そんなはずはない。いくら薩摩藩主であっても、高家に罪をでっち上げ、火盗改を動かすことなぞできるわけがない。しかし、薩摩の隠密を動かすからには、島津家が関わっているに違いないのだ。何がどうなっているのかと、ますます混乱が極まった。

「ご店主にはかかわりのないことだ。広彬どのをご存じでないのなら、尚更だ」

 紀堂はぐっと詰まった。抜き身の刃のように鋭い灰色の目が、探るようにこちらを見ている。おそらく三十にはならぬだろう。よく見れば顔の造作はすっきりと整っているのに、能面のごとく感情を消し去った表情のせいで、まるで作り物めいた印象を受けた。

「なぜ……ご公儀に追われるその方を、あえてお助けしようとなさるのですか?」

 少しの沈黙の後、感情を殺した低い声が返ってきた。

「千川様のご当主とご嫡子を討ったは誤りであった。広彬どのの暗殺も同じく誤りであれば、島津家家臣の矜持にかけて、お家が罪を犯すことを看過できぬからだ」

 息が止まった。公儀の判断を、そうもはっきり誤りだと言い切るのか。両目を見張る紀堂を、奥田はかすかに目を細くして眺めた。

「……ご店主は、今年幾つになられる」

 板戸に押し付けた背中が強張った。流れつづける血が、生ぬるく手ぬぐいを濡らす感触が遠くなる。冷や汗が全身に滲み出すのは、傷の痛みのせいか、それとも強い緊張のせいか。

「──二十五ではなかったか。聞けば二十六年前に、伊予守様にお輿入れなさるはずであった奥女中が、行方知れずになったとか……」
 
 茫漠とした目をこちらに向けたまま、独り言のように囁く。

「その奥女中は、絶世の佳人でおられたのだとか。丁度……ご店主のような面差しなのでございましょうかな」

 返答を期待していない様子の呟きに身震いが走る。逃げなくては、と閃くように思った。懐の中で手ぬぐいを離し、血に汚れた手で短刀の柄を握り締めた。

「ご店主、我らは敵ではございませぬ」

 それが見えているかのように奥田が囁く。きい、きい、と障子の外で櫓が冷たい音を立てる。二人の男の無言の視線が、紀堂を屈服させるかのようにしてのしかかる。

「私を……どうしようというのですか」
「安全な場所へお連れ致します。我らがお守り申し上げましょう」 
「お断りする。船から降ろして下さい」息が上ずる。紀堂は汗のまといつく固い喉を動かして、叫ぶように言った。
「私はただの町人です。どうぞ、ご勘弁くださいまし」

 ぎいぎいと鳴く鴎の声が不快に耳に刺さる。ゆったりとした船の揺れが、胃の腑を持ち上げられるような吐き気を誘う。

「岸に、戻して下さいませ」
「広彬どの、どうかお聞き下さい。重大なお話がございまする……」

 奥田の囁きが、かっと血を沸騰させた。考えるより先に障子を開くと、紀堂は外へまろび出ていた。瞬間見上げた視界に、大川いっぱいに弧を描く永代橋の姿が飛び込んだ。

「何をなさる!」
「おやめなされ!」

 船頭や二人の声を背中に聞きながら、躊躇なく船べりを掴み、一気に身を踊らせた。しまった、という声を聞いたと同時に体が水面を叩き、ごぼごぼと耳を水が覆った。着物が水を吸って手足に絡みつき、あっという間に体が沈む。水練は正馬に教え込まれているが、酒が抜けないせいか負傷のせいか、手足がなかなかいうことをきかない。幸い流れはゆるやかで、したたか水を飲みながらもどうにか水面に顔を出した。
 泳ぎ出す前に船を振り返ると、羽織を脱いだ奥田が、慌てて腰から二刀を外しているのが目に入る。いくら忍といえど、羽織袴に両刀を差して水に飛び込むなぞ自殺行為なのだ。
 落ち着け、と自分に言い聞かせながら必死に水を掻いた。雨で茶色く濁った大川の水は、ぬるく体にまとわりついてくる。傷の痛みを感じる余裕もなかった。流れに乗って、岸を目指して泳ぎつづけた。

「──おい、大丈夫かいあんた?」

 頭を巡らせると、数間先から下ってくる猪牙舟から、手ぬぐいを被った船頭が叫ぶのが聞こえてきた。
 ぐるりと見回すと少し離れた上流に屋根舟が見え、滝本と船頭が身を乗り出している。前を荷舟が数隻横切っていて、行く手を阻まれているらしかった。奥田はと見れば、抜き手を切って追ってくる男の頭が、揺れる水面の間に迫って見えた。

「頼む、助けてくれ!」

 猪牙舟に向かって懸命に叫ぶと、おう、と船頭が竹竿を伸ばしてきた。壮年ながら屈強な男で、みるみる紀堂を引き寄せる。

「広彬どの……!」

 奥田の声が切れ切れに飛んできた。
 紀堂はそれを無視して猪牙舟に取り縋ると、船頭の手を借りながら力を振り絞って舟に這い上がった。

「……恩に着る。助かった」

 敷板に水たまりをつくりながら、ぜいぜいと喘ぐ。

「俺は、日本橋大鳥屋店主の紀堂だ。店まで……いや、日本橋まで、頼めるかい。ちょいと、怪我をしちまってるんだ」

 どさりと転がると、もう身動きできなかった。

「うわっ、旦那、すげえ血じゃねえか」

 水に洗われた傷からまた鮮血が流れだし、水たまりを赤く染めていた。
 こりゃてぇへんだ、という船頭の声を痺れた頭の隅に聞きながら、紀堂は苦労して首をもたげた。遠ざかる茶色い波間に、呆然としてこちらを見詰める奥田の顔が見えた。
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