証なるもの

笹目いく子

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千川家滅亡(二)

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 夏の夜空に咲いては散る、大輪の花を思い出す。
 忘れ難い、文月八日の夜だった。

 小舟町二丁目にある料理茶屋『花筏はないかだ』の長女の有里ゆりとは、かれこれ七年もの間相思相愛の仲で、二年前には結納も交わしていた。
 紀堂きどうは十四の時に大鳥屋の先代店主に見込まれ、鎌倉の儒学者野月正国のづきしょうこくの元から養子に入った。広之助ひろのすけという名で育てられた紀堂は、昨年の四代目紀堂の病死に伴い、二十四の若さで五代目を継いだのだった。 
 日本橋本町四丁目に位置する本両替商の大鳥屋は、大坂船場にも支店を構え、年に銀五百貫、金にして八千両以上を稼ぎ出す富商だ。日本橋にひしめく豪商と鎬を削る大店を受け継いだ紀堂が、五代目としてしっかり足元を固めるのは簡単なことではない。だから有里を妻に娶るまでに少しの時をもらっていた。

 打ち上げ花火が闇夜を照らす。
 隣で有里が満ち足りた表情で微笑み、無心に夜空を見上げている。
 秋蝉しゅうせんびん双蛾そうがの眉の匂うような風情の娘に、紀堂は見惚れた。
 愛しさが胸にこみ上げ、紀堂はつい娘を引き寄せると、牡丹のような唇に口付けた。
 びりびりと自分と有里をふるわせる轟きに、心ノ臓の轟きが重なった気がした。
 晩生おくてな紀堂が、人目を憚らずこういうふるまいをするのは珍しい。娘の両目が仰天したように見開かれ、ほっそりとした手で扇いでいた団扇を取り落とす。それから花火の赤色が映った顔がさらに赤くなって、有里は睫毛を瞬かせて微笑んだ。
 有里を、娶ろう。不意に思った。何かが熟するように心が告げた。そう有里の耳元で囁いたら、微笑んでいた両目に涙が盛り上がり、こくりと頷いた拍子に白いおとがいを伝ってこぼれ落ちた。

「近い内に、『花筏』へ挨拶に伺うよ。待たせて済まなかった」

 有里のやわらかな頬を手のひらでそうっと拭い、細い体をすっぽりと懐に抱いた。
 今になって、一世一代の大事を口にした、と耳朶が燃え上がりそうだった。だが、これでいいのだという確信があった。すべてがあるべきようにあるのだと、天啓のように感じた。
 腕の中で、目尻に白玉のような涙を光らせながら、有里が泣き笑いのように唇をふるわせている。
 耳を打つ花火の轟きは鼓動のようだ。砂金をばら撒いたような火の粉が、夜空を焦がしながら残像を残して降り注ぐ。大川を吹き抜ける涼しく甘い風が、有里のほつれた鬢を頬に流す。儚く鮮やかな刹那が、愛おしくてならなかった。
 尾を引いて打ち上がる花火が、祝福するように二人の頭上で咲いている。有里と共にそれを見上げながら、この夜のことを、いつまでも忘れないだろうと思った。
 生涯、忘れないだろうと思った。

 翌朝、大鳥屋の母屋へ朝の挨拶にやってくる大番頭を待ち構えていた紀堂は、有里との祝言について話をするつもりだった。さぞやからかわれるだろうなと思いつつ、ひとり頬を緩めていると、「旦那様」と常より早く居間に現れた藤五郎が声を上げた。
 蒼白になったまま言葉に詰まっている大番頭を見て、異変を覚った。
 容易に動揺することのない男が、目を血走らせて肩をふるわせている。

「大変でございます。千川様が」

 一瞬で体が凍りつき、息が止まった。

「千川様が……お、お殿様と、若殿様が……」

 鋭く張り詰めた束の間の静寂を、永遠のように長く感じた。
 口付けた後の、有里の潤んだ瞳が目の前を過る。
 何もかもがひどく美しい夜だった。この夜のことは、生涯忘れないだろうと思った。

……決して、忘れられぬだろうと思った。
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