証なるもの

笹目いく子

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正馬

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 渓谷を流れる神田上水が黄金色に輝く頃、杉本を屋敷に残して楽其楽園らくきらくえんを辞した。紀堂の前後に家臣二名と玄蕃が立ち、鈴虫の鳴く林を下る道を歩いていく。
 連なる丘の稜線が、赤銅色に染まる西の空に黒く浮かび上がっているのを、木々の合間から透かし見る。広衛との対面を果たした昂揚が過ぎると、あの竹矢来の内に残して行かねばならない苦しさが胸を締め付けていた。楽其楽園とは、なんと皮肉な名であろうか。この鄙びた場所は美しいけれども、十六の少年が過ごすにはあまりにも寂しかった。まして部屋から一歩も出ることも叶わず、独りきりで、いつ終わるとも知れぬとりこの日々を繰り返すのだ。紀堂が与えた笛を命綱のようにして、それだけをよすがにして夜を過ごす弟の姿が目に浮かび、足が鈍った。
 冬の嵐に荒れ狂う海の轟きが、頭の中に谺する。
 置いて帰ることなど耐えられない、と心が軋んでいた。

「……大鳥屋、遅れるな。日が落ちればこの辺りは常闇。いささか物騒になる」

 先導する供侍二人が振り返って言う。
 今、救い出したところで守ってやれぬ。力が足りない。金の力では足りないのだ。

「……はい、申し訳ございません」

 後ろ髪を引かれる思いで答え、紀堂が足を早めようとした刹那。
 背後から飛び出してきた影が、音もなく脇をすり抜けた。
 つむじ風のようなそれは背後から供侍に襲いかかると、二人が振り向く間もなく次々に昏倒させた。何をしたのかもわからぬほど、速やかな技だった。
 影がゆっくりと振り返る。
 奥田玄蕃が、目の前に立ち塞がっていた。 
 頬を強張らせた紀堂は、さっと懐に手を入れた。途端、背後の気配にぎくりとした。肩越しに見ると、いつの間にか見覚えのある忍が二人、後ろに佇んでいる。屋根船に拐われた時に目にした滝村と、船頭を務めていた男だ。

「我らと供に来ていただきましょう、広彬どの」

 抑揚のない声で、玄蕃が言う。

「手荒な真似はしたくございませぬ」

 短刀の柄を握り締めたまま、紀堂はじっと男を凝視した。

「何が、望みだ。俺をどうしようというんだ」
「我らが主の元にお連れ致します」
「主……」

 玄蕃が灰色の目で無表情に言った。

「島津家大殿であらせられる、島津斉宣様にございます」

 紀堂は顔色を変えた。次の瞬間にはかっと腸が燃えた。

「高輪の老公だと……? お前たち、薩摩を裏切ったというのは狂言か? 袂を別ったふりをして、水野老中一派の内に入り込んだのか」
「そうではございませぬ。我らはただ、大殿がこれ以上の凶行に走られるのをお止め申し上げるために働いておりまする。大殿はあなた様をお手元にお望みだ。叶えて差し上げれば、これ以上の千川家への手出しはなさらぬかもしれませぬ。あなた様に危害が及ばぬように、我らがお守り致します。ご同行願えませぬか」

 平らな声で言う玄蕃は、丁重な態度を見せながらも有無をいわせぬ威圧感を漂わせている。
 紀堂は男を睨み返しながら呟いた。
 
「……なぜ、俺なのだ」

 千川家の生き残りであるから、殺したいというのならまだわかる。しかし、越前守や大和守に紀堂の存在を秘してまで、執拗に連れ去ろうとするのがわからなかった。
 玄蕃は一瞬、茫洋とした掴み所のない眼差しで紀堂を見た。

「……それがしもしかとは承知致しておりませぬが……あなた様は……」

 畏怖とも迷いともつかぬ感情を声に滲ませ、しかし玄蕃はすぐに元の無表情な隠密の顔に戻った。

「ご同行いただきましょう。……滝本、磐井いわい

 背後の二人が押し包むように迫ってくる。三人を相手にするだけでも無茶であるのに、彼らは手練の隠密だ。短い逡巡の末、短刀の柄を放す他になかった。
 こうなっては仕方がない。老公が紀堂に何を望んでいるのかわからないが、直接対峙する他にないのだろう。
 それを認めた玄蕃が、後方の二人に向かって小さく頷いた。
 踵を返して歩き出す男の背中を睨み、のろのろと足を踏み出そうとした時。
 身をよじった玄蕃が、紀堂を鋭く突き飛ばした。
 空を裂いて降ってきたものが、だだっと土に突き刺さるのを聞いた。間髪入れずに玄蕃が腕を振り、頭上めがけてつぶてのようなものを放つのが見えた。咄嗟に受け身を取って顔を上げた紀堂の目に、つい今まで立っていた辺りに突き立った数本の矢が飛び込んだ。
 ぐっ、という声が小さく頭上で上がった。射手がいる。ぞっとしながらもがくように立ち上がると、磐井と呼ばれた男がものすごい力で襟首を掴んだ。
 矢衾が顔の脇を雨のように襲うのを感じながら、気づいた時にはまた放り投げられていた。
 地面を転がり、どうにか三人に顔を向ければ、滝本と玄蕃が舞うようにして矢を躱しながら棒手裏剣を勢いよく放つのが見えた。高い梢に吸い込まれるようにして銀の針が消えたかと思うと、ばりばりと枝葉を散らしながら何かが転落してきた。
 弓がからからと落ちるのを追うように、一番低い枝に人影が引っかかり、体を支えきれずに道に落ちる。鼠色の裁着袴に頭巾をかぶった、島津家の隠密衆のなりだ。
 男がよろめきながら脇差に手を伸ばす前に、一足飛びに駆け寄った玄蕃の刀が踊った。瞬速の抜刀と同時に男の首が飛び、鞠のように地面で弾む。

「来るぞ」

 玄蕃のひやりとした声が耳を撫でる。三人が紀堂を囲んで外を向き、羽織を脱ぎ捨てながら次々抜刀した。全員両手に二刀を構えている。呼応するように隠密衆が木の間からひたひたと姿を現すのを見て、足元から冷たいものが這い上がった。
 ざっと六人ほど視認できる。一人は左腕から鮮血を滴らせている。最初の射手だろうか。
 動揺している暇はない。紀堂は下腹に力を込めながら抜刀し、短刀を中段半身に構えた。
 殺戮の気配を察したように、鈴虫の声が止んでいた。薄闇に無数の白刃が冷やかに浮かび上がり、蒸し暑いはずの宵の空気が凍えるような殺気で漲る。
 前触れもなしに影が交錯した。
 刃が噛み合う甲高い音が耳をつんざく。玄蕃たち三人に六人が殺到している。剣捌きを目で捉えるのがやっとだった。一人に対して二人がかりでありながら、玄蕃や滝本たちはめまぐるしく身を翻して両刀を操っている。左手の脇差で一人を捌き、右手の打刀でもう一人を攻撃するすさまじい技だった。
 業を煮やした忍が隙を突いて紀堂を襲おうとする試みを、三人はどこに目がついているのかと思うように見抜いては、縦横に刃を繰り出し巧みに挫く。だが、さすがに足止めするのが精一杯らしく十分な攻撃もできずにいる。危うい均衡の上に、攻防が膠着していた。
 玄蕃が鋭い気合を発して一人の腹を蹴りつけた。男が吹っ飛んで木にしたたか体を打ち付け崩れ落ちる。玄蕃は膝を畳んで膂力を溜めたかと思うと、もう一人の胸を一気に切り上げた。均衡が崩れた。次の間には、隣の滝本と斬り合う忍に飛びかかった玄蕃の脇差が、男の脇の下に鍔元まで刺さっている。鬼神のごとき早業だった。一瞬で絶命した男が頽れるのを、紀堂は凝然と見た。
 玄蕃が血に濡れた脇差を逆手に持ち替え、もう一人を滝本と挟撃しようとした時、鋭い光が二人を襲うのが見えた。玄蕃が打刀で叩き落とすと同時に、滝本が声を上げて身をよじった。
 肩と脇腹に光るものが数本突き立っている。腹を蹴られて転がっていた忍が棒手裏剣を投げたのだ。滝本と斬り結んでいた男が、うずくまる滝本の額を真っ向から叩き割ろうと上段に振りかぶるのを見た。
 紀堂は反射的に動いていた。一瞬で肉薄し、気合と同時に男の胴を払うと、即座に反転してよろめいた男のうなじを存分に叩く。忍がどっと倒れるのを見届ける間もなく、横面を襲おうとする剣に気づいて刃を立てた。甲高い音と共に腕に重い衝撃が弾けた。

「広彬どの!」

 玄蕃がもう一人と斬り結びながら切羽詰まった声を発した。
 体勢を立て直す間もなく逆袈裟が下段から跳ね上がるのを、思い切って後ろに飛んで避けた。追いすがってくる忍の剣を顔の前で打ち落とす。途端、足を払われて膝をついた。しまった、と思った時には頭上から打刀が落ちてくるのを感じた。
 避けられない、と身構えた瞬間、弓弦が鳴るかすかな音を聞いた。うっ、と男が息を飲むと同時に剣の風圧がいきなり消えた。硬直した忍の首筋に、矢が深々と突き立っているのが目に飛び込んだ。
 黒い風のようなものが通り過ぎた。
 目の前で悶絶していた男が、人形のように崩れ落ちる。
 風が唸る。玄蕃と斬り結んでいた男の両腕が、刀を握ったまま宙を飛ぶ。磐井に襲いかかっていた二人の忍を、黒い風がひゅうっと撫でる。落ちていく夕日を映した刃が、赤い糸を曳きながら空を奔るのを見た気がした。途端、一人の額から血が吹き出したかと思うと、もう一人の肩から脇腹までが、豆腐を斬るようにあっけなく裂けるのが見えた。
 風が止んだ。
 束の間の空白の後、殺気を察して声をひそめていた鈴虫が、息を吹き返したようにりいりいと鳴き出した。
 菅笠を被った背の高い人影が、死骸の真ん中に佇んでいる。静謐に満ちた気配は、まるで古木か何かを思わせる。
 玄蕃や滝村らは、幻影でも見ているかのように凍りついて喘いでいる。
 紀堂は膝をついたまま、大きく息を吸った。

「──先生」

 玄蕃が混乱したように紀堂と男を見比べる。血刀を提げて佇んでいた男が、こちらを向いてゆっくりと笠を取った。総髪の、三十をいくつか越したと思われる精悍な顔が、斑の西日に浮かび上がる。
 遠くから、旦那、旦那ぁ、という声が聞こえてきた。
 見れば、林を貫く道を登ってくる、ねずみの弥之吉の姿があった。

「旦那、待ってくだせぇよ。な、何が、どうなったんで」

 叫びながら走ってくる男を呆然と見やってから、男へと視線を戻した。

「……紀堂どの。久しいな」

 鼻をつくような血の匂いが立ちこめる中に、穏やかな声が響いた。
 野月正馬が、目を細めながら懐かしそうにこちらを見ていた。
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