証なるもの

笹目いく子

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生き残った者

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 境九右衛門が軟禁されている一室は、御殿奥のさらに奥まった一画にあった。
 部屋は一面だけを除き、外から板戸を張って封じ込めてあった。
 二人の不寝番が襖の外に控えており、杉本と柳田に向かって頭を下げる。襖が内から開いた。
 足を踏み入れたそこは八畳ほどの座敷で、格子をはめた明かり取りの小窓以外に窓はなかった。部屋の奥に戸口らしきものがあるのは、出入り口ではなく厠と風呂なのだろう。入り口と反対側の隅に屏風が立てられ、奥に布団が畳まれているのだろうと察せられた。部屋の内には家士が一名襖の前に座しており、紀堂たちが入ってくると速やかに襖を閉じた。
 部屋の中程に、文机と書見台、いくつかの書物、茶道具や煙草盆などが見える。その前に、折り目正しく座している、境九右衛門の小柄な姿があった。
 はっとするほど窶れているが、重しが入ったように揺るがない姿勢は、千川家にあったころを彷彿とさせる。きちんと髪結いも世話されているのか、月代もひげも綺麗に剃ってあり、長着も薄汚れてはいない。部屋も牢のように格子に囲われているわけではなく、閉じ込められているにしても堀家の世話が行き届いていることに少しの安堵を覚えた。

「これは、杉本様に柳田様」

 すうっと膝を滑らせてこちらを向き、両手をついた境は、杉本らと共に座した紀堂をちらと見上げて物問いたげな表情を浮かべた。

「境どの、ご書見中に失礼仕る。そこもとに、是非ともうかがわねばならぬことが出来致しましてな」

 難しい表情のまま、杉本が口を開いた。

「なんなりと。私にお役に立つことがございますならば……」

 ゆったりと境が頷く。柳田は一瞬紀堂に視線を投げ、躊躇いがちに言った。

「こちらの……大鳥屋店主を存じておられるであろうか」
「はい。当家に出入りの両替商にございます」
「──この……紀堂なるご仁は」

 ますます何と言ったらいいのかわからぬように、柳田は顔をしかめた。

「これなるご仁は……亡き伊予守様のご落胤であると申される。これはいったい、いかなることであろうか?」

 還暦を過ぎた境の、少し濁っているが賢明な光を宿した目が二人を交互に見た。
 それから、紀堂の意思を問うかのような目をこちらへと向ける。
 紀堂は境の双眸を見返しながら、ゆっくりと頷いた。
 境の僧侶のように達観した瞳が、大きく微笑むのが見えた。

「……仰せの通りにございます」

 静まり返った声を聞いた途端、堀家の公用人と御側頭が音を立てて息を吸った。

「こちらにおわしますお方は、当家ご当主広忠様がご子息の、広彬様にございます」

 凍りついたような沈黙が降りた部屋に、二人の浅い息が不規則に滲む。
 真っ青になった杉本が、唖然として紀堂を見詰め、目玉を零さんばかりにしている。

「──境どの。間違いなく……伊予守様のお子様であらせられるのか。ま、間違いござらぬのか」
「間違いございませぬ」

 境がゆっくりと首肯しながら、深い声を発した。

「広彬様は、我が殿と当家家臣の娘であった高田紫野どのとの間にお生まれになられました。わけあって鎌倉の武家の野月家にてお育ちになり、その後大鳥屋へご養子に入られましたのです。野月家に、広彬様のお身元を証す殿からの文と、私からの文を預けてございます。広彬様へは、ご家紋を入れた両刀が、殿から贈られてございました。それから……『祥雲』と呼ばれる龍笛の名器も、殿が差し上げたのでございましたな」

 紀堂は小さく頷くと、帯に挟んだ薄い袱紗の包みを取り出した。包みを開くと、金襴の錦の袋が現れる。身の証が必要になるとも限らない、と考えて携えてきた。紀堂はそれを、杉本らの方へそっと押し出した。

「……『祥雲』にございます」 

 杉本と柳田が絶句し、頬を引きつらせながら紀堂と笛をまじまじと見詰めている。
 石翁との確執を境が語るにつれ、二人の表情は打ちのめされたように悲壮さを増した。

「なんと……なんと数奇な」

 杉本の両目が虚ろになり、一気に十も老け込んだかのように見えた。

「あなた様が……ご子息でおられたとは……なんという……」
「存ぜぬこととはいえ、その……ご無礼仕りました」

 柳田が額にびっしりと汗を浮かべ、しどろもどろに言う。
 それから、あっ、と慌てて下座に下がる二人に、紀堂はかえって狼狽えた。

「私は庶子に過ぎませぬし、大鳥屋に養子に入った身でございます。どうかそのような……」
「滅相もございませぬ。先ほどの失言は、何卒ご容赦のほどを」
「誠に、失礼仕りましてございます」

 本来ならば、従四位下高家当主の嫡男であったはずの青年だ。いかに遇すればいいのかと、二人が混乱する様が見て取れる。  

「広彬様……」

 境がやさしげな目をこちらに向け、かすかに微笑んでいた。

「余人の前にてそのお名前を口にする日がくるとは、思ってもおりませんでした。お身元を明かす時がこのような機会になろうとは、なんという皮肉でございましょう……」  

 途端、その目に鋭い悲嘆の色が過った。

「……広彬様。力及ばず、殿をお守りできませなんだ。まことに、不甲斐なく、痛哭の極みにございます。すぐにでもお供申し上げたきところなれども、若殿をお助けし殿の仇を討つまではと、生き恥を晒してございます。この通りにございます……」

 痩せた背中を痙攣するように波打たせながら、老爺が畳にがくりと突っ伏した。

「境様、何を仰せになられるのです。よく……よくこれまで耐えておいでになられました。よくぞ、広衛を逃がして下さいました。生きてお会いできましたこと、どれほど私が嬉しく思っているか、おわかりいただけましょうか。あまりにも多くのご家臣が命を落とされた。お預が解けた後、父上の後を追った方々もおられる」

 紀堂は声を絞るように囁いた。

「生きていて下さるだけで、どれほど有難いことか……」

 境の両目がみるみる赤く潤み、透明なものが膨れ上がった。肉の削げた頬を涙が流れるに任せ、家老はぐっと瞼を閉じた。

「……かたじけのうございます……」

 杉本と柳田が固唾を飲んでいる前で、境はしばし声も立てずにただ顔を濡らしていた。

「境様」

 紀堂はやがて、声を引き締めて低く言った。

「若殿様は、ご無事でいらっしゃるのですね? そうなのでございますね……?」

 境は堀家の家臣たちと顔を見合わせると、濡れた目を静かに瞬かせながら首肯した。

「はい」

 芯の通った張りのある声が、部屋に響いた。
 紀堂は思わず瞼を閉じて息を止めた。
 耳朶がかっと熱を帯び、目の奥が熱くなる。胸の内が轟いて耳の中で鳴っている。
 顔を歪めながら境を見詰めると、家老は痩せた身からは想像もできぬ、生気を漲らせた目でこちらを見返した。

「──あの夜、それがしは若殿のご寝所の前で、家臣と共に捕方を幾度も押し返しておりました。奥様は奥御殿に封じられておられるものの、捕方は手を出すつもりはないらしいと伝わっておりましたが、若殿様への攻撃は止む気配がございませんでした。しかし味方は次々斃れ、敵は波のごとく襲って参りました。それがしも傷を負い、もはやこれまでかと覚悟致しましたところに……あの隠密衆が現れたのでございます」

 境の濡れた瞳が、ふっと焦点を失ったように見えた。あの夜を見ているのだ。あの終わらぬ悪夢のような血塗れの夜を、まざまざと己の心の内に見ている。

「襲撃の企みを知った奥田らは、薩摩の隠密でありながらお家を裏切り、越前守様に急を知らせに参ったのだそうです。しかし、もはや柳井めの出動を止めるには時遅く、越前守様は大和守様と計り、若殿だけでもお助けせよと命じたのだと、頭の奥田玄蕃とやらが申しました。それがしは、他に若殿をお守りする道はないと、そう判じたのでございます」

 斬り殺されていた近習の一人に広衛の着物を着せた。身代わりと悟られぬよう、近習に詫びながら顔を潰し、若殿の寝所に横たえると「若殿!」と境は絶叫した。
 筆頭家老の慟哭を聞いて、家臣団は若殿の死を絶望と共に覚ったのだった。

 呪わしい夜を見詰めて凍りついた境の両目に、光が宿って見えた。 

「隠密に若殿を託す際、密かに申し上げました。広彬様と申されるお兄上様がおられると。そのお方は、ご家紋入りの両刀と、殿の龍笛をお持ちであられるから間違いようはないと。殿のご意志でお隠し申し上げておりましたが、大鳥屋店主が居所を存じ上げていると、お伝え申し上げました……」

 縮緬皺を目尻に刻む男を、紀堂は息もせず見詰めていた。
 それを、奥田たちが聞いていたのに違いない。千川家の子息が他にもいる。大鳥屋店主が居所を承知していると、その時耳にしたのだ。それが、どういう経緯かはわからないが薩摩側の隠密にも漏れた。

「殿は、御身とお家に危急の事態が出来し、若殿に真実を告げねばならぬと判じた時のみ、あなた様のご消息を申し上げるようにと我ら家老衆に申しつけておられました。あの夜、殿が討ち取られ隠密が現れた時、今がその時であると覚りました」

 自分も残って戦うと訴える広衛に、耳打ちをした。

「お兄上様ときっとご対面が叶う。ですからどうか生き延びてくださいませ、とお願い申し上げました」

 境の目から、透明なものが皺を辿って流れ落ちる。

 広衛は青ざめた顔を混乱に強張らせながら、

「それは、まことか」

 と囁いたという。

「はい。どうか、どうかそれまでお忍びくださいませ。殿もそれをお望みでおられます」

 広衛の双眸に鋭い苦痛の色が過った。すでに広忠が討たれたことを察していた少年は、父の秘密を境が明かしたことで、それを確信したのだろう。

「……無念だ、久右衛門」

 かちかちと歯を鳴らしながら細く喘いだ。素早く近づいてきた玄蕃に腕を引かれながら、広衛は一瞬表門の方角を向いて、呻いた。

「父上」

 溢れ出した涙が、白い頬に流れるのを見た。
 頭巾を被せられた広衛は、玄蕃の肩に抱き上げられた。そして三人の配下に守られながら、寝所の外に飛び出していった。
 一行の姿が夜の庭に掻き消えた直後、新手の捕方たちが雄叫びをあげて殺到してきた。数合斬り結んだ境は、やがて六尺棒に打ち据えられて声も立てずに昏倒した。
 広衛の姿を見たのは、それが最後だった。
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