証なるもの

笹目いく子

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道連れ(一)

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 紀堂を助け上げた船頭は、永代橋をくぐって豊海橋の袂に舟を寄せた。
 すぐに河岸の人足が紀堂を引き揚げ、新堀にある医者の家に担ぎ込むと共に、大鳥屋へ人を走らせたのだった。紀堂は鎖骨の下を腕まで横にばっさり斬られていて、やたらと出血がひどかった。が、内蔵や骨は無事であるから熱にだけ気をつけろ、と老練な医者はざくざく傷を縫いながら言った。
 ほどなく、手代たちを引き連れて大鳥屋から飛んできた藤五郎は、

「旦那様! これはなんとしたことで……」

 と、布団に寝かされた紀堂を見るなり唇をわななかせた。

「破落戸たちに舟でかどわかされそうになった。命からがら逃げ出したんだ。水練ができて助かったよ」

 痛みに青ざめながら紀堂が苦笑いすると、大番頭は一瞬、ぎらっと剣呑な光を目に浮かべた。口を開いて何かを言いかけ、数度羽織の肩を上下させる。しかし、結局ぐっと唇を引き結んで言葉を飲み込むと、嘆息するように言った。

「……とにかく、逃れることができて何よりでございました。店へ戻りましょう」

 それから人足たちに頼んで紀堂を駕篭に乗せると、日本橋の大鳥屋本店へと連れ帰ったのだった。
 大鳥屋に出入りしている御用聞きの久米吉くめきち親分は、紀堂が破落戸に拐かされた上斬りつけられたと聞いてすっとんで来た。

「大鳥屋のご店主を拐うたぁ、命知らずな奴らがいたもんですな。大事にならねぇで幸いでござんしたよ。さっそく付近を虱潰しに洗いやしょう」

 青筋を立てながら鼻息荒く言って、さっそく表に飛び出していったのだった。
 いつの間にかとっぷりと日が暮れていた。食欲はまるでなかったがどうにか夕餉を布団の上で取ると、途端に気が緩んで余計にぐったりとした。だが眠気はなく、神経はぴりぴりと張り詰めていた。
 懐に突っ込んだ包金は、泳いでいる間にこぼれ落ちたらしかった。今頃、大川の底に沈んでいるのだろう。
 傷の内側から爛れるような痛みが燃え広がるのを感じながら、斬られるとはこういうものなのか、と寒々とした心地で思った。人の肉を刃が通った感触が手に蘇る。途端、手足がすうっと冷たくなり、かちかちと歯の根が鳴りだした。

……人を、斬った。

 氷の塊を飲み込んだように鳩尾が冷たく、重くなった。そのまま地の底にずぶずぶと埋もれていきそうに、重い。止めようとしても体のふるえが収まらない。紀堂は片手で額を覆うと、絶え間なく込み上げてくる吐き気に耐えていた。
 明かりを灯した行灯に、小さな蛾がしきりとぶつかる音を聞くともなしに聞いていると、藤五郎の声が障子の外から届いた。

「……お眠りになれませんか」

 音を立てぬように入ってきて、藤五郎は紀堂の顔色に目を凝らした。

「気が昂っているんだろうよ。とんだ目にあった」
「……久米吉親分が先ほどいらっしゃいましたが、舟はまだ割れていないようです」
「そうだろうな。周到そうな連中だった」
「障子を立てていたそうですね。……その輩、お武家ではなかったのですか」

 紀堂は寸の間黙って、苦笑いを作った。

「拐かしなぞを企む連中だ。障子を立てるくらいいくらでもするだろう」
「見聞方が知らせて参りましたが……」

 切れ長の鋭い目が、ひたとこちらを見下ろしてくる。

「同じ頃の両国広小路で、お侍が四人ばかり死んでいるのが見つかったそうです。もっとも、町方が検死をしているところにいずこかのご家中の方々が現れて、速やかに遺骸を引き取ってお行きになったとか。町方はそれきり口を噤んで、一切を秘匿している様子だそうです」

 紀堂は表情を消して天井を見上げた。それに構わず大番頭が続ける。

「しかし信介の調べでは、どうやらそれが島津家中の方々であったらしいとわかりました」

 しんと寝間が静まり返った。ぱさ、ぱさ、と蛾が行灯に衝突する音がおぼろげに聞こえる。その度に、畳や壁に映る明かりが瞬きのように揺らいだ。
 
「……お心当たりは、ございませんか。旦那様」
「さぁ……」

 天井を見詰めたまま、紀堂は茫洋とした声で答えた。

「俺にわかるはずもない」

 行灯をついと見やって、大番頭がふっと嘆息した。

「……左様でございますか」

 それから、おもむろにこちらを見下ろすと、はっきりとした声で言った。

「旦那様、お話がございます」
「何だ?」 
「お暇をいただきたく存じます」
「──な……何?」

 一瞬ぽかんとしてから、唖然として声を上げた紀堂に、大番頭は表情を変えることなく折り目正しく座して言った。

「どうやら、手前は旦那様のご信頼に足る大番頭ではございませんようです。己の力不足には恥じ入るばかりでございます。筆頭番頭に後を任せたく存じますので、どうかお暇をお与えくださいまし」
「……ま、待て。何を藪から棒に」

 衝撃から立ち直る間もなく、紀堂は声を上ずらせた。

「お前の力が足りないなど、そんなことがあるものか。誰がそんなことを言ったんだ?」
「旦那様のお力になれぬ大番頭に、何の意味があるでしょうか。一体今まで何をしてきたのかと、この身がほとほと恨めしく」

 藤五郎は眉間に皺を寄せて目を閉じる。

「父子二代に渡りご恩を受けた当店を去るのは断腸の思いでございますが、後は筆頭番頭らに託したいと存じます。どうか、引導をお渡しくださいまし」
「──なぜだ」

 紀堂は青ざめ、どうにか身を起こして大番頭ににじり寄った。

「親父さんが亡くなり、お前にまで去られたら、俺はどうしたらいい。俺をここまで育てたのは親父さんとお前だろう。お前より頼りにする者がいるものか」
「……しかし、旦那様がなさろうとしていることを、手伝わせてはいただけない。ご存念を、打ち明けては下さらない。過日、向島の中野石翁様をお訪ねになり、玉泉園を献上なすっておられますね。もちろん、旦那様のご所有のお屋敷でございますから、どうご処分なさろうとも異論はございません。ただ……石翁様は危険なお方です。しかし手前には、一言もご相談なすっては下さらなかった」

 思わず息を飲むと、藤五郎がゆっくりと目を上げた。怜悧な光を浮かべた鋭い両目に見据えられると、すべて見透かされるようで腹の底がすうすうする。子供の時分から、そうだった。
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