証なるもの

笹目いく子

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拐かし(二)

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 大鳥屋が贋金を包金に混入させていると大名家が騒げば、顧客が不審に思うだろう。手持ちの大鳥包はもとより、大鳥屋の金蔵に納めてある莫大な金銀の鑑定をも求めてくるかもしれない。聞きつけた公儀勘定所が介入し、更なる混乱を引き起こす可能性もあった。大坂支店も無事ではすむまい。そうなれば、すべての業務がどれほどの期間に渡って滞るか想像もつかなかった。大鳥屋から離れる顧客も出るはずだ。莫大な損失を負うことは目に見えていた。
 出向かぬわけにはいかない。

「承知致しました……」   

 両手のふるえを、拳を握り締めて堪える。
 八代はわずかに目を細め、傍らの打刀を掴んでゆらりと立つと、無言のまま草履に足を入れた。
 紀堂は懐の短刀を意識しながら唇を引き結ぶ。それからすうと息を吸い込み、袂から巾着を取り出し勘定を置いて立ち上がった。
 男の視線が一挙一動を見ているのを感じながら、暖簾をくぐって表へ出る。途端に、白熱するような日差しが目を眩ませた。すると、店の脇に立っていた侍がすっと前に立った。八代の配下であるらしい。

「向こうだ。まっすぐ進め」

 背後にぴたりと張り付いて八代が促す。両国へ向かうのだろうか。大鳥屋へ危急を知らせる手段がないかと必死に考えるが、前後を固める二人には隙がない。背後に立つ八代が、今度は逃がさぬという冷たい意志を、威圧するかのように露骨に漂わせてくるのを感じる。紀堂は目の前の侍の背中を見ながら、仕方なしに歩き出した。
 まだ湿気をたっぷりと含んだ空気が肌を撫でる。雨の上がった通りにはさっそく人が溢れ、乾ききらぬ道に無数の足跡を残しながら忙しく行き交っていた。かっと照りつける陽光に表店の濡れた桟瓦が黒々と輝き、軒先から滴る雨粒を白くきらめかせる。紀堂は往来の賑わいを遠くに聞きながら、緊張に身を強張らせて歩を運んだ。
 紀堂も背丈はそこそこあるが、背後の八代と前を行く男は六尺はありそうだった。それに、書役といいながらも鍛えられた体躯をしている。身ごなしからしても、相当に刀を使いそうだ。薩摩特有の役職である書役は下役人の役だが、単なる文書作成や管理のみならず、広範な仕事を臨機応変にこなすと聞いている。だが、それにしてもこの異様な雰囲気はなんなのか。

 江戸橋広小路で見た二人と、似ている……。

 あの、闇を透かして一瞬だけ見た男たちの姿が、この二人に重なる気がしてならない。いや、ほんの刹那目にしただけなのだ、わかるものか。しかし……
 村上啓吾のぐったりとうなだれた姿が脳裏に浮かび、冷たいものが足元から這い上がる。昂る心ノ臓の音を耳の奥に聞きながら、二人に促されるまま表通りを進み、やがて両国広小路に至った。
 拭ったような青空の下に、大小の見物小屋や床見世が所狭しと立ち並び、水茶屋や野天店がその周りをびっしりと取り囲んでいる。色とりどりの幟がはためき、呼び込みの声がかしましく耳に届く。雑踏の人いきれに混じって、さざえの壺焼きだの、焼き鳥だの、天ぷらだのの匂いが漂ってくる。
 前を行く侍はたびたび人の流れに遮られ、足を緩めては忌々しげに周囲を見回している。
 見世物小屋へでも行くのか、五、六人の童たちがわいわい声を上げながら近づいてくる。紀堂は咄嗟に足を遅らせ、彼らを侍と自分との間にわざと割り込ませた。刹那、懐に手を突っ込むなり踵を返した。
 財布を掴み出し、袋の底を掴んで大きく腕を振るう。
 巾着の中に詰まっていた銀貨がばらばらと飛び散った。灼けるような日差しを反射して鈍く輝きながら、無数の銀の粒がつぶてのごとく八代の顔面を襲う。男が反射的に腕を上げて避けようとする。その間を逃さず脇をすり抜け、紀堂は下駄を投げ出しながら雑踏に飛び込んでいった。

「銀だ!」

 行き交う人が背後でわっと声を上げた。「踏むな!」「おいらのだ!」「ちょっと、何すんだい! あたしんだよ!」我も我もと群がる人々に阻まれて、男たちが立ち往生するのをちらと振り返り、紀堂は芝居小屋の裏手にびっしりと立ち並ぶ小屋の間に走り込んだ。
 酔っていないつもりだったが、足にきているらしい。時々膝が抜けそうになる。いや、それとも恐怖のせいか。紀堂は喘ぎながら葭簀よしずや粗末な板で張られた小屋の隙間を通り抜け、矢場で矢を射てはどっと歓声をあげる男たちをかき分けて走った。
 いきなり、薄暗い路地の前方に、黒いものがふたつふわりと降ってくる。ぎょっとして足を止めると、黒っぽい小袖に裁着袴たっつけばかまを身につけ、黒い布で顔を覆った男二人が、濡れた地面を踏みしめて立ち上がった。一言も発することなく、滑るように近づいてくる。腰には脇差を帯びており、左手で鯉口を押し上げるのが見えた。来た道を戻ろうと踵を返すと、こちらへ音もなく走ってくる、八代ともう一人の侍の姿が目に飛び込む。
 八代の怒気を浮かべた双眸に全身が総毛立った。咄嗟に壁を背にして懐の短刀に手を伸ばす。右手に二人、左手にも二人。

「手間をかけさせおって。町人ごときがどこまで舐めた真似をするのか」

 八代が刀に手をかけながら唸った。こめかみに青い筋が浮かび上がり、憤怒に顎がふるえている。

「貴様、千川広彬という男を知っておるな。どこにいる?」

 耳を疑った。凝然とする紀堂に、八代が一歩近づく。

「居場所を知っておるはずだ。さぁ、申せ。隠し立てするならただではすまさぬ」

 胸が固く強張り、血の気が引いていた。それが目的か。紀堂を屋敷に連れ去って問い質すために、贋金だのと言いがかりをつけたのだ。

「畏れながら、何を仰せかわかりかねます。そのようなお方、手前は存じ上げませぬ」
「出まかせを申すな。貴様は承知しておるはず。吐かねば貴様ごと大鳥屋を叩き潰してくれるぞ」

 男がどろりとした殺気を湛えた目で唸り、左手で鯉口を切った。口を割らせるまで逃がす気などない、と両目が語っている。
 戦うしかない、と痺れるように覚る。まだ銀を拾おうと騒ぐ群集の喧騒を遠くに聞きながら短刀の鞘を払うと、四人も一斉に抜刀した。
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