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石翁との対話(二)
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あっという間に屋敷の内へと招じ入れられ、奥座敷へと案内された。
松鶴図の水墨画が描かれた襖絵に高い格天井を備えた、落ち着きがありながらも贅を尽くした一室である。部屋の一方は障子が閉てられ、広縁の方から鳥の囀りが朧に耳に届く。石扇は鶴を好んで庭に放し飼いにしているという。巨石を配し、高価な庭木をふんだんに植えた庭園は向島でも有数の絶景を誇るそうだった。
床の間の前の上座には、剃髪の太り肉の男が一人、待ち受けていた。
(これが石扇か……)
ちらと伺った十徳姿はいかにも好々爺として温和そうではあるが、眼光だけは異様に鋭い。隠居して石翁と号して以来の十徳だが、白服白綸子の珍しい十徳を身につけている。これは茶坊主や医者の黒十徳と見分けがつくようにとの、大御所御自らのお指図であるというから、その寵愛のほどが知れる。
かつて父と母の縁組に横槍を入れ、母を将軍家斉の側室に上げようと目論んだ男。
今は石翁を名のり、権勢を恣にしている男。生涯会うことはあるまいと思っていたその石翁の前に自分が座っているということに、思わず軽い眩暈を覚えた。
部屋の敷居近くに平伏した紀堂の頭上に、「これへ」と柔和な声が響いた。
顔を伏せたまま膝行し、再び平伏する。しばしの沈黙が降りた。
「……名乗れ」
間延びした声で、男が命じた。
「日本橋本町から参りました。大鳥屋店主五代目の紀堂にございます。本日は大殿様へお目通りを許されましたこと、恐悦至極に存じます」
「大鳥屋の名は聞き及んでおるぞ。……顔を見せよ」
は、と紀堂は控えめに顔を上げた。
「……ほぉ、美しいな。家臣どもがすさまじい美丈夫だと浮き足立っておったが、まことだのう。これは目が眩むわ」
石扇が太い首を傾げてしげしげ紀堂の顔を見回す。舐めるような暑苦しい視線を全身に感じながら、我知らず畳に置いた両掌に汗が滲んだ。衆道を嗜むとの噂もある男だが、それよりも体を捉えている怖れがあった。
この男は紀堂が何者であるのか覚るだろうか。覚ったならば、どうする。
「──そなた……」
老人の脂肪に埋もれそうな目がふと細くなり、鋭利な剃刀でなぞるような不快さで肌を撫でる。
「そなたは、何者だ?」
声が奇妙に虚ろになった。幽霊でも見ているかのように両目が見開かれ、艶のある唇がぽかんと開く。
紀堂は美しい両目を男に据えて、老人が己の記憶をまさぐる様子をただ見詰めた。
「その顔……その顔は知っておるぞ。同じ顔をした娘が昔おった」
独り言のごとく呟いて、石翁は鼻から大きく息を吐いた。見開いたままの双眸に、じわりと苦笑いが浮かぶ。
「何年ぶりに見るかのう。悪い夢でも見ておるようだな。紫野どのは、そこもとのお母上か」
心なしか声がかすれ、頬が強張ったように見えた。
「いかにもさようでございます。母が大殿様の御前から消えましたのは……そう、二十六年も昔のことにございました。その節は……たいそうご心労をお掛け申し上げたようで」
男を見詰めたまま平坦な声で答えると、石翁が引きつった声で笑う。
「やはり伊予守どのが隠しておられたか。してやられたわ。……お母君はご息災か?」
「……いえ、私を生んですぐに身罷ってございます」
静かに応じた途端、男が絶句した。
「なんと。そうであったか。お労しいことだった……」
がくりと肩が下がり、苦いものが肉付きのいい顔に広がる。母を追い詰めておいて今更、と冷たいものが心を過った。
「……そこもとのお名前は、何と申される」
「千川広彬と申します」
「──千川?」
男が思わずというように声を上げる。
「そこもとは千川を名乗っておられるのか?」
紀堂は怪訝に思って眉をひそめた。
「普段は紀堂を名乗っておりますが……それが何か」
石翁の両目が一瞬大きく見開かれた。
それから、喉で奇妙な音を立てたようだった。笑ったのだろうか。何がおかしい。未練たらしく千川を名乗っているのが哀れだとでも、思ったのか。
「いや。何もござらぬ。なるほど……」
頬を固めて睨んでいる青年に、唇をますます歪めて笑う。
「そうであったのか……伊予守どのは、そのようにお考えであったのだのう」
刹那、憐れみとも安堵ともつかぬ苦いものが、男の双眸を過った気がする。己への悔悟なのか、紀堂への憐憫なのか、それとも他のものであるのか、紀堂には測りがたかった。
「……広彬どの。お父上を恨んでおられるか」
「恨む?」
紀堂は首を傾げた。
「お恨み申し上げるわけがございません。父は立派な方でございました。敬愛申し上げてこそすれ、恨むわけがございませぬ。離れてはございましたが、常にお心をかけていただきました」
思わず語調が強くなる。石翁は苦いものが増した目で紀堂を見詰め、嘆息した。
「誰かある」
紀堂に視線を据えたまま老人が声を遠くへ投げた。少しの間を置いて、脇手の襖が音もなく開いた。
「……客は皆帰らせよ。しばらく、声をかけるな」
顔も向けずに命じると、襖の陰で家士が頭を下げ、するすると襖が閉じる。
「で……今日は何用で参られたのか。まさか、玉泉園を手土産にやってくる者がいようとは思わなんだが」
そう言ってくるりと目玉を回して見せる。
「受け取る方にもちと覚悟がいるようだ。天下の名園と引き換えに、一体儂から何を求めに参られた?」
血色のいい坊主頭の男は、そう言いながら愛でるような粘着質の目つきでこちらを見た。
「畏れながら、本日お目通りを願いましたのは、是非とも大殿様にお尋ね申し上げたき儀がございましたからなのです」
石翁はぎゅっと眉をひそめる。
「儂に訊ねたいこと? それだけのために、庭園をひとつ寄越されたのか」
「仰せの通りにございます」
掴み所のない、鈍く底光りのする目をした男を見上げ、紀堂は表情を改めた。
「──千川家が、この文月に取り潰しとなった件についてでございます」
石扇が予期していたかのように喉で唸った。
「あれ程までに苛烈な処罰が加えられたのは何故か。どなた様の命にてご改易がなされたのか、それを知りたいのでございます」
「……それを知って、何とされる」
「亡き父も若殿様も、まこと高潔清澄の方々であられました。私にはどうしても、お二人がご公儀へ弓引くような大罪を企んだなどとは信じられませぬ。もしも叶うのであれば千川家に着せられた汚名を雪ぎ、家門の再興をお願い申し上げたく存じます」
「千川家の再興……」
黒々と澄んだ目を向ける紀堂を、蛇のように冷やかな双眸が油断なく見詰める。
「あの襲撃は、儂の差し金だとお疑いであるのか?」
「滅相もございませぬ。ただ、どのようなことでもお教えいただきたく、藁にもすがる思いでおるのでございます」
張り詰めた沈黙が豪奢な部屋に広がる。男の体から、底の知れない、のしかかるような無言の圧力が滲みだし、畳に体が沈み込むような錯覚を覚えた。
佞人と嘲られる一方で、大御所の寵愛を得るだけの人並み外れた才知の持ち主としても知られる男だった。この男の前では、紀堂など赤子の如く無力であるかもしれない。我知らず胸元に汗が流れる。目を逸らしたら食われるような予感に襲われ、下腹に力を込めて耐えていると、ふっと男の気配が緩んだ。
「儂ではない。高家を襲うなどという野蛮を儂がするわけがない。敵を引きずり下ろすならもっと巧妙にやる。母君の一件のことでお疑いなのであれば、ご見当違いというもの。わざわざ墓穴を掘るような真似をするはずがない。お家が滅んだところで、儂に利することもありはせぬ」
つまらなそうに言いながら扇子を開き、ゆるゆると扇ぐ。
紀堂は知らず強張っていた肩から力を抜いた。
「のう、広彬どの。そこもとは千川家の汚名を雪ぎ、家門を再興したいと申されておったな。だが……本音は違うのではないか」
紀堂は切れるような眼差しで男を見上げた。
「……そこもとが望んでおられるのは、復讐だ。お父上と広衛どのの仇を討つことだ。……いかがかな」
「──だとしたら、いかがなされます。お目付にでもご報告なされますか。……二十六年前の意趣返しに」
冷ややかに応じると、ふ、ふ、と男が肩を揺らした。
「まさか」
男の真意を計りかねていると、だが、と身を乗り出してくる。
「そこもととは浅からぬ縁があるようだ。お父上と弟君らのご無念を晴らそうという健気なお心にも、胸打たれるものがある」
蕩けるような目で翁が微笑む。
「それに、玉泉園の返礼もあるのでな。そこもとのお望みに、力を貸さぬこともない」
紀堂はますます訝しんだ。いきなりどういう風の吹き回しだ。紀堂と縁があるとはいえ、好意的な縁ではまったくないではないか。
「それは……私のためではございますまい。大殿様には、私を使って追い落としたいお方がおられるのでございましょう。生憎、私は駒にはなりとうございませぬ」
平静に述べた途端、石翁が悪びれた様子もなくにやりとした。
「……初心かと思ったら、なかなか。さすがに大鳥屋の店主でおられる」
閉じた扇子を手の中で弄び、艶のいい顔をかすかに傾げてこちらを見ている。
「まぁ、儂も腹を割って話すとしよう。その通り。邪魔な者が幾人もおる。越前守らの一派はもちろんだが、他にもおる」
この男が腹を割って話すなどおよそ考えにくいが、紀堂は黙って耳を傾ける。
「千川家の改易は、儂にも青天の霹靂であった。だが……伊予守どのが権臣の関心を集めていたことについては、驚きはないのだ」
紀堂が怪訝そうに柳眉を寄せると、翁は内緒話をするように扇子を顔の脇に立て、声をひそめた。
「そやつらは皆、伊予守どのがお持ちのあるものに、等しく関心を寄せておった」
「……あるもの、とは……?」
意外な方向へ話が向かうのを感じ、紀堂はますます額を曇らせた。
「天下をひっくり返す、密書よ」
座敷に奇妙な沈黙が降りる。
「……密書、でございますか」
言い慣れぬ言葉をぎこちなく繰り返す。
「さよう」
紀堂の様子をうかがうように、ぬるりとした視線が探っている。
「伊予守どのがお持ちであったという、建議書だ」
松鶴図の水墨画が描かれた襖絵に高い格天井を備えた、落ち着きがありながらも贅を尽くした一室である。部屋の一方は障子が閉てられ、広縁の方から鳥の囀りが朧に耳に届く。石扇は鶴を好んで庭に放し飼いにしているという。巨石を配し、高価な庭木をふんだんに植えた庭園は向島でも有数の絶景を誇るそうだった。
床の間の前の上座には、剃髪の太り肉の男が一人、待ち受けていた。
(これが石扇か……)
ちらと伺った十徳姿はいかにも好々爺として温和そうではあるが、眼光だけは異様に鋭い。隠居して石翁と号して以来の十徳だが、白服白綸子の珍しい十徳を身につけている。これは茶坊主や医者の黒十徳と見分けがつくようにとの、大御所御自らのお指図であるというから、その寵愛のほどが知れる。
かつて父と母の縁組に横槍を入れ、母を将軍家斉の側室に上げようと目論んだ男。
今は石翁を名のり、権勢を恣にしている男。生涯会うことはあるまいと思っていたその石翁の前に自分が座っているということに、思わず軽い眩暈を覚えた。
部屋の敷居近くに平伏した紀堂の頭上に、「これへ」と柔和な声が響いた。
顔を伏せたまま膝行し、再び平伏する。しばしの沈黙が降りた。
「……名乗れ」
間延びした声で、男が命じた。
「日本橋本町から参りました。大鳥屋店主五代目の紀堂にございます。本日は大殿様へお目通りを許されましたこと、恐悦至極に存じます」
「大鳥屋の名は聞き及んでおるぞ。……顔を見せよ」
は、と紀堂は控えめに顔を上げた。
「……ほぉ、美しいな。家臣どもがすさまじい美丈夫だと浮き足立っておったが、まことだのう。これは目が眩むわ」
石扇が太い首を傾げてしげしげ紀堂の顔を見回す。舐めるような暑苦しい視線を全身に感じながら、我知らず畳に置いた両掌に汗が滲んだ。衆道を嗜むとの噂もある男だが、それよりも体を捉えている怖れがあった。
この男は紀堂が何者であるのか覚るだろうか。覚ったならば、どうする。
「──そなた……」
老人の脂肪に埋もれそうな目がふと細くなり、鋭利な剃刀でなぞるような不快さで肌を撫でる。
「そなたは、何者だ?」
声が奇妙に虚ろになった。幽霊でも見ているかのように両目が見開かれ、艶のある唇がぽかんと開く。
紀堂は美しい両目を男に据えて、老人が己の記憶をまさぐる様子をただ見詰めた。
「その顔……その顔は知っておるぞ。同じ顔をした娘が昔おった」
独り言のごとく呟いて、石翁は鼻から大きく息を吐いた。見開いたままの双眸に、じわりと苦笑いが浮かぶ。
「何年ぶりに見るかのう。悪い夢でも見ておるようだな。紫野どのは、そこもとのお母上か」
心なしか声がかすれ、頬が強張ったように見えた。
「いかにもさようでございます。母が大殿様の御前から消えましたのは……そう、二十六年も昔のことにございました。その節は……たいそうご心労をお掛け申し上げたようで」
男を見詰めたまま平坦な声で答えると、石翁が引きつった声で笑う。
「やはり伊予守どのが隠しておられたか。してやられたわ。……お母君はご息災か?」
「……いえ、私を生んですぐに身罷ってございます」
静かに応じた途端、男が絶句した。
「なんと。そうであったか。お労しいことだった……」
がくりと肩が下がり、苦いものが肉付きのいい顔に広がる。母を追い詰めておいて今更、と冷たいものが心を過った。
「……そこもとのお名前は、何と申される」
「千川広彬と申します」
「──千川?」
男が思わずというように声を上げる。
「そこもとは千川を名乗っておられるのか?」
紀堂は怪訝に思って眉をひそめた。
「普段は紀堂を名乗っておりますが……それが何か」
石翁の両目が一瞬大きく見開かれた。
それから、喉で奇妙な音を立てたようだった。笑ったのだろうか。何がおかしい。未練たらしく千川を名乗っているのが哀れだとでも、思ったのか。
「いや。何もござらぬ。なるほど……」
頬を固めて睨んでいる青年に、唇をますます歪めて笑う。
「そうであったのか……伊予守どのは、そのようにお考えであったのだのう」
刹那、憐れみとも安堵ともつかぬ苦いものが、男の双眸を過った気がする。己への悔悟なのか、紀堂への憐憫なのか、それとも他のものであるのか、紀堂には測りがたかった。
「……広彬どの。お父上を恨んでおられるか」
「恨む?」
紀堂は首を傾げた。
「お恨み申し上げるわけがございません。父は立派な方でございました。敬愛申し上げてこそすれ、恨むわけがございませぬ。離れてはございましたが、常にお心をかけていただきました」
思わず語調が強くなる。石翁は苦いものが増した目で紀堂を見詰め、嘆息した。
「誰かある」
紀堂に視線を据えたまま老人が声を遠くへ投げた。少しの間を置いて、脇手の襖が音もなく開いた。
「……客は皆帰らせよ。しばらく、声をかけるな」
顔も向けずに命じると、襖の陰で家士が頭を下げ、するすると襖が閉じる。
「で……今日は何用で参られたのか。まさか、玉泉園を手土産にやってくる者がいようとは思わなんだが」
そう言ってくるりと目玉を回して見せる。
「受け取る方にもちと覚悟がいるようだ。天下の名園と引き換えに、一体儂から何を求めに参られた?」
血色のいい坊主頭の男は、そう言いながら愛でるような粘着質の目つきでこちらを見た。
「畏れながら、本日お目通りを願いましたのは、是非とも大殿様にお尋ね申し上げたき儀がございましたからなのです」
石翁はぎゅっと眉をひそめる。
「儂に訊ねたいこと? それだけのために、庭園をひとつ寄越されたのか」
「仰せの通りにございます」
掴み所のない、鈍く底光りのする目をした男を見上げ、紀堂は表情を改めた。
「──千川家が、この文月に取り潰しとなった件についてでございます」
石扇が予期していたかのように喉で唸った。
「あれ程までに苛烈な処罰が加えられたのは何故か。どなた様の命にてご改易がなされたのか、それを知りたいのでございます」
「……それを知って、何とされる」
「亡き父も若殿様も、まこと高潔清澄の方々であられました。私にはどうしても、お二人がご公儀へ弓引くような大罪を企んだなどとは信じられませぬ。もしも叶うのであれば千川家に着せられた汚名を雪ぎ、家門の再興をお願い申し上げたく存じます」
「千川家の再興……」
黒々と澄んだ目を向ける紀堂を、蛇のように冷やかな双眸が油断なく見詰める。
「あの襲撃は、儂の差し金だとお疑いであるのか?」
「滅相もございませぬ。ただ、どのようなことでもお教えいただきたく、藁にもすがる思いでおるのでございます」
張り詰めた沈黙が豪奢な部屋に広がる。男の体から、底の知れない、のしかかるような無言の圧力が滲みだし、畳に体が沈み込むような錯覚を覚えた。
佞人と嘲られる一方で、大御所の寵愛を得るだけの人並み外れた才知の持ち主としても知られる男だった。この男の前では、紀堂など赤子の如く無力であるかもしれない。我知らず胸元に汗が流れる。目を逸らしたら食われるような予感に襲われ、下腹に力を込めて耐えていると、ふっと男の気配が緩んだ。
「儂ではない。高家を襲うなどという野蛮を儂がするわけがない。敵を引きずり下ろすならもっと巧妙にやる。母君の一件のことでお疑いなのであれば、ご見当違いというもの。わざわざ墓穴を掘るような真似をするはずがない。お家が滅んだところで、儂に利することもありはせぬ」
つまらなそうに言いながら扇子を開き、ゆるゆると扇ぐ。
紀堂は知らず強張っていた肩から力を抜いた。
「のう、広彬どの。そこもとは千川家の汚名を雪ぎ、家門を再興したいと申されておったな。だが……本音は違うのではないか」
紀堂は切れるような眼差しで男を見上げた。
「……そこもとが望んでおられるのは、復讐だ。お父上と広衛どのの仇を討つことだ。……いかがかな」
「──だとしたら、いかがなされます。お目付にでもご報告なされますか。……二十六年前の意趣返しに」
冷ややかに応じると、ふ、ふ、と男が肩を揺らした。
「まさか」
男の真意を計りかねていると、だが、と身を乗り出してくる。
「そこもととは浅からぬ縁があるようだ。お父上と弟君らのご無念を晴らそうという健気なお心にも、胸打たれるものがある」
蕩けるような目で翁が微笑む。
「それに、玉泉園の返礼もあるのでな。そこもとのお望みに、力を貸さぬこともない」
紀堂はますます訝しんだ。いきなりどういう風の吹き回しだ。紀堂と縁があるとはいえ、好意的な縁ではまったくないではないか。
「それは……私のためではございますまい。大殿様には、私を使って追い落としたいお方がおられるのでございましょう。生憎、私は駒にはなりとうございませぬ」
平静に述べた途端、石翁が悪びれた様子もなくにやりとした。
「……初心かと思ったら、なかなか。さすがに大鳥屋の店主でおられる」
閉じた扇子を手の中で弄び、艶のいい顔をかすかに傾げてこちらを見ている。
「まぁ、儂も腹を割って話すとしよう。その通り。邪魔な者が幾人もおる。越前守らの一派はもちろんだが、他にもおる」
この男が腹を割って話すなどおよそ考えにくいが、紀堂は黙って耳を傾ける。
「千川家の改易は、儂にも青天の霹靂であった。だが……伊予守どのが権臣の関心を集めていたことについては、驚きはないのだ」
紀堂が怪訝そうに柳眉を寄せると、翁は内緒話をするように扇子を顔の脇に立て、声をひそめた。
「そやつらは皆、伊予守どのがお持ちのあるものに、等しく関心を寄せておった」
「……あるもの、とは……?」
意外な方向へ話が向かうのを感じ、紀堂はますます額を曇らせた。
「天下をひっくり返す、密書よ」
座敷に奇妙な沈黙が降りる。
「……密書、でございますか」
言い慣れぬ言葉をぎこちなく繰り返す。
「さよう」
紀堂の様子をうかがうように、ぬるりとした視線が探っている。
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