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広彬(六)
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年の瀬が近づいていた。使いに出た広之助は、痺れるような寒気の中を呉服町へと向かっていた。北風に首を竦めつつ足早に歩くうちに、人でごったがえす日本橋が行く手に見えてくる。
広之助の足が、いつの間にか止まっていた。
東海道を上り下りする旅人たちが、橋の上を行き交っていた。尻端折りして荷を背負った商人もいれば、菅笠に裁着袴の武士がいる。馬の背にゆられている老爺がいるかと思えば、駕篭で運ばれていく女の姿がある。白い息を吐きながら彼らを見詰め、街道の先にある鎌倉につい思いを馳せた。野月正国と、懐かしい人々の顔が目に浮かぶ。灰色の、砕ける波頭の轟きが聞こえる。
鎌倉にいた頃よりも、今の己は幸せだろうかとふと考えた。
武家の子であった自分自身が、遠くなっていた。人とはよくしたもので、何だかんだと言いながらも、置かれた世界に合わせて己の形を変えていくものらしい。時には鎌倉のことをすっかり忘れていることすらある。それは少しの悲しさと、侘しさを胸に掻き立てる。
けれど、と広之助はお仕着せに前掛けをつけた自分の姿を見下ろした。
毎日毎日独楽鼠のように働くうちに、叱られることは減っていた。様々なことを学び、商いの面白さを感じることが増えた。厳しい藤五郎をはじめ、重役たちの有能さに感じ入り、さりげなく奉公人をまとめる義父の手腕を尊敬するようにもなった。暖簾や奉公人の半纏に染め抜かれた花喰鳥を、誇らしく思うようになった。
それから、花筏から遊びにやってくる少女の笑顔が思い浮かぶ。途端に心があたたまり、唇には笑みが浮かんでくる。
自分は、変わった。どんどん変わっていく。
……しかし、それは決して、不快ではなかった。
ぶるっと凍風に身震いすると、広之助は再び歩きだし、人波にまぎれて日本橋を渡りはじめた。
***
実の父と顔を合わせたのは、大鳥屋へ養子に来てはじめての正月のことだった。
一番町にある広大な武家屋敷を四代目と共に訪った広之助を、書院で謁見した千川広忠は、瞬きも惜しむように見詰めていた。
きりりとした眉に涼しげな目元をした、気品の漂う面立ちをした人だった。公家のような典雅さを想像していたが、意外なほどに清冽で、凛とした佇まいを感じさせる。
広之助が、
「よろしくお引き回しのほどを、お願い申し上げます」
と緊張に頭を真っ白にしながら言うと、
「よう参った」
という耳に沁みるような声が返ってくる。
「そなたが広之助か。……息災で、何よりだ」
目の縁をこころなしか赤く染めてそう言うと、広忠はしばらく広之助の姿に見入っていた。紫野に生き写しといわれる己の顔を凝視する、その眼差しの強さにどぎまぎとする。やがて広忠ははっと瞬きし、静かに息を吸った。
思い出したように膝の脇に置いていた錦の袋へ手を伸ばすと、家臣に手渡し、広之助に渡すよう命じる。
「『祥雲』という名の龍笛でな。私が愛用しているものだ。養子縁組の祝いにそなたに贈ろう。……よく、励むがいい」
膝の前に押し出された細長い錦の袋を、広之助は頬を強張らせて見下ろした。
丸の内花杏葉の家紋が金糸で施された金襴の袋の絢爛さに、喜びよりも慄きが全身を襲っている。藤原北家の公家一門に連なり、皇族の木寺宮の血を汲む千川家。その格式を示すかのような美麗さに、打ちのめされた。
喉の奥で心ノ臓がうるさく轟き、膝の上に握った手に汗が滲む。
見たこともない広大な御殿や家臣たちの姿に、気圧されていた。いくら武家であった野月家に育ったとはいえ、儒学者と高家では格に天と地、いやそれ以上の差があった。
高家は公儀の儀式や典礼を司る役職で、朝廷への使者として天皇に拝謁する機会もあることから、大名や公家の嫡流や庶流の名門が世襲してきた。広忠は従四位下侍従を許された高家衆であり、格で言えば普通の大名よりも高位にある。
自分はここに属していない。
凍りつくような思いで、覚る。
この家に、俺などの居場所があるわけがなかった。はじめから、なかった。
羞恥のあまり消えてしまいたくなる。父の血を継いでいるというだけで、どうしてここへ戻れるなどと夢想していたのか。なんと幼く、無知であったことか。
あまりにも、遠い。取り返しがつかぬほどに、父が遠い。
千川家家臣の中で広之助の存在を心得ているのは三人の家老衆のみだったから、他の家臣が同座する場にあっては父子として対話することは望めなかったし、仮に二人きりであったとしても、広之助自身何を話せばいいのかさえわからなかった。このお方が父であると言われたところで、今更どうすればいいというのか。
逃げ出したい思いに駆られながら躊躇っていると、隣の義父が「広之助」と小声で促した。
「……有難き幸せに、ございます」
受け取らぬわけにはいかない。広之助は顔を引きつらせ、錦の袋に入った笛をこわごわ手に取った。
生まれたての子猫のような、ささやかな重さ。刺繍に埋め尽くされた豪奢な布越しに、筒のようなものがあるのが感じられる。
「拝見させていただきなさい」
義父がやわらかく言う。緊張に手をふるわせながらそろそろ紐を解く。一尺少々ほどの長さの、蒔絵の笛筒が現れた。見事に研ぎ出された梨地に蝶と花が舞う筒は、素手で触れるのが躊躇われるほどの美しさだ。
こんなものを拝領していいのかと空恐ろしい心地に襲われながら、魅了されたように目が離せない。
筒の上部を縛る組紐を解き、息を止めて肌に吸い付くような蒔絵の蓋を押し上げる。
肉厚の煤竹に、樺巻を施し漆を塗った笛が、ひっそりと現れた。
笛には、このように煙で燻された煤竹がもっとも適していると聞く。煤は竹の内側にも染み込んで、龍笛の、遠鳴りのきく華麗な音色を作り出すのだという。この煤竹の筒の内側に漆を塗り、外側に樺桜の皮を割いた紐を巻きつけたものは、龍笛の中で最上級の格を誇ることは知っていた。
だが、実際に手に取ってみればその姿はあくまでも簡素で、装飾らしい装飾はないに等しい。質実で、控えめで、素朴だった。それもそうだ。元をただせば、ただの竹と、桜の皮でしかないのだから。馴染み深い、どこにでもある竹と桜だ。
父の、愛用の笛。
手に馴染む笛の感触が、不意に胸に迫った。
目の前で自分を見詰めるその人が、体温を持ってそこに存在することが、いつでも存在していたことが、これ以上ないような確かさで感じられた。
思わず目を上げると、広忠の清涼な双眸に出合う。
瞳の底に、黒々と横たわる深い悲しみがある。しかし同時に、強く輝く意志がある。その父の瞳が、広之助に語りかけてくるのを感じた。
──広彬。
そう呼ぶ声を、確かに聞いた。
広彬。広彬。声にならぬ声が、呼びかけてくる。
春の日差しのようなあたたかさで、呼んでいる。
浅く呼吸しながら広忠を見詰め、それから隣の義父へ顔を向ける。慈愛と喜びに満ちた両目に、うっすらと光るものを浮かべて、四代目が破顔した。
広忠を見上げた広之助は、じっとその目に見入りながら、おずおずと胸の内で囁いた。
(──父上)
途端、締め上げられるように胸が詰まった。
鋭い熱が喉に込み上げ、咄嗟に唇をきつく噛み締めた。
お会いしとうございました、広彬は幸せにございます、と言おうと思っていた。そうしたら、父が手を取って、立派になった、辛い思いをさせたと、迎えてくれると思っていた。
幾度も、幾度も、思い描いた。
笛を両手に確かめながら、広之助はいつしか濡れた目に笑みを浮かべている。
だが、これでもう充分だ。
素朴な笛の手触りが、父の心のありようを伝えてくれる。
これで、充分だ。
(広彬は、幸せにございます)
父をまっすぐに見上げながら、心の内で言った。
ご心配には及びませぬ。私は幸せです。
聞こえますか。私の声が、聞こえますか……
父の両目に、光が射すのを見る。白いものが瞳を濡らし、引き結んだ品のいい唇がかすかにふるえている。
喉の奥が、沸騰するように熱い。父上、と堰を切ったように繰り返しながら、懸命に奥歯を噛み締めた。
もう、待ちつづけなくていいのだと覚る。もう、冬の嵐の海に放り出されたような孤独に、苛まれなくともいいのだ。
いるべき場所に、辿り着いた。報われたのだと、そう思った。
泣き笑うようにして父に眼差しを返すと、広之助はがばと頭を下げる。
喉に膨らむ熱いものが、弾けてしまわぬようにするのが精一杯だった。
短い対面の後、座敷を辞した。
広縁を先に立って進む義父の背中を、去り難い思いに囚われながら追った。
白い息がしきりと顔にまとわりつく。目の奥が熱い。懸命に息を整えようと呼吸を繰り返していると、冴え渡るばかりに澄んだ調べが、突如響き渡った。
閃きながら胸を攫っていく、繊細でいて力強い旋律に立ち尽くす。笛の音だと気づくまでに、しばしの間があった。
足を止めた義父がゆっくりと振り返り、
「……あれは、お殿様の龍笛だよ」
囁くように言う。
「お前さんのために、奏でていらっしゃるんだ」
天に駆け登るかと思われる笛の音だった。龍笛は、その名が示す如く龍の声を模すと言われ、高く低く縦横無尽に駆け巡る、目の覚めるような音色を誇る。広之助は懐に大切にしまった父の笛を、着物の上からぎゅっと手で押さえた。
広彬、と呼ぶ声が聞こえる。
瞼を閉じ、包み込むような美しい調べに身を委ねた。
これが、俺の父上なのだ。
胸がふるえて、鳴り響いている。泣きたい心地であるのに、自然と笑みが零れてくる。笛の音と共に、どこまでも空高く舞い上がってしまいそうだ。
その時、中庭に人声が立った。顔を巡らせると、御殿表の方からやってくる幼い少年と、数人の侍の姿が目に入る。
「──若殿様だ」
四代目がはっとしたように袖を引く。やわらかそうな白い頬を赤く染め、家士たちと何事か話しながら朗らかな笑みを浮かべるその子供は、武者絵の大きな凧を抱えて元気よく歩いていた。
「これは、若殿様。お久しゅうございます」
義父が庭に降りて平伏するのに広之助も倣うと、小さな少年が足を止めた。
「そなたらは……」
不思議そうな声がする。三千石の家ともなれば、懇意にする商家は数多い。出入りの商人の顔などいちいち覚えておらぬだろう。
「あれなるは、当家に出入りの大鳥屋にございます」と近侍が言うのが聞こえてくる。
「そこな子供は、誰か」
あどけない声が問う。
「は。息子の広之助にございます。共に新年のご挨拶に伺いました。若殿様におかれましては、ご機嫌麗しく祝着至極に存じます」
うん、たいぎである、と無邪気に微笑むと、六つの直太郎はつぶらな瞳を広之助に向けた。すっきりとした目元と、まっすぐ通った鼻筋と意志の強そうな唇の形が、父とよく似ている。
「……その方の子か」
広之助と四代目の顔を見比べ、直太郎は感心したように小首を傾げた。
「──美しいな。母上のようじゃ。そなたとはちっとも似ておらぬ」
「ははぁ、これは恐れ入りました」
四代目が吹き出し、広之助はどぎまぎとして赤面する。
「向後はお屋敷に出入りする機会も増えましょうから、何卒よろしくお引き回しのほどを、お願い申し上げます」
「うん。そうしよう」
頑是ない仕草で頷くと、少年はまた広之助の顔に見入る。
「やっぱり、似ておらぬな」
喉で妙な音を立てて笑っている義父の隣で、広之助は耳を火照らせた。
これが、弟か。愛らしい顔をした利発そうな少年の、溌剌とした雰囲気は不快ではなかった。腹違いの弟。同じ父を持つ者なのだと思うと、胸が痛むような思いが込み上げてくる。
「……父上の笛じゃ」
ふと、少年が広縁の奥を見上げながら言った。
「どうだ。見事であろう」
眩く神々しい旋律に目を細めて聞き入りつつ、直太郎が得意気に言う。
「はい。さすが、神楽を家学とされる持明院家のご一門にあらせられますな」
義父が恭しく返すのを聞いて、ちくりと胸が痛む。そのような輝かしい一門とは、もう遠く隔たってしまった。けれど、その悲しみは以前ほど広之助の心を苦しめなかった。それよりも、間近に見る幼い弟の姿に、あたたかいものが胸に込み上げていた。
これが、俺の弟か。
馬鹿のように嬉しくてたまらない。血を分けた兄弟が、目の前にいる。幸福そうに笑っている。それが泣きたいほどに嬉しい。いつか弟に見えることがあったなら、憎みはしないか、妬みはしないかと、心許なく考えあぐねたものだった。そんな醜い者になってしまうのが、怖かった。
だが、なんと小さく、なんと可愛らしいのだろうか。
今、己はこの弟を無条件に愛しいと思っている。守ってやりたいと思っている。それが嬉しくてならなかった。
ふわふわと綿のような白い息を吐く幼い直太郎を見詰め、目を濡らして微笑する広之助を、義父が穏やかに見守っている。
睦月の深々とした寒気も感じぬほどに、胸に溢れるぬくもりが全身を包み込んでいた。
もう、寒くなどない。
冬の海を見詰めて凍えていた子供は、もういないのだ。
澄み切った正月の青い空のように、心がどこまでも晴れ渡っていた。
広之助の足が、いつの間にか止まっていた。
東海道を上り下りする旅人たちが、橋の上を行き交っていた。尻端折りして荷を背負った商人もいれば、菅笠に裁着袴の武士がいる。馬の背にゆられている老爺がいるかと思えば、駕篭で運ばれていく女の姿がある。白い息を吐きながら彼らを見詰め、街道の先にある鎌倉につい思いを馳せた。野月正国と、懐かしい人々の顔が目に浮かぶ。灰色の、砕ける波頭の轟きが聞こえる。
鎌倉にいた頃よりも、今の己は幸せだろうかとふと考えた。
武家の子であった自分自身が、遠くなっていた。人とはよくしたもので、何だかんだと言いながらも、置かれた世界に合わせて己の形を変えていくものらしい。時には鎌倉のことをすっかり忘れていることすらある。それは少しの悲しさと、侘しさを胸に掻き立てる。
けれど、と広之助はお仕着せに前掛けをつけた自分の姿を見下ろした。
毎日毎日独楽鼠のように働くうちに、叱られることは減っていた。様々なことを学び、商いの面白さを感じることが増えた。厳しい藤五郎をはじめ、重役たちの有能さに感じ入り、さりげなく奉公人をまとめる義父の手腕を尊敬するようにもなった。暖簾や奉公人の半纏に染め抜かれた花喰鳥を、誇らしく思うようになった。
それから、花筏から遊びにやってくる少女の笑顔が思い浮かぶ。途端に心があたたまり、唇には笑みが浮かんでくる。
自分は、変わった。どんどん変わっていく。
……しかし、それは決して、不快ではなかった。
ぶるっと凍風に身震いすると、広之助は再び歩きだし、人波にまぎれて日本橋を渡りはじめた。
***
実の父と顔を合わせたのは、大鳥屋へ養子に来てはじめての正月のことだった。
一番町にある広大な武家屋敷を四代目と共に訪った広之助を、書院で謁見した千川広忠は、瞬きも惜しむように見詰めていた。
きりりとした眉に涼しげな目元をした、気品の漂う面立ちをした人だった。公家のような典雅さを想像していたが、意外なほどに清冽で、凛とした佇まいを感じさせる。
広之助が、
「よろしくお引き回しのほどを、お願い申し上げます」
と緊張に頭を真っ白にしながら言うと、
「よう参った」
という耳に沁みるような声が返ってくる。
「そなたが広之助か。……息災で、何よりだ」
目の縁をこころなしか赤く染めてそう言うと、広忠はしばらく広之助の姿に見入っていた。紫野に生き写しといわれる己の顔を凝視する、その眼差しの強さにどぎまぎとする。やがて広忠ははっと瞬きし、静かに息を吸った。
思い出したように膝の脇に置いていた錦の袋へ手を伸ばすと、家臣に手渡し、広之助に渡すよう命じる。
「『祥雲』という名の龍笛でな。私が愛用しているものだ。養子縁組の祝いにそなたに贈ろう。……よく、励むがいい」
膝の前に押し出された細長い錦の袋を、広之助は頬を強張らせて見下ろした。
丸の内花杏葉の家紋が金糸で施された金襴の袋の絢爛さに、喜びよりも慄きが全身を襲っている。藤原北家の公家一門に連なり、皇族の木寺宮の血を汲む千川家。その格式を示すかのような美麗さに、打ちのめされた。
喉の奥で心ノ臓がうるさく轟き、膝の上に握った手に汗が滲む。
見たこともない広大な御殿や家臣たちの姿に、気圧されていた。いくら武家であった野月家に育ったとはいえ、儒学者と高家では格に天と地、いやそれ以上の差があった。
高家は公儀の儀式や典礼を司る役職で、朝廷への使者として天皇に拝謁する機会もあることから、大名や公家の嫡流や庶流の名門が世襲してきた。広忠は従四位下侍従を許された高家衆であり、格で言えば普通の大名よりも高位にある。
自分はここに属していない。
凍りつくような思いで、覚る。
この家に、俺などの居場所があるわけがなかった。はじめから、なかった。
羞恥のあまり消えてしまいたくなる。父の血を継いでいるというだけで、どうしてここへ戻れるなどと夢想していたのか。なんと幼く、無知であったことか。
あまりにも、遠い。取り返しがつかぬほどに、父が遠い。
千川家家臣の中で広之助の存在を心得ているのは三人の家老衆のみだったから、他の家臣が同座する場にあっては父子として対話することは望めなかったし、仮に二人きりであったとしても、広之助自身何を話せばいいのかさえわからなかった。このお方が父であると言われたところで、今更どうすればいいというのか。
逃げ出したい思いに駆られながら躊躇っていると、隣の義父が「広之助」と小声で促した。
「……有難き幸せに、ございます」
受け取らぬわけにはいかない。広之助は顔を引きつらせ、錦の袋に入った笛をこわごわ手に取った。
生まれたての子猫のような、ささやかな重さ。刺繍に埋め尽くされた豪奢な布越しに、筒のようなものがあるのが感じられる。
「拝見させていただきなさい」
義父がやわらかく言う。緊張に手をふるわせながらそろそろ紐を解く。一尺少々ほどの長さの、蒔絵の笛筒が現れた。見事に研ぎ出された梨地に蝶と花が舞う筒は、素手で触れるのが躊躇われるほどの美しさだ。
こんなものを拝領していいのかと空恐ろしい心地に襲われながら、魅了されたように目が離せない。
筒の上部を縛る組紐を解き、息を止めて肌に吸い付くような蒔絵の蓋を押し上げる。
肉厚の煤竹に、樺巻を施し漆を塗った笛が、ひっそりと現れた。
笛には、このように煙で燻された煤竹がもっとも適していると聞く。煤は竹の内側にも染み込んで、龍笛の、遠鳴りのきく華麗な音色を作り出すのだという。この煤竹の筒の内側に漆を塗り、外側に樺桜の皮を割いた紐を巻きつけたものは、龍笛の中で最上級の格を誇ることは知っていた。
だが、実際に手に取ってみればその姿はあくまでも簡素で、装飾らしい装飾はないに等しい。質実で、控えめで、素朴だった。それもそうだ。元をただせば、ただの竹と、桜の皮でしかないのだから。馴染み深い、どこにでもある竹と桜だ。
父の、愛用の笛。
手に馴染む笛の感触が、不意に胸に迫った。
目の前で自分を見詰めるその人が、体温を持ってそこに存在することが、いつでも存在していたことが、これ以上ないような確かさで感じられた。
思わず目を上げると、広忠の清涼な双眸に出合う。
瞳の底に、黒々と横たわる深い悲しみがある。しかし同時に、強く輝く意志がある。その父の瞳が、広之助に語りかけてくるのを感じた。
──広彬。
そう呼ぶ声を、確かに聞いた。
広彬。広彬。声にならぬ声が、呼びかけてくる。
春の日差しのようなあたたかさで、呼んでいる。
浅く呼吸しながら広忠を見詰め、それから隣の義父へ顔を向ける。慈愛と喜びに満ちた両目に、うっすらと光るものを浮かべて、四代目が破顔した。
広忠を見上げた広之助は、じっとその目に見入りながら、おずおずと胸の内で囁いた。
(──父上)
途端、締め上げられるように胸が詰まった。
鋭い熱が喉に込み上げ、咄嗟に唇をきつく噛み締めた。
お会いしとうございました、広彬は幸せにございます、と言おうと思っていた。そうしたら、父が手を取って、立派になった、辛い思いをさせたと、迎えてくれると思っていた。
幾度も、幾度も、思い描いた。
笛を両手に確かめながら、広之助はいつしか濡れた目に笑みを浮かべている。
だが、これでもう充分だ。
素朴な笛の手触りが、父の心のありようを伝えてくれる。
これで、充分だ。
(広彬は、幸せにございます)
父をまっすぐに見上げながら、心の内で言った。
ご心配には及びませぬ。私は幸せです。
聞こえますか。私の声が、聞こえますか……
父の両目に、光が射すのを見る。白いものが瞳を濡らし、引き結んだ品のいい唇がかすかにふるえている。
喉の奥が、沸騰するように熱い。父上、と堰を切ったように繰り返しながら、懸命に奥歯を噛み締めた。
もう、待ちつづけなくていいのだと覚る。もう、冬の嵐の海に放り出されたような孤独に、苛まれなくともいいのだ。
いるべき場所に、辿り着いた。報われたのだと、そう思った。
泣き笑うようにして父に眼差しを返すと、広之助はがばと頭を下げる。
喉に膨らむ熱いものが、弾けてしまわぬようにするのが精一杯だった。
短い対面の後、座敷を辞した。
広縁を先に立って進む義父の背中を、去り難い思いに囚われながら追った。
白い息がしきりと顔にまとわりつく。目の奥が熱い。懸命に息を整えようと呼吸を繰り返していると、冴え渡るばかりに澄んだ調べが、突如響き渡った。
閃きながら胸を攫っていく、繊細でいて力強い旋律に立ち尽くす。笛の音だと気づくまでに、しばしの間があった。
足を止めた義父がゆっくりと振り返り、
「……あれは、お殿様の龍笛だよ」
囁くように言う。
「お前さんのために、奏でていらっしゃるんだ」
天に駆け登るかと思われる笛の音だった。龍笛は、その名が示す如く龍の声を模すと言われ、高く低く縦横無尽に駆け巡る、目の覚めるような音色を誇る。広之助は懐に大切にしまった父の笛を、着物の上からぎゅっと手で押さえた。
広彬、と呼ぶ声が聞こえる。
瞼を閉じ、包み込むような美しい調べに身を委ねた。
これが、俺の父上なのだ。
胸がふるえて、鳴り響いている。泣きたい心地であるのに、自然と笑みが零れてくる。笛の音と共に、どこまでも空高く舞い上がってしまいそうだ。
その時、中庭に人声が立った。顔を巡らせると、御殿表の方からやってくる幼い少年と、数人の侍の姿が目に入る。
「──若殿様だ」
四代目がはっとしたように袖を引く。やわらかそうな白い頬を赤く染め、家士たちと何事か話しながら朗らかな笑みを浮かべるその子供は、武者絵の大きな凧を抱えて元気よく歩いていた。
「これは、若殿様。お久しゅうございます」
義父が庭に降りて平伏するのに広之助も倣うと、小さな少年が足を止めた。
「そなたらは……」
不思議そうな声がする。三千石の家ともなれば、懇意にする商家は数多い。出入りの商人の顔などいちいち覚えておらぬだろう。
「あれなるは、当家に出入りの大鳥屋にございます」と近侍が言うのが聞こえてくる。
「そこな子供は、誰か」
あどけない声が問う。
「は。息子の広之助にございます。共に新年のご挨拶に伺いました。若殿様におかれましては、ご機嫌麗しく祝着至極に存じます」
うん、たいぎである、と無邪気に微笑むと、六つの直太郎はつぶらな瞳を広之助に向けた。すっきりとした目元と、まっすぐ通った鼻筋と意志の強そうな唇の形が、父とよく似ている。
「……その方の子か」
広之助と四代目の顔を見比べ、直太郎は感心したように小首を傾げた。
「──美しいな。母上のようじゃ。そなたとはちっとも似ておらぬ」
「ははぁ、これは恐れ入りました」
四代目が吹き出し、広之助はどぎまぎとして赤面する。
「向後はお屋敷に出入りする機会も増えましょうから、何卒よろしくお引き回しのほどを、お願い申し上げます」
「うん。そうしよう」
頑是ない仕草で頷くと、少年はまた広之助の顔に見入る。
「やっぱり、似ておらぬな」
喉で妙な音を立てて笑っている義父の隣で、広之助は耳を火照らせた。
これが、弟か。愛らしい顔をした利発そうな少年の、溌剌とした雰囲気は不快ではなかった。腹違いの弟。同じ父を持つ者なのだと思うと、胸が痛むような思いが込み上げてくる。
「……父上の笛じゃ」
ふと、少年が広縁の奥を見上げながら言った。
「どうだ。見事であろう」
眩く神々しい旋律に目を細めて聞き入りつつ、直太郎が得意気に言う。
「はい。さすが、神楽を家学とされる持明院家のご一門にあらせられますな」
義父が恭しく返すのを聞いて、ちくりと胸が痛む。そのような輝かしい一門とは、もう遠く隔たってしまった。けれど、その悲しみは以前ほど広之助の心を苦しめなかった。それよりも、間近に見る幼い弟の姿に、あたたかいものが胸に込み上げていた。
これが、俺の弟か。
馬鹿のように嬉しくてたまらない。血を分けた兄弟が、目の前にいる。幸福そうに笑っている。それが泣きたいほどに嬉しい。いつか弟に見えることがあったなら、憎みはしないか、妬みはしないかと、心許なく考えあぐねたものだった。そんな醜い者になってしまうのが、怖かった。
だが、なんと小さく、なんと可愛らしいのだろうか。
今、己はこの弟を無条件に愛しいと思っている。守ってやりたいと思っている。それが嬉しくてならなかった。
ふわふわと綿のような白い息を吐く幼い直太郎を見詰め、目を濡らして微笑する広之助を、義父が穏やかに見守っている。
睦月の深々とした寒気も感じぬほどに、胸に溢れるぬくもりが全身を包み込んでいた。
もう、寒くなどない。
冬の海を見詰めて凍えていた子供は、もういないのだ。
澄み切った正月の青い空のように、心がどこまでも晴れ渡っていた。
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青馬に三味線を教え、密かに思いを寄せる柳橋芸者の真澄や、友人の医師橋倉らと青馬の成長を見守りながら、久弥は幸福な日々を過ごすのだが……
ある日その平穏な生活は暗転する。生家に政変が生じ、久弥は青馬や真澄から引き離され、後嗣争いの渦へと巻き込まれていく。彼は愛する人々の元へ戻れるのだろうか?(性描写はありませんが、暴力場面あり)
春雷のあと
紫乃森統子
歴史・時代
番頭の赤沢太兵衛に嫁して八年。初(はつ)には子が出来ず、婚家で冷遇されていた。夫に愛妾を迎えるよう説得するも、太兵衛は一向に頷かず、自ら離縁を申し出るべきか悩んでいた。
その矢先、領内で野盗による被害が頻発し、藩では太兵衛を筆頭として派兵することを決定する。
太兵衛の不在中、実家の八巻家を訪れた初は、昔馴染みで近習頭取を勤める宗方政之丞と再会するが……
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
狐侍こんこんちき
月芝
歴史・時代
母は出戻り幽霊。居候はしゃべる猫。
父は何の因果か輪廻の輪からはずされて、地獄の官吏についている。
そんな九坂家は由緒正しいおんぼろ道場を営んでいるが、
門弟なんぞはひとりもいやしない。
寄りつくのはもっぱら妙ちきりんな連中ばかり。
かような家を継いでしまった藤士郎は、狐面にていつも背を丸めている青瓢箪。
のんびりした性格にて、覇気に乏しく、およそ武士らしくない。
おかげでせっかくの剣の腕も宝の持ち腐れ。
もっぱら魚をさばいたり、薪を割るのに役立っているが、そんな暮らしも案外悪くない。
けれどもある日のこと。
自宅兼道場の前にて倒れている子どもを拾ったことから、奇妙な縁が動きだす。
脇差しの付喪神を助けたことから、世にも奇妙な仇討ち騒動に関わることになった藤士郎。
こんこんちきちき、こんちきちん。
家内安全、無病息災、心願成就にて妖縁奇縁が来来。
巻き起こる騒動の数々。
これを解決するために奔走する狐侍の奇々怪々なお江戸物語。
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