証なるもの

笹目いく子

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広彬(五)

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 江戸に来て瞬く間に数ヶ月が過ぎた。十四になるまでに身に染み付いた武家言葉や立ち居振る舞いを変えるのは、それなりに苦労もしたが泣くほど辛いということもなかった。
 重役からの叱責に耐え、顧客に平身低頭して愛想を振りまくのは、はじめこそえも言われぬ抵抗を覚えてかっかと額が熱くなった。が、それが自分に与えられた新しい人生なのだ、他に生きる道はないのだと思えば、唇を噛み締めてただ受け入れた。受け入れることには慣れていた。

「お前さんはまったく賢すぎるね。真っ直ぐなのは美徳だが、少しは荒れてくれてもいいんだよ。藤五郎の奴への愚痴だってあるだろう? たまにゃぶちまけたらどうだい」

 などと義父が心配そうに言って、

「余計なことをおっしゃらないでくださいまし。特別扱いは困ります」

 と筆頭番頭の藤五郎の雷が落ちることもあった。  
 広之助は、同年代の少年よりもはるかに己を冷静に捉えることのできる子供だった。義父の気遣いはありがたかったが、自分は半人前の小僧にすぎず、だから重役たちに厳しく鍛えられるのは当然だとよく心得ている。鬱屈や憤りに折り合いをつけることは、広之助にとってそう難しいことではない。
 けれどもそういう聡さと物分かりのよさ故か、大鳥屋の商いを学ぶにつれて、この全てを己が受け継ぐことなどあり得るのか、と思い悩むことが増えた。商才があるなどというのは義父の詭弁であって、自分はただの世間知らずな子供だ。四代目は千川に忠実なあまり、とてつもない過ちをおかそうとしているのではないか。そんな疑問と弱気が胸に兆した。

「眼鏡違い? そんなこたないよ」

 ある日、本店の奥の母屋に義父を訪ね、おずおずとそう打ち明けると義父は破顔した。

「私の目を甘く見てもらっちゃ困るね。お前さんのことは赤ん坊の頃から見ているんだから、頭の出来不出来なんざとうにお見通しだよ。……お前さんはその年にしちゃあ出来すぎなくらい賢い子供だから、心配いらないよ」

 いつも陽気な光を宿した目に、すっと悲しげな影が過った気がした。

「それにな、前に言った通り店主に必要なのは勤勉と、人を大切にすることと、誠実さ、これだ。加えて奉公人や世間様に愛されるようになってくれりゃあ、言うことないね。お前さんは人の思いをよく汲める子だ。大丈夫、皆から好かれる店主になるよ」

 広之助は何やら居心地悪くなって口ごもった。自分はそんなに出来た人間ではない。わからぬことだらけで、心許なさでいっぱいなのだ。

「……そういうものでありましょうか。私の代で店が傾くようなことがあってはなりませぬし……」 
「焦るこたぁない。お前さんは若いんだ。時はたっぷりとあるんだから、じっくりやればいいさ」
「その通りです。それに生憎、お店を動かすには大番頭が仕切らなくてはなりませんからね、旦那様の一存で店を潰すようなことは残念ながら出来ませんのです。そのようなご心配は無用ですので、その言葉遣いを早く改めてくださいまし」

 廊下で聞いていたらしい藤五郎が、不意に姿を現しずけずけ言った。義父に用事があるのか厚い帳簿を腕に抱え、失礼します、と遠慮なく入ってきて店主と広之助の脇に座る。しまった、つい武家言葉になっていたかと広之助は唇を噛んだ。
 大番頭の息子で、今は本店の筆頭番頭となっている藤五郎は、次の大番頭となることがすでに決まっている。広之助の教育係も任されていて、目から鼻に抜けるように頭が切れるのだが、その指導方法ときたら容赦がない。
 「他の小僧は十二の時から働いているんです。あなたには二年分すぐに追いついていただかないと」と右も左もわからぬ広之助を店に放り込み、さっそく手代や小僧たちの叱責を浴びる姿を見て平然としているのだった。
 広之助が千川家の庶子であることは、義父と大番頭、そして藤五郎のみが承知している。しかし、藤五郎の、そんなことはどこ吹く風といった態度は、いっそ小気味がいいほど徹底していた。お陰で、事情を知らず、武家から養子に入った美貌の少年に戸惑っていた奉公人たちも、すぐに広之助をただの町人の子として扱うことに馴れたのだった。

「余計なことを考えている暇なんぞないんです。無我夢中で学んで下さい」
「わかっている」

 思わず鼻白む広之助に、藤五郎が畳み掛ける。

「返事は、へぇ、承知いたしました。あなたはまだ小僧なんですよ、若旦那。はいもう一度」
「……へぇ、承知いたしました……」

 気圧されて広之助が返すと、義父が腹を抱えて笑い出した。
 平然と頷く筆頭番頭を見上げながら、この男だけは敵に回したくないものだ、と直感が囁いた。しばらく経ってから、藤五郎が「大鳥屋の閻魔」と奉公人から呼ばれていることを知った。自分の勘は正しかった、と広之助は心から納得したのだった。


 藤五郎が言った通り、大鳥屋ほどの規模ともなれば、店主の出来が少しばかり悪かろうが店が傾くことなぞあり得ないのだとやがて悟った。
 本店には店主を代行する番頭三名と、その下に手代を六名、大坂支店には番頭五名、手代を八名置いているが、本店にのみ番頭衆の上に大番頭一名が置かれ、本店のみならず支店をも統括する大元締の役割を担っている。店主が四代目や五代目を数えるようになると、経営組織はすでに強固かつ盤石になっているから、終身雇用の大番頭が全体の指揮を取る一方で、店主が経営に直接関与することなどないに等しい。経営上の最終的な決定権は店主に属するが、主な役割は顧客である大身旗本や商家との円滑な関係の維持や、文人墨客や学者への支援、困窮者への援助、町内の橋や掘割の整備など、経営から離れた分野へと移行していた。
 しかし大鳥屋では、店主たるもの業務のすべてに精通することが当然とされている。直接経営に手を出さない一方で、店の気風を作り出すのはやはり店主なのだ。風流や遊興にうつつをぬかし、俳句をひねってばかりいるぼんくらが主では、店の風紀は乱れて奉公人の士気も下がる。店の顔となり、奉公人の精神的な拠り所となる店主は、一朝一夕に作られるものではない。実務に携わって修行を積むことが絶対に不可欠なのだ。
 そういうわけで、広之助も年長の小僧や手代らに追い回されながら、雑用と使い走りに精を出した。通常であれば小僧はこの間に文字や算術を覚えるのだが、広之助はすでに鎌倉で一通りの教育を受けていたから、その点には苦労はなかった。しかし、接客に金銀鑑定、帳簿記帳と管理方法などをみっちり仕込まれる毎日に、楽などする余裕はない。武家から町人となった己の運命について思いを巡らせる暇もなく、夜は床に就いた途端泥のように眠った。
 いいことも、あった。義父と懇意の料理茶屋『花筏』には、十五になる長男の友一郎と、十三になる有里という長女がいて、有里はいくらもせぬうちに広之助の中で特別な娘になった。裕福な家に育って垢抜けているが、無邪気で屈折したところがなく、包み込むようなやさしさのある有里は、広之助をたちまち魅了した。
 鎌倉のお武家から養子に来たという風変わりな経緯と、人並み外れた容貌は、大抵初対面の人を戸惑わせたが、有里は持ち前の屈託のなさでいともたやすく壁を乗り越えてきて、十年来の幼なじみであるかのように、しっくりと広之助の心に馴染んでしまった。
 今にして思えば、広之助の美少女のような顔つきのせいで、有里は広之助を少年だとは感じていなかったのかもわからない。大鳥屋に女友達ができた、というくらいのつもりであったのかもしれない。けれども、広之助がいくら忙しいと断っても「広之助さん、広之助さん」と少女が店を訪ねてきてくれることが、無性にこそばゆく、嬉しく感じられてならなかった。

「藤五郎さん、広之助さんに辛く当たったりなさらないでね。私のお友達なんですから、やさしくしてくださらないと、私うんと怒りますからね。本当に、ものすごく怒りますから」

 などと、必死に藤五郎に訴えているのをうっかり聞いた時には、顔から火が出るかと思った。

「そりゃあ恐ろしいですねぇ。この世の終わりでございますねぇ。肝に銘じておきますので勘弁してくださいまし」

 と閻魔の筆頭番頭がぶるぶる肩をふるわせ、周りの奉公人も必死に笑いを噛み殺していた。
 藤五郎も大鳥屋の奉公人たちも、有里の愛らしさが好きなのだ。
 そして広之助はもっと、ずっと、好きだった。
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