証なるもの

笹目いく子

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希望

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 弥之吉が去ると、紀堂は立っていられなくなり畳に手をついて座り込んだ。障子を赤く燃やす西日が、ふるえる両手を真っ赤に染めていた。

──身代わりか……?

 あの遺骸は、広衛ではなかったのではないか。広衛付きの近習には、年の近い少年がいたはずだ。いつ、入れ替わった。家臣は誰も知らされなかったのか。境家老は……?

──生きている。

 広衛が、生きている。
 いや、わからない。しかし……
 心が逸るのを押し止めようとしながらも、どんどんと心ノ臓がはげしく高鳴るのを堪えられなかった。胸がはちきれそうだった。
 目まぐるしい思考の渦に、奥田玄蕃と名乗った男の姿がふと過り、紀堂ははっと息を飲んだ。薩摩の隠密衆。仲間と共に音もなく現れ、あっという間に同じ隠密たちを切り伏せた腕前は、尋常なものではなかった。彼らの仕業か……? どこへ連れ去ったのだ。いったい、どこへ。
 だが思考の断片は、あっという間に嵐のような感情に押し流された。
 熱い塊が喉を塞ぐ。
 広衛が、生きているかもしれない……。
 胸が壊れそうに高鳴っている。痛みに近い喜びが喉を塞いでいた。

「藤五郎」

 右手に控える大番頭を凝視した。この男も同じことを考えているだろうか。自分の勘違いなのではないか。生きていて欲しいと願うあまり、荒唐無稽な作り話を信じ込んでいるのではないか……? ほとんど恐怖するように、紀堂は藤五郎の表情を探っていた。
 藤五郎の切れ長の目が、すっと動いてこちらを見た。
 いつも通りに平静な、冴えた光を浮かべる両目が、頷いた気がした。

「念のためあの男の身辺を探りましたが、虚言や騙りの性癖はございませんでした。浮き草のような暮らしぶりで、金になる話となると軽挙なところはございますが、意外と情に厚いようです。親分さんもそう請け合って下さいましたので、お会いになっていただこうと思ったのです」

 いかなる時にもぬかりのない男だ。紀堂は小刻みに肩をふるわせながらかすかに頷き返すと、咄嗟に拳を口に押し当てた。手の甲をきつく噛んで、安堵と歓喜がほとばしり出ようとするのを抑え込んだ。

(──父上)

 まだ、わからない。顔を見るまで、確かなことなどない。しかし……。
 真っ赤な斜陽の中に、血刀を提げ、真紅に染まった寝間着の裾から血を滴らせている父の姿を見た。

(広衛が、生きています。どこかに、生きています。父上……) 

 私の声が、聞こえますか。
 口の中に血の味が広がるほど歯を立てながら、父の霊に向かってそう叫んでいた。

***

「こんなすり替えは千川家の協力なしには難しい。身代わりの遺体を用意しなくてはならないし、千川家家臣の口から事実が漏れればすべては台無しだ。小島様らは御殿表にいたからかかわっていないが、境家老は奥においでだったはずだ。ご家老様が承知していたかもわからないな」

 藤五郎が女中に茶を持ってこさせる間に、乱れる心を落ち着かせた紀堂は、やがて湯飲みを手に取って言った。
 障子が青さを増し、鈴虫の声が盛んに耳に届く。行灯に火が入れられた部屋は、障子を閉てたままでも十分に涼しかった。

「救出に現れたのは、奥田らなのではないか」
「私も、そう思います」

 藤五郎が同意した。

「彼らが越前守様に与しているのだとすると、広衛の救出もご老中のご意向だろうか」
「では若殿様は、越前守様が匿っておられると……?」
「わからん。だが西丸下の上屋敷にいるとは考えにくいな」

 老中や若年寄をはじめとする、主要大名の上屋敷が連なる西丸下の警護は厳重だ。その上に幅五十間あまりもある広大な濠に囲まれ、和田倉御門、馬場先御門、桜田御門以外の出入り口が存在しない。隠密が広衛を抱えて入り込むなど無謀すぎる。しかし、大名家の多くは上屋敷以外に中屋敷、下屋敷、抱屋敷を江戸各所に所有する。人ひとりを隠しているであろう場所など、見当のつけようもなかった。

「越前守様の懐刀である大和守様が承知なさっている可能性は高い。境家老のお預先にもなっているし、ご家老様から話が通じていることも有り得る。いや……むしろ、ご家老様から広衛の生存が漏れぬように、お預先をお引き受けになったのかもしれん」

 藤五郎の顔色が変わるのを見ながら、己の顔が強張るのを感じた。飯田堀家がお預先となったのは、偶然ではないのだ。襲撃を止められなかった越前守が、奥田らの手で間一髪広衛を救出することに成功した。そして、それを知る境を大和守の庇護下に置いたとしたら。境家老が未だに監禁されているのは、広衛の生存が外部に漏れぬようにするための工作なのだとしたら……。

「明後日、堀家の公用人に探りを入れてみよう。俺の素性を明かせば、あるいは広衛の居所を明かしてくれるかもしれん。……そうでなかったら、俺も斬られて終いかもしれないが。越前守様と大和守様が千川家に同情的であるのが真実であればいいんだが」
「例の建議書の一件で、水野老中も大和守様も千川様に恩義を感じていると……」
「そうだ」

 石翁の話が事実に近いのだとしたら、大久保加賀守の逝去の後も父が約定を守ったことを、二人が恩義に感じていてもおかしくはない。
 将軍家斉の退位は大久保加賀守の悲願ではあったが、加賀守当人が死んだとなれば、広忠がそれを果たさねばならぬ理由はなかった。大塩の建議書を公表し、老中や若年寄はじめとする権臣を一掃し、幕政を混乱に陥れることもできた。だが、父は約定を守ってそれをしなかった。家斉の退位は必要だと考えていたのであろうし、紫野のことで家斉に遺恨を抱いていたこともあるかもしれない。あるいは、加賀守の名誉を守ろうと、あえて沈黙を選んだのかもしれない。
 だが、と紀堂は考え込んだ。そのことだけで、越前守がこれほどまでに危ない橋を渡ろうとするものだろうか。
 水野越前守は才長けてはいるが、目的のためには手段を選ばぬ非情さも際立つ男だ。その越前守が、父の誠意を恩義に感じているからといって、反逆者の汚名を着せられた広衛を守ろうとまでしてくれるだろうか……?
 しかし、殺す気ならばはじめから救出などしていないはずだ。理由は今考えたところでわかりようもない。まずは広衛の居所を見つけ出すのだ。

「旦那様。このことは、小島様らにはお話しになられますか?」

 藤五郎の問いに、我に返った。

「……いや」

 紀堂はゆっくりとかぶりをふった。

「広衛の所在が明らかになるまでは、待った方がいいだろう。弥之吉が嘘を吐いているとは思わないが、もし広衛が無事でないとしたら……とても耐えられないだろう」
「──そうですね」

 同意した大番頭が、思い出したように瞬きした。

「旦那様。文吾親分のところに出向く前に浅草の小島様らをお訪ねした件を、まだお話ししておりませんでした」
「そうだったな」

 はっとして藤五郎を見詰めた。
 弥之吉の出現で他のことが頭から吹き飛んでいたが、見舞いに行きそびれた紀堂の代わりに、藤五郎に千川家旧臣の様子伺いを頼んでいたのだ。

「旦那様が薩摩の隠密衆に襲われたことは伏せておきました。しかし、薩摩がかかわっている節はないかとそれとなくお伺いしましたところ……」

 不審そうな表情が鋭く整った顔に過る。

「小島様とご近習の加納さまによれば、昨年末に、お殿様は高輪のお屋敷に招かれて数度赴かれたのだそうです。薩摩の大殿様からのお呼び出しだったそうで……」
「大殿様? ご老公のことか」
「さようでございます」

 紀堂は思わず眉根を寄せた。
 薩摩島津家は三田に上屋敷、幸橋門内に中屋敷、高輪に下屋敷、さらに白金などの各所に複数の抱屋敷を所有している。高輪邸の主は前藩主の島津斉宣なりのぶだ。
 当年六十八の斉宣は、才気に溢れ革新の気風を抱き、父・重豪しげひでから家督を継ぐと、精力的に藩財政の改革に挑んだ過去を持つ。しかしながら、隠居後も藩政に公然と影響力を行使する父と対立し、家督を継いで十二年後の文化六年、重豪と実姉である御台所から隠居を迫られ、嫡子の斉興なりおきへ家督を譲って白金に隠居したと聞く。
 文政十四年に総髪して渓山と称した斉宣は、重豪の死去と共に高輪邸に居を移したらしい。隠居したとはいえ、斉宣は従四位上左近衛権中将兼修理大夫という極めて高い官位にある。従四位下の高家千川家当主さえも、呼びつけるだけの権威があるはずだ。 
 だが、隠居した薩摩の元藩主が、父にいったい何用があったというのだろうか。

「父はご老公と親しくなさっておられたのか?」
「いえ、ご親交はほとんどなかったと皆様がおっしゃっておられました」

 顔をしかめて考え込んでいる紀堂に、藤五郎は躊躇いを見せながら言った。

「──そのこともなのですが……小島様をはじめ、皆様大変お窶れでいらっしゃいました。手がかりを求めて各所をあたっておられるようですが、捗々しい成果はないようで。しかし、尾形様のご無念を晴らすのだと、鬼気迫るご様子でいらっしゃいました……」

 紀堂は彼らの懊悩を思ってただ首肯した。
 外の青さが増すにつれて、鈴虫の声が高くなっていた。
 影が濃くなっていくのとは反対に、行灯の黄味がかった光がいっそう明るく感じられる。 
 広衛が生きているかもしれない。憎悪を凌駕する希望が、胸に灯っていた。
 広衛の生存を一刻も早く確かめ、それを小島らへも届けたかった。
 
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