証なるもの

笹目いく子

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涙雨

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 町奉行所に運ばれた尾形の遺骸は、簡単な調べの後に翌日には引き渡しが許された。
 紀堂は大八を引く人足を伴って奉行所から遺骸を預かると、長屋にてひっそりと通夜を催し、翌日夕刻、本駒込の菩提寺に懇ろに埋葬した。用人上席の小島豊太郎、近習の加納忠厚ただあつ、給人の織部武二郎と水沢慎一郎、尾形の離縁した妻・世津せつと、三つになる息子の吉之進きちのしんが会葬する、小さな葬儀だった。
 重く垂れ込める鉛色の雲から、ぬるい糸雨が音もなく降る夕刻だった。
 父の死を真実理解できぬ様子の吉之進は、通夜で布団に横たえられた父を見ると、側にちょこんと座って不思議そうに顔を覗き込んでいた。僧侶の読経の間、利口に母の隣に座っていたが、時折うつらうつらと舟を漕いだり、あどけない瞳で会葬者をちらちらと見回す仕草が愛らしく、哀れだった。
 寺の墓地に尾形を埋葬する段になると、吉之進は急にひどく怖がってしくしくと泣き、俯く母の袂をぎゅっと掴んでいた。

「……父の仇は、取ってやる。必ず取ってやるゆえ待っておれ」 

 尾形を埋葬した五輪塔の墓石の前で、小島はぐすぐすと鼻を鳴らす吉之進を見下ろして、穏やかに聞こえるほどの声で言う。感傷も悲嘆ももはや無となり、ただ己と仇の死だけを見詰める横顔が、雨に濡れて青白く浮かび上がる。小島と三人の侍たちを、吉之進が濡れた目を瞬かせて見詰めている。雨と夕闇にかすむ侍たちの姿は、灰色の影となってぴくりとも動かず、彼ら自身も墓石と化してしまったかのように思われた。
 母親の世津は白い喉をふるわせながら、じっと墓を見つめて動かない。少し離れたところから、紀堂はそれを凝視していた。
 蝉の声すら死に絶えたような夕闇に、世津の押し殺した嗚咽だけが、かすかに響いていた。

***

 ひたひたと町を濡らす雨は、数日経っても止まなかった。
 まんじりともしない夜を幾日も過ごした紀堂は、気だるい体を布団から起こすと、千川家旧臣を訪ねようと重い腰をあげた。

「駕篭を呼ばなくともよろしいので? 誰かお供にお連れになられては……」

 と手代がしきりに案ずるのを、

「いや……小雨だし、歩きたい気分だからいらないよ」

 と言って、蛇の目傘を手に下駄を鳴らして店の裏手から外へ出る。
 尾形の妻子はもとより、千川家旧臣の憔悴ぶりが案じられてならなかった。特に小島は同じ長屋で苦楽を共にしてきたから、尾形の死は計り知れぬ打撃であるに違いない。小島は深川の長屋を引き払い、近習と給人ら三名が暮らす浅草福井町の表店へ移っていた。一人でいるよりは気が紛れるであろうか、などと考えながら重い足を黙々と運ぶ。
 傘の縁から、時折つうっと水滴が糸を引き、涙のようにこぼれ落ちる。
 本町四丁目を北に向かった。本町の表通りはやがて大伝馬町と名を変え、通旅籠とおりはたご町、通油とおりあぶら町と移っていき、浜町川に出る。この一帯は豪商が店を構える目抜き通りで、日本橋有数の繁華を誇る。しかし今朝は雨のせいで行き来するお店者の姿もまばらで、棒手ふりも商い休み、番傘をさした高足下駄の女や、尻端折りに笠や手ぬぐいをかぶった人影が俯きながら行き交うのが見えるばかりだった。通旅籠町はかつてその名の通り旅籠が軒を連ねていたが、今は傘や文具、紙類、小間物を扱う問屋が集中している。両手にそれらの問屋の暖簾を見ながら歩いていた紀堂は、通油町に入ったところでふと耳を澄ませた。
 そぼ降る雨の音に混じって、よく知った声を聞いた気がした。
 目を上げると、前から歩いてくる男女がいる。
 男のさしかける小粋な蛇の目傘が目を引いた。煙雨を透かし、その傘に入った女の顔が目に入った途端、ぴたりと足が止まっていた。
 若い男の隣で、有里が親しげに笑っている。隣にいるのは、見覚えのある男だった。以前有里と船宿へ入っていくのを見た、あの男。
 突然と、炙られるような熱が胸のうちを舐める。火傷が火脹れのようにただれ、苦痛と共に醜い痕を残していく。

「──紀堂さん?」

 娘と目があう。弾かれたように目を逸らし、泥水をはね上げて大股に歩き出した。二人の脇を会釈もせずに通り過ぎ、急き立てられるようにして足を運ぶ。
 紀堂さん、と戸惑ったような声が追ってくる。
 通油町の先の浜町川にかかる緑橋が眼前に迫る。
 橋の上を、数人の集団が傘をさして歩いてきた。仕方なく橋の中程で足を緩めると、小走りの足音が近づいてきた。

「紀堂さん、紀堂さん、待って」

 息を切らして有里が数歩後ろに立つ。

「待ってくださいな。どうして行ってしまうんですか」

 傘もささずに走ってきたせいで、髪や額に細かな雨粒が光って見える。化粧気のない白い頬が火照り、潤んだ両目が傷ついたような表情を浮かべていた。 

「いや、邪魔をしたら悪いかと思ったんだ」

 気が咎めて口ごもると、

「邪魔……? 紀堂さんが邪魔なわけがありません」

 と驚いたように娘が言う。

「そうかい。その……急ぐんだ、悪いね」

 いたたまれず歩きかけて、有里に自分の蛇の目傘を差し出すと、視線が合った。 
 混乱を浮かべる娘の目が紀堂のそれを見詰め、何かを掬い取ったかのように見開かれる。
 朱を刷いたように染まっていた頬から、みるみる血の気が引いていく。

「どうして、そんなことおっしゃるの」

 ぎこちなく、固い声で囁く。

「あ、あの方はうちのお客様です。通油町に、丸尾という醤油問屋さんがございますでしょう。あちらの若旦那さんです。私の従妹ともうすぐ祝言をあげるので、祝宴に花筏のお料理をご注文くださって……兄さんに頼まれて、板前を連れてお台所を拝見しにうかがったんです」

 紀堂は声もなく立ち竦んだ。あの男の顔に浮かんでいた幸福感と高揚は、自分の祝言が近かったからなのだ。それなのに、なんという目で有里を責めたのだ。口に出さずとも、有里は正確にそれを読み取った。どうかしている。どうかしているのだ、俺は。

「いや、違うんだ。江戸橋で前に見かけたもんだから、親しくしている人かと思っただけで……」

 江戸橋、と怪訝そうに瞬きをして、有里は息を飲んだ。

「……あそこにおいでだったんですか? だからですか。あの日は従妹と若旦那さんに屋根舟に誘われたんです。紀堂さんもぜひと勧められましたけれど、お店に伺ってもお留守だったから……あの方とどうにかなんて、そんなはずないじゃありませんか……」

 苦しげに絞り出す声に、目の前が暗くなる。

「わかってる。そんなわけがない。有里さん……」
「いいえ、わかっていません。わかっていらっしゃらない」

 呻くように囁く娘の両目に、涙が盛り上がった。

「ちっとも、わかってません……」
「有里さん」

 頭を抱えたくなった。斬りつけられるような痛みで、息をするのも苦しくてならない。

「すまない……有里さん、わかってる。本当に、すまないと思っている」
「何がですか。もう会いにもきてくださらないこと? 何も言ってくださらないこと?」 

 ますます悲しげに、娘が喘ぐように言う。

「それとも……心変わりなさったこと?」

 ぐいと有里を抱き寄せた。放り出した蛇の目傘が足元でくるくると回る。

「心変わりなんてしていない。本当に、していない」

 胸が固く強張り、懸命に絞り出す声が上ずった。頭ががんがんと鳴り、胸の中で心ノ臓が暴れている。なよやかな娘の体が火のように熱い。顎を手で掬って口付けようとして、有里が身をよじった。驚くほど強い力で腕がふり解かれる。呆然とする紀堂を残し、娘が身を翻して小走りに離れていく。

「──有里さん」

 糸雨の中に溶けていく背中に叫んだ。かたかたと下駄が橋板を鳴らす音が遠ざかる。追いかけようとするのに、足がびくとも動かない。
 追いかけろ、早く追いかけろ、と絶望的な気持ちで己を急き立てた。失ってしまう。駄目になってしまう。それなのに足が動いてくれない。何と言えば。何を話せばいい。わからない。わからない。
 顔を覆って呻いた。
 大切に育ててきた花が、無残に枯れていくのを見ているようだ。
 代々の店主が築いた資産を切り崩して水野家に大金を献上し、石翁に一万両の庭園を進呈し、店を危険に晒しても、なおも何の手がかりも掴めず、それどころか尾形を死なせ、有里さえも失いそうだ。

 いったい、何をしているんだ。

 櫛の歯が抜けるように、大切なものが手から零れ落ちていく。雨に洗い流されるように、逃げていってしまう。
 明るい雨が降っている。橋から滴り落ちる雫が、川面をぴたぴたと叩く音を聞きながら、紀堂はひとり、白い雨の中に取り残されていた。 
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