証なるもの

笹目いく子

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残りの陽

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 翌朝、帳場の奥の座敷で得意客を応接していた紀堂は、話を終えて廊下に出るなり、そこに待ち構えていた藤五郎を見て目を瞠った。藤五郎は、得意先を訪ねるといって朝から他出していたはずだった。

「旦那様、少々お話が……」

 大番頭の冴えない顔色を見て取った紀堂は、小さく頷いて無人の番頭詰所へと入っていく。

「大鳥包の件で、播磨屋を訊ねて参りました。番頭の彦衛門さんが、なかなか捕まりませんで……どうも私から逃げ回っていらしたようです」

 詰所の唐紙を閉じた途端、藤五郎は苦虫を噛み潰したような顔で切り出した。

「じゃあご店主に談判させてもらうと居座ったら、観念してでていらっしゃいましたよ。で……どうも面妖な具合でございました」

 女中が麦湯を運んでくる。藤五郎は一旦口を閉じて女中が去るのを待つと、思案顔で居住まいを正した。

「──小判について言いがかりをつけてきたのは、薩摩島津家だとおっしゃるんです」
「薩摩……」

 また薩摩か。ぎゅっと眉根を寄せる紀堂に、大番頭が小さく首肯する。

「十日ほど前にご家臣が参られて、突然とそのようなことを申されたとか。播磨屋さんは薩摩への大名貸しをここ数年承っておられるそうですが、大鳥包での貸付に問題が生じたことなどなかったそうでございます。数日前にはご家臣がお見えになられ、大鳥屋や旦那様のことを根掘り葉掘りおうかがいであったそうです」
「大鳥屋に用立てを断られた腹いせに、意趣返しでもするつもりか……?」
「あるいは、大鳥屋に不利な噂を流し、低利の貸付をさせようという心積もりなのかもしれません。滅多なことは申せませんが、過日のお役人も強引でしたからね。あり得ないことではないのかも」

 藤五郎がむっつりとして言うのを、薄ら寒い心地で聞いた。薩摩のこの執念深さは、いったい何によるものなのだろうか。

「しばらくの間、店にお顔をお見せになられるのはお控え下さいまし。もし島津家のご家臣がおいでになられても、旦那様はご不在といって通しますので」
「……わかった」 

 淡々と応じながら、胸苦しさに襲われていた。
 まさか、こんなところに問題が生じてくるとは。己が店主の立場を忘れ、なりふり構わず大名貸しに手を出したことが、思わぬ波紋を呼んでいる。
 店主でありながら店を危険に晒している。皆を裏切り、嘘に嘘を重ね、仇討ちに巻き込もうとしている。己のしていることの帰結を、業の深さを、目の前に突きつけられる恐ろしさに身が竦んだ。
 だが、鬼となってでも、何を犠牲にしてでもやり遂げると誓った。そうだろう。
 それなのに、心が、痛みに耐えかねるように呻いていた。

***

 店に顔を出すことを控え、奉公人たちにも島津家家臣に注意するよう申し渡した数日後。
 千川家旧臣を訪ねようと、夕刻、店の敷地の裏手から外へ忍び出た。
 日本橋を歩く間は、念のため手ぬぐいで顔を隠し、江戸橋の袂から舟に乗るとようやく解いた。薩摩には注意しなくてはならないが、だからといって屋敷に篭もっているわけにもいかない。仇討ちから手を引くようにと諭されてはいたが、小島らがどう過ごしているのか気にかかっていた。それに、彼らの顔を見て、自分を奮い立たせたいという気持ちもどこかにあった。
 暮れなずむ空の下、小名木川にかかる高橋の袂の河岸で舟を降りた。川沿いを少し戻り、海辺大工町の裏道に入り、満穂みつほ稲荷の隣の長屋木戸をくぐる。
 両手に長屋が並ぶ路地を歩き出した途端、

「旦那様!」

 という叫び声が飛んできた。
 長着の裾をからげてつんのめるようにして路地を走ってくるのは、差配の松蔵だ。四十絡みの大鳥屋の奉公人で、気働のきく面倒見のよさからこの長屋の管理を任せている。千川家旧臣の事情もよくよく飲み込んでいて、二人の暮らしに不便がないよう、また、滅多な行動に走らぬように目を配っていた。

「どうした?」

 足を早めて近づくと、松蔵が蒼白になった顔に目を吊り上げて呻いた。

「申し訳ございません。尾形様が、尾形様がつい先ほど……」
「尾形様がどうしたんだ?」

 ぎょっとして身を固める紀堂に、

「大鳥屋、相すまぬ……」

 長屋の戸口から声が聞こえてくる。見れば、小島が開いた腰高障子から這い出そうとしている。着物が乱れ、顔に殴られたような跡がいくつも見える。

「どうなさいましたのですか」

 不安に突き動かされて駆け寄ろうとすると、背後で差配が叫んだ。

「小島様を振り切っておでかけになられたそうです。二刀をお持ちになったと……」

 全身の血がざっと下がる。両刀を帯びて出て行った。どこへ、と小島の顔を見下ろした途端、地面が傾いだ気がした。小島の両目が真っ赤に血走り、涙が頬を濡らしていた。

「止めようとしたが、聞かなんだ。柳井めの口を割らせるのだと。あやつはこのところそればかりを考えておった。もう、道理なぞとうに忘れたのだ……」

 小島は飛び出そうとする尾形と激しくもみ合い、体当たりされて折り重なった拍子に肩を脱臼していた。差配は医者を呼びに人をやり、小島を介抱していたところだという。紀堂は数歩後ろによろめいた。夕焼けに染まり始めた空を見上げ、暫時呆然とする。
 それから、身を翻すなり走り出した。
 裏通りを走り抜けて小名木川沿いの通りに飛び出す。家路につく人々や、夕餉の菜を売る棒手振りの間を掻き分け、すり抜け、がむしゃらに進む。途中で気づいて河岸に向かい、猪牙舟に飛び乗った。船頭を急き立て小名木川を東進し、斜陽にぎらぎらと輝く大横川を北上する。赤く染まっていく空を見上げながら、間に合ってくれと何者かに祈った。
 船頭が南割下水近くの船着場に舟を寄せる間ももどかしく、岸に駆け上がった。長着の裾を翻しながら、辻番に見咎められるのも構わず地を蹴った。人もまばらな武家屋敷の立ち並ぶ通りに、自分の息遣いだけが反響している。間に合ってくれと祈りながら、目は激しく揺れる視界に戦いの痕跡を探し、燃えるように熱い耳は、剣戟の音が今にも聞こえてはこないかと感覚を研ぎ澄ませている。
 血のような残照に晒された道の先に、何かが見えた。数人の人影が辻番所の前に集まっている。
 彼らが見下ろす足元に、丸太のようなものが転がっているように見えた。それが柳井対馬守の屋敷の前だと気づいた時、すべてが終わったのだと覚った。
  足が、泥を詰めたように重くなった。
 辻番所の者たちが、四肢を投げ出して仰臥した遺骸を見下ろしている。
 喘ぎながら、足をもつれさせるようにして近づいていくと、男たちが怪訝そうに顔を向けた。

「……何者か。町人が近寄るでない」屈み込んで遺骸を検めていた一人が低く言う。
「不調法ながらお訊ね申します。その……そちらのお方は……」
「その方の見知った者か?」
「わ……わかりませぬ。お許しいただけますならば、お顔を、拝見致したく……」

 うわずった声で訴える紀堂の様子がよほど切羽詰まっていたのだろう。男たちは一瞬顔を見合わせると、咎め立てせず数歩下がった。
 がくりと、遺骸のそばに膝を折った。
 確かめるまでもなかった。尾形の変わり果てた姿が、そこにあった。小袖袴に両刀を帯びた尾形はごろりと仰向けに倒れ、虚ろな半眼で空を睨んでいる。痩せこけた顔は青白く、飛び散った鮮血に塗れている。胸や肩、足にも刀傷があるようだった。左手には、死しても離さぬというように打刀を握り締めている。刀身が血に汚れているのが、誰かを斬ったせいなのか、自分の血で汚れたのか、判然としなかった。

「この浪人、不埒にも柳井対馬守様のお屋敷に押し入ろうとしおったのだ。対馬守様を悪逆非道の卑怯者だとか喚いておった。すぐにご家臣が斬り伏せて、お屋敷の外での出来事ゆえ我らが死体を預かったのよ。じき、町奉行所に引き渡す」
「どうだ。この者に覚えがあるか?」

 男の声に、紀堂はかくりと首を頷かせた。

「……手前の町屋にお住まいのお方でございます」

 改易になった千川家の遺臣であると告げると、男たちは何とも言えぬ表情で顔を見合わせた。

「改易……」
「千川家がお取り潰しとなったことは、耳にしたが……」

 紀堂はごくりと息を飲み込むと、低く訊ねた。

「……柳井様のご家臣は、ご無事であられましたか」
「無論だ。なにしろこやつは片手一本であったからの。まるで相手にもならなかったわ。大事に至らず何よりだった」

 安堵の混じった声が胸を刺す。紀堂はきつく瞼を瞑った。では、尾形は一矢も報いることは叶わなかったのだ。主と若殿の仇にまみえることすら叶わず、虚しくなますに斬られて死んだのだ……。

「ご遺骸は……ご遺骸はお引き渡しが叶いましょうか。このお方にはお身内はございませぬ。当店で手厚くご供養して差し上げたく存じます」
「まぁ、浪人が乱心の末成敗されたというだけのことだ。当人が死んだとなれば、これ以上咎めもなかろう。奉行所を訪ねるのだな」  

 浪人は厳密には武士ではないから、町奉行所にて裁かれるのが普通である。この場合当人は死んでおり、柳井家は尾形を斬り殺した件について申し開きが必要となるが、目撃者も多くある上、抜き身を持って門に押し入ろうとした暴徒を返り討ちにしたのは当然の判断である。簡単な調べで終わるであろうし、死体の引き渡しも許されるであろうと番人が言った。まったく人騒がせな、無謀にもほどがあるわ、と口々に言い合う声が頭上を飛び交う。

「……承知致しました」

 呟いた刹那、視界が歪んだ。
 衝き上げるように溢れた涙が、苦く唇を濡らして滴り落ち、尾形の灰鼠色の袂に点々と染みをつくる。止めようとしても、血のように溢れて止められない。

「尾形様……」

 なぜ待っていてくれなかった、と尾形の体を揺すぶってなじりたかった。きっと仇を見つけだすから堪えてくれと、あれほど懇願したではないか。なぜ、ひとりきりで逝ってしまったのだ。今まで耐えてきたのは、いったい何のためだったのだ。妻と子がいるのではなかったか。なぜ、堪えてくれなかった。なぜ。
 哀れで、哀れで、はらわたがねじ切れそうだった。ぎりぎりと噛み締めた唇から、血の味が広がる。紀堂は濡れた顔をもたげると、ぼろ切れのように横たわった尾形の顔に、ふるえる手を伸ばした。
 虚ろに空を睨む尾形の瞼に、そっと触れる。
 体温のない、弾力の失せた肌の感触に、尾形の魂がもうそこにはいないことを覚る。まだ柔らかい瞼は、紀堂の指に抗うことなくゆっくりと閉じた。
 いつの間にか、番人たちが沈黙し、息をひそめて見下ろしている。
 目を閉じた尾形の顔に、赤い残陽が鋭い陰影を刻んでいた。肉を削り取られたようにやせ衰えたその顔は、悲嘆と怨念から解き放たれかのごとく、静まり返っている。

 もう、苦しむことはない。 

 そう己に言い聞かせながら、また頬に冷たい涙が流れた。
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