証なるもの

笹目いく子

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遠雷

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 白く輝くいたち雲が立ち上がる、黒みがかって見えるほど青い空の下、大川を猪牙舟で渡った。下流の中洲に生い茂る緑の葦がゆらゆらと揺れ、その周りで白い百合鴎の群れが羽を休めているのを、ぼんやりと眺める。不意に、かすかな遠雷を聞いた。視線を上げると、遠くの鼬雲の雲底に、色鮮やかな稲光が閃くのが見えた。

「遠いな。雨にはならんでしょう」

 きい、きい、と櫓を漕ぎながら船頭が背後で言う。ぱっ、ぱっ、と閃く雷光が花火を思わせ、紀堂は空から目を逸らせなかった。
 舟は盛んに大小の舟が行き交う日本橋川を進み、やがて江戸橋の袂に寄せられた。
 重い体を励まして、ようやくのことで舟を降り、雁木を登る。
 川沿いの船着場には、釣り船や荷足舟に混じって、無数の小舟や屋根舟が繋留されている。今日も、夕暮れから涼み舟に乗って大川の花火を鑑賞しようという粋な客で賑わうのだろう。

 少し前の紀堂と有里のように。

 友一郎に投げつけられた猪口のかすかな痛みが、額に蘇った。
 仇討ちを諦めたならば、すぐにでも迎えにいけるだろうに。憎悪と悔恨を胸の奥深くに沈めて、有里を幸福にすることだけを考えていられたら、誰も苦しめずにすむだろうに。
 前から低い掛け声と共にやってくる駕篭があった。のろのろとそれを避け、目を上げた。
 途端、左手に並ぶ船宿の前で談笑する、若い男女の背中が視界に飛び込んでくる。
 女の、見覚えのある臈たけた後ろ姿を凝視する。白い横顔がちらと肩越しに見えた。

(──有里さん)

 心ノ臓がどんと暴れた。
 二階建ての船宿の暖簾の前で、有里が男と親しげに言葉を交わしている。咄嗟に足早に通りすぎようとしかけて、二人の親密そうな様子に足が止まった。
 有里のなだらかな肩が細かくふるえている。
 笑っている、と思った途端、胸の内が焼け爛れるように感じた。
 男は紀堂と同じ年頃か、少し上だろうか。どこかの若旦那かもしれない。黒い絽の羽織に、小紋の長着をさらりと纏った様子は品がよく、ふとした身振りも端正だった。
 浮き立つような昂揚が男の明るい双眸に浮かんで見える。時折えも言われぬ幸福そうな笑みを浮かべるのを見て、鳩尾が岩を飲んだように強張った。こめかみがずきずき脈打ち、思わず両の拳を固めている。
 男が何か言い、有里が歯を零して笑う。
 そのまま男は有里の背中をそっと押し、二人は店の中へと姿を消した。
 ぽっかりと開いた戸口を見詰めて息を止めたまま、動くことができなかった。
 手足が冷たく痺れ、冷たい汗がうなじを這っている。 
 追いかけたらよかったのだ。
 猛烈な後悔に襲われ、紀堂は自分を罵った。
 許嫁に声をかけるのに、どうして躊躇うことがある。偶然だねと話しかけたらよかったのに。そうすれば男が何者であるか、有里が紹介してくれただろうに。男は花筏の常連客で、舟を使いに訪れたところにばったり顔を合わせたのかもしれない。あるいは親類かもわからない。有里の家族と舟遊びに出かけるところであったのかもしれない……
 有里の笑顔が目の前にちらついている。
 あんな風に笑う有里を、久しぶりに見た。気がついたら、もう長いこと有里を笑わせていない。会う度に、不安と悲しみを浮かべた顔ばかりをさせている。
 きりきりと胸が痛み、自責の念ばかりが込み上げる。
 船宿の二階の窓を見上げた。
 船宿の二階は、時に男女の逢引の場にも使われる。
 有里がそんな娘でないことは知っている。逢引なんぞ、断じてない。
 だが、有里の心が離れても仕方がないことをしている。
 開いた二階の障子から、三味線の音色に乗って、笑い声と賑々しい会話がこぼれ落ちてくる。
 逃げるように歩き出した紀堂の耳に、遠雷の低い轟きがいつまでも谺していた。

***

 その夕刻に大番頭を居間へ呼び、信州飯田の話を持ちかけると、藤五郎はしばし面食らっていた。

「はぁ、飯田の生糸取締方でございますか」
「渡りをつけられるか」

 頭の回転の早い大番頭は、一瞬考えてから口を開いた。

「信州飯田の生糸の大半は西陣に流れておりますが、残りは南伝馬町にある生糸商が独占的に仕入れております。そこから口添えを得られるかも知れません。すでに堀家のご用人様にお見知りおきをいただいておりますし、手はございますでしょう」 
「お前さんの覚えのよさには驚かされる」

 紀堂はかすかに笑う。

「……飯田藩が生糸の為替金支払方を探しているそうだ。この役、大鳥屋に欲しい。昨今は清国と英吉利の戦で長崎貿易が滞っているから、生糸の値はうなぎ上りだろう。悪い話じゃないと思うが、お前はどう思う」

 大番頭は紀堂の顔に視線を置き、しばらくの間黙考した。

「……信州飯田の生糸は質がよろしいですし、今後需要は増えるでしょうな。為替金の利子を抑えてでも、お役を得る価値はございますでしょう」
「仲間の旦那さん方が気を悪くなさるかな」
「いえ……貸付ではございませんし、あくまでも支払方でございますから、そのご心配は無用かと思います」
「では決まりだ。さっそく、堀家の生糸取締役方を饗応責めにするとしよう」
「──旦那様。そのお話……どこからお聞きになられましたので?」
「信用できる筋からだ」

 紀堂の端麗な顔に、藤五郎が危惧するような視線を送ってくる。
 唐突な話を不審に思うのも当然だった。石扇にしても、敵対する水野派の内情を探らせようという意図があってこの話をふったのだろう。だが、大和守が千川家に出入りしていたという話は気になる。建議書の件を問いただすためにも、堀家の上級家臣か、あわよくば大和守に接触してみたかった。どんな些細な手がかりであっても手繰ってみる他にないのだ。

「旦那様、例の播磨屋さんの件もございます。今お大名家に近づくのは自重なさったほうがよろしいのでは」
「それはそうだが、商機を逃すのも得策じゃないだろう。大鳥屋の損にはならない話だ」

 頑なな声で付け加えると、

「……承知いたしました」

 大番頭が嘆息まじりに言って立ち上がる。紀堂は去っていく足音を聞きながら瞼を閉じ、眉間を揉んだ。
 気を取り直し、自室へ入って文机に向かうと、鎌倉の野月家へ宛てた文を書こうと筆を取った。
 野月家次男の正馬は諸国を放浪していることも多いから、鎌倉にいるとは限らないのだが、長男の正徳であれば居場所を心得ているかもしれない。
 野月家へは、千川家が悲運に見舞われたことをまだ伝えていなかった。何をどう語ればいいのかわからぬまま、ひと月以上が過ぎてしまっていた。いずれ報せなくてはならないことだったとはいえ、改めて文に認めるのは苦痛を伴う作業だった。
 正馬と対面し、建議書について問うた時、彼は何と答えるのだろうか。それを思う度胸が重苦しくなった。
 疲れていた。ひとりで戦うことに、ひどくんでいた。
 尾形らと心を同じくしていると思っていた時には、これほどまでに己を持て余すことはなかった。
 誰を、何を信じればいいのか。わからぬことばかりが増えていく。ひとりでもやり遂げると腹を括っていたはずなのに、孤独であるということはかくも心を弱くする。
 笑っている有里の、なだらかな肩を思い出す。
 西日に赤く染まった障子の間から、蜩の声が忍び入るのを聞きながら、紀堂は唇を噛み締め筆を持ち直した。 
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