証なるもの

笹目いく子

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石翁との対話(一)

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 それから二日後、紀堂は向島の緑の田園を右手に見ながら、墨堤ぼくていを歩いていた。
 日差しは強く残暑が厳しいが、葉桜がつくる緑陰と、大川から吹いてくる水気を含んだ風のお陰でわずかに過ごしやすく感じられる。堤に沿ってぽつりぽつりと立てられた水茶屋では、白玉入りの冷や水だの砂糖水だのを求める客の姿が見受けられた。大川を見れば、屋根船がつうっと広い水面を漂って行くのが目に入る。簾を下ろした船の内から、かすかに三味線の音が聞こえてきたような気がした。客が芸者でも侍らせているのだろうか。
 天保初年に剃髪して隠居した中野石翁の下屋敷は、向島の墨堤を寺島村へ向かって北上し、古川が大川に合流する辺りに、大川を望んで建っているそうだった。武家や豪商の別荘の庭園と、風光明媚な田園が風流な景観を織りなす中に、石翁の屋敷を見つけるのは容易なことだった。

「あれか……」

 堤の上に突如現れた人の流れを見て、紀堂は思わず嘆息した。正装に身を包んだ武家や商家の者たちが、皆ひとところへと進みながら、長い列を作っているのだ。付け届けの風呂敷包を背負う者、ずしりと重そうな長持ちを幾棹も運ぶ者、ものものしい駕篭に乗り、挟箱持ちや槍持ちを引き連れている者など、引きも切らぬ。周囲を見回せば、石翁詣でを当て込んで進物を売ろうという店や、西瓜だの真桑瓜だのを切り売りする水菓子売りや、冷水や甘酒を売る水茶屋まで立っている。
 まさに詣で客といったところだ。神仏に寄進するよりも、よほど加護があると見込んでいるのだろうか。そんなことを考えながら列の最後尾に立つと、

「進みませんなぁ」
「左様ですねぇ。いやはや、このまま日干しになってしまいそうですよ」

 などと、紀堂の前に並んでいる二人のお店者がしきりと漏らすのが聞こえてきた。
 黒羽織の身なりからすると双方共に番頭であろうか。風呂敷包みを背負った小僧も連れている。

「あの門の遠いことといったら。こりゃあ、昼飯は抜きかなぁ……」

 鼻の頭にびっしりと汗を浮かせながら、黒羽織の男が列の先頭を透かし見る。

「いやいや、今日は少ない方ですよ。なんたってこの暑さですからな」

 暇を持て余しているらしい別のお店者が、扇子で顔を扇ぎながら話に加わった。
 ええっ、と二人の番頭が顎を落としそうになっている後ろで、紀堂も思わず目を剥く。

「私なんて先日ようやく門前に辿り着いたと思ったら、音物だけ受け取って後日出直せと、こうですよ」
「なんとまぁ。血も涙もございませんな」

 と一人が呻く。

「そいつは勘弁願いたいもんですなぁ。付け届けだけを取り上げられた挙句にご尊顔も拝せずに帰ったら、うちの旦那さんにどやされちまいます」

 もう一人の嘆き節を聞きながら、紀堂はもう一度門を遠目に眺めた。
 あの風流な門へ辿り着くまでに、どれほどの時がかかるのか想像もつかなかった。ひとりひとりの付け届けを受け取り、あるいは突き返し、屋敷に招き入れ、あわよくば主に謁しとなると、気の遠くなるような時を要するのではなかろうか。
 だが、こんなところに一日中突っ立って、待ちぼうけを食わされている暇はないのだ。ならば、と紀堂は門に据えた目を細めた。向こうが会いたくなるようにしてやるまでだ。
 紀堂は黒羽織を翻してすたすたと歩き出した。行列を横目に見ながら門へ向かい、門番らしき男を見つけて近付いていく。

「もし、卒爾ながらお訊ね致しますが……」
「何だ、列の後ろは向こうじゃ。それ、行った行った」

 ぞんざいに顎をしゃくる男は、自らが石翁御大であるかのように奢った目つきで紀堂を見上げた。

「それは承知してございます。が、手前は大殿様にお訊ね申し上げたい儀がございまして伺いました。寸の間お目にかかり、ほんの一言二言、お言葉を賜れれば充分なのでございまして……」
「それなら大人しく並んでおれ。順を乱すことは許さぬ」
「いや、それが火急の事態にございますれば」
「くどい! 商人ごときにいちいちかかずらっておるほど我らが主は暇ではない。不満であればとっとと失せよ」

 男が脇差に手を掛けながら目を吊り上げた。

「何事だ」

 取り次ぎの家士であろうか、羽織袴の痩せた侍が、厳しい眼光を両目に浮かべながら門の内から現れる。
 周囲の客が何事かと視線を寄越すのを尻目に、紀堂は平然として侍に頭を下げた。

「日本橋大鳥屋店主の紀堂にございます。本日は大殿様にお目通りを願いたく……」
「ええい、黙らんか、この痴れ者!」
「このような場で騒ぎを起こすことは許さぬ。早々に立ち去れ」

 門番がますますいきり立つ隣で、侍が冷やかに声を落として言うと、数人の侍がひたひたと門の内から歩み出てくる。殺伐とした目をした屈強の男たちが、それぞれ左手を打刀の鍔元に置くのを見て、周囲の客が緊張するのを感じた。

「石翁様の門前をお騒がせするのは本意ではございません。ただちに立ち去りますので、せめて、心ばかりの品のみお納め下さいませんでしょうか? まこと稀有のものなれば、是非とも石翁様に献上致したく……」
「その方、空手ではないか。一体何を進呈すると申すのだ」

 男の目が疑念と好奇心とを浮かべる。

「はぁ、庭園をひとつばかり……」
「何だと?」
「ほんの五千坪あまりの屋敷でございます。が、玉泉園ぎょくせんえんと呼ばれる庭園を有してございますれば、大殿様のお眼鏡に叶うのではあるまいかと愚慮致しました」
「なに、ぎょ、玉泉園……?」

 男があんぐりと目と口を開いた。大鳥屋が目白台に有する玉泉園と言えば、豪商や大身旗本から譲ってくれという依頼が度々舞い込む名園だ。風流人であればおよそ知らぬ者はない。中野石扇の家臣を名乗る者が、譲渡を求めて義父に接触してきたこともあったと聞いた。時価一万両を越えると言われる名園を手土産に訪れた大鳥屋店主を、侍は絶句して見詰めた。
 玉泉園は義父から相続したもので、紀堂個人の資産である。したがって処分は紀堂の裁量に委ねられているのだが、音に聞こえた名園を手土産にするなどというのは、尋常の沙汰ではなかった。
 だが、相手は金銀が蔵に溢れ、高価な音物なぞ見飽きているはずの石翁だ。財政難に喘ぐ水野家のような弱みがない。紀堂が訪ねたところで、目通りが叶うかどうかも怪しかった。何か、石翁をも驚かせる音物が必要だった。
 代々の大鳥屋店主が築いた富を切り崩すことに、罪悪感が胸を刺す。だが、使えるものはすべて使う。江戸橋広小路の夜、そう腹を括った。 

「持参致しかねるものゆえ、沽券状のみにて手ぶらで参りました無礼をお許し下さいまし。何卒、大殿様へよしなにお伝え下さいませぬでしょうか」

 白く整った顔に艶冶な笑みを浮かべ、顔を寄せて囁いた。侍は魅入られたように息を詰め、棒立ちになっている。すらりと瀟洒な出で立ちに、鼻筋高く通り、眉目は描いたように艶やかで、黒目勝ちの澄み切った瞳は魂を抜くかの如く幻想的で抗いがたい。男も女も色めき立つ、暴力的なまでの己の容姿の威力を、紀堂は存分に行使した。

「──し……しばし、待て」

 紀堂の顔に吸い付けられるように視線を置いたまま、侍はごくりと喉を鳴らした。そしてじりじりと後ずさり、泳ぐようにして門の内へと消えて行った。
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