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密談(一)
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白々と輝く障子の外で、鹿威しが、かたり、と小さな音を立てた。
十二畳ほどの書院は清澄な明かりに満ち、御殿は無人なのではないかと思われるほど静まり返って感じられる。
襖の外で家士が低く声をかけるのを聞いて、紀堂は畳に両手をついて深々と平伏した。
上座に近い襖のひとつが音もなく滑るのを感じた。無駄のない足取りで入ってきた人の立てる、かすかな衣擦れの音が耳に届く。
「──大鳥屋紀堂、近う寄れ」
仄暗い書院に重々しい声が響くのを、平伏したまま聞いた。
顔を伏せたままじりじりと膝行し、その場に叩頭する。
「もそっと近う」
厳かな声が再び命じる。さらに数歩膝行し、じっと畳の目を見下ろす。
「──面を上げよ」
数拍の間を置いてゆっくりと顔を半ばまで上げると、一間ほど先の上座に坐った男の膝頭が見えた。
「苦しゅうない。面を上げい」
もう一度促されてから、ようやく視線を相手の顔まで持ち上げる。
遠江浜松水野家公用人の一人である牧田幾右衛門が、一重瞼の鋭く切れ上がった、巌のような眼差しでこちらを見下ろしていた。
「……大鳥屋店主五代目紀堂にございます。此度は一介の町人に過ぎぬ卑しい身でありながら、畏れ多くもご公用人様へのお目通りを許されましたこと、身に余る光栄と恐懼致してございます」
澄んだ両目を綻ばせ、清涼極まる声で優雅に述べると、牧田が引き締まった顎を引き、眩しげに目を細めた。
暫時その美貌に目を奪われた様子の公用人が、はっと瞬きする。眉間に力を入れながら、ぐっと肩を張って威儀を正す。
「……勝手方勘定らより委細は聞き及んでおる。金五千両の用立て、誠に大義である。今後の貢献の次第によっては、永々苗字帯刀を許すと共に、留守居格を与えることもやぶさかではない」
「有難き幸せにございます」
紀堂は慎み深く目を伏せて両手をつき、畳に額を擦り付けるようにして頭を下げる。
「畏れながら、大鳥屋家訓に「国の用を達することこそ真の商人」というものがございます。越前守様のご仁政がいよいよ天下に施されようという当節に、当店がわずかばかりのお力添えを添えられますならば、これほど商人の本懐に適う喜びはございませぬ」
牧田が、うむ、と喉で唸る。
「殊勝な心がけ、大義である。この困難多き時世に、我が殿のご知徳は向後ますます大政に重きを増し、天下のご政道に欠かさざるお方となられるであろう。……時流を読むのに長けておるのは、名にし負う大商人の故であろうか。お家へのかような忠節は必ず報われようから、心安んじて励むがよい」
揶揄するような笑いが語尾に混じった。当家に擦り寄っておれば安泰であるぞ、とでも言いたいところなのだろう。老中首座となった水野越前守忠邦の家中にあれば、飛ぶ鳥を落とす勢いの主の昇格に舞い上がるのも無理はない。ことに藩財政が未曾有の危機にあるからには、家臣の期待もいや増すのに違いなかった。
四十七にして老中首座の地位を得て、将軍の傍らで権力の頂点を極めるという青雲の志を果たすことに邁進する越前守は、領地替えにはじまるなりふり構わぬ猟官運動に湯水のごとく金をつぎ込んで来た。天保二年からは国元から毎年七千両の送金を命じているとかで、藩庫は既に底をつく有様であるという。その直後の天保の大飢饉が更なる追い討ちをかけ、国元では侍も百姓も食うや食わずの状況にあると聞き及んでいた。
水野家は領民に対して高利の金を無理やり貸し付け、利鞘かせぎをしていると聞く。その上、御用金や無尽講の名のもとに農民から多額の金を上納させており、領民の反感は強まるばかりであるらしい。未だ政敵の多い越前守は、派閥を固めるためにこれまで以上の金子を必要としているが、火の車の国元から届くのは金子ではなく悲憤慷慨の声ばかりなのだ。
その水野家の鼻先に、大鳥屋は五千両という大金をぶら下げた。しかも、年利は上方商人の場合一割程度が相場だが、紀堂は一割を切る利息を提示した。水野家の勝手方が飛びつかぬわけがなかった。
このような諸藩への多額の貸付を大名貸しと呼ぶが、大鳥屋の家憲は元来これを戒めている。大名家が相手となれば担保は取れぬし、最悪の場合踏み倒しもあり得る上に、町人の身では恨み言も言えぬ立場である。文字通りの丸損となるのだ。水野家に対する低利の貸付には番頭衆から疑問の声が強かったし、紀堂も平素であれば一蹴したであろう取引だった。
だが、水野越前守には是が非でも接触しなくてはならぬと決めていた。そのためには手段は問わない。金が回収不能となることも承知の上である。
家憲に背き、両替商の店主としてあるまじき無謀な取引に手を出すのだからと、自身の資産から元手を出し、大鳥屋の資金には手をつけなかった。それでも代々の店主の教えに反する行いであるし、番頭衆と藤五郎は当然紀堂の行動を危惧した。だが、大名貸しはこれきりであるという紀堂の説得に、最後にはしぶしぶながら納得したのだった。
五千両を融通するのと引き換えに、紀堂は水野家勝手方にある要求をした。ぜひとも水野老中の公用人に拝謁し、取引成立のお礼を申し上げたいと願ったのである。水野家は両替商ごときを公用人に目通りさせるのは、と当初渋ったが、金と紀堂の美貌と巧みな懇願により、家老からの許しを得たのだった。
「仰せの通りにございます。何卒、よしなにお引き回しのほどをお願い申し上げます」
紀堂は淡く輝くような微笑を浮かべて応じると、少しの間を置いてから、
「……牧田様」
と表情を改める。
「うむ」
「実は、牧田様に折り入って伺いたき儀がございますのですが、お許しを賜れましょうか」
「──許す。何か」
牧田がかすかに顔色を変えた。まさか気が変わって、出資を取りやめるなどと言い出すのではあるまいな、と言いたげに目の光が鋭くなる。
「文月に高家の千川様がお取り潰しとなった件についてお伺いしたく存じます。近頃、気になる噂を耳に挟みましたのでございます。無礼とは存じますものの、真偽のほどをお尋ね致したく」
「千川家の……」
牧田の両目からすっと表情が消えた。
「ご改易の件については承知しておる。で……噂とは、どのような噂か」
は、と紀堂は恐縮する。
「この度の千川様への処罰には……ご閣老様のどなたかから、内密のご下命があったらしいと聞き及びましてございます」
「何? それはいかなる意味か」
牧田が濃い眉をぎっと吊り上げた。
「は。つまり……ご当主様のみならず、お跡継様までもが討ち取られたというのは……」
「ご老中の格別のご存念によるものだと申すのか」
男の声がざらりと不穏なものを浮かべる。
「──つまり、月番老中でおられた我が殿がそれを命じたと」
「噂にございますれば……」
紀堂が平伏すると、公用人は唸るように大きく息を吐いた。
老中の命によるという噂は、でっち上げだ。千川家の襲撃のあった文月、月番老中を務めていたのが水野越前守忠邦であることは突き止めていた。だがそれ以上のことは掴めていない。
高家を火盗改に襲わせるなどという無法を実行できるのは、老中や若年寄ら宿老か、西丸派の重臣たちくらいしかおらぬはずだ。徳川家斉は天保八年に家慶に将軍職を譲ったものの、大御所として西丸に君臨し幕政の実権を握り続けており、西丸派と呼ばれる側近らは権勢を恣にしていた。そうであれば、可能性のある者を片端から調べ上げていくまでだ。金に糸目はつけない。どこまでも執拗に追い詰めて、必ず暴き出してやると心に決めた。
水野家に接近するために、紀堂は藤五郎ら番頭衆を押し切って、浜松水野家の江戸留守居役や勝手方役人を饗応した。音物だろうと女だろうと惜しみなく与え、手を変え品を変え泣き所を探った。やがて信用を得た紀堂に、財政難に喘ぐ役人から御用金の融資の話が持ちかけられたのだった。
すべては、水野家の上級家臣に接近するため。そして牧田の怒りを買うのは覚悟の上で、このような問いをぶつけた。
かたり、とまた鹿威しの虚ろな音が聞こえる。
「──そのようなこと、何故その方が気にかけるのだ?」
ややあって、牧田がゆっくりと問うた。
「町人の身で差し出がましいこととは承知の上にございますが……」
紀堂は身を縮めながらも、静かに応じる。
「当店は長年に渡り、千川様に出入りを許されてございました。先代である父も、私も、お殿様はじめご家中の方々にはひとかたならぬご恩を受けて参りました。お家取り潰しの報せにには茫然自失するばかりでございまして、今も胸が引き裂かれるような思いが致します。お上のなさりようにもの申すつもりなど微塵もございませぬ。しかし、もし噂が真であったとしたら、と心穏やかではおれませぬのです。このような乱れた心持ちでお家にご奉公させていただきますことは、心苦しゅう存じまする」
牧田の顔が、ことの次第を飲み込んで、かすかに苦いものを浮かべたようだった。
「千川家出入りか……」独り言のように繰り返す。
「商人の分際でおこがましいにも程がある……と斬り捨てられる覚悟があって申しておるのだろうな?」
ずばりと訊かれ、紀堂は畏まった。
「牧田様は越前守様の懐刀との聞こえも高い、沈着冷静のお方と存じますれば、ご容赦を賜りたいものでございます」
ふん、と公用人の男は横を向く。老中の公用人にこのような問いを投げかけること自体無礼の極致なのだが、五千両と紀堂の美貌が牧田の心を和らげているらしい。無論紀堂は、それを見越して行動に及んでいる。
水野家御用達の肩書きも留守居格も紙屑のようなものだ。五千両の見返りに欲しいものは、この問いへの答えだった。そのためだけに大金の媚薬を嗅がせたのだ。隠密でもない以上は、水野家に忍び込んで水野老中を直接問い詰めるわけにもいかない。絡め手を様々に駆使するより他になかった。
息を殺して俯く紀堂の耳に、障子の外で庭木を騒がせる風の音が朧げに聞こえてくる。
懐深くに飲んだ、合口拵えの短刀の存在を意識する。
獲物を追うと決めた日から、父の龍笛ではなくそれを肌身離さず帯びるようになった。そして、十四で大鳥屋の養子に入った時に蔵に納めていた両刀を持ち出して、朝夕鍛錬に打ち込むようになっていた。
野月家次男の正馬から、伊達に鍛えられてはいなかった。筋力のなさは早期に補えるものではないが、技は体に叩き込まれている。いざとなれば、仇の懐に飛び込んで刺し違えるくらいはしてみせる。常にそう思いながら短刀を懐に飲んでいた。
「……伊予守様とは、いかなるお方であったか」
不意に、牧田が奇妙に遠い声で尋ねた。
「は、お殿様にございますか」
紀堂は数度瞬きすると、すっと遠い視線を宙に置く。
「ご立派なお方でおられました。……清廉でおられ、風雅を愛するお方でございました。私のような商家にも親しくお声をおかけ下さり、譜代の家臣のごとく情をおかけくださいましたものです。笙と笛の名手でおられまして、手前が拝謁します際にはよく披露してくださいました。書画にも秀でておられ、古典籍の写本はお城の奥向きでも上方の名筆に劣らぬと評判であったとか。
奥様とも連理の枝のごとく仲睦まじくおられました。遊興や放蕩とは無縁の、およそ欲というもののないお方でおられました。……畏れながら、お上のお膝元で騒乱を企むような浅慮のお方ではあられなかったと、今でも思料してございます」
ぽつりぽつりと低く語る声に、牧田が耳を澄ましているのが感じられる。
老中の公用人の眼前でぬけぬけと天下の大罪人を賛美するとは何事か、と怒るのであればそれもいい。水野老中の側近がいかなる反応を示すのか、知りたいのはそこなのだ。
言葉を切った紀堂が牧田の横顔を無言で見詰めると、男は障子の外の風の音に耳を傾けるようにしながら、ゆっくりと口を開く。
「──ご高家きってのご名跡を汲む千川家が、かような不始末を引き起こしたこと、我が殿は甚だ遺憾に思っておられる」
紀堂は無意識に息を止めた。
「たとえご高家といえども、公方様のご威光を損なう所業は赦し難し。あまつさえ、火盗改方の命に従わず、これに歯向かった由、万死に値する行いである」
染み一つない青年の白い面に、黒い影がゆらめくように過るのを、牧田は気づきもしなかっただろう。
能面のような顔を紀堂に向け、「……だが」と牧田は淡々と続けた。
「ご当主とご嫡子が、申し開きも許されずに討ち取られたことは無念である、と殿は仰せでおられた」
紀堂は身動ぎもせず、ただ両目を見開いた。
「また、畏れ多くも公方様と大御所様より思し召しあり、ご家門の存続について密かにご下問があれども、時すでに遅く、お血筋が絶えたことは如何ともし難かった」
胸の内に、深い嘆息が広がっていく。
──そうか……。
緊張が解け、思わず瞼をぐっと瞑る。
「これで、満足か」
瞼を開くと、公用人が背筋を伸ばしてこちらを見下ろしていた。
鋼のような目をした男の顔に、わずかな追惜の表情が漂っているのが見えた気がする。
「牧田様。ご厚情に、心から感謝申しあげまする」
深々と頭を下げると、無音の書院に鹿威しの音だけが遠く響いた。
十二畳ほどの書院は清澄な明かりに満ち、御殿は無人なのではないかと思われるほど静まり返って感じられる。
襖の外で家士が低く声をかけるのを聞いて、紀堂は畳に両手をついて深々と平伏した。
上座に近い襖のひとつが音もなく滑るのを感じた。無駄のない足取りで入ってきた人の立てる、かすかな衣擦れの音が耳に届く。
「──大鳥屋紀堂、近う寄れ」
仄暗い書院に重々しい声が響くのを、平伏したまま聞いた。
顔を伏せたままじりじりと膝行し、その場に叩頭する。
「もそっと近う」
厳かな声が再び命じる。さらに数歩膝行し、じっと畳の目を見下ろす。
「──面を上げよ」
数拍の間を置いてゆっくりと顔を半ばまで上げると、一間ほど先の上座に坐った男の膝頭が見えた。
「苦しゅうない。面を上げい」
もう一度促されてから、ようやく視線を相手の顔まで持ち上げる。
遠江浜松水野家公用人の一人である牧田幾右衛門が、一重瞼の鋭く切れ上がった、巌のような眼差しでこちらを見下ろしていた。
「……大鳥屋店主五代目紀堂にございます。此度は一介の町人に過ぎぬ卑しい身でありながら、畏れ多くもご公用人様へのお目通りを許されましたこと、身に余る光栄と恐懼致してございます」
澄んだ両目を綻ばせ、清涼極まる声で優雅に述べると、牧田が引き締まった顎を引き、眩しげに目を細めた。
暫時その美貌に目を奪われた様子の公用人が、はっと瞬きする。眉間に力を入れながら、ぐっと肩を張って威儀を正す。
「……勝手方勘定らより委細は聞き及んでおる。金五千両の用立て、誠に大義である。今後の貢献の次第によっては、永々苗字帯刀を許すと共に、留守居格を与えることもやぶさかではない」
「有難き幸せにございます」
紀堂は慎み深く目を伏せて両手をつき、畳に額を擦り付けるようにして頭を下げる。
「畏れながら、大鳥屋家訓に「国の用を達することこそ真の商人」というものがございます。越前守様のご仁政がいよいよ天下に施されようという当節に、当店がわずかばかりのお力添えを添えられますならば、これほど商人の本懐に適う喜びはございませぬ」
牧田が、うむ、と喉で唸る。
「殊勝な心がけ、大義である。この困難多き時世に、我が殿のご知徳は向後ますます大政に重きを増し、天下のご政道に欠かさざるお方となられるであろう。……時流を読むのに長けておるのは、名にし負う大商人の故であろうか。お家へのかような忠節は必ず報われようから、心安んじて励むがよい」
揶揄するような笑いが語尾に混じった。当家に擦り寄っておれば安泰であるぞ、とでも言いたいところなのだろう。老中首座となった水野越前守忠邦の家中にあれば、飛ぶ鳥を落とす勢いの主の昇格に舞い上がるのも無理はない。ことに藩財政が未曾有の危機にあるからには、家臣の期待もいや増すのに違いなかった。
四十七にして老中首座の地位を得て、将軍の傍らで権力の頂点を極めるという青雲の志を果たすことに邁進する越前守は、領地替えにはじまるなりふり構わぬ猟官運動に湯水のごとく金をつぎ込んで来た。天保二年からは国元から毎年七千両の送金を命じているとかで、藩庫は既に底をつく有様であるという。その直後の天保の大飢饉が更なる追い討ちをかけ、国元では侍も百姓も食うや食わずの状況にあると聞き及んでいた。
水野家は領民に対して高利の金を無理やり貸し付け、利鞘かせぎをしていると聞く。その上、御用金や無尽講の名のもとに農民から多額の金を上納させており、領民の反感は強まるばかりであるらしい。未だ政敵の多い越前守は、派閥を固めるためにこれまで以上の金子を必要としているが、火の車の国元から届くのは金子ではなく悲憤慷慨の声ばかりなのだ。
その水野家の鼻先に、大鳥屋は五千両という大金をぶら下げた。しかも、年利は上方商人の場合一割程度が相場だが、紀堂は一割を切る利息を提示した。水野家の勝手方が飛びつかぬわけがなかった。
このような諸藩への多額の貸付を大名貸しと呼ぶが、大鳥屋の家憲は元来これを戒めている。大名家が相手となれば担保は取れぬし、最悪の場合踏み倒しもあり得る上に、町人の身では恨み言も言えぬ立場である。文字通りの丸損となるのだ。水野家に対する低利の貸付には番頭衆から疑問の声が強かったし、紀堂も平素であれば一蹴したであろう取引だった。
だが、水野越前守には是が非でも接触しなくてはならぬと決めていた。そのためには手段は問わない。金が回収不能となることも承知の上である。
家憲に背き、両替商の店主としてあるまじき無謀な取引に手を出すのだからと、自身の資産から元手を出し、大鳥屋の資金には手をつけなかった。それでも代々の店主の教えに反する行いであるし、番頭衆と藤五郎は当然紀堂の行動を危惧した。だが、大名貸しはこれきりであるという紀堂の説得に、最後にはしぶしぶながら納得したのだった。
五千両を融通するのと引き換えに、紀堂は水野家勝手方にある要求をした。ぜひとも水野老中の公用人に拝謁し、取引成立のお礼を申し上げたいと願ったのである。水野家は両替商ごときを公用人に目通りさせるのは、と当初渋ったが、金と紀堂の美貌と巧みな懇願により、家老からの許しを得たのだった。
「仰せの通りにございます。何卒、よしなにお引き回しのほどをお願い申し上げます」
紀堂は淡く輝くような微笑を浮かべて応じると、少しの間を置いてから、
「……牧田様」
と表情を改める。
「うむ」
「実は、牧田様に折り入って伺いたき儀がございますのですが、お許しを賜れましょうか」
「──許す。何か」
牧田がかすかに顔色を変えた。まさか気が変わって、出資を取りやめるなどと言い出すのではあるまいな、と言いたげに目の光が鋭くなる。
「文月に高家の千川様がお取り潰しとなった件についてお伺いしたく存じます。近頃、気になる噂を耳に挟みましたのでございます。無礼とは存じますものの、真偽のほどをお尋ね致したく」
「千川家の……」
牧田の両目からすっと表情が消えた。
「ご改易の件については承知しておる。で……噂とは、どのような噂か」
は、と紀堂は恐縮する。
「この度の千川様への処罰には……ご閣老様のどなたかから、内密のご下命があったらしいと聞き及びましてございます」
「何? それはいかなる意味か」
牧田が濃い眉をぎっと吊り上げた。
「は。つまり……ご当主様のみならず、お跡継様までもが討ち取られたというのは……」
「ご老中の格別のご存念によるものだと申すのか」
男の声がざらりと不穏なものを浮かべる。
「──つまり、月番老中でおられた我が殿がそれを命じたと」
「噂にございますれば……」
紀堂が平伏すると、公用人は唸るように大きく息を吐いた。
老中の命によるという噂は、でっち上げだ。千川家の襲撃のあった文月、月番老中を務めていたのが水野越前守忠邦であることは突き止めていた。だがそれ以上のことは掴めていない。
高家を火盗改に襲わせるなどという無法を実行できるのは、老中や若年寄ら宿老か、西丸派の重臣たちくらいしかおらぬはずだ。徳川家斉は天保八年に家慶に将軍職を譲ったものの、大御所として西丸に君臨し幕政の実権を握り続けており、西丸派と呼ばれる側近らは権勢を恣にしていた。そうであれば、可能性のある者を片端から調べ上げていくまでだ。金に糸目はつけない。どこまでも執拗に追い詰めて、必ず暴き出してやると心に決めた。
水野家に接近するために、紀堂は藤五郎ら番頭衆を押し切って、浜松水野家の江戸留守居役や勝手方役人を饗応した。音物だろうと女だろうと惜しみなく与え、手を変え品を変え泣き所を探った。やがて信用を得た紀堂に、財政難に喘ぐ役人から御用金の融資の話が持ちかけられたのだった。
すべては、水野家の上級家臣に接近するため。そして牧田の怒りを買うのは覚悟の上で、このような問いをぶつけた。
かたり、とまた鹿威しの虚ろな音が聞こえる。
「──そのようなこと、何故その方が気にかけるのだ?」
ややあって、牧田がゆっくりと問うた。
「町人の身で差し出がましいこととは承知の上にございますが……」
紀堂は身を縮めながらも、静かに応じる。
「当店は長年に渡り、千川様に出入りを許されてございました。先代である父も、私も、お殿様はじめご家中の方々にはひとかたならぬご恩を受けて参りました。お家取り潰しの報せにには茫然自失するばかりでございまして、今も胸が引き裂かれるような思いが致します。お上のなさりようにもの申すつもりなど微塵もございませぬ。しかし、もし噂が真であったとしたら、と心穏やかではおれませぬのです。このような乱れた心持ちでお家にご奉公させていただきますことは、心苦しゅう存じまする」
牧田の顔が、ことの次第を飲み込んで、かすかに苦いものを浮かべたようだった。
「千川家出入りか……」独り言のように繰り返す。
「商人の分際でおこがましいにも程がある……と斬り捨てられる覚悟があって申しておるのだろうな?」
ずばりと訊かれ、紀堂は畏まった。
「牧田様は越前守様の懐刀との聞こえも高い、沈着冷静のお方と存じますれば、ご容赦を賜りたいものでございます」
ふん、と公用人の男は横を向く。老中の公用人にこのような問いを投げかけること自体無礼の極致なのだが、五千両と紀堂の美貌が牧田の心を和らげているらしい。無論紀堂は、それを見越して行動に及んでいる。
水野家御用達の肩書きも留守居格も紙屑のようなものだ。五千両の見返りに欲しいものは、この問いへの答えだった。そのためだけに大金の媚薬を嗅がせたのだ。隠密でもない以上は、水野家に忍び込んで水野老中を直接問い詰めるわけにもいかない。絡め手を様々に駆使するより他になかった。
息を殺して俯く紀堂の耳に、障子の外で庭木を騒がせる風の音が朧げに聞こえてくる。
懐深くに飲んだ、合口拵えの短刀の存在を意識する。
獲物を追うと決めた日から、父の龍笛ではなくそれを肌身離さず帯びるようになった。そして、十四で大鳥屋の養子に入った時に蔵に納めていた両刀を持ち出して、朝夕鍛錬に打ち込むようになっていた。
野月家次男の正馬から、伊達に鍛えられてはいなかった。筋力のなさは早期に補えるものではないが、技は体に叩き込まれている。いざとなれば、仇の懐に飛び込んで刺し違えるくらいはしてみせる。常にそう思いながら短刀を懐に飲んでいた。
「……伊予守様とは、いかなるお方であったか」
不意に、牧田が奇妙に遠い声で尋ねた。
「は、お殿様にございますか」
紀堂は数度瞬きすると、すっと遠い視線を宙に置く。
「ご立派なお方でおられました。……清廉でおられ、風雅を愛するお方でございました。私のような商家にも親しくお声をおかけ下さり、譜代の家臣のごとく情をおかけくださいましたものです。笙と笛の名手でおられまして、手前が拝謁します際にはよく披露してくださいました。書画にも秀でておられ、古典籍の写本はお城の奥向きでも上方の名筆に劣らぬと評判であったとか。
奥様とも連理の枝のごとく仲睦まじくおられました。遊興や放蕩とは無縁の、およそ欲というもののないお方でおられました。……畏れながら、お上のお膝元で騒乱を企むような浅慮のお方ではあられなかったと、今でも思料してございます」
ぽつりぽつりと低く語る声に、牧田が耳を澄ましているのが感じられる。
老中の公用人の眼前でぬけぬけと天下の大罪人を賛美するとは何事か、と怒るのであればそれもいい。水野老中の側近がいかなる反応を示すのか、知りたいのはそこなのだ。
言葉を切った紀堂が牧田の横顔を無言で見詰めると、男は障子の外の風の音に耳を傾けるようにしながら、ゆっくりと口を開く。
「──ご高家きってのご名跡を汲む千川家が、かような不始末を引き起こしたこと、我が殿は甚だ遺憾に思っておられる」
紀堂は無意識に息を止めた。
「たとえご高家といえども、公方様のご威光を損なう所業は赦し難し。あまつさえ、火盗改方の命に従わず、これに歯向かった由、万死に値する行いである」
染み一つない青年の白い面に、黒い影がゆらめくように過るのを、牧田は気づきもしなかっただろう。
能面のような顔を紀堂に向け、「……だが」と牧田は淡々と続けた。
「ご当主とご嫡子が、申し開きも許されずに討ち取られたことは無念である、と殿は仰せでおられた」
紀堂は身動ぎもせず、ただ両目を見開いた。
「また、畏れ多くも公方様と大御所様より思し召しあり、ご家門の存続について密かにご下問があれども、時すでに遅く、お血筋が絶えたことは如何ともし難かった」
胸の内に、深い嘆息が広がっていく。
──そうか……。
緊張が解け、思わず瞼をぐっと瞑る。
「これで、満足か」
瞼を開くと、公用人が背筋を伸ばしてこちらを見下ろしていた。
鋼のような目をした男の顔に、わずかな追惜の表情が漂っているのが見えた気がする。
「牧田様。ご厚情に、心から感謝申しあげまする」
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