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鬼(二)
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それから間もなくして、千川広忠と広衛の磔刑は撤回されたという報せを受けた。
遺骸は本家である大沢家に引き渡されたが、葬儀を許されることはなかった。温厚質実で風雅を愛した広忠と、父に似て楽に秀でた、溌剌とした少年であった広衛は、正室お永や家臣に見送られることもなく、大沢家家人の立会いの下、菩提寺である本駒込の吉祥寺にひっそりと弔われたのだった。
千川家は一番町に上屋敷を、中屋敷は持たずに本所に下屋敷を構えていたが、どちらも収公された。
名跡であった千川家は潰えた。
跡形も残さずに。
境家老を除く千川家家臣は禁固刑を解かれ、主家を失った悲嘆の中離散して行った。
紀堂は行き場のない五名の家臣を、自身が江戸に所有するいくつかの町屋に受け入れた。彼らの多くは、身内に累が及ばぬとも限らぬ、と妻子はもとより親兄弟とも関わりを絶っていた。
千川家にて用人を務めていた尾形元二郎も、その一人だった。
尾形の衰弱があまりにも激しく、町屋にすぐ入れるような状態では無かったため、紀堂はまず彼を大鳥屋の母屋に運び込み、回復に努めてもらったのだった。男は食を絶っていたことからやせ衰え、死人のような土気色の顔をしていた。母屋にはもう一人、同じく用人の小島豊太郎がおり、こちらも負傷の程度は深刻だったが、尾形はそれに輪をかけてひどい有様だった。しかし、生ける屍のようになりながらも彼は枕元に紀堂を呼び、憑かれたように襲撃の日のことを語りたがった。
「──彼奴らの刀は刃引きされておらなんだ。火盗改どもは、初めから殿と若殿を弑する心づもりであったのだ……」
夜着の上に力なく投げ出された尾形の両腕には、あるべきはずの右手がなかった。あの襲撃の夜、火付盗賊改方と斬り合った際、右手首を切り落とされた上、六尺棒で滅多打ちにされ肋骨を四本折られていた。他の家臣と共に堀家にお預となった際には、白目を剥いたまま一晩中呻きつづけ、そのまま事切れるのではないかと皆が危ぶんだそうだった。
堀家は尾形ら家臣を手荒くは扱わなかったが、境のみ別室に隔離し、他の家臣は三つの座敷にまとめて閉じ込めてあり、医師の手当ても行き届かなかった。もっとも、藩主が若年寄を務めているとはいえ、信州飯田はわずか二万石の小藩である。十分な手当てをと思ったところで資力が足らなかったに違いない。大鳥屋から潤沢な支援を融通されると、堀家はすぐに腕のいい蘭医を複数呼び入れ家臣の治療に当たらせた。それが功を奏したのか、絶食と負傷で瀕死の状態にあった尾形はどうにか命を拾ったのだった。
「あの夜、外が騒がしいと門番が知らせにきた時には、屋敷は篝火ですっかり取り囲まれておった」
無精髭に被われた顎を動かし、嗄れた声で続ける。
「ご公儀の御用とあらば門を開かぬわけには参らぬと、殿は仰せであった。開門して彼奴らが雪崩れ込むと、殿は刀を取って奥からお出ましになられた」
広忠は家臣を従え御殿表へ出ると、騎馬のまま門内に押し入ってきた捕物装束の柳井対馬守作左衛門の前に進み出て、
「これはいかなる狼藉であろうか。当家が火盗改方の詮議を受ける謂れはない。ただちに委細を弁明せよ」
と鋭く声を張り上げた。
「千川伊予守広忠、神妙に致せ」
陣笠の影にぎらりと両目を光らせた柳井が傲然と呼び捨てるのを聞いて、広忠と家臣団は青ざめた顔をいっそう青くした。
広忠は従四位下侍従の高家衆だ。対する柳井は先手頭として従五位下左京亮を叙勲され、後に父親の官名対馬守を継いでいるが、本来町奉行よりも格下だ。その柳井が高家の邸内に押し入った上、当主を馬上から呼び捨てにするなど、気が触れたとしか思われぬ暴挙だった。
「火盗改ごときが無礼な!」
「貴様、どなたに向かって物申しておるのだ!」
激怒する家臣団を睥睨し、柳井は胴間声で言い放つ。
「その方と嫡男広衛には、無頼者を扇動し、恐れ多くも公方様のお足元にて騒擾を引き起こそうと企んだと既に調べが着いておる。高家衆の任にありながらかような悪徳極まる乱行、まことに許し難し!」
一瞬、場がしんと静まり返り、ぱちぱちと篝火の爆ぜる音ばかりが静寂を埋めた。誰もが呆気に取られ、己が耳を疑っていた。
「……左様な嫌疑は根も葉もない言いがかりである。私は逃げも隠れもせぬ故、まずは御目付を差し向けるが順であろう。さすれば我が身と広衛の潔白を容易に証明して見せよう」
恥辱に頬を強張らせ、それでも平静な声で広忠が応じると、馬上の男は白い歯をぞろりと覗かせた。
「嫌疑ではない。すでに吟味は済んでおるのだ」
途端、柳井の両脇の同心ら捕方たちが抜刀した。白い焔のような冷たい光に、広忠たちは顔色を変えた。通常、捕物では相手を殺さぬよう、刃をひいて切れ味を鈍らせた刀を用いる。だがあれは、どう見ても刃びきをしてある捕物用ではない。
それを合図にしたかのように他の者たちも抜刀し、あるいは刺股や搦め手を無言のまま構える。殺気を隠さぬ、金気臭いきりきりとした緊張が膨れ上がっていく。
「貴様……」
火盗改の意図を覚り、広忠は見開いた両目に驚愕と怒りを浮かべて呻いた。
「殿、危のうござる!」
「お下がりくださいませ!」
家臣団が叫びながら前庭に走り出て、次々に刀を抜く。尾形をはじめとする用人たちも、抜き身を引っさげ広忠の前に飛び出す。
「そなたたち、ここはよい。奥へ行け。広衛とお永を守れ!」
広忠が抜刀しながら命じた途端、極限まで張り詰めた緊張が破れた。
捕方たちが、黒い波となって襲いかかってきた。
文官である町奉行や与力同心らとは違い、火盗改は番方の御先手組から構成される。戦時においては先鋒を務める精鋭部隊であれば、抜刀すらおぼつかぬような昨今の武士とはわけが違う手練れ揃いだ。千川家がいかに文武を怠らぬ家風とはいえ、高家の家臣の歯が立つ相手ではなかった。まして、家臣の大半が床に就いていた時刻である。皆辛うじて打刀や脇差、あるいは槍を掴んで来たが、寝間着や長着の者ばかりで、ろくな武装もしていない。だが、当主と若殿、正室を守ろうと、家臣団は死に物狂いで戦った。そうして虫けらのごとく切り刻まれ、叩き潰されていった。
広忠は沈着で物腰柔らかな人物であったが、周りを固めていた近習小姓のほとんどが殺された後も、捕方三人を斬り伏せる見事な武者ぶりを見せた。しかし、手練の同心に背中から袈裟懸けに斬られ、さらに正面から脾腹を貫かれると、白い寝間着を裾まで真紅に染めて、足元に血溜まりを作りながらどうと斃れた。
柳井は馬上から、その一部始終を冷ややかな目で眺めていた。
殿、殿、という絶叫と号泣が、温い闇夜を切り裂くように喧騒の中に響き渡ったのを、尾形は敵と斬り結びながら聞いた。
倒れ伏した当主の元へ駆けつけようとする家士たちが、背後から易々と斬られ、あるいは首を刎ねられるのを見る。
おびただしい鮮血があちらこちらで砂利敷きの庭を染め、澄んだ夜の空気に血と腸の臭いをまき散らす。捕方たちの獰猛な目が、松明の明かりをぎらぎらと映しながら獲物を探し求めている。
尾形は一瞬の虚脱に棒立ちになると、腹の底から狂気のごとき雄叫びをあげた。血と脂で鈍った剣を振りかざし、眼前の捕方に襲いかかっていった。右手首を切り落とされたが、左手一本で脾腹を突き刺し、そのまま地面に縫い付けて仕留めた。喚き声を上げながらもう一人に体当たりして腹を貫く。肩を斬られた気がするが、痛みなど感じなかった。口から血をばっと吐き出す男を蹴倒しながら、「若殿を守れ、若殿を守れ!」と声を嗄らして叫んだ。
数名の家臣と共に広衛の元へ駆けつけようと、修羅のごとく戦った。だが六尺棒の先で背中を痛打された上、はげしく打ち据えられて倒れこむと、もう動くことができなかった。
朦朧とした尾形には、倒れ伏してからもなお、捕方たちに六尺棒で代わる代わる殴打される激痛は、すでに感じられなかった。
これは夢に違いない。
打たれる度に視界が乱暴に揺さぶられ、暗くなっていく。喉から口へと血がこみ上げ、唇から溢れ出たようだった。霞む両目に、累々と転がり、踏みつけられている家臣の骸が映る。その奥に、広忠の真紅に染まった遺骸が横たわっているはずだった。
血と悲鳴に汚れた夜は、醒めない悪夢のごとく、終わりがないように思われた。
──早く、醒めろ。早く、目覚めなくては。早く、早く……
主の方へ左手を虚しく伸ばした尾形は、やがて血の泡を吹きながら失神した。
紀堂に語り終えると、落ち窪んで血走った両目を天井に向けた尾形は、がちがちと歯を鳴らしながら呻いた。
「背後で糸を引いた者さえ判ったならば、地の果てであろうとも必ず首を取りにいくものを……」
本石町の時鐘の音が虚ろに響いている。
紀堂はよろめきながら尾形の寝間を出ると、赤い夕日に晒された庭に出た。
蝉声が耳をつんざく。何もかもが、鮮血をぶちまけたかのような真紅に染まって見えた。
吐き気を催すような血の臭いの中を、泳ぐように歩く。
足元が定まらず、ぐらぐらと視界が揺れている。
背後で藤五郎が「旦那様」と声をかけるのを聞いた気がした。
けれども紀堂には、血塗られたような空しか目に入っていなかった。
蝉の悲痛な鳴き声が、断末魔の悲鳴のように谺し、ぶつりと途絶えた。
……父上。広衛。
空を仰いで呻いた刹那、何かが決壊したかのように激情が突き上げ、紀堂の視界を黒く塗り潰した。
──おのれ。
おのれ、おのれ……!
煮え滾るように熱いものが両目に溢れ、頬を伝っている。
あれは、我が父と、血を分けた弟だった。互いに名乗り合えずとも、武家と町人であろうとも、それでも。
なぜ、こんな風に奪われねばならないのだ。なぜ……
枯死したような虚無が広がる身のうちに、突如、野火のごとき炎が走った。炎は燎原の火のように燃え広がり、天を焦がすばかりに燃え盛った。
父上。
広衛。
身を引き裂くように膨れ上がる憎悪が、絶望を凌駕する。手負いの、激怒にのたうつ獣が出口を求めて腹の中を暴れ狂っている。耳の奥でごうごうと鳴る血潮の音を聞きながら、紀堂は火を吹くように胸の内で咆哮した。
(──許さぬ)
激情が内側から骨を軋ませ、肉を突き破り、己を人ではない、何か他のものへと変貌させていくのを感じる。
千川家が旗本奴ばりの徒党を組んで騒擾を企てるなど、馬鹿げているにもほどがある。事実無根の汚名を広忠と広衛に着せて、家門を滅ぼしたのはなぜだ。誰がこのような悪逆無道を企てたのだ。
(許さぬ。決して、許さぬ)
呪詛を吐き出し、血と暴力を求める醜悪な生き物に、紀堂は進んで己を明け渡していた。
──狩りだ。
冷たい昂揚に身をわななかせ、紀堂は底光りする両目をまだ見ぬ獲物に据えた。
狩って、狩って、追い詰めて、この手で首をねじ切ってくれる。
生きたまま八つ裂きにして、この世の地獄を見せてくれる。
憎悪と憤怒の黒い炎が渦巻く闇が、目の前に広がっている。地獄のようなその闇に躊躇なく足を踏み入れていきながら、紀堂はすべてを焼き尽くそうとする、どす黒い火炎そのものになっていた。
遺骸は本家である大沢家に引き渡されたが、葬儀を許されることはなかった。温厚質実で風雅を愛した広忠と、父に似て楽に秀でた、溌剌とした少年であった広衛は、正室お永や家臣に見送られることもなく、大沢家家人の立会いの下、菩提寺である本駒込の吉祥寺にひっそりと弔われたのだった。
千川家は一番町に上屋敷を、中屋敷は持たずに本所に下屋敷を構えていたが、どちらも収公された。
名跡であった千川家は潰えた。
跡形も残さずに。
境家老を除く千川家家臣は禁固刑を解かれ、主家を失った悲嘆の中離散して行った。
紀堂は行き場のない五名の家臣を、自身が江戸に所有するいくつかの町屋に受け入れた。彼らの多くは、身内に累が及ばぬとも限らぬ、と妻子はもとより親兄弟とも関わりを絶っていた。
千川家にて用人を務めていた尾形元二郎も、その一人だった。
尾形の衰弱があまりにも激しく、町屋にすぐ入れるような状態では無かったため、紀堂はまず彼を大鳥屋の母屋に運び込み、回復に努めてもらったのだった。男は食を絶っていたことからやせ衰え、死人のような土気色の顔をしていた。母屋にはもう一人、同じく用人の小島豊太郎がおり、こちらも負傷の程度は深刻だったが、尾形はそれに輪をかけてひどい有様だった。しかし、生ける屍のようになりながらも彼は枕元に紀堂を呼び、憑かれたように襲撃の日のことを語りたがった。
「──彼奴らの刀は刃引きされておらなんだ。火盗改どもは、初めから殿と若殿を弑する心づもりであったのだ……」
夜着の上に力なく投げ出された尾形の両腕には、あるべきはずの右手がなかった。あの襲撃の夜、火付盗賊改方と斬り合った際、右手首を切り落とされた上、六尺棒で滅多打ちにされ肋骨を四本折られていた。他の家臣と共に堀家にお預となった際には、白目を剥いたまま一晩中呻きつづけ、そのまま事切れるのではないかと皆が危ぶんだそうだった。
堀家は尾形ら家臣を手荒くは扱わなかったが、境のみ別室に隔離し、他の家臣は三つの座敷にまとめて閉じ込めてあり、医師の手当ても行き届かなかった。もっとも、藩主が若年寄を務めているとはいえ、信州飯田はわずか二万石の小藩である。十分な手当てをと思ったところで資力が足らなかったに違いない。大鳥屋から潤沢な支援を融通されると、堀家はすぐに腕のいい蘭医を複数呼び入れ家臣の治療に当たらせた。それが功を奏したのか、絶食と負傷で瀕死の状態にあった尾形はどうにか命を拾ったのだった。
「あの夜、外が騒がしいと門番が知らせにきた時には、屋敷は篝火ですっかり取り囲まれておった」
無精髭に被われた顎を動かし、嗄れた声で続ける。
「ご公儀の御用とあらば門を開かぬわけには参らぬと、殿は仰せであった。開門して彼奴らが雪崩れ込むと、殿は刀を取って奥からお出ましになられた」
広忠は家臣を従え御殿表へ出ると、騎馬のまま門内に押し入ってきた捕物装束の柳井対馬守作左衛門の前に進み出て、
「これはいかなる狼藉であろうか。当家が火盗改方の詮議を受ける謂れはない。ただちに委細を弁明せよ」
と鋭く声を張り上げた。
「千川伊予守広忠、神妙に致せ」
陣笠の影にぎらりと両目を光らせた柳井が傲然と呼び捨てるのを聞いて、広忠と家臣団は青ざめた顔をいっそう青くした。
広忠は従四位下侍従の高家衆だ。対する柳井は先手頭として従五位下左京亮を叙勲され、後に父親の官名対馬守を継いでいるが、本来町奉行よりも格下だ。その柳井が高家の邸内に押し入った上、当主を馬上から呼び捨てにするなど、気が触れたとしか思われぬ暴挙だった。
「火盗改ごときが無礼な!」
「貴様、どなたに向かって物申しておるのだ!」
激怒する家臣団を睥睨し、柳井は胴間声で言い放つ。
「その方と嫡男広衛には、無頼者を扇動し、恐れ多くも公方様のお足元にて騒擾を引き起こそうと企んだと既に調べが着いておる。高家衆の任にありながらかような悪徳極まる乱行、まことに許し難し!」
一瞬、場がしんと静まり返り、ぱちぱちと篝火の爆ぜる音ばかりが静寂を埋めた。誰もが呆気に取られ、己が耳を疑っていた。
「……左様な嫌疑は根も葉もない言いがかりである。私は逃げも隠れもせぬ故、まずは御目付を差し向けるが順であろう。さすれば我が身と広衛の潔白を容易に証明して見せよう」
恥辱に頬を強張らせ、それでも平静な声で広忠が応じると、馬上の男は白い歯をぞろりと覗かせた。
「嫌疑ではない。すでに吟味は済んでおるのだ」
途端、柳井の両脇の同心ら捕方たちが抜刀した。白い焔のような冷たい光に、広忠たちは顔色を変えた。通常、捕物では相手を殺さぬよう、刃をひいて切れ味を鈍らせた刀を用いる。だがあれは、どう見ても刃びきをしてある捕物用ではない。
それを合図にしたかのように他の者たちも抜刀し、あるいは刺股や搦め手を無言のまま構える。殺気を隠さぬ、金気臭いきりきりとした緊張が膨れ上がっていく。
「貴様……」
火盗改の意図を覚り、広忠は見開いた両目に驚愕と怒りを浮かべて呻いた。
「殿、危のうござる!」
「お下がりくださいませ!」
家臣団が叫びながら前庭に走り出て、次々に刀を抜く。尾形をはじめとする用人たちも、抜き身を引っさげ広忠の前に飛び出す。
「そなたたち、ここはよい。奥へ行け。広衛とお永を守れ!」
広忠が抜刀しながら命じた途端、極限まで張り詰めた緊張が破れた。
捕方たちが、黒い波となって襲いかかってきた。
文官である町奉行や与力同心らとは違い、火盗改は番方の御先手組から構成される。戦時においては先鋒を務める精鋭部隊であれば、抜刀すらおぼつかぬような昨今の武士とはわけが違う手練れ揃いだ。千川家がいかに文武を怠らぬ家風とはいえ、高家の家臣の歯が立つ相手ではなかった。まして、家臣の大半が床に就いていた時刻である。皆辛うじて打刀や脇差、あるいは槍を掴んで来たが、寝間着や長着の者ばかりで、ろくな武装もしていない。だが、当主と若殿、正室を守ろうと、家臣団は死に物狂いで戦った。そうして虫けらのごとく切り刻まれ、叩き潰されていった。
広忠は沈着で物腰柔らかな人物であったが、周りを固めていた近習小姓のほとんどが殺された後も、捕方三人を斬り伏せる見事な武者ぶりを見せた。しかし、手練の同心に背中から袈裟懸けに斬られ、さらに正面から脾腹を貫かれると、白い寝間着を裾まで真紅に染めて、足元に血溜まりを作りながらどうと斃れた。
柳井は馬上から、その一部始終を冷ややかな目で眺めていた。
殿、殿、という絶叫と号泣が、温い闇夜を切り裂くように喧騒の中に響き渡ったのを、尾形は敵と斬り結びながら聞いた。
倒れ伏した当主の元へ駆けつけようとする家士たちが、背後から易々と斬られ、あるいは首を刎ねられるのを見る。
おびただしい鮮血があちらこちらで砂利敷きの庭を染め、澄んだ夜の空気に血と腸の臭いをまき散らす。捕方たちの獰猛な目が、松明の明かりをぎらぎらと映しながら獲物を探し求めている。
尾形は一瞬の虚脱に棒立ちになると、腹の底から狂気のごとき雄叫びをあげた。血と脂で鈍った剣を振りかざし、眼前の捕方に襲いかかっていった。右手首を切り落とされたが、左手一本で脾腹を突き刺し、そのまま地面に縫い付けて仕留めた。喚き声を上げながらもう一人に体当たりして腹を貫く。肩を斬られた気がするが、痛みなど感じなかった。口から血をばっと吐き出す男を蹴倒しながら、「若殿を守れ、若殿を守れ!」と声を嗄らして叫んだ。
数名の家臣と共に広衛の元へ駆けつけようと、修羅のごとく戦った。だが六尺棒の先で背中を痛打された上、はげしく打ち据えられて倒れこむと、もう動くことができなかった。
朦朧とした尾形には、倒れ伏してからもなお、捕方たちに六尺棒で代わる代わる殴打される激痛は、すでに感じられなかった。
これは夢に違いない。
打たれる度に視界が乱暴に揺さぶられ、暗くなっていく。喉から口へと血がこみ上げ、唇から溢れ出たようだった。霞む両目に、累々と転がり、踏みつけられている家臣の骸が映る。その奥に、広忠の真紅に染まった遺骸が横たわっているはずだった。
血と悲鳴に汚れた夜は、醒めない悪夢のごとく、終わりがないように思われた。
──早く、醒めろ。早く、目覚めなくては。早く、早く……
主の方へ左手を虚しく伸ばした尾形は、やがて血の泡を吹きながら失神した。
紀堂に語り終えると、落ち窪んで血走った両目を天井に向けた尾形は、がちがちと歯を鳴らしながら呻いた。
「背後で糸を引いた者さえ判ったならば、地の果てであろうとも必ず首を取りにいくものを……」
本石町の時鐘の音が虚ろに響いている。
紀堂はよろめきながら尾形の寝間を出ると、赤い夕日に晒された庭に出た。
蝉声が耳をつんざく。何もかもが、鮮血をぶちまけたかのような真紅に染まって見えた。
吐き気を催すような血の臭いの中を、泳ぐように歩く。
足元が定まらず、ぐらぐらと視界が揺れている。
背後で藤五郎が「旦那様」と声をかけるのを聞いた気がした。
けれども紀堂には、血塗られたような空しか目に入っていなかった。
蝉の悲痛な鳴き声が、断末魔の悲鳴のように谺し、ぶつりと途絶えた。
……父上。広衛。
空を仰いで呻いた刹那、何かが決壊したかのように激情が突き上げ、紀堂の視界を黒く塗り潰した。
──おのれ。
おのれ、おのれ……!
煮え滾るように熱いものが両目に溢れ、頬を伝っている。
あれは、我が父と、血を分けた弟だった。互いに名乗り合えずとも、武家と町人であろうとも、それでも。
なぜ、こんな風に奪われねばならないのだ。なぜ……
枯死したような虚無が広がる身のうちに、突如、野火のごとき炎が走った。炎は燎原の火のように燃え広がり、天を焦がすばかりに燃え盛った。
父上。
広衛。
身を引き裂くように膨れ上がる憎悪が、絶望を凌駕する。手負いの、激怒にのたうつ獣が出口を求めて腹の中を暴れ狂っている。耳の奥でごうごうと鳴る血潮の音を聞きながら、紀堂は火を吹くように胸の内で咆哮した。
(──許さぬ)
激情が内側から骨を軋ませ、肉を突き破り、己を人ではない、何か他のものへと変貌させていくのを感じる。
千川家が旗本奴ばりの徒党を組んで騒擾を企てるなど、馬鹿げているにもほどがある。事実無根の汚名を広忠と広衛に着せて、家門を滅ぼしたのはなぜだ。誰がこのような悪逆無道を企てたのだ。
(許さぬ。決して、許さぬ)
呪詛を吐き出し、血と暴力を求める醜悪な生き物に、紀堂は進んで己を明け渡していた。
──狩りだ。
冷たい昂揚に身をわななかせ、紀堂は底光りする両目をまだ見ぬ獲物に据えた。
狩って、狩って、追い詰めて、この手で首をねじ切ってくれる。
生きたまま八つ裂きにして、この世の地獄を見せてくれる。
憎悪と憤怒の黒い炎が渦巻く闇が、目の前に広がっている。地獄のようなその闇に躊躇なく足を踏み入れていきながら、紀堂はすべてを焼き尽くそうとする、どす黒い火炎そのものになっていた。
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