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広彬(一)
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視界いっぱいに、荒れ狂う暗い海がひろがっている。
砕け散る波頭と、渦を巻いて流れる灰色の雲。そこにきりもみしながら数羽の鴎が舞っている。あれは生まれ育った鎌倉の海だ。嵐の日に長谷村の屋敷を抜け出し、由比ヶ浜で海風と雨に煽られ、ずぶ濡れになりながら見た冬の景色だ。
猛烈な風が四方八方から吹きつけては、小さな体を翻弄する砂に突き倒そうとする。切れるような烈風に晒された耳朶がひりひり痛み、風にもぎ取られてしまいそうだ。黒々と渦を巻く雲間に時折稲光が走っては、地を割るばかりのすさまじい雷鳴を轟かせる。
風と海鳴りを体に受け、吹き飛ばされまいと足に力を篭める。そうして濡れた冷たい砂を裸足で掴みながら、しぶきを上げて雪崩落ちる壁のような波を、魅入られた心地で凝視していた。
広彬が己の幼かった頃を思い出す度、まっさきに眼前に蘇るのは、その荒れ狂う海の景色だった。
父母は江戸の武家の方々で、父が千川という名家の当主であるらしいとは聞き及んでいた。だが、生まれ落ちてから十四になるまで、父と見えたこともなければ、江戸へ足を踏み入れたことすらなかった。
母は紫野といい、蝉鬢蛾眉の浮世離れした美貌の持ち主であったという。二十二の時に鎌倉で広彬を生むと、産後の肥立ちが悪く一月と経たずに亡くなった。以来、広彬は儒学者の野月正国と、その家人の手に委ねられたのだった。
長谷村の外れに鄙びた屋敷を構える正国は小田原の武家の出自で、幼名を鶴之助と名づけられた広彬は、正国の二人の息子たちやその妻に見守られ大切に育てられた。
己が人目を憚らねばならぬ存在であることは、物心がつく頃には悟っていた。繊細で賢い子供であったから、己の出自について深く詮索してはならないような空気を感じ取り、野月の家人に深く訊ねることはしなかった。
千川家からは便りがあったことなどないし、家人が訪ねてきたこともなかった。日本橋の大店である大鳥屋から店主の四代目紀堂や大番頭──当時は藤五郎の父の平五郎が大番頭で、藤五郎は本店の番頭だった──がわざわざ出向いてきては、暮らしに不足がないか気を配っていることも不可解ではあった。己は捨て子か、あるいは不義の子か何かなのであろうか、と幾度も疑ったものだ。
九つの時、父と正室の間に弟が生まれたと正国から聞かされた時には、何とも言えぬ奇妙な心地に襲われた。直太郎という幼名の、腹違いの弟。千川家の嫡子となるのはその直太郎であることを、正国は静かに広彬──当時の鶴之助──に説いた。
「お寂しいでしょう。遣る瀬無いことでしょう。しかし、お父上様をお恨みしてはなりませぬ。千川家にはどうあってもご正室とご嫡子があらねばなりません。どれほどお殿様があなた様を愛おしんでおられようとも、ご嫡子としてお迎えになることは叶いませぬのです」
暖かな東風に乗って、終わりかけの桜の花弁が座敷に舞い込んでいた。うらうらと午後の日が照り渡り、雲雀がどこかで囀っている。還暦に近い年の正国は、大柄な体をきちんと正し、少しかすれ気味の、しかしよく響く声でそう説いた。
「……お恨み申し上げてなど、おりませぬ」
澄んだ双眸で正国を見上げ、端座した鶴之助は淡々と答える。
「先生や、正徳先生や正馬先生がおられますゆえ、寂しいことなどありませぬ」
正国の長男・正徳は三十半ばの学識豊かで篤実な男で、正国の後を継いで儒学者となり、学問を教えてくれる。妻の琴は優れた書家で、鶴之助に手ほどきをしては筋がいいと褒めてくれた。次男の正馬は二十と若いが傑出した武芸の才で知られ、ふらりと旅に出てしまう風来坊ではあったが、鎌倉に戻ると必ず稽古をつけてくれていた。
寂しくなど、ない。
それに、と桜の枝に舞い降りた雲雀を見上げながら続ける。
「私が嫡子になろうなどとは、夢にも思っておりません」
母に瓜二つだという、九つにして尋常ならざる秀麗さで人を圧倒する面差しには、すでに大人の分別が漂っている。否応なしに、身につけねばならなかった分別だ。抑揚のない声で言い切る鶴之助に、正国はただ痛ましげな深い眼差しを注いでいた。
九つの鶴之助には鎌倉すらもその広さが杳として計り知れなかったし、江戸となれば徳川将軍の御座す巨大な都であるという以外に想像が及ばなかった。そこに暮らす千川家の家人がいかなる暮らしを送っているのかなど、もはや月人の暮らしを思い描くようなものだ。その家を継ぐことに至っては、まるでお伽話としか思われなかった。千川家の人々を恋しく思っても、それは幼い想像の上に想像を重ねた人々でしかなく、地上から月を慕うのと大差ない心持ちだったのだ。
しかし、弟が家督を継ぐとなれば、己はなんのために存在するのだろうか。
まっさらな布に墨を落としたように、ふとそんな考えが心に浮かんだ。零れた思いは染みとなり、じわじわと広がっていく。そして鶴之助がいくらそれを洗い流そうと試みても、消し去ることができなかった。
砕け散る波頭と、渦を巻いて流れる灰色の雲。そこにきりもみしながら数羽の鴎が舞っている。あれは生まれ育った鎌倉の海だ。嵐の日に長谷村の屋敷を抜け出し、由比ヶ浜で海風と雨に煽られ、ずぶ濡れになりながら見た冬の景色だ。
猛烈な風が四方八方から吹きつけては、小さな体を翻弄する砂に突き倒そうとする。切れるような烈風に晒された耳朶がひりひり痛み、風にもぎ取られてしまいそうだ。黒々と渦を巻く雲間に時折稲光が走っては、地を割るばかりのすさまじい雷鳴を轟かせる。
風と海鳴りを体に受け、吹き飛ばされまいと足に力を篭める。そうして濡れた冷たい砂を裸足で掴みながら、しぶきを上げて雪崩落ちる壁のような波を、魅入られた心地で凝視していた。
広彬が己の幼かった頃を思い出す度、まっさきに眼前に蘇るのは、その荒れ狂う海の景色だった。
父母は江戸の武家の方々で、父が千川という名家の当主であるらしいとは聞き及んでいた。だが、生まれ落ちてから十四になるまで、父と見えたこともなければ、江戸へ足を踏み入れたことすらなかった。
母は紫野といい、蝉鬢蛾眉の浮世離れした美貌の持ち主であったという。二十二の時に鎌倉で広彬を生むと、産後の肥立ちが悪く一月と経たずに亡くなった。以来、広彬は儒学者の野月正国と、その家人の手に委ねられたのだった。
長谷村の外れに鄙びた屋敷を構える正国は小田原の武家の出自で、幼名を鶴之助と名づけられた広彬は、正国の二人の息子たちやその妻に見守られ大切に育てられた。
己が人目を憚らねばならぬ存在であることは、物心がつく頃には悟っていた。繊細で賢い子供であったから、己の出自について深く詮索してはならないような空気を感じ取り、野月の家人に深く訊ねることはしなかった。
千川家からは便りがあったことなどないし、家人が訪ねてきたこともなかった。日本橋の大店である大鳥屋から店主の四代目紀堂や大番頭──当時は藤五郎の父の平五郎が大番頭で、藤五郎は本店の番頭だった──がわざわざ出向いてきては、暮らしに不足がないか気を配っていることも不可解ではあった。己は捨て子か、あるいは不義の子か何かなのであろうか、と幾度も疑ったものだ。
九つの時、父と正室の間に弟が生まれたと正国から聞かされた時には、何とも言えぬ奇妙な心地に襲われた。直太郎という幼名の、腹違いの弟。千川家の嫡子となるのはその直太郎であることを、正国は静かに広彬──当時の鶴之助──に説いた。
「お寂しいでしょう。遣る瀬無いことでしょう。しかし、お父上様をお恨みしてはなりませぬ。千川家にはどうあってもご正室とご嫡子があらねばなりません。どれほどお殿様があなた様を愛おしんでおられようとも、ご嫡子としてお迎えになることは叶いませぬのです」
暖かな東風に乗って、終わりかけの桜の花弁が座敷に舞い込んでいた。うらうらと午後の日が照り渡り、雲雀がどこかで囀っている。還暦に近い年の正国は、大柄な体をきちんと正し、少しかすれ気味の、しかしよく響く声でそう説いた。
「……お恨み申し上げてなど、おりませぬ」
澄んだ双眸で正国を見上げ、端座した鶴之助は淡々と答える。
「先生や、正徳先生や正馬先生がおられますゆえ、寂しいことなどありませぬ」
正国の長男・正徳は三十半ばの学識豊かで篤実な男で、正国の後を継いで儒学者となり、学問を教えてくれる。妻の琴は優れた書家で、鶴之助に手ほどきをしては筋がいいと褒めてくれた。次男の正馬は二十と若いが傑出した武芸の才で知られ、ふらりと旅に出てしまう風来坊ではあったが、鎌倉に戻ると必ず稽古をつけてくれていた。
寂しくなど、ない。
それに、と桜の枝に舞い降りた雲雀を見上げながら続ける。
「私が嫡子になろうなどとは、夢にも思っておりません」
母に瓜二つだという、九つにして尋常ならざる秀麗さで人を圧倒する面差しには、すでに大人の分別が漂っている。否応なしに、身につけねばならなかった分別だ。抑揚のない声で言い切る鶴之助に、正国はただ痛ましげな深い眼差しを注いでいた。
九つの鶴之助には鎌倉すらもその広さが杳として計り知れなかったし、江戸となれば徳川将軍の御座す巨大な都であるという以外に想像が及ばなかった。そこに暮らす千川家の家人がいかなる暮らしを送っているのかなど、もはや月人の暮らしを思い描くようなものだ。その家を継ぐことに至っては、まるでお伽話としか思われなかった。千川家の人々を恋しく思っても、それは幼い想像の上に想像を重ねた人々でしかなく、地上から月を慕うのと大差ない心持ちだったのだ。
しかし、弟が家督を継ぐとなれば、己はなんのために存在するのだろうか。
まっさらな布に墨を落としたように、ふとそんな考えが心に浮かんだ。零れた思いは染みとなり、じわじわと広がっていく。そして鶴之助がいくらそれを洗い流そうと試みても、消し去ることができなかった。
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