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大鳥屋五代目紀堂(一)
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現し世に、地獄が現れたとしか思えなかった。ここが地獄でないのだとしたら、他にどんな地獄があるというのか。
千川家襲撃の凶報を知らされた直後、店の母屋を飛び出し番町へ向かおうとした紀堂を、大番頭の藤五郎は必死に押しとどめた。
「お屋敷は混乱を極めております。集まっていた野次馬が捕縛されたとも聞きました。今お出でになってはなりません!」
縁側から庭に落ちてもみ合う二人を見て、女中たちが悲鳴をあげ、番頭や手代らが飛んでくる。
放せ、放せ、と我を忘れて絶叫しながら、顔といわず体といわず殴りつけた気がするが、藤五郎は死に物狂いでしがみついて放さなかった。
「行かせるな、行かせてはならん!」
髷を乱し、顔と着物を泥で汚した大番頭がすさまじい剣幕で叫ぶのを見て、奉公人たちはどっと殺到した。そして、手負いの獣のように暴れる紀堂を、どうにか押さえつけたのだった。
旦那様、旦那様、と叫びながらのしかかる奉公人たちの下で、紀堂は土を噛みながら唸り、身悶えし、やがて身を裂くような声を放って慟哭した。
平素ならば、取り乱すことはおろか、激することも滅多とない若店主だった。その穏やかな主の狂乱ぶりに、奉公人の誰もが青ざめ、言葉を失くしていた。
苦痛に苛まれているかのような嗚咽が、咆哮のごとくほとばしる。それは、爆ぜるような蝉の声をもかき消して、緑の滴る庭にいつまでも響き渡っていた。
翌日になって、ようやく千川家を訪れた時には、立っていられるのが不思議なほどに憔悴が極まっていた。どのようにして日本橋本町まで帰り着いたのか、覚えていない。半ば朦朧として自室に座り込んだ紀堂は、もう動くこともできなかった。
時が意味を失くし、昼も夜も体を素通りしていく。座り込んだまま幾日が過ぎたのかさえ、もはやわからなかった。寝食なぞとうに忘れ、他の一切を顧みなくなっていた。ただ呆然と虚空を見詰め、一管の笛を納めた錦の袋を懐に潜ませて、片時も離さなかった。
かろうじて紀堂を現し世につなぎとめていたのは、理由を知りたいという、その一念だった。
何が、あった。あの夜、千川家はなぜ襲撃を受けねばならなかった? 当主の広忠も嫡男広衛も、旗本奴ばりの騒擾を企てるような方々ではない。断じて、ない。何者がそんな罪をでっち上げた。なぜ千川が標的とされたのだ。
……なぜ。なぜ。なぜ。
泥のような放心状態から這い上がると、紀堂は憑かれたように情報を求めはじめた。
店の見聞方に命じて探らせる一方、公儀の上級役人に接触してどんな情報でも得ようと試みた。金に糸目はつけなかった。紀堂が自ら出向き、数十両、場合によっては数百両を惜しげもなく差しだし、畳に額を擦り付けながら懇願したこともあった。焦げるような日差しに耐えながら門前に跪き、屋敷の主の帰還を終日待ち構えたこともあった。
美貌と名高い若い店主の容貌は、瞬く間に青白く窶れた。常ならば温厚さと生真面目さを浮かべていた瞳には、熱病のような妄執と、凍えるような虚無ばかりが青白い燐火のように揺らめいていた。
有里とは、あれ以来言葉を交わすどころか、まともに顔も合わせていない。
一度は、江戸橋の側を歩いていて偶然出くわしたことがあった。
「紀堂さん」と鈴をふるような声で呼びとめられた紀堂は、数拍の間を置いて立ち止まり、魂の抜けた目を娘に投げた。公儀役人の元へ向かうため、舟を使おうとしていたところだった。頭の中はそのことでいっぱいで、絶え間なく胸を炙る焦燥と煩悶で視界が狭く、暗くなったように感じられる。愛して止まない娘が、己の異様な表情に驚いて目を瞠った姿さえ、薄暗い膜を隔てているかのように遠かった。
何か、言わなくては。何か。しかし頭の中は混沌が渦を巻き、笑みさえ作ることができない。想い人へかける甘くやさしい言葉など、ひとつも湧いてこなかった。
思考の焦点が合わない。蝉の声ばかりがわんわんと耳の中に響いている。紀堂は力の入らぬ足を踏みしめると、訝しげに佇立している娘に辛うじて会釈し、体を引きずるようにして雁木を降りていった。
数日後、花筏の料理を届けに、有里が男衆を伴い店を訪ねてきた。紀堂が花筏へ顔を出すのはもちろんだが、折々有里がこうして料理を携えてやってきては、紀堂と母屋で食事をすることもある。有里と睦まじく料理に舌鼓を打つひと時は、夫婦の真似事のようでくすぐったく、胸が弾んだものだった。
しかし、もう食べ物の味などろくに感じない。有里の知っている、以前の紀堂らしいふるまいができるとも思えなかった。有里と差し向かいで過ごすと思うと、喜びよりもいたたまれなさに襲われる。
「有里さん、すまない。これから急ぎの用があって……」
とある大身旗本との会合を取り付けていた紀堂は、逃げるようにそう告げて、待たせていた駕篭に乗り込もうとした。
「あの、紀堂さん、じゃあいつならお会いできますか?」
追いすがってきた有里の声に、ぼうっと考えを巡らせる。
「……すまない……わからないんだ」
生気のない目を一瞬だけ娘に向けて、駕篭に乗り込んだ。
呆気に取られて立ち尽くす娘に、藤五郎が慌てたように何か話しかけるのを遠くに聞く。しかし紀堂は振り返りもせず、動き出した駕篭の中で力なく宙を見詰めていた。
空が落ち、足元には奈落が口を開いている。二十五年生きてきたはずの世界は、一夜にして無明の闇と化し、そこで自分が生ける屍となって、腸を風に晒しているように思われた。
***
ある夕刻、居間でぼんやりと夕餉の膳に視線を落としていると、藤五郎が手代筆頭の信介を伴って現れた。給仕の女中を遠ざけた藤五郎は、庭に向かって開いていた障子を閉てきり、声を落として言う。
「旦那様、見聞方が報せて参りました。……あの夜、火盗改を率いていたのは柳井対馬守作左衛門だそうでございます」
「柳井対馬守……」
顔を上げると、隣の信介がぐっと頷いた。二十八になるこの手代は見聞方としても務めている。
大店には情報収集を主にする部署を備えていることが珍しくないが、大鳥屋の見聞方もその例に漏れない。大口顧客を取引相手とする本両替商ともなれば、顧客の素性や市場の動向、世情の把握は必須なのだ。藤五郎の管轄下にある大鳥屋の見聞方は、目立たないが有能だ。彼らに、藤五郎は今般の千川家への処罰に伴う家臣団と公儀の動向を探らせていた。
信介は頭の回る男で、人当たりがいいのに極めつけに口が固い。笑うとえくぼのできるやさしげな顔つきをしていて、他人に警戒されにくいのも見聞方にはうってつけだ。その信介が口を開いた。
「しかし、翌日には加役を解かれておりました。火盗改方の加役には深津様が既にお就きでしたが出動の命は下されず、急遽柳井様に臨時の加役が命じられたようです」
凶悪犯罪の取り締まりに当たる火付盗賊改方は御先手組が臨時に兼務する役で、先手組頭から一名ないし二名が、通年任期の加役本役と、冬季のみ増員される当分加役として火盗改方頭に任じられ、さらに緊急時には増役されることもある。
御先手頭の深津弥七郎正英と落合能登守道一は有能な官吏として知られ、武力にものを言わせるような強引な捕縛は滅多に行わないそうだ。特定の派閥にあからさまに肩入れもしていない。対する柳井は武闘派として知られる血気盛んな男で、権臣に見境なく擦り寄っているという。深津は動かし難いと見て、野心に溢れ血気盛んな柳井を任じた何者かの、強い意図を感じざるを得なかった。
「高家を襲うなどという判断を、柳井が単独で下せるわけがない。幕閣か、それに等しい力を持つ者の命で押し切ったに違いない。誰が千川家の罪をでっち上げた……? 柳井を加役に任じたのは、誰だ」
凍てつくような声で問うと、大番頭の額が曇る。
「それが、まだ掴めませんのです。見聞方は隠密ではございませんから、ご公儀やご宿老方の内情に入り込むことは、残念ながら手に余ります」
しかし、と付け加える。
「文月の月番老中でおられたのが、水野越前守様であることは知れております」
すっと頬が強張った。
老中や若年寄、三奉行などの複数名が任命される役職では、毎月政務を単独で担う月番制がとられている。そして、御先手組は若年寄の支配下にあるが、この火盗改方は老中の支配を受けるのである。
水野越前守忠邦といえば、四十七にして老中主座に躍り出て、西丸派の大御所勢力と肩を並べるに至った傑物である。才知と共に危ういほどの野心の持ち主であることは、紀堂の耳にも届いていた。では、まさか水野老中が……?
「ですが、私どもの探る限り、ご老中に千川様を襲わせる理由が見当たりません」
藤五郎の言葉に、思わず額を押さえて嘆息した。霧の中を手探りしているかのように、手がかりが掴めない。調べれば調べるほど、闇が深くなるばかりに思われる。
「──ご家臣方の居所は、わかったか」
「へぇ」
信介が即座に首肯する。
「筆頭ご家老様をはじめとするご家臣の方々は、信州飯田堀家にお預となっておられます」
武家への処罰にあたっては、大名家へ拘禁・監禁する「預」が行われることがあった。これは通常お目見以上か五百石以上の武家が対象であるが、今度のような国事犯が大名家預かりとなる場合もある。預けられた罪人は屋敷の一室に閉じ込められ、外部との接触はもちろん許されない。
千川家家臣は、筆頭家老の境九右衛門はじめ十五名余りが、西丸下の信州飯田藩、堀大和守親寚の上屋敷に預けられているという。
「多くの方々については、近く解放される見通しであるようです。が、筆頭ご家老様につきましては、いつ罰が解けるかわかりません」
紀堂は疲労の浮いた顔を頷かせた。大罪を企んだ家の筆頭家老ともなれば、処罰は重かろう。その場で首をはねられなかったということは、殺すつもりはないのかもしれない。しかし永預となれば、閉じ込められた部屋から死ぬまで出ることは叶わなくなる。
「旦那様、実は……」
大番頭が言いかけて、口をつぐむ。紀堂が憔悴した目を上げると、男の暗く厳しい表情を浮かべた双眸に出会った。
「……信介」
藤五郎がおもむろに声をかけると、手代筆頭が心得たように部屋を出て行った。
恐怖が胸を掴んだ。何があるというのだ。これ以上、何の悪い報せがあるというのか。紀堂は瞬きも忘れ、藤五郎のかすかにふるえる口元を凝視する。
「──お殿様と若殿様のご遺骸は、磔刑に処されるそうでございます……」
低く囁く声に、気が遠くなった。
次の刹那、大声で喚こうとしたが果たせなかった。頭の中では声を限りに叫んでいるのに、喉からはすり潰された喘ぎが漏れるばかりだ。懐の錦の袋をすがるように握る。胃の腑がひしゃげて痙攣し、酸っぱいものが喉にこみ上げる。はげしい苦痛に体を硬直させながら、やめろ、やめろ、と心の中で吼えた。二人は切り刻まれて、すでに塩漬けにされているではないか。それを……
やめてくれ。後生だから、もうやめてくれ。
何もかもを引き裂いて、終わりにしてしまいたい。自分もろとも叩き壊して粉々にしてしまいたいという、狂気のような衝動に襲われる。
重罪人の最高刑は士庶共に磔であり、当人の生死は問わないという苛烈なものだ。焼け焦げていようが、四肢が欠けていようが問題ではない。塩漬けにされた遺骸が磔となることも珍しくなかった。これは、見せしめなのだ。
千川家襲撃の凶報を知らされた直後、店の母屋を飛び出し番町へ向かおうとした紀堂を、大番頭の藤五郎は必死に押しとどめた。
「お屋敷は混乱を極めております。集まっていた野次馬が捕縛されたとも聞きました。今お出でになってはなりません!」
縁側から庭に落ちてもみ合う二人を見て、女中たちが悲鳴をあげ、番頭や手代らが飛んでくる。
放せ、放せ、と我を忘れて絶叫しながら、顔といわず体といわず殴りつけた気がするが、藤五郎は死に物狂いでしがみついて放さなかった。
「行かせるな、行かせてはならん!」
髷を乱し、顔と着物を泥で汚した大番頭がすさまじい剣幕で叫ぶのを見て、奉公人たちはどっと殺到した。そして、手負いの獣のように暴れる紀堂を、どうにか押さえつけたのだった。
旦那様、旦那様、と叫びながらのしかかる奉公人たちの下で、紀堂は土を噛みながら唸り、身悶えし、やがて身を裂くような声を放って慟哭した。
平素ならば、取り乱すことはおろか、激することも滅多とない若店主だった。その穏やかな主の狂乱ぶりに、奉公人の誰もが青ざめ、言葉を失くしていた。
苦痛に苛まれているかのような嗚咽が、咆哮のごとくほとばしる。それは、爆ぜるような蝉の声をもかき消して、緑の滴る庭にいつまでも響き渡っていた。
翌日になって、ようやく千川家を訪れた時には、立っていられるのが不思議なほどに憔悴が極まっていた。どのようにして日本橋本町まで帰り着いたのか、覚えていない。半ば朦朧として自室に座り込んだ紀堂は、もう動くこともできなかった。
時が意味を失くし、昼も夜も体を素通りしていく。座り込んだまま幾日が過ぎたのかさえ、もはやわからなかった。寝食なぞとうに忘れ、他の一切を顧みなくなっていた。ただ呆然と虚空を見詰め、一管の笛を納めた錦の袋を懐に潜ませて、片時も離さなかった。
かろうじて紀堂を現し世につなぎとめていたのは、理由を知りたいという、その一念だった。
何が、あった。あの夜、千川家はなぜ襲撃を受けねばならなかった? 当主の広忠も嫡男広衛も、旗本奴ばりの騒擾を企てるような方々ではない。断じて、ない。何者がそんな罪をでっち上げた。なぜ千川が標的とされたのだ。
……なぜ。なぜ。なぜ。
泥のような放心状態から這い上がると、紀堂は憑かれたように情報を求めはじめた。
店の見聞方に命じて探らせる一方、公儀の上級役人に接触してどんな情報でも得ようと試みた。金に糸目はつけなかった。紀堂が自ら出向き、数十両、場合によっては数百両を惜しげもなく差しだし、畳に額を擦り付けながら懇願したこともあった。焦げるような日差しに耐えながら門前に跪き、屋敷の主の帰還を終日待ち構えたこともあった。
美貌と名高い若い店主の容貌は、瞬く間に青白く窶れた。常ならば温厚さと生真面目さを浮かべていた瞳には、熱病のような妄執と、凍えるような虚無ばかりが青白い燐火のように揺らめいていた。
有里とは、あれ以来言葉を交わすどころか、まともに顔も合わせていない。
一度は、江戸橋の側を歩いていて偶然出くわしたことがあった。
「紀堂さん」と鈴をふるような声で呼びとめられた紀堂は、数拍の間を置いて立ち止まり、魂の抜けた目を娘に投げた。公儀役人の元へ向かうため、舟を使おうとしていたところだった。頭の中はそのことでいっぱいで、絶え間なく胸を炙る焦燥と煩悶で視界が狭く、暗くなったように感じられる。愛して止まない娘が、己の異様な表情に驚いて目を瞠った姿さえ、薄暗い膜を隔てているかのように遠かった。
何か、言わなくては。何か。しかし頭の中は混沌が渦を巻き、笑みさえ作ることができない。想い人へかける甘くやさしい言葉など、ひとつも湧いてこなかった。
思考の焦点が合わない。蝉の声ばかりがわんわんと耳の中に響いている。紀堂は力の入らぬ足を踏みしめると、訝しげに佇立している娘に辛うじて会釈し、体を引きずるようにして雁木を降りていった。
数日後、花筏の料理を届けに、有里が男衆を伴い店を訪ねてきた。紀堂が花筏へ顔を出すのはもちろんだが、折々有里がこうして料理を携えてやってきては、紀堂と母屋で食事をすることもある。有里と睦まじく料理に舌鼓を打つひと時は、夫婦の真似事のようでくすぐったく、胸が弾んだものだった。
しかし、もう食べ物の味などろくに感じない。有里の知っている、以前の紀堂らしいふるまいができるとも思えなかった。有里と差し向かいで過ごすと思うと、喜びよりもいたたまれなさに襲われる。
「有里さん、すまない。これから急ぎの用があって……」
とある大身旗本との会合を取り付けていた紀堂は、逃げるようにそう告げて、待たせていた駕篭に乗り込もうとした。
「あの、紀堂さん、じゃあいつならお会いできますか?」
追いすがってきた有里の声に、ぼうっと考えを巡らせる。
「……すまない……わからないんだ」
生気のない目を一瞬だけ娘に向けて、駕篭に乗り込んだ。
呆気に取られて立ち尽くす娘に、藤五郎が慌てたように何か話しかけるのを遠くに聞く。しかし紀堂は振り返りもせず、動き出した駕篭の中で力なく宙を見詰めていた。
空が落ち、足元には奈落が口を開いている。二十五年生きてきたはずの世界は、一夜にして無明の闇と化し、そこで自分が生ける屍となって、腸を風に晒しているように思われた。
***
ある夕刻、居間でぼんやりと夕餉の膳に視線を落としていると、藤五郎が手代筆頭の信介を伴って現れた。給仕の女中を遠ざけた藤五郎は、庭に向かって開いていた障子を閉てきり、声を落として言う。
「旦那様、見聞方が報せて参りました。……あの夜、火盗改を率いていたのは柳井対馬守作左衛門だそうでございます」
「柳井対馬守……」
顔を上げると、隣の信介がぐっと頷いた。二十八になるこの手代は見聞方としても務めている。
大店には情報収集を主にする部署を備えていることが珍しくないが、大鳥屋の見聞方もその例に漏れない。大口顧客を取引相手とする本両替商ともなれば、顧客の素性や市場の動向、世情の把握は必須なのだ。藤五郎の管轄下にある大鳥屋の見聞方は、目立たないが有能だ。彼らに、藤五郎は今般の千川家への処罰に伴う家臣団と公儀の動向を探らせていた。
信介は頭の回る男で、人当たりがいいのに極めつけに口が固い。笑うとえくぼのできるやさしげな顔つきをしていて、他人に警戒されにくいのも見聞方にはうってつけだ。その信介が口を開いた。
「しかし、翌日には加役を解かれておりました。火盗改方の加役には深津様が既にお就きでしたが出動の命は下されず、急遽柳井様に臨時の加役が命じられたようです」
凶悪犯罪の取り締まりに当たる火付盗賊改方は御先手組が臨時に兼務する役で、先手組頭から一名ないし二名が、通年任期の加役本役と、冬季のみ増員される当分加役として火盗改方頭に任じられ、さらに緊急時には増役されることもある。
御先手頭の深津弥七郎正英と落合能登守道一は有能な官吏として知られ、武力にものを言わせるような強引な捕縛は滅多に行わないそうだ。特定の派閥にあからさまに肩入れもしていない。対する柳井は武闘派として知られる血気盛んな男で、権臣に見境なく擦り寄っているという。深津は動かし難いと見て、野心に溢れ血気盛んな柳井を任じた何者かの、強い意図を感じざるを得なかった。
「高家を襲うなどという判断を、柳井が単独で下せるわけがない。幕閣か、それに等しい力を持つ者の命で押し切ったに違いない。誰が千川家の罪をでっち上げた……? 柳井を加役に任じたのは、誰だ」
凍てつくような声で問うと、大番頭の額が曇る。
「それが、まだ掴めませんのです。見聞方は隠密ではございませんから、ご公儀やご宿老方の内情に入り込むことは、残念ながら手に余ります」
しかし、と付け加える。
「文月の月番老中でおられたのが、水野越前守様であることは知れております」
すっと頬が強張った。
老中や若年寄、三奉行などの複数名が任命される役職では、毎月政務を単独で担う月番制がとられている。そして、御先手組は若年寄の支配下にあるが、この火盗改方は老中の支配を受けるのである。
水野越前守忠邦といえば、四十七にして老中主座に躍り出て、西丸派の大御所勢力と肩を並べるに至った傑物である。才知と共に危ういほどの野心の持ち主であることは、紀堂の耳にも届いていた。では、まさか水野老中が……?
「ですが、私どもの探る限り、ご老中に千川様を襲わせる理由が見当たりません」
藤五郎の言葉に、思わず額を押さえて嘆息した。霧の中を手探りしているかのように、手がかりが掴めない。調べれば調べるほど、闇が深くなるばかりに思われる。
「──ご家臣方の居所は、わかったか」
「へぇ」
信介が即座に首肯する。
「筆頭ご家老様をはじめとするご家臣の方々は、信州飯田堀家にお預となっておられます」
武家への処罰にあたっては、大名家へ拘禁・監禁する「預」が行われることがあった。これは通常お目見以上か五百石以上の武家が対象であるが、今度のような国事犯が大名家預かりとなる場合もある。預けられた罪人は屋敷の一室に閉じ込められ、外部との接触はもちろん許されない。
千川家家臣は、筆頭家老の境九右衛門はじめ十五名余りが、西丸下の信州飯田藩、堀大和守親寚の上屋敷に預けられているという。
「多くの方々については、近く解放される見通しであるようです。が、筆頭ご家老様につきましては、いつ罰が解けるかわかりません」
紀堂は疲労の浮いた顔を頷かせた。大罪を企んだ家の筆頭家老ともなれば、処罰は重かろう。その場で首をはねられなかったということは、殺すつもりはないのかもしれない。しかし永預となれば、閉じ込められた部屋から死ぬまで出ることは叶わなくなる。
「旦那様、実は……」
大番頭が言いかけて、口をつぐむ。紀堂が憔悴した目を上げると、男の暗く厳しい表情を浮かべた双眸に出会った。
「……信介」
藤五郎がおもむろに声をかけると、手代筆頭が心得たように部屋を出て行った。
恐怖が胸を掴んだ。何があるというのだ。これ以上、何の悪い報せがあるというのか。紀堂は瞬きも忘れ、藤五郎のかすかにふるえる口元を凝視する。
「──お殿様と若殿様のご遺骸は、磔刑に処されるそうでございます……」
低く囁く声に、気が遠くなった。
次の刹那、大声で喚こうとしたが果たせなかった。頭の中では声を限りに叫んでいるのに、喉からはすり潰された喘ぎが漏れるばかりだ。懐の錦の袋をすがるように握る。胃の腑がひしゃげて痙攣し、酸っぱいものが喉にこみ上げる。はげしい苦痛に体を硬直させながら、やめろ、やめろ、と心の中で吼えた。二人は切り刻まれて、すでに塩漬けにされているではないか。それを……
やめてくれ。後生だから、もうやめてくれ。
何もかもを引き裂いて、終わりにしてしまいたい。自分もろとも叩き壊して粉々にしてしまいたいという、狂気のような衝動に襲われる。
重罪人の最高刑は士庶共に磔であり、当人の生死は問わないという苛烈なものだ。焼け焦げていようが、四肢が欠けていようが問題ではない。塩漬けにされた遺骸が磔となることも珍しくなかった。これは、見せしめなのだ。
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