10 / 12
思惑(二)
しおりを挟む
翌日の迎え火の日、泉屋の店主を招いたと聞いて佐和は唖然とし、それから真っ青になってふるえ上がった。
「あ、あの……小僧奉公の先というのは、まさか泉屋さんなんですか」
声が乱れる。なぜ、よりにもよって。
染は、そうさ、とあっさり頷いた。
「あそこの旦那さんと奉公人に預けたら間違いない。そうだろう」
それは、そうだ。……けれど。佐和は今すぐ逃げ出そうとするように腰を浮かせた。
「では、私は顔を出さないようにしますので」
「何言ってるんだい。あんたも同座するんだよ」
「で、出来ません。私を見たら、旦那さんが嫌なお気持ちになられるでしょう」
まとまるものもまとまらなくなる、と訴えると、染はかすかに笑ったようだった。
「あんたがいてくれなきゃ困るんだよ」
言葉に詰まってうろたえる佐和を、染は面白そうに眺めて煙管を咥えた。
きりきりと痛む胃を押さえ、中食も喉を通らず上の空になりながら過ごしている内に、腰高障子を引いて市衛門が訪ってきた。
懐かしい姿を見た途端、苦しく熱いもので胸がいっぱいになった。ああ、お元気そうだ。香菜はどうしているだろうか。大きくなったことだろう。言葉が喉までこみ上げているのに、目を合わせることすら出来なかった。
震える手で茶を勧めながら、よくものこのこと姿を現せるものだ、と今にも罵声を浴びせられるだろうかと身が縮んだ。蒸し暑いのに冷たい汗が背筋を伝う。けれども、市衛門は俯く佐和を見下ろしたまま何も言わなかった。
「お呼び立てして相すみません。実は旦那さんに折り入って相談事がございましてね」
たつ坊を隣に座らせ、染が切り出した。
「ほう。どのような」
「このたつ坊を、お店に小僧として雇い入れていただきたいのです。えらく気骨のある子供でしてね。まだ七つですが間違いなく忠義者です。見どころはあると思うんですよ」
市衛門が怪訝そうにたつ坊と染を見つめた。
「染さん、それは……」
躊躇いがちな声に、佐和は膝の上の両手を握り締めた。
「七つでは少し幼すぎると思いますが。うちは十一か十二の子供を小僧に入れています」
「承知しておりますとも。そこを曲げてお願いしたいのです」
黙って先を待っている市衛門に、染はたつ坊の話を語った。
「泉屋さんは、奉公に入れる子供の親には五両渡しておられるそうですね。町方からあたしのところには、たつ坊を預かっている世話代として謝礼が出ます。それに少し色を付けて、たつ坊への祝儀がわりに渡してやるのはやぶさかじゃございません。それで借財が返せる。町方がかかわるのは十までですから、このままたつ坊はどこの養い親ともうまく行かずに終わっちまうかも知れない。それなら他の家へ養子に行くよりも、いつか千寿に戻れる算段をつけてやる方がいいと思うんですよ」と話を締め括った。
待って、と佐和は身を乗り出しかけた。借財の十両を作るという話は聞いていない。町方からは確かに謝礼は出るが、五両もの額には到底ならない。口を開きかけると、染が目配せをしてきた。何も言うな、と言っている。
市衛門はわずかに目を伏せたまま、じっと考え込んでいた。
「やはり無理でしょうかねぇ。旦那さんならと思ってお願いしているのですが」
染はそう言って眉を下げると、ふっと嘆息した。
「佐和さんもこの通り、たいそう心を痛めていましてね。食事も喉を通らないし、気がつくと涙ぐんでいたりして。見ているあたしまで辛くなっちまうんですよ」
何を言うのかと目を剥いた佐和に、市衛門の視線が注がれる。思わず顔を伏せると、やがて市衛門がふわりと笑う気配を感じた。
「──ご店主もお人が悪いですな」
と呟き、市衛門は居住まいを正した。
「……それでは、こういうのはどうです。この子には十二になったら奉公に来てもらう。五両は今、前払いしましょう。扇子屋の商いがうまく運んで五両をうちに返すあてが出来た場合は、奉公の話は白紙にすればいい」
佐和は息を飲んだ。五年も先の奉公のために前払いをするなんて。もしたつ坊が何らかの理由で奉公に出ることが叶わず、夫婦も金を返せないとなれば、その五両は捨てたも同然となるのだ。泉屋にとっては取るに足らぬ金だろうが、額の多少の問題ではない。
「どうだ、たつ坊。もっと大きくなったら、私の店で働くか?」
市衛門がたつ坊を見下ろし語りかけた。
緊張に青ざめたままぴくりとも身動きしなかったたつ坊が、目を白黒させて染の顔を見上げる。
「……さすが旦那さんだ。これ以上望めないお計らいです」と染は破顔し、よかったねぇ、たつ坊、と笑いかける。
途端にたつ坊は茹で蛸のように頬を赤らめ、すうっと大きく息を吸った。
「あ、ありがとう存じます!」
声を張り上げて畳に小さな両手をつく姿に、市衛門が柔和に頷いた。
懇篤に頭を下げる染の隣で、佐和も深く叩頭した。胸が高鳴り頬に血が上る。夢のような話だ。借金さえなくなれば、きっと店を立て直せる。たつ坊を貰い受ける許しが下るかも知れない。どれほどたつ坊と千寿の夫婦が喜ぶことだろうか。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
目頭が熱く沁みるのを感じながら、佐和は幾度もそう繰り返していた。
***
染に暇を告げた市衛門を、店の近くまで見送りに出た。
往来の人ごみを市衛門に数歩遅れて歩く内、ふと市衛門の足が止まった。
「こんなところに桃の木があるんですね」
町屋の庭から枝を伸ばした木を見上げている。白く輝く木漏れ日がその横顔にふりかかるのを見詰めると、思わず言葉が口をついて出た。
「あの……お、お嬢さんは、お元気でしょうか」
「達者にしていますよ」こちらを向いた市衛門の目に光が踊った。「前歯がずいぶん生え揃って、先日は指を噛まれて痛い思いをしました。赤子の力も侮れない」
佐和は思わず唇をひいて微笑んでいた。たったそれだけの言葉で、体中に熱い血が巡るようだ。
「飯をよく食べます。歌が好きで、歌ってやると一緒にあーあー言ってますよ。走り回るので目が離せません。障子を破られるのは始終だし、硯をひっくり返された時は、私も香菜も真っ黒になってひどいことになりました」
阿鼻叫喚です、と言うので佐和は堪えきれずに笑った。市衛門も肩を揺らして白い歯を零した。それから「新しい乳母も、よくやってくれています」とどこか遠い声で言い添える。
日向の匂いのする夏風が、ふと吹き抜けていった。
「──佐和さん。うちに戻ってこないかと言ったら、どうしますか」
佐和は打たれたように息を飲み、市衛門の顔を見上げた。
「……戻ってきませんか」
やわらかな光を浮かべる双眸を見返しながら、知らずにふるえる両手を握り締めていた。
「ありがとうございます。私なぞにそんな風におっしゃって下さって、もったいなく存じます」
細く呟くと、市衛門の目がかすかに翳った。
「ですが、もう乳母は必要ありませんでしょうし、私も乳は出ませんので、お役に立つことはないと思います。それに……お嬢さんを危ない目に遭わせた上に、まだお借りしたものもお返ししていない身で、ご厚意に甘えるわけには参りません。染さんには行き場の無かったところを拾っていただきました。ですからきちんと働いて、ご恩をお返ししたいのです」
つっかえながらそう言うと、佐和は深く頭を下げた。これ以上目を合わせたら、市衛門のやさしさにすがりついてしまいそうだった。けれど、染に信頼されたのだ。自分のような人間を信じて、居場所をくれたのだ。それに応えなければ、今度こそ、心底自分を嫌いになりそうだった。
それに、と胸に灯りが灯るように考えていることがある。拐かされた染の子を、探す手伝いも出来るかもしれない。たった一人で探しつづける染を少しでも手助けしながら、出雲屋で生きていく。今度こそ道を踏み外すことがないように、そうやって生きていくのが自分には相応しいと思うのだ。
「……そうですか」
ややあって静かに応じると、市衛門はそれ以上何も言わなかった。
***
内所の隅にこぢんまりとした精霊棚を作らせてもらった。たつ坊と一緒にみねの位牌や、染が差し入れてくれた鬼灯、野菜、それに果物などを供えると、たつ坊は興味津々の様子で鬼灯を眺めたり、胡瓜の精霊馬を手に取って遊んでいた。
「……みねって子は胡瓜なんぞに乗ってくるの」
たつ坊が不思議そうに尋ねるので、佐和が「そうねぇ」と静かに微笑むと、
「こんなにちっこい馬にどうやって乗るの?」と重ねて言う。
佐和が笑みを深くすると、たつ坊は要領を得ない様子で首を傾げていたが、不意に懐から小さな紙袋を取り出して菰のござの上に置いた。
「……おいらの飴わけてあげる。佐和さんにもあげる。甘いよ」
飴をひとつ取り出し、佐和の掌に載せる。隣の店のおかみさんが、目黒不動門前の『桐屋』で贖ってきた飴だという。『桐屋』では長い棒状の白い晒し飴をチョンチョンと切って紙袋に詰めてくれる。口に放り込むとからころと転がり、じわっと甘味が溶けだしてとても美味しい。
「みねが喜ぶと思うわ。ありがとうね、たつ坊」
目を細めると、たつ坊は、うん、と頷き自分も飴玉を口に入れた。
佐和も真似して飴を頬張る。ころころ口の中で転がしながら二人して顔を見合わせ、何とはなしににこりとした。可愛らしい精霊棚を見詰めながら、たつ坊の飴のやさしい甘さが、胸に疼く悲しみを静かに包んでくれるかのように感じた。
日が暮れる頃に戸口の外に炮烙を出し、麻幹を炊いた。香ばしい香りが立ちこめ、通りのあちらこちらで迎え火や燈籠が灯る景色は儚く寂しく、しかしどこか懐かしい。佐和はゆっくりと迎え火に両手を合わせた。
……みね、おっかさんはここにいるよ。迷わずおっかさんのところへおいで。出雲屋はとってもいいところだよ。たつ坊が美味しい飴をくれるよ。染さんが鬼灯をたくさん用意して下さったから、精霊棚がきれいでびっくりするよ。よかったねぇ、みね……。
そうっと目尻を拭って瞼を開くと、染が火に向かってじっと両手を合わせているのが目に入った。白く澄んだ横顔に、迎え火の赤が夢のように踊っている。その隣で、たつ坊もぺたぺたと両手を合わせては火を覗き込む。
筋の浮き出た細い両手を合わせた染は、穏やかに、けれども一心に何かを祈りながら、長いこと目を閉じていた。
***
たつ坊が床に就いた後、内所に戻った佐和は、茶を喫していた染の前に膝を揃えた。
「染さん、怒られると思いますが、これを足しにしていただけませんか」
懐紙に包んだものを懐から取り出し、染の膝の前に置く。
「三両ですが……」
昼間に使いに出た際に、密かに懐に入れた簪を持って質へ寄ってきた。
包みを見下ろして、染はしばし絶句した。
「あんた、何のつもり。そんな金は必要ないってのに、余計なことをするもんじゃないよ」
腹立たしそうに眉を寄せる染に、佐和は小さくかぶりを振った。もう必要のない物だ。簪を後生大事に抱えているくらいなら、たつ坊の役に立ててもらった方がずっといい。
「染さんこそ。私だけのうのうとして、染さんに身銭を切らせるわけには参りません」
情に流されるなと言ったのに、とちらと笑うと、と染は煙管を噛んでぐうと唸った。
「……あたしはいいんだよ。好き勝手に生きてるんだから」
「何おっしゃるんですか。それでお店が傾いたら、困る人が大勢いるじゃありませんか」
佐和も染に居場所をもらった。行き場のない自分を信頼して拾ってくれた。染の脇にある精霊棚が目に入り、佐和の鼻の奥が何だかつんとした。
「……何言ってるのさ。そのくらいで店が傾いたりするもんか。見くびってもらっちゃ困る」
やがて、染が諦めたようにふんと笑った。
こん、と煙管が灰吹を叩く耳慣れた音が立つ。
佐和はつと顔を上げ、内所に漂う精霊棚の線香の少しぴりっとした丁子の香りと、仄かに甘い草のような煙草の香りに目を細めた。
夕刻たっぷりと打ち水をしておいたおかげで、開けた戸口から舞い込む風が汗ばんだ肌に涼しい。
どこかで軒下の風鈴がちりちりと澄んだ音を奏でるのが、静かな内所にやわらかく響いていた。
「あ、あの……小僧奉公の先というのは、まさか泉屋さんなんですか」
声が乱れる。なぜ、よりにもよって。
染は、そうさ、とあっさり頷いた。
「あそこの旦那さんと奉公人に預けたら間違いない。そうだろう」
それは、そうだ。……けれど。佐和は今すぐ逃げ出そうとするように腰を浮かせた。
「では、私は顔を出さないようにしますので」
「何言ってるんだい。あんたも同座するんだよ」
「で、出来ません。私を見たら、旦那さんが嫌なお気持ちになられるでしょう」
まとまるものもまとまらなくなる、と訴えると、染はかすかに笑ったようだった。
「あんたがいてくれなきゃ困るんだよ」
言葉に詰まってうろたえる佐和を、染は面白そうに眺めて煙管を咥えた。
きりきりと痛む胃を押さえ、中食も喉を通らず上の空になりながら過ごしている内に、腰高障子を引いて市衛門が訪ってきた。
懐かしい姿を見た途端、苦しく熱いもので胸がいっぱいになった。ああ、お元気そうだ。香菜はどうしているだろうか。大きくなったことだろう。言葉が喉までこみ上げているのに、目を合わせることすら出来なかった。
震える手で茶を勧めながら、よくものこのこと姿を現せるものだ、と今にも罵声を浴びせられるだろうかと身が縮んだ。蒸し暑いのに冷たい汗が背筋を伝う。けれども、市衛門は俯く佐和を見下ろしたまま何も言わなかった。
「お呼び立てして相すみません。実は旦那さんに折り入って相談事がございましてね」
たつ坊を隣に座らせ、染が切り出した。
「ほう。どのような」
「このたつ坊を、お店に小僧として雇い入れていただきたいのです。えらく気骨のある子供でしてね。まだ七つですが間違いなく忠義者です。見どころはあると思うんですよ」
市衛門が怪訝そうにたつ坊と染を見つめた。
「染さん、それは……」
躊躇いがちな声に、佐和は膝の上の両手を握り締めた。
「七つでは少し幼すぎると思いますが。うちは十一か十二の子供を小僧に入れています」
「承知しておりますとも。そこを曲げてお願いしたいのです」
黙って先を待っている市衛門に、染はたつ坊の話を語った。
「泉屋さんは、奉公に入れる子供の親には五両渡しておられるそうですね。町方からあたしのところには、たつ坊を預かっている世話代として謝礼が出ます。それに少し色を付けて、たつ坊への祝儀がわりに渡してやるのはやぶさかじゃございません。それで借財が返せる。町方がかかわるのは十までですから、このままたつ坊はどこの養い親ともうまく行かずに終わっちまうかも知れない。それなら他の家へ養子に行くよりも、いつか千寿に戻れる算段をつけてやる方がいいと思うんですよ」と話を締め括った。
待って、と佐和は身を乗り出しかけた。借財の十両を作るという話は聞いていない。町方からは確かに謝礼は出るが、五両もの額には到底ならない。口を開きかけると、染が目配せをしてきた。何も言うな、と言っている。
市衛門はわずかに目を伏せたまま、じっと考え込んでいた。
「やはり無理でしょうかねぇ。旦那さんならと思ってお願いしているのですが」
染はそう言って眉を下げると、ふっと嘆息した。
「佐和さんもこの通り、たいそう心を痛めていましてね。食事も喉を通らないし、気がつくと涙ぐんでいたりして。見ているあたしまで辛くなっちまうんですよ」
何を言うのかと目を剥いた佐和に、市衛門の視線が注がれる。思わず顔を伏せると、やがて市衛門がふわりと笑う気配を感じた。
「──ご店主もお人が悪いですな」
と呟き、市衛門は居住まいを正した。
「……それでは、こういうのはどうです。この子には十二になったら奉公に来てもらう。五両は今、前払いしましょう。扇子屋の商いがうまく運んで五両をうちに返すあてが出来た場合は、奉公の話は白紙にすればいい」
佐和は息を飲んだ。五年も先の奉公のために前払いをするなんて。もしたつ坊が何らかの理由で奉公に出ることが叶わず、夫婦も金を返せないとなれば、その五両は捨てたも同然となるのだ。泉屋にとっては取るに足らぬ金だろうが、額の多少の問題ではない。
「どうだ、たつ坊。もっと大きくなったら、私の店で働くか?」
市衛門がたつ坊を見下ろし語りかけた。
緊張に青ざめたままぴくりとも身動きしなかったたつ坊が、目を白黒させて染の顔を見上げる。
「……さすが旦那さんだ。これ以上望めないお計らいです」と染は破顔し、よかったねぇ、たつ坊、と笑いかける。
途端にたつ坊は茹で蛸のように頬を赤らめ、すうっと大きく息を吸った。
「あ、ありがとう存じます!」
声を張り上げて畳に小さな両手をつく姿に、市衛門が柔和に頷いた。
懇篤に頭を下げる染の隣で、佐和も深く叩頭した。胸が高鳴り頬に血が上る。夢のような話だ。借金さえなくなれば、きっと店を立て直せる。たつ坊を貰い受ける許しが下るかも知れない。どれほどたつ坊と千寿の夫婦が喜ぶことだろうか。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
目頭が熱く沁みるのを感じながら、佐和は幾度もそう繰り返していた。
***
染に暇を告げた市衛門を、店の近くまで見送りに出た。
往来の人ごみを市衛門に数歩遅れて歩く内、ふと市衛門の足が止まった。
「こんなところに桃の木があるんですね」
町屋の庭から枝を伸ばした木を見上げている。白く輝く木漏れ日がその横顔にふりかかるのを見詰めると、思わず言葉が口をついて出た。
「あの……お、お嬢さんは、お元気でしょうか」
「達者にしていますよ」こちらを向いた市衛門の目に光が踊った。「前歯がずいぶん生え揃って、先日は指を噛まれて痛い思いをしました。赤子の力も侮れない」
佐和は思わず唇をひいて微笑んでいた。たったそれだけの言葉で、体中に熱い血が巡るようだ。
「飯をよく食べます。歌が好きで、歌ってやると一緒にあーあー言ってますよ。走り回るので目が離せません。障子を破られるのは始終だし、硯をひっくり返された時は、私も香菜も真っ黒になってひどいことになりました」
阿鼻叫喚です、と言うので佐和は堪えきれずに笑った。市衛門も肩を揺らして白い歯を零した。それから「新しい乳母も、よくやってくれています」とどこか遠い声で言い添える。
日向の匂いのする夏風が、ふと吹き抜けていった。
「──佐和さん。うちに戻ってこないかと言ったら、どうしますか」
佐和は打たれたように息を飲み、市衛門の顔を見上げた。
「……戻ってきませんか」
やわらかな光を浮かべる双眸を見返しながら、知らずにふるえる両手を握り締めていた。
「ありがとうございます。私なぞにそんな風におっしゃって下さって、もったいなく存じます」
細く呟くと、市衛門の目がかすかに翳った。
「ですが、もう乳母は必要ありませんでしょうし、私も乳は出ませんので、お役に立つことはないと思います。それに……お嬢さんを危ない目に遭わせた上に、まだお借りしたものもお返ししていない身で、ご厚意に甘えるわけには参りません。染さんには行き場の無かったところを拾っていただきました。ですからきちんと働いて、ご恩をお返ししたいのです」
つっかえながらそう言うと、佐和は深く頭を下げた。これ以上目を合わせたら、市衛門のやさしさにすがりついてしまいそうだった。けれど、染に信頼されたのだ。自分のような人間を信じて、居場所をくれたのだ。それに応えなければ、今度こそ、心底自分を嫌いになりそうだった。
それに、と胸に灯りが灯るように考えていることがある。拐かされた染の子を、探す手伝いも出来るかもしれない。たった一人で探しつづける染を少しでも手助けしながら、出雲屋で生きていく。今度こそ道を踏み外すことがないように、そうやって生きていくのが自分には相応しいと思うのだ。
「……そうですか」
ややあって静かに応じると、市衛門はそれ以上何も言わなかった。
***
内所の隅にこぢんまりとした精霊棚を作らせてもらった。たつ坊と一緒にみねの位牌や、染が差し入れてくれた鬼灯、野菜、それに果物などを供えると、たつ坊は興味津々の様子で鬼灯を眺めたり、胡瓜の精霊馬を手に取って遊んでいた。
「……みねって子は胡瓜なんぞに乗ってくるの」
たつ坊が不思議そうに尋ねるので、佐和が「そうねぇ」と静かに微笑むと、
「こんなにちっこい馬にどうやって乗るの?」と重ねて言う。
佐和が笑みを深くすると、たつ坊は要領を得ない様子で首を傾げていたが、不意に懐から小さな紙袋を取り出して菰のござの上に置いた。
「……おいらの飴わけてあげる。佐和さんにもあげる。甘いよ」
飴をひとつ取り出し、佐和の掌に載せる。隣の店のおかみさんが、目黒不動門前の『桐屋』で贖ってきた飴だという。『桐屋』では長い棒状の白い晒し飴をチョンチョンと切って紙袋に詰めてくれる。口に放り込むとからころと転がり、じわっと甘味が溶けだしてとても美味しい。
「みねが喜ぶと思うわ。ありがとうね、たつ坊」
目を細めると、たつ坊は、うん、と頷き自分も飴玉を口に入れた。
佐和も真似して飴を頬張る。ころころ口の中で転がしながら二人して顔を見合わせ、何とはなしににこりとした。可愛らしい精霊棚を見詰めながら、たつ坊の飴のやさしい甘さが、胸に疼く悲しみを静かに包んでくれるかのように感じた。
日が暮れる頃に戸口の外に炮烙を出し、麻幹を炊いた。香ばしい香りが立ちこめ、通りのあちらこちらで迎え火や燈籠が灯る景色は儚く寂しく、しかしどこか懐かしい。佐和はゆっくりと迎え火に両手を合わせた。
……みね、おっかさんはここにいるよ。迷わずおっかさんのところへおいで。出雲屋はとってもいいところだよ。たつ坊が美味しい飴をくれるよ。染さんが鬼灯をたくさん用意して下さったから、精霊棚がきれいでびっくりするよ。よかったねぇ、みね……。
そうっと目尻を拭って瞼を開くと、染が火に向かってじっと両手を合わせているのが目に入った。白く澄んだ横顔に、迎え火の赤が夢のように踊っている。その隣で、たつ坊もぺたぺたと両手を合わせては火を覗き込む。
筋の浮き出た細い両手を合わせた染は、穏やかに、けれども一心に何かを祈りながら、長いこと目を閉じていた。
***
たつ坊が床に就いた後、内所に戻った佐和は、茶を喫していた染の前に膝を揃えた。
「染さん、怒られると思いますが、これを足しにしていただけませんか」
懐紙に包んだものを懐から取り出し、染の膝の前に置く。
「三両ですが……」
昼間に使いに出た際に、密かに懐に入れた簪を持って質へ寄ってきた。
包みを見下ろして、染はしばし絶句した。
「あんた、何のつもり。そんな金は必要ないってのに、余計なことをするもんじゃないよ」
腹立たしそうに眉を寄せる染に、佐和は小さくかぶりを振った。もう必要のない物だ。簪を後生大事に抱えているくらいなら、たつ坊の役に立ててもらった方がずっといい。
「染さんこそ。私だけのうのうとして、染さんに身銭を切らせるわけには参りません」
情に流されるなと言ったのに、とちらと笑うと、と染は煙管を噛んでぐうと唸った。
「……あたしはいいんだよ。好き勝手に生きてるんだから」
「何おっしゃるんですか。それでお店が傾いたら、困る人が大勢いるじゃありませんか」
佐和も染に居場所をもらった。行き場のない自分を信頼して拾ってくれた。染の脇にある精霊棚が目に入り、佐和の鼻の奥が何だかつんとした。
「……何言ってるのさ。そのくらいで店が傾いたりするもんか。見くびってもらっちゃ困る」
やがて、染が諦めたようにふんと笑った。
こん、と煙管が灰吹を叩く耳慣れた音が立つ。
佐和はつと顔を上げ、内所に漂う精霊棚の線香の少しぴりっとした丁子の香りと、仄かに甘い草のような煙草の香りに目を細めた。
夕刻たっぷりと打ち水をしておいたおかげで、開けた戸口から舞い込む風が汗ばんだ肌に涼しい。
どこかで軒下の風鈴がちりちりと澄んだ音を奏でるのが、静かな内所にやわらかく響いていた。
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
仏の顔
akira
歴史・時代
江戸時代
宿場町の廓で売れっ子芸者だったある女のお話
唄よし三味よし踊りよし、オマケに器量もよしと人気は当然だったが、ある旦那に身受けされ店を出る
幸せに暮らしていたが数年ももたず親ほど年の離れた亭主は他界、忽然と姿を消していたその女はある日ふらっと帰ってくる……
深川あやかし屋敷奇譚
笹目いく子
歴史・時代
第8回歴史·時代小説大賞特別賞受賞。コメディタッチのお江戸あやかしミステリー。連作短篇です。
大店の次男坊・仙一郎は怪異に目がない変人で、深川の屋敷にいわく因縁つきの「がらくた」を収集している。呪いも祟りも信じない女中のお凛は、仙一郎の酔狂にあきれながらも、あやしげな品々の謎の解明に今日も付き合わされ……。
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
安政ノ音 ANSEI NOTE
夢酔藤山
歴史・時代
温故知新。 安政の世を知り令和の現世をさとる物差しとして、一筆啓上。 令和とよく似た時代、幕末、安政。 疫病に不景気に世情不穏に政治のトップが暗殺。 そして震災の陰におびえる人々。 この時代から何を学べるか。狂乱する群衆の一人になって、楽しんで欲しい……! オムニバスで描く安政年間の狂喜乱舞な人間模様は、いまの、明日の令和の姿かもしれない。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
春雷のあと
紫乃森統子
歴史・時代
番頭の赤沢太兵衛に嫁して八年。初(はつ)には子が出来ず、婚家で冷遇されていた。夫に愛妾を迎えるよう説得するも、太兵衛は一向に頷かず、自ら離縁を申し出るべきか悩んでいた。
その矢先、領内で野盗による被害が頻発し、藩では太兵衛を筆頭として派兵することを決定する。
太兵衛の不在中、実家の八巻家を訪れた初は、昔馴染みで近習頭取を勤める宗方政之丞と再会するが……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる