深川あやかし屋敷奇譚

笹目いく子

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犬神(十二)

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「しばらくの間は、いつ私の正体がばれるかと気が気ではありませんでした」

 自嘲気味にちらと笑ったかと思うと、太一は笑みを消して沈黙した。

「犬神が私を襲う理由は、これですよ」

 ひび割れた声で言う。

「兄のふりをしてすずの父に成り代わり、犬神筋の家の当主に収まっている、私に怒っているんです」
「……犬神が天狗についていったのは」

 仙之助がぼそりと続ける。

「すずが神隠しから戻った時、あの男の匂いがすずに残っていたせいだ。たぶん、犬神は箪笥からあまり離れることはできないんじゃありませんか。大山へ行かれなかったから、天狗男が敵なのか味方なのか犬神にはわからなかった。だが、匂いに惹かれずにはいられなかったんだ」
「な、なんです、その犬神とやらは?」

 御用聞きが怪訝そうに言う声に、誰も答えなかった。

「でもね、仙之助さん。お香は確かに霊威があるのですよ。あれをつけているのはそりゃあ苦しくて、善行を積まなければ息もできない有様で。……お陰で、仏の遊左衛門、などと呼ばれるようになりました。仏心なんぞじゃない。私は善人のふりをして、仏罰を逃れようとしていた悪人です」

 太一の声が、震えた。

「しかし……すずを、この店を大切に思っているのは、嘘じゃない。信じてもらえないでしょうが、私は、本当に……」

 声が詰まり、言葉が途切れた。
 お凛はまだ信じられない思いで太一を見詰める。遊左衛門が、もう死んでいた。それも、太一という腹違いの弟の長屋で。兄と生き写しのその太一が、このあさひ屋の店主に成り代わっていた……。
 本物の遊左衛門さんを殺したのは一体誰なのだ。どうして殺されなくてはならなかったのだろう。そもそもこの太一という人は、真実を語っているのだろうか。
 「仏の遊左衛門」の面が剥がれ落ちたこの人を、信じていいのだろうか。何もかもが疑わしい気持ちに襲われる。
 同じことを思ったのだろう、番頭が疑心に駆られたように太一を指差す。

「あ、あなたが旦那様を殺していないという証拠は。もしかして、本当はあんたが……!」
「違う。違う、私じゃない。私は兄を殺したりしない!」

 太一が青くなって首を振る。

「本当です。だって私は……私は、遊左衛門を殺した当人に脅されていたんですから」

 肩を喘がせながら、男は皆を見回した。

「私が兄になり変わって一月ほど経った頃から、部屋に投げ文が放り込まれるようになって……」

 お前が太一であることは知れている。長屋で死んでいたのが本物の遊左衛門だ。すずや店の者に暴露され、ご番所に訴えられたくなければ、口止めの金子を寄越せ。

「滅多な考えは起こすなよ。こちとら一人殺るのも二人殺るのも同じだ、とありました……」

 その一人とは、遊左衛門以外にあり得ない。太一と遊左衛門が入れ替わったことを知る人物。それはこの世に太一自身と、遊左衛門を殺した張本人しかいない、とすぐに察した。

「……十両、二十両と、額としては大きくなかった。けれど、だからこそ、一度や二度で終わるものではないことも明らかでした」

 金子のやり取りは、店の敷地内の稲荷社で行われた。社の下に金子を置いておき、犯人がいつの間にかそれを持ち出しているのだ。店主であれば日中は社に張り付いていることなどできない。相手は太一が商いで手の塞がっている時を見計らい、悠々と金を持ち出していった。誰なのかを確かめることもできない。誰に打ち明けることも叶わない。太一に抵抗する術は、なかった。

「すずを拐ったのも、おそらくそいつでしょう」

 仙之助が低く言うと、

「くそぅ、どこのどいつだ? 今から虱潰しに心当たりを当たるのは骨だぜ」

 御用聞きが唸る。

「あの──……」

 張り詰めた空気を破るように、そろそろと声を発した者がいる。

「……今更ではございますが、ご参考までに、その」

 危うく無実の罪に落とされかけた哀れな佐吉が、恐る恐る一同を見回す。

「お香で具合が悪くなってた人、思い出したんです。そのう、今ご入用で? あ、怪しくないですか?」
「その話はもういいんだよ。お前はとろいねぇ。お香の話なんざうっちゃっておけ」

 八つ当たり気味の番頭の物言いに、気の毒な手代が涙目になる。が、

「いや、教えてください。お香の霊威を嫌がるとは実に怪しい! で、誰なんです?」

 仙之助が興奮気味に身を乗り出したので、お凛は顔を引きつらせた。お香の霊力なんぞ信じていないと言い切ったのではなかったか。

「へぇ、去年店を辞めた手代です」
「なに……」

 居間がざわついた。

「喜助っていう、当時筆頭手代だった人ですよ。旦那様がお香を使い出したらひどく嫌がって、始終青ざめて苦しむ始末で……や、でも、関係のない話ですよね、相すみません」

 仙之助の両眼がすうっと細くなった。

「いやいや、佐吉さん。あんたよく気がつく人だねぇ、やるじゃない。番頭さん、ちょっと祝儀を弾んでおやりなさいよ。だからさっき濡れ衣を着せた件は恨みっこなしね──で、そのお人、どうして辞めたんです」

 えへ、とはにかんだ佐吉は、しかし表情を翳らせた。

「小金が貯まったから、夏の間は両国広小路で茶店を開いて、冬はのんびりするんだって話だったんですけど……喜助さん、番頭に選ばれなくて怒ってんじゃないかと思うんです」
「なに……?」

 太一と番頭の顔が強張る。

「ほら、一昨年十兵衛さんが手代から番頭に抜擢されたでしょう? それで、長年奉公している筆頭手代の俺を馬鹿にして、ってお酒が入ると時々おっしゃってました。で、お香のこともあって辞めたんじゃないかなって……」
「──そうなのか」

 ぎこちなく太一が番頭を見た。

「喜助を差し置いてお前さんが番頭になったのか?」
「覚えていらっしゃらないんで? あ、そうでしたね。あれは旦那様がなすったことなのか……」

 十兵衛という、小じわの多い四角い顔をしたその番頭が、いっとき混乱した様子で額を手のひらで押さえる。

「喜助は有能な男ではございましたが、どうも軽率なところがございまして……深川の賭場をうろついて、柄の悪い連中と付き合っておりました。賭け事の借財もかなりあった。それを調べてご報告しましたら、旦那様が喜助は番頭にはなさらないとお決めになられたんです」

 太一は暫時絶句して、「そうだったのか……」と呟く。

「それで兄を殺した。お香の霊威に苦しむのも当然だ」
「そうだ、喜助は……」

 番頭が突然と声をあげた。

「旦那様が殺されたあの夜。旦那様がお出かけになってすぐに雨が降り出したので、傘をお届けすると言って店を離れました。しかし見つからなかったと、しばらく経ってから戻って参りました……両の手首に、妙なみみず腫れを作って」

 座敷が死んだように静まり返る。

「ああ、猫にやられまして。暗いもんで、うっかり尻尾でも踏んだらしく。まったく、忌々しい奴でしたよ」

 そう言って、番頭に傷のことを訊ねられた喜助は、邪気のない顔で笑ったという。

「片手ならまだしも、両手とも引っかかれるとは奇妙だな、と思ったのですが……」
「……兄が、つけた傷か。刺された時に」

 軋んだ声で、太一が呻く。両手で刃物を握った喜助の手首に、遊左衛門が咄嗟に爪を立てたのだ。驚愕と苦痛に襲われながら。
 その光景がありありと目に浮かび、お凛は恐怖と怒りに身震いする。

「喜助は……店を辞めた後も時折姿を見せました。懐かしいと言って……つい先月も、ふらりと世間話をしに参りました」
「母屋に入り込んで投げ文を置いていったり、稲荷社から金を持ち出すことは、造作もなかったでしょうな」

 仙之助のひやりとした声に、太一の目が焦点を失う。今にも吐きそうな顔で、中空をぼうっと見詰める。
 遊左衛門を殺した男が、目の前にいた。それを、みすみす見逃していたとは。

「喜助は遊左衛門さんを恨んでいた。あの雨の夜、喜助は遊左衛門さんを浅草までつけて、刺した。遊左衛門さんは材木町の太一さんの長屋に辿り着いて、そこで亡くなった。ところが……数刻経ったらあなたがひょっこり戻ってきた。さぞ肝が潰れたでしょうねぇ。刃物で刺したはずが、ぴんぴんしてるんだから」

 どこか歌うような口調で続けながら、青年は真っ白な顔で震える太一を見詰める。

「──で、思ったわけだ。あなたは偽者なんじゃないかって。長屋を調べて、太一さんと遊左衛門さんがどうやら瓜二つだということにも、気付いた」
「それで、脅した……」
「奉公して長いだけに、喜助はすずの鼻がいいことも知っていたでしょう。神隠しから戻ったすずが、あなたの匂いが違うと言っている話も、どこかで耳にしたんだろう。両国広小路で茶店を開いてるんでしょ? すずをつけて、天狗と何を話したのか聞き出したのかもしれない。馴染みの元手代だから、すずも警戒しないだろう。すずは、太一さんは偽者なのではないか、本物の遊左衛門さんはどこへ行ったのだろうと喜助に話した。それですずを……」

 こらえきれぬように、太一の乾ききった唇から嗚咽が漏れる。 

「私が、兄に成り代わろうなどと考えたせいで。喜助を野放しにし、すずをこんな目に遭わせてしまった……」

 兄さん、すず、すまない。そう言って頭を抱えた男を、仙之助は何を思っているのか読み取れぬ瞳で見下ろしていた。

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