深川あやかし屋敷奇譚

笹目いく子

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犬神(十一)

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「すずが拐われたのは、新也さんの話を聞いて、偽者なのは自分じゃなくて父親だと確信しちまったからだ。犯人は、あんたが偽者だとばれたら都合の悪い奴だろうよ。たぶんそいつは、すずが新也さんを追って行き、話をしているところを見ていたんだろうな。それで、あさひ屋の使いを名乗ってどこぞへ連れ去ったのさ」

 じん、と耳鳴りがするような沈黙が広がった。誰もが石像になったかのごとく凍りついている。

「遊左衛門さん。あんた、犯人に心当たりがあるでしょう。なのに、天狗や手代さんに疑いがかかっても、まだ知らぬ存ぜぬで通そうってのかい? すずの命がかかってるんじゃないのかい。大した善人もいたもんだ。そこらの悪人なんぞ真っ青だぜ。笑えるだろう、お凛」

 ふふふ、あはははは、とおかしくてたまらぬように膝を叩いて青年が笑う。遊左衛門の顔からみるみる生気が抜けていく。奉公人たちが生白い顔色で呻く。

「旦那様、い、一体全体、どういうことで……」
「偽者……? そんな、馬鹿な。だって、この方は、確かに」
「──すずが戻る数日前。浅草の材木町で男が一人死にましてね」

 笑いを収めた仙一郎の声に、不穏なざわめきがぴたりと止む。遊左衛門の肩が大きく跳ねる。

「……いやね。昨日ちょいと思いついて、吾妻橋の両側を縄張りにしている親分さんたちを訪ねてみたんですよ」

 お凛は両目を瞠った。浅草の実家へ行くと言っていたのは、そのためか。だけど、御用聞きの親分たちに何を聞いてまわったというのか。

「でね。実は私自身、何が気になっているのかよくわかりませんで。だけど、妙でしょう? すずのみならず遊左衛門さんまで記憶が曖昧だなんてさ。しかも同じ時期だなんて、どう考えても引っかかる。それでとりあえず、あんたが泥酔して戻った夜に、吾妻橋の両側で何か起きていなかったか訊ねてみたんですよ」

 ぺろりと唇を舐めて、青年は胡坐をかいた。

「そうしたら、殺しが一件、浅草側であった。なんでも、材木町の太一という団子売りが、長屋で腹を刺されて殺されているのが見つかったらしい。近所で刺されて、家に戻って事切れたようだった。犯人は見つからずじまいです」

 沈黙が支配する部屋に、誰かがごくりと唾を飲む音が響く。

「天涯孤独の男で、人付き合いもあまりなかったらしいんですがね。私、何だか気になって」

 そこで言葉を切ってから、

「それはそうと、殺しのあった日からしばらくして、吾妻橋の本所側では、幽霊が出たって噂が流れましてね」
「は? 幽霊?」

 いきなり話が飛び、お凛はつんのめりそうになった。皆がざわつくのをよそに、そう、と青年はごく当然のように頷く。

「吾妻橋の袂で屋台を出している爺さんがね、客がそう噂してたっていうんですよ。それを親分さんが耳にしたんです。なんでも、とある雨の夜、同じ屋台で酒を飲んでいた男が、浅草で死んだ男だったって。その夜のその時分には男はもう死んでいたはずなのに、隣で飲んでいたっていうんです。……しかしまぁ、その客もいい加減酔っていたそうで、誰も相手にしなかった」

 遊左衛門の歯が、かちかちと鳴っている。

「私ねぇ、それで長屋の人たちにお願いしてみたんですよ。その太一ってお人の似顔絵を、ちょいと描いてみてくれないかって。幸い、同じ長屋に絵師がいまして、太一さんの顔を覚えていた」

 そう言って、仙一郎は懐からかさりと一枚の畳んだ紙を取り出す。
 おもむろに開いて、畳にすっと滑らせると、全員の視線がそこに集まり……凍りついた。

「──申し訳ございません」

 がくりと両手をつき、遊左衛門が支えを失ったかのように崩れ落ちる。

「申し訳ございません、本当に……私が、私が愚かでございました……」

 絵師の達者な筆致で描かれたその顔は、遊左衛門に生き写しの顔をしていた。

***
 
「……私は太一と申します。遊左衛門の、腹違いの弟です。不忍池の畔の茶屋で働いていた母のところに、父が気まぐれに通っていたそうでして。身ごもった母が私を生んだら、どういう運命のいたずらか、この通り双子のようにそっくりに生まれつきました。年も、一つ違いでしてね」

 震える声で、太一と名乗る男はそう語りだした。

「母が十七で他界した後は浅草に移り、団子屋台を細々商っておりました。あさひ屋の兄とはこっそり行き来があったんです。不忍池のあたりで自分そっくりの子供を見かけたって、兄が聞きつけたらしくて。十二の年でした。母と私が暮らす長屋の側をうろうろしているもんで、私の方も腰が抜けそうになりましたけどね」

 鏡に映したように瓜二つ。二人はしばし唖然として互いを眺めると、たちまち意気投合してしまった。

「以来、誰にも気付かれないように折々顔を合わせては、近況を伝えあったりしていました。浅草へ移ってからも、遊左衛門は私のことを気にかけてくれていたもんです。ところが、すずが行方知れずになっていたその最中に……」

 ごくり、と太一の喉が動いた。

「兄が、何者かに殺されたのです…」

 その日の夜は、兄が材木町にある太一の長屋を訪ねてくるはずだった。「すずが行方知れずだ」と数日前に便りがあって、文面からは相当に憔悴しているのが伺えた。酒と肴を用意してやきもきしながら待っていた太一は、雨が降り出したことに気づいた。遊左衛門は傘を持って出なかったかもしれない。濡れては気の毒だと思った太一は、途中まで兄を迎えに行こうと傘を手に取り表へ出た。
 次第に雨脚が強まる中、人通りのない夜道を吾妻橋へ向かって歩く。本所からやってくる兄は、いつも吾妻橋を渡ってくるのだ。けれど、待てど暮らせど兄は現れない。さては行き違いになったか、と長屋へ戻った。

「……戻ったら、戸が、少し開いていて」

 兄が先に到着していたのだろう、と土間に足を踏み入れる。
 ものの形がようやく見て取れる狭い部屋に、黒い人影が横たわっているのを見た。

「……兄さん。どうしたんだ、そんなところに……」

 言葉を切る。
 眠っているのでは、ない。
 影の気配のなさ。あれは断じて眠っているのではない。
 得体の知れぬ冷たい恐怖が、喉元までせり上がった。 

「……兄が、死んでいました」

 両手で頭を抱えながら、太一が呻く。
 腹のあたりから血を流し、遊左衛門は事切れていた。表で刺されたのだろう、助けを求めて太一の長屋に辿り着いて、力尽きた。
 兄さん、と冷たくなっていく兄にすがって泣いた。どれくらいそうしていたのか、犯人を捕まえなくては、とようやくのことで考える。

「その時、ふっと頭を過ったのです」
「──遊左衛門さんと入れ替わったらどうか、と?」

 淡々とした声で仙一郎が問うと、男はぼんやりと首肯する。

「長着は血まみれでしたが、羽織も履物もきれいだった。懐中のものも。着物を替えてしまえば、誰も気付かないのではないかと……」

 同じ顔と年格好なのだ。身に着けているものさえ取り替えたら、死んでいるのは団子屋台を商う太一としか見えない。
 兄弟、それも、双子と見紛うばかりの姿形。どうして遊左衛門となってはならないわけがあるだろうか。同じ父の血が流れているのだ。俺はこれまで、ずっと日陰で生きてきたじゃないか……
 大店の『あさひ屋』を、遠目に眺めたことが幾度かあった。
 もし立場が違ったならば、あの店で生まれ育ったのは自分のはずだった。
 そんな考えが心に浮かんだことがないと言ったら、嘘になる。
 母も、太一も、ひたすら倹しく生きてきた。団子屋台なんぞでは、死ぬまでこの貧相な狭い長屋から出ることは望めない。

──死んだのは、太一なのだ。

 ぴくりとも動かない遊左衛門を見詰めて、思った。
 震える手で兄の羽織を纏い、履物を替え、紙入れだの煙草入れだのを懐に入れる。

──すまん。兄さん、すまない。

 そう詫びながら、傘も差さずにあさひ屋へと向かった。だが、とても素面で赴く気になれず、吾妻橋を渡った辺りに出ていた屋台で溺れるように酒をくらった。

「──旦那様! 旦那様がお戻りだ!」
「どちらへおいでだったんですか。こんな時分までお戻りにならないなんて……」

 泥酔したまま店先に立った途端、奉公人らが血相を変えて飛び出してきたのを目にして、嫌でも酔いが覚める。

「ずぶ濡れじゃございませんか、お風邪を召されますよ。ご無事で本当によかった!」

 ああ、うん、とろくに受け答えもできずにいる太一を、皆は深酒をして記憶が曖昧なのだと合点したらしかった。なにしろ、奉公人の名前さえ怪しい有様だったのだから。
 びくびくしながら数日を過ごした頃、行方知れずだったすずがひょっこりと戻ってきた。

「とと様!」

 店の前につけられた駕篭から現れた少女が、太一を見るなりわぁわぁ泣き出した。ええと、あの、と躊躇った太一は、少女をおずおず抱き上げた。

「……すず?」

 話にだけ聞いていた、兄の子。その子供が、自分を父と呼んでいる。
 びいびい泣く少女のちっぽけな体が、火の玉みたいに熱い。とと様、とと様、と首にむしゃぶりつくすずのやわらかさ。旦那様、奇跡でございますねぇ、旦那様、と涙目で笑う奉公人たち。

……誰も、気づかないのだ。

 そう確信した途端、何かが目の奥に閃いた。
 花のような傘を吊るした店先の、大暖簾が目を射る。藍に染め抜かれた白い屋号が眩く輝き、軒先の大看板の重厚さが急に頭上に迫ってきた。
 心ノ臓が胸の奥で激しく乱れ打っている。血を流して事切れている兄の白い顔が目に浮かぶ。いいのか。これでいいのか。そう繰り返しながら、すずを抱く腕に力を込めていた。
 皆、遊左衛門を欲している。俺は、遊左衛門になれる。
 
「とと様……」

 不意に、すずが小首を傾げた。

「何だか、いつもと違う匂いがする。変なの」

 ぎくりとして凝視すると、娘は無邪気に言う。

「いつものとと様の匂いじゃない。どうしたの、とと様?」

 気がつくと、太一は驚くほど自然な笑みを唇に浮かべていた。

「……お前の気のせいだろう。とと様は、いつも通りのとと様だよ」

──俺は、遊左衛門だ。

 すずを抱えて暖簾を潜りながら、何かに憑かれたかのように、そう胸のうちで囁く。
 浅草は材木町の長屋で、太一という団子売りが殺された。物取りか何かに襲われて、長屋に戻ったところで事切れたらしく、犯人捜しは難航しそうだ、という噂を聞いたのは、それから間もなくのことだった。
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