深川あやかし屋敷奇譚

笹目いく子

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犬神(九)

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「あの大山で、ならず者に追われていたすずを匿った。そうだよね。それでお前さん、すずが息災にしているのか確かめたかったんだ」
「……天狗。すずが言っていた、天狗ってのは……」
「──ああ、そうだよ」

 うなじをごしごし擦りながらぼそりと言って、天狗は観念したように嘆息した。

「俺だよ。あん時、一座は大山にいたもんでね。俺はやっぱり天狗を演ってたのさ」
「……お前さんは、さしずめ猿島惣太さるしまそうだってわけだ」

 つるんとした瞳で仙一郎が笑うと、

「そんな洒落たもんじゃねぇよ」

 と男は何とも言えぬ表情で唇を歪めた。
 歌舞伎の『雙生隅田川』の筋はこうだ。主家の金を横領した淡路七郎は、猿島惣太と名を変え、人買いとなって大川上流の墨田川の畔に暮らしている。その惣太は、ある日拐ってきた子供・梅若丸を、元の主の子とは知らずに殺してしまうのだ。さて、この梅若丸には、天狗に拐われた松若丸という瓜二つの弟がいた。梅若丸を殺してしまったことを悔いた惣太は、松若丸を奪還するため切腹し、天狗の七郎へと生まれ変わるのだった。

「……あの頃は、一座にろくでもねぇ若い衆が何人かいてよ。大山詣の連中を襲って金品を奪ったりしてたのさ。俺ぁ下っ端だったから、嫌とは言えなかったんだ。だが、あんな小さい子供を襲うなんざごめんだったから、すずが一人でいるところに追いついて、仲間に気づかれないように一緒に逃げたんだ」
「天狗の格好をして?」

 そうだ、と男が頷いた。

「俺の顔を覚えていられちゃまずいからな」

 すずを山中にある小屋に隠し、仲間と遊左衛門たちが追跡を諦めるまで待った。そして、頃合いを見計らって麓の村まで降りて、そこですずと別れたのだという。

「すずは恐怖で記憶をすっかり失くしちまってたよ。罪なことをするねぇ」

 歌うように主が言うと、男は悄然として肩を落とした。

「……そうらしいですねぇ。俺ぁあれからすずのことが心にかかってて、今回江戸で巡業があったもんで、こっそり様子を見に行ったんでさぁ」

 曲芸もこなす芸人であるから、庭に忍び込むことなぞお手の物だ。すずはどこかと母屋をうかがっていると、突如一室の障子が開き、

「天狗……?」

 とすずが顔を出した。
 泡を食って逃げ出した。途中、羽根を一枚落とした。小道具の羽団扇から抜け、知らず袖にでも引っかかっていたのが落ちたらしい。

「うまく捲いたと思ったんだが、どういうわけか芝居小屋まで追いかけてきやがった。匂いをたどってきたんだとよ」

 そうしたら、と天狗男は苦しげに続けた。

「記憶がないっていうんで、驚いたよ。俺ならすずが本物のすずかわかるだろう、教えてくれってせがむんだよ。まさか、そんなことになってるとは思わなくてさ、俺ぁほんとやり切れなかった……」
「──で、どうなんだい? 本人なのかい?」

 無遠慮に主が身を乗り出すと、

「あったりまえでぇ」

 と男はきりりとした眉を吊り上げた。

「ありゃあすずだよ。間違いねぇ。俺と話してる間に、山にいた時のこともあれこれ思い出してたみてぇだしな」
「私、やっぱりすずなんだ。そうだと思ったの。だって天狗の匂いがわかったから……」

 よかった、よかった、とすずは無邪気に顔を輝かせたという。しかし、

「──あれ? でも、じゃあ……ってことは……」

 ぽつりと呟き、急に顔色を失った。

「なんだい。どうしたんだよ」
「嘘。そんなはず……そんなはず……でも、とと様の、匂いが……」

 血の気の失せた顔を男に向けるなり、ずいと身を乗り出す。

「いつも同じ匂いのする人が、急に違う匂いになることって、ある?」
「へっ? 何だそりゃ。匂袋か鬢づけ油でも変えれば、変わるだろう」

 そうじゃない、とすずが首を振る。

「何もつけていなくても、する。天狗も天狗の匂いだし、番頭さんも番頭さんの匂いがする」

 だけど。

「その人だと思ったのに、違う匂いだったら……?」
「じゃ、違う奴なんだろ。他に何があるんだい」

 すずが石と化したかのごとく、黙り込む。
 そうして虚ろな眼差しで唇を震わせたまま、おい、すず、という新也の声も耳に届いてはいないようだった。

「でね、あさひ屋の迎えだっていう人が来たもんで、一緒に帰ったみてえですよ」
「迎え?」

 遊左衛門の声が鋭くなる。

「犯人はあさひ屋の奉公人だってことか?」
「さぁ……でも、すずはそいつのことをよく知っているみてぇでしたよ。怖がりもしねぇで一緒に歩いてったしね」
「顔は。名前は?」

 掴みかからんばかりの遊左衛門と親分の剣幕に、新也は怯えながら首を振る。

「わからねぇ。名乗らなかったし、手ぬぐいを被った上に笠を乗せてたからよ。そうさなぁ、四十かそこらの男に見えたってことくらいしか……」

 一座の者に訊ねてみても、皆そんな二人連れには注意を払っていなかった。やはり四十がらみの男ということくらいしかわからない。

「すず……」

 苦悩と焦燥を背中に浮かべ、遊左衛門は賑々しい広小路に立ち尽くす。笑い声と歓声に囲まれながら、まるで迷い子のごとく、遊左衛門だけが独り取り残されているかのようだ。

「旦那様……すず様、どこにいらっしゃるんでしょう」

 男の姿を遠目に見ながら、もどかしい気持ちでお凛が問うと、さぁねぇ、という頼りない答えが返ってくる。

「……犬神は、今頃どうしているのやら」

 仙一郎が広小路を見回して、独り言のように言った。
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