35 / 42
連載
犬神(七)
しおりを挟む
すずが忽然と姿を消したという知らせが飛び込んだのは、仙之助がいつものごとく寝坊してきて、遅い朝餉を取っている最中のことだった。
「すずが消えた……?」
周章狼狽しているあさひ屋の小僧から話を聞き出し、寝ぼけ眼の主は片方の眉を持ち上げる。
「はい。お心当たりはないかと、旦那さんが」
「ここには来ちゃいないよ」
そのようで、とまだ十四かそこらの小僧が項垂れる。
「夜の間にいなくなったのかい」
「いえ、朝にお姿を見た者がおります。朝餉の前までは確かにおられたのです。そうだ、旦那さんが、天狗だとおっしゃって」
天狗、と部屋の脇に控えたお凛は耳を疑う。主を見遣れば、その目がきらりと光ったようだった。
「天狗が来た。お嬢様を拐って行った、とそりゃあもう大騒ぎで……」
「お凛、行くぞ。猪牙を捕まえろ」
箸を放り出すなり、仙之助はがばと立ち上がってそう言ったのだった。
朝の忙しさと活気に溢れる相生町を夢中で走る。
あさひ屋の母屋のとある部屋の前に差し掛かったとき、奉公人に囲まれながら、亡霊のように虚ろな表情で縁側に立ち竦む遊左衛門を見て、お凛は仙之助の背後で息を飲んだ。
「すず、どうして……一体何が……」
白い朝日に照らされたその手に、茶と白の縞が入った、風切り羽根のような大きな羽根がある。
恐怖に染まった青い顔をこちらへ向けた店主は、仙之助さん、と呻いた。
「これが、部屋の前に落ちていたんです……」
「羽根……?」
お凛は不思議に思いながら羽根を見下ろし、それから鋭く息を飲んだ。あれはもしや……。
「羽団扇の、羽根ですかねぇ、それ」
仙之助のつるんとした両目が輝いた。
羽団扇。天狗が持っている羽団扇ではないか。子供でも知っている。天狗はその手に、羽根のついた団扇を携えているのだ……
「天狗……天狗が来たんだ。すずを拐いに、また」
「旦那さん、しっかりしな。天狗なんぞがいるもんかい。芝居でもあるめぇし」
霜髪にいかつい顔をした男が呆れ顔で言う。あさひ屋出入りの御用聞きで、雲蔵親分というらしい。奉公人の知らせを受けて飛んで来たのだという。
「そうですとも。ご自分でどこかへお出かけになったのでは……」
信じ難いように顔を引きつらせる番頭に、
「そんなはずはない。私に一言もなく、そんなことをするものか」
遊左衛門は上ずった声で言下に言って、よろよろと母屋を出ていこうとする。
「さ、探すんだ。大山、大山にいるのか? ああ、天狗相手に一体どうしたらいいんだ。お坊様を呼ぼう。祈祷とお祓いを……」
「遊左衛門さん、ちょいと待ってくださいよ。ねぇ」
緊迫感に欠ける声が響いた。
遊左衛門が握り締めている羽根にひょいと手を伸ばし、仙之助はしげしげとそれを見回す。イヌワシの羽根でできた、茶色と白の縞模様。その羽根の先が赤く塗ってある。
「ははぁ……」
「ど、どうなさったんです? 早く……早く探しに行かなくては」
焦燥に炙られているように額にじっとりと汗を浮かべ、店主が急かす。
「遊左衛門さん、これを持っている天狗ね。私知ってますよ」
ぽっかりと、その場に空白が生まれたかのようだった。
「……え、ご、ご存知で? ご存知なんですか?」
猛然と、舌をもつれさせて遊左衛門が叫ぶ。
「ええ。この、さきっぽだけ赤く塗ってあるでしょう? 珍しいなと思ったんで覚えてますよ。あの天狗の趣味なんでしょうね」
「どこの、どこの天狗ですか? どの山の?」
途端、あははは、と青年が不謹慎なほどおかしげに笑うので、気でも触れたのかとお凛はぎょっとした。
「うーん、山じゃあないな。あちらこちらを旅しているから、宿無しみたいなもんでしょうけどね。あ、群れはあるのかなぁ」
「どういう意味で……旦那さん、教えてくださいまし!」
「そうですよ、ふざけている場合ですか!」
殺気立った遊左衛門とお凛が声を荒げると、青年は「まぁまぁ」と小突きたくなるように呑気な顔でいなしてくる。
「こいつはね、千鳥勘兵衛一座っていう群れの一羽ですよ。今は……両国広小路に住んでいるはずです」
そう言いながら、懐から引き札をかさりと取り出して見せた。
「すずが消えた……?」
周章狼狽しているあさひ屋の小僧から話を聞き出し、寝ぼけ眼の主は片方の眉を持ち上げる。
「はい。お心当たりはないかと、旦那さんが」
「ここには来ちゃいないよ」
そのようで、とまだ十四かそこらの小僧が項垂れる。
「夜の間にいなくなったのかい」
「いえ、朝にお姿を見た者がおります。朝餉の前までは確かにおられたのです。そうだ、旦那さんが、天狗だとおっしゃって」
天狗、と部屋の脇に控えたお凛は耳を疑う。主を見遣れば、その目がきらりと光ったようだった。
「天狗が来た。お嬢様を拐って行った、とそりゃあもう大騒ぎで……」
「お凛、行くぞ。猪牙を捕まえろ」
箸を放り出すなり、仙之助はがばと立ち上がってそう言ったのだった。
朝の忙しさと活気に溢れる相生町を夢中で走る。
あさひ屋の母屋のとある部屋の前に差し掛かったとき、奉公人に囲まれながら、亡霊のように虚ろな表情で縁側に立ち竦む遊左衛門を見て、お凛は仙之助の背後で息を飲んだ。
「すず、どうして……一体何が……」
白い朝日に照らされたその手に、茶と白の縞が入った、風切り羽根のような大きな羽根がある。
恐怖に染まった青い顔をこちらへ向けた店主は、仙之助さん、と呻いた。
「これが、部屋の前に落ちていたんです……」
「羽根……?」
お凛は不思議に思いながら羽根を見下ろし、それから鋭く息を飲んだ。あれはもしや……。
「羽団扇の、羽根ですかねぇ、それ」
仙之助のつるんとした両目が輝いた。
羽団扇。天狗が持っている羽団扇ではないか。子供でも知っている。天狗はその手に、羽根のついた団扇を携えているのだ……
「天狗……天狗が来たんだ。すずを拐いに、また」
「旦那さん、しっかりしな。天狗なんぞがいるもんかい。芝居でもあるめぇし」
霜髪にいかつい顔をした男が呆れ顔で言う。あさひ屋出入りの御用聞きで、雲蔵親分というらしい。奉公人の知らせを受けて飛んで来たのだという。
「そうですとも。ご自分でどこかへお出かけになったのでは……」
信じ難いように顔を引きつらせる番頭に、
「そんなはずはない。私に一言もなく、そんなことをするものか」
遊左衛門は上ずった声で言下に言って、よろよろと母屋を出ていこうとする。
「さ、探すんだ。大山、大山にいるのか? ああ、天狗相手に一体どうしたらいいんだ。お坊様を呼ぼう。祈祷とお祓いを……」
「遊左衛門さん、ちょいと待ってくださいよ。ねぇ」
緊迫感に欠ける声が響いた。
遊左衛門が握り締めている羽根にひょいと手を伸ばし、仙之助はしげしげとそれを見回す。イヌワシの羽根でできた、茶色と白の縞模様。その羽根の先が赤く塗ってある。
「ははぁ……」
「ど、どうなさったんです? 早く……早く探しに行かなくては」
焦燥に炙られているように額にじっとりと汗を浮かべ、店主が急かす。
「遊左衛門さん、これを持っている天狗ね。私知ってますよ」
ぽっかりと、その場に空白が生まれたかのようだった。
「……え、ご、ご存知で? ご存知なんですか?」
猛然と、舌をもつれさせて遊左衛門が叫ぶ。
「ええ。この、さきっぽだけ赤く塗ってあるでしょう? 珍しいなと思ったんで覚えてますよ。あの天狗の趣味なんでしょうね」
「どこの、どこの天狗ですか? どの山の?」
途端、あははは、と青年が不謹慎なほどおかしげに笑うので、気でも触れたのかとお凛はぎょっとした。
「うーん、山じゃあないな。あちらこちらを旅しているから、宿無しみたいなもんでしょうけどね。あ、群れはあるのかなぁ」
「どういう意味で……旦那さん、教えてくださいまし!」
「そうですよ、ふざけている場合ですか!」
殺気立った遊左衛門とお凛が声を荒げると、青年は「まぁまぁ」と小突きたくなるように呑気な顔でいなしてくる。
「こいつはね、千鳥勘兵衛一座っていう群れの一羽ですよ。今は……両国広小路に住んでいるはずです」
そう言いながら、懐から引き札をかさりと取り出して見せた。
3
お気に入りに追加
243
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

私に姉など居ませんが?
山葵
恋愛
「ごめんよ、クリス。僕は君よりお姉さんの方が好きになってしまったんだ。だから婚約を解消して欲しい」
「婚約破棄という事で宜しいですか?では、構いませんよ」
「ありがとう」
私は婚約者スティーブと結婚破棄した。
書類にサインをし、慰謝料も請求した。
「ところでスティーブ様、私には姉はおりませんが、一体誰と婚約をするのですか?」


【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?

断腸の思いで王家に差し出した孫娘が婚約破棄されて帰ってきた
兎屋亀吉
恋愛
ある日王家主催のパーティに行くといって出かけた孫娘のエリカが泣きながら帰ってきた。買ったばかりのドレスは真っ赤なワインで汚され、左頬は腫れていた。話を聞くと王子に婚約を破棄され、取り巻きたちに酷いことをされたという。許せん。戦じゃ。この命燃え尽きようとも、必ずや王家を滅ぼしてみせようぞ。

【完結】兄の事を皆が期待していたので僕は離れます
まりぃべる
ファンタジー
一つ年上の兄は、国の為にと言われて意気揚々と村を離れた。お伽話にある、奇跡の聖人だと幼き頃より誰からも言われていた為、それは必然だと。
貧しい村で育った弟は、小さな頃より家の事を兄の分までせねばならず、兄は素晴らしい人物で対して自分は凡人であると思い込まされ、自分は必要ないのだからと弟は村を離れる事にした。
そんな弟が、自分を必要としてくれる人に会い、幸せを掴むお話。
☆まりぃべるの世界観です。緩い設定で、現実世界とは違う部分も多々ありますがそこをあえて楽しんでいただけると幸いです。
☆現実世界にも同じような名前、地名、言葉などがありますが、関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。