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犬神(二)
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犬神という、霊とも妖ともつかぬものがいる。
犬という名はついているが、実は狐の霊だとも言われ、いかにして発生したのかは定かではない。一説には犬を殺して埋めた霊とも言うが、元は鵺であったとか、弘法大師が描いた絵であるとか、諸説あって判然とはしない。
「……しかし、総じてその姿は鼠、あるいは鼬に似ており、白地に斑模様の毛並みをしていると言われています」
と、男が遠い目をして言う。
犬神に祝福される家は富み栄え、これを使役すれば人を呪い殺すこともできるという。
仙之助はごほごほと咳をしつつ、舌なめずりしそうな様子で箪笥を矯めつ眇めつした。
「──犬神は、箪笥や甕の中、あるいは床下などに棲むそうですね。これがその箪笥というわけですか」
「その通りです」
男がごくりと喉を鳴らした。
「……犬神は、一つの抽出に一匹ずつ棲んでおりました。しかし今は空っぽです。戻れないように、この通り膠で固めてしまいましたから」
「へぇ、六匹もそこらをうろついているわけですか。あなたを探して」
手拭いを顔に押し付けたまま、仙之助が生気を取り戻した瞳で辺りを見回している。自分も犬神に追われてみたくてたまらないのであろう。
「左様です。ですからこうして、邪を退け、自分の匂いを消すためにお香を塗りたくり、できるかぎり家にこもって過ごしておるわけなのです。奴らは目が見えず、匂いがないと獲物を見失うのだそうで」
頬を引きつらせて客人が囁く。
「犬神を代々使役する家のことを、犬神筋などと呼びます。……曾祖母は犬神筋だったそうで、この箪笥も曾祖母の嫁入り道具であったとか。曾祖母以来、犬神を使役する者は絶え、これが犬神の棲家であることも、一族の者が思い出すことさえなかったのです」
神経質そうに揺れる瞳が、きゅっと縮こまった。
「ところが……昨年から犬神が暴れだしたのです」
箪笥に棲みついていた犬神が、突如犬神筋の一族に牙を剥いた。
「細長い、白い獣が周りに現れるようになったと思っていたら、ある日人間になり変わり、私たちに襲いかかったのです」
うらうらとよく晴れた春の日だった。遊左衛門は桃の節句の支度をしようと、九つになる娘のすずや女中らと、居間に雛壇を設えていた。箱から雪洞だの五人囃だのを取り出し、小物を手に取ってはきゃっきゃとはしゃぐすずの姿に目を細めていると、母屋に届いた桃の枝を受け取りに女中たちが席を外した。
「白木屋で誂えた晴れ着も届いているよ。明後日の宴席で着るんだろう」
自分には構わないが、娘は溺愛する遊左衛門である。金に糸目をつけない可愛がりようだった。にこにこしながらそう言うと、すずはぱぁっと頬を染めて、
「うん」
と嬉しげに歯を零した。
きし、きし、と廊下が鳴る。
「あ、桃が届いた」
障子に映った人影を振り向いてすずが声を弾ませた。
からりと障子が開き、溢れんばかりの薄紅色の桃の花が現れる……かと思った。
「──え?」
遊左衛門もすずも、ぽかんとしたまま固まった。
白目を剥いた見知らぬ男が、幽鬼のように立っている。
だらしなく唇を開き、瘧のごとく震えている。総髪に着流しの浪人の風体だが、案山子を思わせるほどに痩せていた。白目を剥いた目玉がぐりぐりと動き、犬に似た仕草で忙しく空気を嗅いでいる。
まるで、獲物の匂いを探るかのように。
と、ぶるぶる震える白目が、ぐりっとこちらを睨んだ気がした。
ひゅっ、と遊左衛門の喉が鳴る。
「いぬがみ……」
すずの呆然とした声を聞いた刹那、男の骨ばった両手が眼前に迫っていた。うわ、と叫ぶ間もなく掴みかかられ、畳に倒れこんだ。冷たい指が喉にまわり、鋼のような容赦のなさで締め上げてくる。ばたばたと暴れる遊左衛門を見下ろしながら、浪人は無表情に手指を締め付ける。男の白目が激しく蠢く。
首の骨が砕けるのではないかと思った瞬間、「とと様!」というすずの悲鳴が耳に届いた。すず。遠くなっていた意識が鮮明になる。すずが男に掴みかかっている。男が無造作に片手を振った途端、すずはあっけなく宙を飛んで雛壇にぶつかった。ばらばらと華やかな人形たちが崩れ落ちる。お嬢様、どうなさいました、と廊下を走る足音が迫る。
すず。すずを守らねば。男を死に物狂いで押し返した。いぬがみ、という娘の声が耳の奥に響いた。犬神は人の姿に化けると聞いたことがある。まさかそれなのか。犬神筋とはいえ、これまで犬神なぞ目にしたこともなかった。にわかには信じがたい。
そう思った瞬間、犬神は匂いを頼りに獲物を探すことを閃くように思い出した。それならば、と渾身の力で男を跳ね除け、隣の仏間に走る。そして仏壇にあったお香入れをつかむと、自分と追いすがってきた男に頭からかぶせたのだった。
ぎゃっ、というおぞましい叫びと共に、お香のもうもうとした煙にかき消されるようにして男が消える。
黄色い煙の中に、一瞬、身を翻して走り去る白い獣を見た気がした。
犬という名はついているが、実は狐の霊だとも言われ、いかにして発生したのかは定かではない。一説には犬を殺して埋めた霊とも言うが、元は鵺であったとか、弘法大師が描いた絵であるとか、諸説あって判然とはしない。
「……しかし、総じてその姿は鼠、あるいは鼬に似ており、白地に斑模様の毛並みをしていると言われています」
と、男が遠い目をして言う。
犬神に祝福される家は富み栄え、これを使役すれば人を呪い殺すこともできるという。
仙之助はごほごほと咳をしつつ、舌なめずりしそうな様子で箪笥を矯めつ眇めつした。
「──犬神は、箪笥や甕の中、あるいは床下などに棲むそうですね。これがその箪笥というわけですか」
「その通りです」
男がごくりと喉を鳴らした。
「……犬神は、一つの抽出に一匹ずつ棲んでおりました。しかし今は空っぽです。戻れないように、この通り膠で固めてしまいましたから」
「へぇ、六匹もそこらをうろついているわけですか。あなたを探して」
手拭いを顔に押し付けたまま、仙之助が生気を取り戻した瞳で辺りを見回している。自分も犬神に追われてみたくてたまらないのであろう。
「左様です。ですからこうして、邪を退け、自分の匂いを消すためにお香を塗りたくり、できるかぎり家にこもって過ごしておるわけなのです。奴らは目が見えず、匂いがないと獲物を見失うのだそうで」
頬を引きつらせて客人が囁く。
「犬神を代々使役する家のことを、犬神筋などと呼びます。……曾祖母は犬神筋だったそうで、この箪笥も曾祖母の嫁入り道具であったとか。曾祖母以来、犬神を使役する者は絶え、これが犬神の棲家であることも、一族の者が思い出すことさえなかったのです」
神経質そうに揺れる瞳が、きゅっと縮こまった。
「ところが……昨年から犬神が暴れだしたのです」
箪笥に棲みついていた犬神が、突如犬神筋の一族に牙を剥いた。
「細長い、白い獣が周りに現れるようになったと思っていたら、ある日人間になり変わり、私たちに襲いかかったのです」
うらうらとよく晴れた春の日だった。遊左衛門は桃の節句の支度をしようと、九つになる娘のすずや女中らと、居間に雛壇を設えていた。箱から雪洞だの五人囃だのを取り出し、小物を手に取ってはきゃっきゃとはしゃぐすずの姿に目を細めていると、母屋に届いた桃の枝を受け取りに女中たちが席を外した。
「白木屋で誂えた晴れ着も届いているよ。明後日の宴席で着るんだろう」
自分には構わないが、娘は溺愛する遊左衛門である。金に糸目をつけない可愛がりようだった。にこにこしながらそう言うと、すずはぱぁっと頬を染めて、
「うん」
と嬉しげに歯を零した。
きし、きし、と廊下が鳴る。
「あ、桃が届いた」
障子に映った人影を振り向いてすずが声を弾ませた。
からりと障子が開き、溢れんばかりの薄紅色の桃の花が現れる……かと思った。
「──え?」
遊左衛門もすずも、ぽかんとしたまま固まった。
白目を剥いた見知らぬ男が、幽鬼のように立っている。
だらしなく唇を開き、瘧のごとく震えている。総髪に着流しの浪人の風体だが、案山子を思わせるほどに痩せていた。白目を剥いた目玉がぐりぐりと動き、犬に似た仕草で忙しく空気を嗅いでいる。
まるで、獲物の匂いを探るかのように。
と、ぶるぶる震える白目が、ぐりっとこちらを睨んだ気がした。
ひゅっ、と遊左衛門の喉が鳴る。
「いぬがみ……」
すずの呆然とした声を聞いた刹那、男の骨ばった両手が眼前に迫っていた。うわ、と叫ぶ間もなく掴みかかられ、畳に倒れこんだ。冷たい指が喉にまわり、鋼のような容赦のなさで締め上げてくる。ばたばたと暴れる遊左衛門を見下ろしながら、浪人は無表情に手指を締め付ける。男の白目が激しく蠢く。
首の骨が砕けるのではないかと思った瞬間、「とと様!」というすずの悲鳴が耳に届いた。すず。遠くなっていた意識が鮮明になる。すずが男に掴みかかっている。男が無造作に片手を振った途端、すずはあっけなく宙を飛んで雛壇にぶつかった。ばらばらと華やかな人形たちが崩れ落ちる。お嬢様、どうなさいました、と廊下を走る足音が迫る。
すず。すずを守らねば。男を死に物狂いで押し返した。いぬがみ、という娘の声が耳の奥に響いた。犬神は人の姿に化けると聞いたことがある。まさかそれなのか。犬神筋とはいえ、これまで犬神なぞ目にしたこともなかった。にわかには信じがたい。
そう思った瞬間、犬神は匂いを頼りに獲物を探すことを閃くように思い出した。それならば、と渾身の力で男を跳ね除け、隣の仏間に走る。そして仏壇にあったお香入れをつかむと、自分と追いすがってきた男に頭からかぶせたのだった。
ぎゃっ、というおぞましい叫びと共に、お香のもうもうとした煙にかき消されるようにして男が消える。
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