深川あやかし屋敷奇譚

笹目いく子

文字の大きさ
上 下
30 / 42
連載

犬神(二)

しおりを挟む
 犬神という、霊とも妖ともつかぬものがいる。
 犬という名はついているが、実は狐の霊だとも言われ、いかにして発生したのかは定かではない。一説には犬を殺して埋めた霊とも言うが、元はぬえであったとか、弘法大師が描いた絵であるとか、諸説あって判然とはしない。

「……しかし、総じてその姿は鼠、あるいはいたちに似ており、白地に斑模様の毛並みをしていると言われています」

 と、男が遠い目をして言う。
 犬神に祝福される家は富み栄え、これを使役すれば人を呪い殺すこともできるという。
 仙之助はごほごほと咳をしつつ、舌なめずりしそうな様子で箪笥を矯めつ眇めつした。

「──犬神は、箪笥や甕の中、あるいは床下などに棲むそうですね。これがその箪笥というわけですか」
「その通りです」

 男がごくりと喉を鳴らした。

「……犬神は、一つの抽出に一匹ずつ棲んでおりました。しかし今は空っぽです。戻れないように、この通りにかわで固めてしまいましたから」
「へぇ、六匹もそこらをうろついているわけですか。あなたを探して」

 手拭いを顔に押し付けたまま、仙之助が生気を取り戻した瞳で辺りを見回している。自分も犬神に追われてみたくてたまらないのであろう。

「左様です。ですからこうして、邪を退け、自分の匂いを消すためにお香を塗りたくり、できるかぎり家にこもって過ごしておるわけなのです。奴らは目が見えず、匂いがないと獲物を見失うのだそうで」

 頬を引きつらせて客人が囁く。

「犬神を代々使役する家のことを、犬神筋などと呼びます。……曾祖母は犬神筋だったそうで、この箪笥も曾祖母の嫁入り道具であったとか。曾祖母以来、犬神を使役する者は絶え、これが犬神の棲家であることも、一族の者が思い出すことさえなかったのです」

 神経質そうに揺れる瞳が、きゅっと縮こまった。

「ところが……昨年から犬神が暴れだしたのです」

 箪笥に棲みついていた犬神が、突如犬神筋の一族に牙を剥いた。

「細長い、白い獣が周りに現れるようになったと思っていたら、ある日人間になり変わり、私たちに襲いかかったのです」

 うらうらとよく晴れた春の日だった。遊左衛門は桃の節句の支度をしようと、九つになる娘のすずや女中らと、居間に雛壇を設えていた。箱から雪洞ぼんぼりだの五人囃だのを取り出し、小物を手に取ってはきゃっきゃとはしゃぐすずの姿に目を細めていると、母屋に届いた桃の枝を受け取りに女中たちが席を外した。

「白木屋で誂えた晴れ着も届いているよ。明後日の宴席で着るんだろう」

 自分には構わないが、娘は溺愛する遊左衛門である。金に糸目をつけない可愛がりようだった。にこにこしながらそう言うと、すずはぱぁっと頬を染めて、

「うん」

 と嬉しげに歯を零した。
 きし、きし、と廊下が鳴る。

「あ、桃が届いた」

 障子に映った人影を振り向いてすずが声を弾ませた。
 からりと障子が開き、溢れんばかりの薄紅色の桃の花が現れる……かと思った。

「──え?」

 遊左衛門もすずも、ぽかんとしたまま固まった。
 白目を剥いた見知らぬ男が、幽鬼のように立っている。 
 だらしなく唇を開き、おこりのごとく震えている。総髪に着流しの浪人の風体だが、案山子かかしを思わせるほどに痩せていた。白目を剥いた目玉がぐりぐりと動き、犬に似た仕草で忙しく空気を嗅いでいる。
 まるで、獲物の匂いを探るかのように。
 と、ぶるぶる震える白目が、ぐりっとこちらを睨んだ気がした。
 ひゅっ、と遊左衛門の喉が鳴る。 

「いぬがみ……」

 すずの呆然とした声を聞いた刹那、男の骨ばった両手が眼前に迫っていた。うわ、と叫ぶ間もなく掴みかかられ、畳に倒れこんだ。冷たい指が喉にまわり、鋼のような容赦のなさで締め上げてくる。ばたばたと暴れる遊左衛門を見下ろしながら、浪人は無表情に手指を締め付ける。男の白目が激しく蠢く。
 首の骨が砕けるのではないかと思った瞬間、「とと様!」というすずの悲鳴が耳に届いた。すず。遠くなっていた意識が鮮明になる。すずが男に掴みかかっている。男が無造作に片手を振った途端、すずはあっけなく宙を飛んで雛壇にぶつかった。ばらばらと華やかな人形たちが崩れ落ちる。お嬢様、どうなさいました、と廊下を走る足音が迫る。
 すず。すずを守らねば。男を死に物狂いで押し返した。いぬがみ、という娘の声が耳の奥に響いた。犬神は人の姿に化けると聞いたことがある。まさかそれなのか。犬神筋とはいえ、これまで犬神なぞ目にしたこともなかった。にわかには信じがたい。
 そう思った瞬間、犬神は匂いを頼りに獲物を探すことを閃くように思い出した。それならば、と渾身の力で男を跳ね除け、隣の仏間に走る。そして仏壇にあったお香入れをつかむと、自分と追いすがってきた男に頭からかぶせたのだった。
 ぎゃっ、というおぞましい叫びと共に、お香のもうもうとした煙にかき消されるようにして男が消える。
 黄色い煙の中に、一瞬、身を翻して走り去る白い獣を見た気がした。

しおりを挟む
感想 16

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

魅了が解けた貴男から私へ

砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。 彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。 そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。 しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。 男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。 元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。 しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。 三話完結です。

冤罪で追放した男の末路

菜花
ファンタジー
ディアークは参っていた。仲間の一人がディアークを嫌ってるのか、回復魔法を絶対にかけないのだ。命にかかわる嫌がらせをする女はいらんと追放したが、その後冤罪だったと判明し……。カクヨムでも同じ話を投稿しています。

〈完結〉遅効性の毒

ごろごろみかん。
ファンタジー
「結婚されても、私は傍にいます。彼が、望むなら」 悲恋に酔う彼女に私は笑った。 そんなに私の立場が欲しいなら譲ってあげる。

【完結】兄の事を皆が期待していたので僕は離れます

まりぃべる
ファンタジー
一つ年上の兄は、国の為にと言われて意気揚々と村を離れた。お伽話にある、奇跡の聖人だと幼き頃より誰からも言われていた為、それは必然だと。 貧しい村で育った弟は、小さな頃より家の事を兄の分までせねばならず、兄は素晴らしい人物で対して自分は凡人であると思い込まされ、自分は必要ないのだからと弟は村を離れる事にした。 そんな弟が、自分を必要としてくれる人に会い、幸せを掴むお話。 ☆まりぃべるの世界観です。緩い設定で、現実世界とは違う部分も多々ありますがそこをあえて楽しんでいただけると幸いです。 ☆現実世界にも同じような名前、地名、言葉などがありますが、関係ありません。

英雄一家は国を去る【一話完結】

青緑
ファンタジー
婚約者との舞踏会中、火急の知らせにより領地へ帰り、3年かけて魔物大発生を収めたテレジア。3年振りに王都へ戻ったが、国の一大事から護った一家へ言い渡されたのは、テレジアの婚約破棄だった。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。