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人喰いつづら(八)
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火事は日本橋小網町の大半を焼いた後、雨のおかげでようやく勢いを失うと、深夜までに消し止められた。焼失範囲が限定的であったことが幸いして、死傷者の数は少なかったそうだ。残念なことに大角屋は延焼により燃え尽きたが、奉公人は皆無事だった。大店のことであるから、四日と置かずに焼け跡に表店の棟上げをして見せた上、店主の采配で焼け出された人々に実に気前よく医者や住まいの世話をした。さすが豪商大角屋、と誰もがその心意気に感心したという。
それからすぐに、店主の文斉は女中であったお松を後妻に迎えた。気力充実した店主の辣腕はますます冴えて、火災の不幸には微塵の動揺も見せることなく、内儀のお松がしっかりとそれを支えているのだそうだ。
「──あれから考えたんだがのう。あの葛籠は、やはりただの葛籠だったのだと思うんだよ。儂やそのご店主のように不安や弱さを抱えた者は、何かのきっかけで葛籠のありもしない声を聞いたと思い込み、己の心に潜む醜く邪悪な獣のようなものを檻から放ってしまうのだろうよ。枷を解かれた獣というものは、尋常ならざる力を発揮することがある。良くも悪くもな。……いやまったく、儂も修行が足らんことだ」
庭の梅の蕾が膨らんできたある朝、上野は妙円寺の泥徳和尚が屋敷を訪ねてきて、しみじみとそう述懐した。
「そんな!では、葛籠にまつわる出来事はすべて気のせいだったとおっしゃるんですか?そんなこと、だって確かに……だって……」
と思わず猛然と抗議しかけて、お凛は口ごもった。
「まぁ……そういうことも、ある……かもしれませんけれど……」
果たしてあの葛籠は何だったのだろうか。仙之助は葛籠を前にしてもけろりとしていたし、お松が飲み込まれかけた時も、本当に葛籠に食われようとしていたのかなんて判りはしない。代々の文斉が葛籠に願掛けして危難から店を守った話にしても、幸運と偶然と、努力が功を奏しただけのことであったのかもしれない。葛籠にまつわる血生臭い言い伝えだって、人の狂信的な心が生み出した幻影であったのかもわからない……そう考え始めると、すべてが白とも黒ともつかぬ、曖昧模糊とした灰色に思われてくる。
「……だとしたら、ちょっと悔しい気もしますねぇ。何のためにあんなに大騒ぎをしたんだか。……まぁ、旦那さんとお松さんがお幸せにお暮らしなのは何よりですけれど」
まったく、これだから祟りだの呪いだのは信じないに限るのだ。人騒がせにもほどがある。終わりよければすべてよしとはいえ、お凛はどっと疲れを覚えつつ憮然とした。
「そう言われると儂も面目ないのう。……だが、理屈ではなく己自身に振り回されてしまうのが人の性なのだろうな。反対に、己の怯懦や欲を乗り越えようと努めるのも、また人の性でもある。人とはかくも迷いやすい生き物であることだ」
泥徳の自戒を込めた言葉に、お凛は、なるほど徳の高いお方のおっしゃることは違う、と神妙に耳を傾けた。
すると、文斉からお詫びにと贈られた、一棹一両もする『鈴木越後』の最高級練り羊羹を切なげに口に運んでいた仙之助は、黒文字を握り締めて身をよじった。
「冗談じゃありませんよ!あれは正真正銘血みどろに呪われまくった、怨念が詰まりに詰まった稀有な人食い葛籠だったんですよ。言いがかりはよして下さい。あいつへの侮辱ですよ!ああ……ちょっと偏食と大食いが過ぎたせいで、皆に嫌われちまって馬鹿な奴……私はお前を忘れやしないよ」
わっと両手で顔を覆い、通夜のように袖を絞る。
「せっかくの葛籠は燃えちまったし、お松さんは文斉さんのお内儀になっちまうし。富札が一枚も当たらなくて染と梅が冷たいし。私一人が大損だ。こんな時にあの葛籠があったら、葛籠を返してくれと頼むのになぁ……!」
悲嘆のあまり、論理が破綻していることにも気付かぬらしい。
「……お凛、何がおかしいんだい?」
指の間から、むっとしたように主が睨んだ。
「いーえなんにも」
あら、一枚も当たらなかったのね、とほくそ笑んだのが見えただろうか。お凛は澄まし顔でにこりとした。
「ともかくだ。儂も今度のことで深く己を省みた」
おもむろに居住まいを正した老僧が、改まった口調で言った。
「仙之助どの。儂は心を入れ替え初心に帰ることにした。是非とも儂をお前さんの弟子にしてもらえんだろうか」
うぇっ!?と頓狂な声を発して仙之助が凍りつく。
「名人だなどとちやほされる内に、慢心する心が知らず育ったのだろう。それがあのような醜態を招いたのじゃ。お前さんのその、享楽的で破廉恥で野放図で無分別な生き方の中にこそ、悟りの道は開かれておるのかもしれん。まさに泥に咲く蓮の花のごとくにだ!」
深々と平伏した老僧の後頭部を見下ろしながら、仙之助はじりじりと後ずさっていた。
「いや……過分なお褒めというか何というか。お申し出は恐縮なんですが、嫌です」
「そんな遠慮深いことを言わんでもいい。やれというなら薪割りでも掃除でも炊事でもしてやろう」
「間に合ってますんで……」
「そうだ、毎日座禅と説法もしてやるぞ?儂の説法は評判がよくてな……」
「結構ですから!ほんとに!私、二親も匙を投げた筋金入りのどら息子ですんで。御仏もお手上げなんです!」
「おお、そうだった。破戒僧の心持ちで臨まなくてはならんのだったな」
厳しい修行に臨む雲水のような決死の覚悟を目に浮かべ、泥徳が厳かに言う。
「辰巳芸者と相対する覚悟は出来ておるぞ。これも仏道に至る試練であれば耐えて見せよう。さあいつでも連れて行くがいい。ついでに座禅と禅問答と説法もどうだ?」
「染と梅が出家しちまったらどうしてくれるんです!? 絶対連れて行きませんから!」
主が恐怖に駆られた声で叫ぶのを聞きながら、名の知られた老僧の謙虚さにお凛は感じ入った。実るほど頭を垂れる稲穂かな。やっぱり、人間地道に生きなくては。そうお凛はひとり心持ちを新にしたのだった。
***
思いも寄らぬ客人が訪れたのは、泥徳が去って中食を取った後のことだった。
一抱えほどある風呂敷包を抱えて玄関先に現れたその人を見た途端、お凛は声を弾ませた。
「まぁ、おつた様。ようこそおいで下さいました」
大角屋文斉の長女おつたが、やさしげに微笑んで立っていた。
「これはこれは、おつた様。ご店主もお内儀様もご息災で……」
居間で娘を迎えた仙之助は、泥徳をどうにかこうにか追い返してげっそりしていたのも忘れ、満面の笑みを浮かべた。
──が、おつたの抱える風呂敷包を目にした途端、すうっと目を細くする。
「お陰様で、父も義母も仲睦まじく過ごしております。……「あれ」が無くなったことなど、父はもう思い悩むこともなく、健康も取り戻しまして」
「……それは何よりです。おつた様もさぞご安堵なすっておいででしょう」
おつたを見詰める主の双眸が、曇ったように掴みどころのない表情を浮かべている。
「──そうでございますね」
美しい声で応じると、唐突に会話が途切れた。
にこにこしながら茶を供していたお凛は、怪訝そうに二人を見上げた。
おつたの顔からやわらかな笑みが掻き消えて、能面のような静寂が漂って見える。庭木で囀りを練習している若い鶯の鳴き声が、障子を透かして耳に届く。時折つまったり、音を外したりする下手な鳴き方は健気で愛らしい。けれど、おつたは鶯の声など聞こえていないかのようにしんと沈黙している。その顔が一瞬見知らぬ女のように思え、お凛はどきりとしてたじろいだ。
「……仙之助様。お願いがございます」
おつたが心なしか青ざめた顔で、そろりと切り出した。
「はぁ、何でしょう」
「これを……どうかお預かりいただけませんでしょうか」
どこか焦点の合わぬ、遠くを見る眼差しで言う声が、凍てつく冬の川に触れるように冷たい。
携えてきた風呂敷包を膝の前に滑らせ、するすると開く白い両手を見下ろしながら、お凛はふと、足元から得体の知れぬ怖気が這い上がってくるのを感じた。
……この、大きさ。この、形。
(──まさか……)
すうっと背筋の産毛が逆立った気がした。
そんなはずはない。あり得ない。ばくばくと心ノ臓が速くなる。
開いた風呂敷の中に現れた、下がり藤の紋の入った黒漆の葛籠を見た瞬間、床が傾いたかのような眩暈を覚えた。
「──あの後、焼け跡で拾いました」
ひやりとした低い声が囁いた。
「……う、嘘」
お凛は喉を絞るようにして呻いていた。
端座するおつたの膝の前に、あの葛籠が、まるで何事も無かったかのように、焦げ跡一つ、傷一つなく、記憶のままの姿で置かれてあった。
「嘘……だって。だって、あの時……」
呻きながら畳に両手をついて喘いでいると、おつたと目が合った。温もりを失った、鉛玉のように瞳が、どこか悲しげにこちらを見ていた。
「おつた様」
仙之助は、不思議な表情を浮かべた瞳を娘に向けた。
「以前おっしゃったこと、幸運の葛籠なぞこれっぽっちも信じていないというあれは……?」
「──父の前では、いつもそういうふりをしておりました」
でないと、葛籠を手放すよう説得することが出来ませんでしょう、と平らな声で言う。
お凛は冷たい手に体を掴まれたように息を詰め、凝然と娘を見詰めた。
「その上でお松さんとの醜聞にかこつけて、私に口止めをなすったわけですか」
「はい……申し訳ございません。そうしておいた方がご理解を得やすいかと、愚慮いたしました」
おつたは悄然として項垂れた。
「私共は、常にこの葛籠に怯えながら暮らして参りました。大角屋を呪ってきたこの葛籠が、いつ私共の血を要求するのかと怯えながら……しかし、私たちの欲と弱さが、葛籠を肥え太らせ、生き長らえさせて来たのも本当なのです」
そう囁くおつたは、牡丹のような唇をきゅっと結んだ。
「……幼かった頃、祖父に尋ねてみたことがございました。この呪わしい葛籠を滅ぼすことは出来ないのかと」
出来ない、と祖父は悲しげに言ったという。
「この葛籠は人の欲望を糧に生きている。だから、打ち壊すことも燃やすことも叶わないのだと申しました……」
しんと居間が静まり返った。梅と桃を艶やかに散らしたおつたの着物が、急に色彩を失ったかのように燻んで見えた。
「けれども、どこかに閉じ込めて飢えさせている内に、弱らせることは出来るかもわからない、とも申しました。……私と義母は、それに賭けることにいたしました。当店の者の生き血を吸ってきたこの化け物と袂を分かつのだと、お松と、義母とそう決めたのです。義母はそのために、辛い役を買って出てくれました。父を救うためならば、二度と会うことが叶わなくなることも厭わないと、葛籠を盗み出して姿を消してくれたのです」
「そのことを……葛籠を滅ぼすことは出来ないということを、文斉さんはご存知なので?」
「──さぁ、どうでしょうか……」
えっ、とお凛は息を飲んだ。
「だって、ご店主ご自身が火に投げ込まれたじゃありませんか?燃やせると思ったから投げ込んだのでは……」
「──文斉さんは、決心しなすったということですか」仙之助が感心したように頷くのを、お凛は混乱したまま聞いた。
「滅ぼすことは叶わなくとも、決別しようと決心しなすった」
「その通りでございます……」
唇をふるわせてそう囁くと、おつたは不意に深々と頭を下げた。
「どうか、どうかお願い申し上げます。この葛籠をお預かり下さいませんでしょうか。このような恐ろしいものを、私はこれ以上隠しておくことが出来ません。葛籠はいずれ私を飲み込みにかかることでしょう。その前に、仙之助様にお預けしたいのです」
娘は仙之助を見上げると、かすれた声で続けた。
「旦那様のお手元にあれば、決して悪いことは起こりません。ーーそうですね?」
仙之助のやわらかい形の唇に、不思議な笑みがじわりと広がる。
二人が彫像のように見合ったまま動かぬ様子を、お凛は永劫のように感じながらただ見詰めた。
「……もちろんですとも」
青年はゆっくりとそう応じると右手を伸ばし、旧友に挨拶でもするかのように、艶やかな葛籠の蓋を嬉しげに撫でた。
***
日本橋へと戻っていくおつたを見送ったお凛は、少し温んできた微風に揺れる鳥総松を見下ろした。
葛籠を滅ぼすことが出来ないことに、葛籠が燃えてなどいなかったことに、文斉は感づいているのだろうか?
もし……もしも。大角屋が本当にのっぴきならぬ、危急存亡の秋に直面することがあったならば、文斉は再びこの屋敷を訪ねてくるだろうか。あの暗い眼差しで、葛籠に願をかける時が来たと、そう告げるだろうか。
──それとも。
葛籠と永久に決別し、非力な松が寒さに耐えて土に根付くように、今度こそ文斉自身の意志をもって生きていくのだろうか。
そこまで考えてから、お凛は我に返ったように自分に言い聞かせた。
──いや、あんな葛籠、ただの箱。箱なのだ。和尚様もそうおっしゃった。燃えなかったのも何かの偶然に決まっている。
馬鹿馬鹿しい、とひとつ大きく深呼吸すると、お凛は箒を持って屋敷の前に取って返した。そうして、囀りの練習を繰り返す鶯の調子外れな歌を聞きながら、少し大きくなった鳥総松の周りを丁寧に掃き出したのだった。
おしまい
それからすぐに、店主の文斉は女中であったお松を後妻に迎えた。気力充実した店主の辣腕はますます冴えて、火災の不幸には微塵の動揺も見せることなく、内儀のお松がしっかりとそれを支えているのだそうだ。
「──あれから考えたんだがのう。あの葛籠は、やはりただの葛籠だったのだと思うんだよ。儂やそのご店主のように不安や弱さを抱えた者は、何かのきっかけで葛籠のありもしない声を聞いたと思い込み、己の心に潜む醜く邪悪な獣のようなものを檻から放ってしまうのだろうよ。枷を解かれた獣というものは、尋常ならざる力を発揮することがある。良くも悪くもな。……いやまったく、儂も修行が足らんことだ」
庭の梅の蕾が膨らんできたある朝、上野は妙円寺の泥徳和尚が屋敷を訪ねてきて、しみじみとそう述懐した。
「そんな!では、葛籠にまつわる出来事はすべて気のせいだったとおっしゃるんですか?そんなこと、だって確かに……だって……」
と思わず猛然と抗議しかけて、お凛は口ごもった。
「まぁ……そういうことも、ある……かもしれませんけれど……」
果たしてあの葛籠は何だったのだろうか。仙之助は葛籠を前にしてもけろりとしていたし、お松が飲み込まれかけた時も、本当に葛籠に食われようとしていたのかなんて判りはしない。代々の文斉が葛籠に願掛けして危難から店を守った話にしても、幸運と偶然と、努力が功を奏しただけのことであったのかもしれない。葛籠にまつわる血生臭い言い伝えだって、人の狂信的な心が生み出した幻影であったのかもわからない……そう考え始めると、すべてが白とも黒ともつかぬ、曖昧模糊とした灰色に思われてくる。
「……だとしたら、ちょっと悔しい気もしますねぇ。何のためにあんなに大騒ぎをしたんだか。……まぁ、旦那さんとお松さんがお幸せにお暮らしなのは何よりですけれど」
まったく、これだから祟りだの呪いだのは信じないに限るのだ。人騒がせにもほどがある。終わりよければすべてよしとはいえ、お凛はどっと疲れを覚えつつ憮然とした。
「そう言われると儂も面目ないのう。……だが、理屈ではなく己自身に振り回されてしまうのが人の性なのだろうな。反対に、己の怯懦や欲を乗り越えようと努めるのも、また人の性でもある。人とはかくも迷いやすい生き物であることだ」
泥徳の自戒を込めた言葉に、お凛は、なるほど徳の高いお方のおっしゃることは違う、と神妙に耳を傾けた。
すると、文斉からお詫びにと贈られた、一棹一両もする『鈴木越後』の最高級練り羊羹を切なげに口に運んでいた仙之助は、黒文字を握り締めて身をよじった。
「冗談じゃありませんよ!あれは正真正銘血みどろに呪われまくった、怨念が詰まりに詰まった稀有な人食い葛籠だったんですよ。言いがかりはよして下さい。あいつへの侮辱ですよ!ああ……ちょっと偏食と大食いが過ぎたせいで、皆に嫌われちまって馬鹿な奴……私はお前を忘れやしないよ」
わっと両手で顔を覆い、通夜のように袖を絞る。
「せっかくの葛籠は燃えちまったし、お松さんは文斉さんのお内儀になっちまうし。富札が一枚も当たらなくて染と梅が冷たいし。私一人が大損だ。こんな時にあの葛籠があったら、葛籠を返してくれと頼むのになぁ……!」
悲嘆のあまり、論理が破綻していることにも気付かぬらしい。
「……お凛、何がおかしいんだい?」
指の間から、むっとしたように主が睨んだ。
「いーえなんにも」
あら、一枚も当たらなかったのね、とほくそ笑んだのが見えただろうか。お凛は澄まし顔でにこりとした。
「ともかくだ。儂も今度のことで深く己を省みた」
おもむろに居住まいを正した老僧が、改まった口調で言った。
「仙之助どの。儂は心を入れ替え初心に帰ることにした。是非とも儂をお前さんの弟子にしてもらえんだろうか」
うぇっ!?と頓狂な声を発して仙之助が凍りつく。
「名人だなどとちやほされる内に、慢心する心が知らず育ったのだろう。それがあのような醜態を招いたのじゃ。お前さんのその、享楽的で破廉恥で野放図で無分別な生き方の中にこそ、悟りの道は開かれておるのかもしれん。まさに泥に咲く蓮の花のごとくにだ!」
深々と平伏した老僧の後頭部を見下ろしながら、仙之助はじりじりと後ずさっていた。
「いや……過分なお褒めというか何というか。お申し出は恐縮なんですが、嫌です」
「そんな遠慮深いことを言わんでもいい。やれというなら薪割りでも掃除でも炊事でもしてやろう」
「間に合ってますんで……」
「そうだ、毎日座禅と説法もしてやるぞ?儂の説法は評判がよくてな……」
「結構ですから!ほんとに!私、二親も匙を投げた筋金入りのどら息子ですんで。御仏もお手上げなんです!」
「おお、そうだった。破戒僧の心持ちで臨まなくてはならんのだったな」
厳しい修行に臨む雲水のような決死の覚悟を目に浮かべ、泥徳が厳かに言う。
「辰巳芸者と相対する覚悟は出来ておるぞ。これも仏道に至る試練であれば耐えて見せよう。さあいつでも連れて行くがいい。ついでに座禅と禅問答と説法もどうだ?」
「染と梅が出家しちまったらどうしてくれるんです!? 絶対連れて行きませんから!」
主が恐怖に駆られた声で叫ぶのを聞きながら、名の知られた老僧の謙虚さにお凛は感じ入った。実るほど頭を垂れる稲穂かな。やっぱり、人間地道に生きなくては。そうお凛はひとり心持ちを新にしたのだった。
***
思いも寄らぬ客人が訪れたのは、泥徳が去って中食を取った後のことだった。
一抱えほどある風呂敷包を抱えて玄関先に現れたその人を見た途端、お凛は声を弾ませた。
「まぁ、おつた様。ようこそおいで下さいました」
大角屋文斉の長女おつたが、やさしげに微笑んで立っていた。
「これはこれは、おつた様。ご店主もお内儀様もご息災で……」
居間で娘を迎えた仙之助は、泥徳をどうにかこうにか追い返してげっそりしていたのも忘れ、満面の笑みを浮かべた。
──が、おつたの抱える風呂敷包を目にした途端、すうっと目を細くする。
「お陰様で、父も義母も仲睦まじく過ごしております。……「あれ」が無くなったことなど、父はもう思い悩むこともなく、健康も取り戻しまして」
「……それは何よりです。おつた様もさぞご安堵なすっておいででしょう」
おつたを見詰める主の双眸が、曇ったように掴みどころのない表情を浮かべている。
「──そうでございますね」
美しい声で応じると、唐突に会話が途切れた。
にこにこしながら茶を供していたお凛は、怪訝そうに二人を見上げた。
おつたの顔からやわらかな笑みが掻き消えて、能面のような静寂が漂って見える。庭木で囀りを練習している若い鶯の鳴き声が、障子を透かして耳に届く。時折つまったり、音を外したりする下手な鳴き方は健気で愛らしい。けれど、おつたは鶯の声など聞こえていないかのようにしんと沈黙している。その顔が一瞬見知らぬ女のように思え、お凛はどきりとしてたじろいだ。
「……仙之助様。お願いがございます」
おつたが心なしか青ざめた顔で、そろりと切り出した。
「はぁ、何でしょう」
「これを……どうかお預かりいただけませんでしょうか」
どこか焦点の合わぬ、遠くを見る眼差しで言う声が、凍てつく冬の川に触れるように冷たい。
携えてきた風呂敷包を膝の前に滑らせ、するすると開く白い両手を見下ろしながら、お凛はふと、足元から得体の知れぬ怖気が這い上がってくるのを感じた。
……この、大きさ。この、形。
(──まさか……)
すうっと背筋の産毛が逆立った気がした。
そんなはずはない。あり得ない。ばくばくと心ノ臓が速くなる。
開いた風呂敷の中に現れた、下がり藤の紋の入った黒漆の葛籠を見た瞬間、床が傾いたかのような眩暈を覚えた。
「──あの後、焼け跡で拾いました」
ひやりとした低い声が囁いた。
「……う、嘘」
お凛は喉を絞るようにして呻いていた。
端座するおつたの膝の前に、あの葛籠が、まるで何事も無かったかのように、焦げ跡一つ、傷一つなく、記憶のままの姿で置かれてあった。
「嘘……だって。だって、あの時……」
呻きながら畳に両手をついて喘いでいると、おつたと目が合った。温もりを失った、鉛玉のように瞳が、どこか悲しげにこちらを見ていた。
「おつた様」
仙之助は、不思議な表情を浮かべた瞳を娘に向けた。
「以前おっしゃったこと、幸運の葛籠なぞこれっぽっちも信じていないというあれは……?」
「──父の前では、いつもそういうふりをしておりました」
でないと、葛籠を手放すよう説得することが出来ませんでしょう、と平らな声で言う。
お凛は冷たい手に体を掴まれたように息を詰め、凝然と娘を見詰めた。
「その上でお松さんとの醜聞にかこつけて、私に口止めをなすったわけですか」
「はい……申し訳ございません。そうしておいた方がご理解を得やすいかと、愚慮いたしました」
おつたは悄然として項垂れた。
「私共は、常にこの葛籠に怯えながら暮らして参りました。大角屋を呪ってきたこの葛籠が、いつ私共の血を要求するのかと怯えながら……しかし、私たちの欲と弱さが、葛籠を肥え太らせ、生き長らえさせて来たのも本当なのです」
そう囁くおつたは、牡丹のような唇をきゅっと結んだ。
「……幼かった頃、祖父に尋ねてみたことがございました。この呪わしい葛籠を滅ぼすことは出来ないのかと」
出来ない、と祖父は悲しげに言ったという。
「この葛籠は人の欲望を糧に生きている。だから、打ち壊すことも燃やすことも叶わないのだと申しました……」
しんと居間が静まり返った。梅と桃を艶やかに散らしたおつたの着物が、急に色彩を失ったかのように燻んで見えた。
「けれども、どこかに閉じ込めて飢えさせている内に、弱らせることは出来るかもわからない、とも申しました。……私と義母は、それに賭けることにいたしました。当店の者の生き血を吸ってきたこの化け物と袂を分かつのだと、お松と、義母とそう決めたのです。義母はそのために、辛い役を買って出てくれました。父を救うためならば、二度と会うことが叶わなくなることも厭わないと、葛籠を盗み出して姿を消してくれたのです」
「そのことを……葛籠を滅ぼすことは出来ないということを、文斉さんはご存知なので?」
「──さぁ、どうでしょうか……」
えっ、とお凛は息を飲んだ。
「だって、ご店主ご自身が火に投げ込まれたじゃありませんか?燃やせると思ったから投げ込んだのでは……」
「──文斉さんは、決心しなすったということですか」仙之助が感心したように頷くのを、お凛は混乱したまま聞いた。
「滅ぼすことは叶わなくとも、決別しようと決心しなすった」
「その通りでございます……」
唇をふるわせてそう囁くと、おつたは不意に深々と頭を下げた。
「どうか、どうかお願い申し上げます。この葛籠をお預かり下さいませんでしょうか。このような恐ろしいものを、私はこれ以上隠しておくことが出来ません。葛籠はいずれ私を飲み込みにかかることでしょう。その前に、仙之助様にお預けしたいのです」
娘は仙之助を見上げると、かすれた声で続けた。
「旦那様のお手元にあれば、決して悪いことは起こりません。ーーそうですね?」
仙之助のやわらかい形の唇に、不思議な笑みがじわりと広がる。
二人が彫像のように見合ったまま動かぬ様子を、お凛は永劫のように感じながらただ見詰めた。
「……もちろんですとも」
青年はゆっくりとそう応じると右手を伸ばし、旧友に挨拶でもするかのように、艶やかな葛籠の蓋を嬉しげに撫でた。
***
日本橋へと戻っていくおつたを見送ったお凛は、少し温んできた微風に揺れる鳥総松を見下ろした。
葛籠を滅ぼすことが出来ないことに、葛籠が燃えてなどいなかったことに、文斉は感づいているのだろうか?
もし……もしも。大角屋が本当にのっぴきならぬ、危急存亡の秋に直面することがあったならば、文斉は再びこの屋敷を訪ねてくるだろうか。あの暗い眼差しで、葛籠に願をかける時が来たと、そう告げるだろうか。
──それとも。
葛籠と永久に決別し、非力な松が寒さに耐えて土に根付くように、今度こそ文斉自身の意志をもって生きていくのだろうか。
そこまで考えてから、お凛は我に返ったように自分に言い聞かせた。
──いや、あんな葛籠、ただの箱。箱なのだ。和尚様もそうおっしゃった。燃えなかったのも何かの偶然に決まっている。
馬鹿馬鹿しい、とひとつ大きく深呼吸すると、お凛は箒を持って屋敷の前に取って返した。そうして、囀りの練習を繰り返す鶯の調子外れな歌を聞きながら、少し大きくなった鳥総松の周りを丁寧に掃き出したのだった。
おしまい
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