31 / 55
人喰いつづら(六)
しおりを挟む
それから数日後の如月朔日、夕暮れ時のことだった。
その日は朝から曇り空で、乾いた風がひゅうひゅうと吹き、家の前のちっぽけな鳥総松も、始終ふらふら頼りなく揺れていた。
「嫌な風だねぇ。何だか侘しいような気分になっちまうよ」
「本当に。早く暖かくなりませんかねぇ」
お凛はお江津とそんな言葉を交わしつつ、夕餉の支度のために台所にいた。毎日同じ時刻に屋敷前を通りかかる魚売りを捕まえようと、寒風に肩をそびやかせつつ生垣を出た時、薄暗い通りを息せき切って駆けてくる富蔵の姿が目に入った。
「お、お、お凛、てぇへんだ、てぇへんだ!神田の松枝町から、火、でかい火が出たってよ!」
えっ、とお凛は総毛立った。
「どのくらい……火、火は、どこへ向かっているんですか!?」
しどろもどろに言いながら今にも倒れそうな老爺の体を支えると、
「神田堀を飛び越えて燃え広がってるってよ。この風がいけねぇ。伝馬町の牢屋敷が切り放ちをしたって話だし、こりゃあ日本橋も危ねぇぞ」
富蔵は引きつった顔を汗に濡らし、切れ切れに声を発した。
大火で炎が迫ると、伝馬町牢屋敷では囚獄を管理する石出帯刀の判断の下、収容されている全囚人が数日の間解き放たれる。これを「切り放ち」と呼ぶ。明暦の大火の最中に行われたのを端緒として、度々取られている温情的措置なのだ。囚人が解き放たれたとなれば火勢は生半ではないはずだ。日本橋小網町の大角屋、文斉、おつた、そしてお松の顔が次々と脳裏に浮かぶ。
(大丈夫だろうか……)
焦燥に胸の内が炙られるのを覚えながら西の方角を見詰めるが、木場から神田の火事が見えるわけもない。
そのまま屋敷の内へと取って返したお凛は、「旦那様!」と茶の間に駆け込んだ。炬燵で煎餅を齧りながら戯作本を読みふけっていた主に事態を告げると、ふうむ、と仙一郎は何ごとかを考え込んでいた。
「……これが、その時かな」
「え?何ですか?」
聞き返したお凛には答えることなく、青年は物思いに耽りつつばりっと煎餅を噛み砕いた。
四半時も経たぬ内に、表が騒がしくなってきた。通りに人が出ては神田の火事を伺っているらしい。深川一帯の町火消しも、応援のために既に発ったかもしれない。
「両国の方は無事だが、大伝馬町と堀留町が燃えちまって、伊勢町堀沿いに思案橋あたりまで燃え広がっているそうですよ!」
通りに出ていた富蔵が、厳しい表情で伝えにきた。思案橋がかかる入堀の対岸にある小網町二丁目はもう目と鼻の先だ。
風がかたかたと不吉に軒先を鳴らす。居間に置いてある黒い葛籠の存在が息苦しいほど意識されてくる。
(大角屋のご店主は、今、何を思っているんだろう……)
相変わらず炬燵に入って呑気に煎餅を齧っている主を見遣っては、ちりちりとした焦燥に胸がかき乱されるのを感じていると、庭の方で声が上がった。
「お、お待ち下さいまし、旦那様、もし……!」
「仙一郎さん、どちらですか!」
切羽詰まった男の声が近づいたかと思った刹那、半分開けてあった雨戸から人影が縁側に飛び上がり、障子を乱暴に開け放った。
「旦那さん、葛籠をお返しいただけますかな」
昏い曇天を背負った文斉が、血走った目をして仁王立ちに立ったまま鋭く言った。
「……これは文斉さん。火事でお店は大わらわでしょう。皆さんご無事で……」
「奉公人は逃がしましたので大事ございません。それよりも葛籠を出して下さい。ここにあることは突き止めておりました。あれは私のものです」
おや、と煎餅の粉を手から払いつつ仙一郎が首を傾げた。
「ご存知でしたか」
「あれから上野の寺に持ち込まれ、こちら様に預けられたらしいと知りましたのです」
「じゃあ、どうして今の今まで放っておかれたんで?あれほど必死でおられたのに」
「……旦那さんも、察しておられるんじゃございませんか」
げっそりと痩けた顔で文斉が言うと、主がつるんとした瞳でかすかに笑んだ。
「とうとう堪えがきかなくなりましたか」
草履のまま畳を踏み、仙一郎に向かってゆっくりと迫ってくる大商人は、憑かれたように囁いた。
「私は店を、奉公人を守らねばならん。代々の文斉がそうしたように、守らねばならんのです」
「葛籠がなくたって守れるんじゃありませんかねぇ。今までだってそうだったでしょう?」
身構えもせず気楽な調子で言う青年に、文斉はわなわなとふるえる両腕を伸ばしながら首を振る。
「いいや、いいや、今度こそいけません。今度ばかりは……もう、私は耐えられない」
恐怖に支配された双眸が、日本橋を襲う炎を映すように怪しく燃える。
「お、大角の旦那様、何をなさるんで。どうか落ち着いて下さいまし、旦那様!」
「旦那様、逃げてください、早く!何だかわかりませんが、大角の旦那様は正気じゃいらっしゃいません!」
庭から富蔵とお江津が駆けつけて文斉に懇願し、お凛が這うように近づいて仙一郎の袂を引く。しかし、主は庭から迷い込んだ猫でも見るかのように、緊張感なく文斉を見上げているのだった。
と、文斉は何かに呼ばれたかのように顔を上げた。耳を澄ませるようにして押し黙ると、やがて狂気のように微笑んだ。
「……隣の部屋ですな」
言うなりだだっと縁側を走り、隣の居間へ飛び込む物音が聞こえる。床の間に置かれた葛籠を見つけたらしい。すぐに縁側を戻ってきた文斉は、腕に黒い葛籠を抱えて狂喜乱舞するかのように爛々と目を輝かせていた。
「幸運の葛籠、確かにお返しいただきましたよ。では、急ぎますので……」
「──使わない方が、いいと思いますけどねぇ」
嘆息するように仙一郎が言うと、男は顔を引きつらせて笑った。痩せこけた体が、急に倍も大きくなったかのように見えるのは気のせいか。
「これが運命なのです。大角屋の文斉は、こうして死ぬのが運命なんですよ」
くしゃりと顔が歪み、引きつった笑いは苦悶するかのような泣き顔に変わった。
お凛は急に胸苦しいような気持ちに襲われ、「大角屋の旦那様、いけません!」と思わず文斉が抱えた葛籠を両手でぐいと引っ張った。
「これはお命を奪う物なんでしょう?こんなものをお使いになってはいけません!」
「放さんか!」
文斉の双眸がぎらりと青白く光ったかと思うと、片手で荒々しくお凛を振り払う。あっ、と思った時には痩身からは想像もつかない力に跳ね飛ばされていた。「お凛!」慌てて炬燵から飛び出した仙一郎に勢いよく衝突し、ぐえっ、と青年が情けない声で呻いた。
その間に庭に飛び降りた文斉が、俊敏な黒い獣のように走り去る。後には、遠い喧騒と木枯らしの音ばかりが残った。
「ま、待って……」
「よせ、お凛。あんなのはとても手に負えない。あいてて」
か弱い仙一郎が息も絶え絶えに喘いでいると、不意に下駄を鳴らして庭に駆け込んできた人影があった。
「葛籠は、葛籠は無事でございますか?もしや旦那様がお見えじゃございませんか?」
息を弾ませ、お松が上擦った声で叫んでいた。
「──一歩違いでしたよ。ついさっき、葛籠を持って出ていかれたところです。おお痛」
「……そんな……」
汗だくの顔を歪め、呻きながら空を仰いだお松は、ぎりりと歯を食い縛ると身を翻した。
「ちょ、ちょっとお松さん!どこへ行くんですか。まさか火事場へ戻ろうってんじゃないでしょうね」
仙一郎が身を乗り出すと、「ええ、そうです!」とお松が眦を釣り上げて言った。
「火からお店を守って、旦那様は死ぬ気ですよ!そんなこたさせられません!」
「待った、待った!……ええいもう、じゃあ私も行きますよ!あなた一人で行かせるわけにはいかんでしょう」
やけっぱちな口調で言うなり、半纏を脱ぎ捨てて仙一郎が立ち上がった。
「富蔵、猪牙を捕まえろ」
へぇ、と富蔵がすっとんで行く後を、お松が追う。
お凛は驚きと共に主を見上げ、思わず胸を熱くした。
「大角屋さんを止めるんですね?見殺しになんて出来ませんもんね。合点承知です!」
「いやぁ、旦那さんはもう無理だ。諦めよう」凛々しく表情を引き締めて、青年がきっぱりと言う。
「は……?」
「どうしてもって言うんだからさ、男の決心に水を差すのも野暮天ってもんだろうよ。立派に本懐を遂げてもらって、後日線香でも上げに伺うとするさ。お松さんのことはお任せください、ってお伝えしたら憂いもなかろう」
「はぁ……?」
「お松さん、この仙一郎がお供しますよ!」
てきぱき長着を尻端折りにすると、顎が落ちそうになっているお凛を残し、韋駄天のごとく表へ飛び出して行く。
衝撃からどうにか立ち直ったお凛が通りに出ると、薄暮の漂う油堀川の橋の袂に、猪牙舟の船頭と言葉を交わしている仙一郎たちの姿があった。
「私も連れて行って下さいまし!」仙一郎とお松が舟に乗り移ったのに続いてお凛も乗り込むと、仙一郎が目を剥いた。
「馬鹿かお前は、火事場へ行くんだぞ?」
「そうだよ、お凛、こっちへおいで!」
富蔵とお江津が泡を食って口々に言う。
「大丈夫です。力持ちですから!」
そういう問題か、と珍しく真っ当なことを言う仙一郎に、
「舟から降りずに大人しくしておりますから!ほら、間に合いませんよ!」と腕まくりをしつつ迫ると、青年はぐぬぬ、と言葉に詰まった。
「……絶対に降りるなよ」
諦め顔で船頭に舟を出させる。暗い水面を鋭く割って走り始めた舟の上で、お凛は斬りつけるように冷たい風に目を細めつつ、青灰色に沈んでいく空を懸命に見詰めていた。
その日は朝から曇り空で、乾いた風がひゅうひゅうと吹き、家の前のちっぽけな鳥総松も、始終ふらふら頼りなく揺れていた。
「嫌な風だねぇ。何だか侘しいような気分になっちまうよ」
「本当に。早く暖かくなりませんかねぇ」
お凛はお江津とそんな言葉を交わしつつ、夕餉の支度のために台所にいた。毎日同じ時刻に屋敷前を通りかかる魚売りを捕まえようと、寒風に肩をそびやかせつつ生垣を出た時、薄暗い通りを息せき切って駆けてくる富蔵の姿が目に入った。
「お、お、お凛、てぇへんだ、てぇへんだ!神田の松枝町から、火、でかい火が出たってよ!」
えっ、とお凛は総毛立った。
「どのくらい……火、火は、どこへ向かっているんですか!?」
しどろもどろに言いながら今にも倒れそうな老爺の体を支えると、
「神田堀を飛び越えて燃え広がってるってよ。この風がいけねぇ。伝馬町の牢屋敷が切り放ちをしたって話だし、こりゃあ日本橋も危ねぇぞ」
富蔵は引きつった顔を汗に濡らし、切れ切れに声を発した。
大火で炎が迫ると、伝馬町牢屋敷では囚獄を管理する石出帯刀の判断の下、収容されている全囚人が数日の間解き放たれる。これを「切り放ち」と呼ぶ。明暦の大火の最中に行われたのを端緒として、度々取られている温情的措置なのだ。囚人が解き放たれたとなれば火勢は生半ではないはずだ。日本橋小網町の大角屋、文斉、おつた、そしてお松の顔が次々と脳裏に浮かぶ。
(大丈夫だろうか……)
焦燥に胸の内が炙られるのを覚えながら西の方角を見詰めるが、木場から神田の火事が見えるわけもない。
そのまま屋敷の内へと取って返したお凛は、「旦那様!」と茶の間に駆け込んだ。炬燵で煎餅を齧りながら戯作本を読みふけっていた主に事態を告げると、ふうむ、と仙一郎は何ごとかを考え込んでいた。
「……これが、その時かな」
「え?何ですか?」
聞き返したお凛には答えることなく、青年は物思いに耽りつつばりっと煎餅を噛み砕いた。
四半時も経たぬ内に、表が騒がしくなってきた。通りに人が出ては神田の火事を伺っているらしい。深川一帯の町火消しも、応援のために既に発ったかもしれない。
「両国の方は無事だが、大伝馬町と堀留町が燃えちまって、伊勢町堀沿いに思案橋あたりまで燃え広がっているそうですよ!」
通りに出ていた富蔵が、厳しい表情で伝えにきた。思案橋がかかる入堀の対岸にある小網町二丁目はもう目と鼻の先だ。
風がかたかたと不吉に軒先を鳴らす。居間に置いてある黒い葛籠の存在が息苦しいほど意識されてくる。
(大角屋のご店主は、今、何を思っているんだろう……)
相変わらず炬燵に入って呑気に煎餅を齧っている主を見遣っては、ちりちりとした焦燥に胸がかき乱されるのを感じていると、庭の方で声が上がった。
「お、お待ち下さいまし、旦那様、もし……!」
「仙一郎さん、どちらですか!」
切羽詰まった男の声が近づいたかと思った刹那、半分開けてあった雨戸から人影が縁側に飛び上がり、障子を乱暴に開け放った。
「旦那さん、葛籠をお返しいただけますかな」
昏い曇天を背負った文斉が、血走った目をして仁王立ちに立ったまま鋭く言った。
「……これは文斉さん。火事でお店は大わらわでしょう。皆さんご無事で……」
「奉公人は逃がしましたので大事ございません。それよりも葛籠を出して下さい。ここにあることは突き止めておりました。あれは私のものです」
おや、と煎餅の粉を手から払いつつ仙一郎が首を傾げた。
「ご存知でしたか」
「あれから上野の寺に持ち込まれ、こちら様に預けられたらしいと知りましたのです」
「じゃあ、どうして今の今まで放っておかれたんで?あれほど必死でおられたのに」
「……旦那さんも、察しておられるんじゃございませんか」
げっそりと痩けた顔で文斉が言うと、主がつるんとした瞳でかすかに笑んだ。
「とうとう堪えがきかなくなりましたか」
草履のまま畳を踏み、仙一郎に向かってゆっくりと迫ってくる大商人は、憑かれたように囁いた。
「私は店を、奉公人を守らねばならん。代々の文斉がそうしたように、守らねばならんのです」
「葛籠がなくたって守れるんじゃありませんかねぇ。今までだってそうだったでしょう?」
身構えもせず気楽な調子で言う青年に、文斉はわなわなとふるえる両腕を伸ばしながら首を振る。
「いいや、いいや、今度こそいけません。今度ばかりは……もう、私は耐えられない」
恐怖に支配された双眸が、日本橋を襲う炎を映すように怪しく燃える。
「お、大角の旦那様、何をなさるんで。どうか落ち着いて下さいまし、旦那様!」
「旦那様、逃げてください、早く!何だかわかりませんが、大角の旦那様は正気じゃいらっしゃいません!」
庭から富蔵とお江津が駆けつけて文斉に懇願し、お凛が這うように近づいて仙一郎の袂を引く。しかし、主は庭から迷い込んだ猫でも見るかのように、緊張感なく文斉を見上げているのだった。
と、文斉は何かに呼ばれたかのように顔を上げた。耳を澄ませるようにして押し黙ると、やがて狂気のように微笑んだ。
「……隣の部屋ですな」
言うなりだだっと縁側を走り、隣の居間へ飛び込む物音が聞こえる。床の間に置かれた葛籠を見つけたらしい。すぐに縁側を戻ってきた文斉は、腕に黒い葛籠を抱えて狂喜乱舞するかのように爛々と目を輝かせていた。
「幸運の葛籠、確かにお返しいただきましたよ。では、急ぎますので……」
「──使わない方が、いいと思いますけどねぇ」
嘆息するように仙一郎が言うと、男は顔を引きつらせて笑った。痩せこけた体が、急に倍も大きくなったかのように見えるのは気のせいか。
「これが運命なのです。大角屋の文斉は、こうして死ぬのが運命なんですよ」
くしゃりと顔が歪み、引きつった笑いは苦悶するかのような泣き顔に変わった。
お凛は急に胸苦しいような気持ちに襲われ、「大角屋の旦那様、いけません!」と思わず文斉が抱えた葛籠を両手でぐいと引っ張った。
「これはお命を奪う物なんでしょう?こんなものをお使いになってはいけません!」
「放さんか!」
文斉の双眸がぎらりと青白く光ったかと思うと、片手で荒々しくお凛を振り払う。あっ、と思った時には痩身からは想像もつかない力に跳ね飛ばされていた。「お凛!」慌てて炬燵から飛び出した仙一郎に勢いよく衝突し、ぐえっ、と青年が情けない声で呻いた。
その間に庭に飛び降りた文斉が、俊敏な黒い獣のように走り去る。後には、遠い喧騒と木枯らしの音ばかりが残った。
「ま、待って……」
「よせ、お凛。あんなのはとても手に負えない。あいてて」
か弱い仙一郎が息も絶え絶えに喘いでいると、不意に下駄を鳴らして庭に駆け込んできた人影があった。
「葛籠は、葛籠は無事でございますか?もしや旦那様がお見えじゃございませんか?」
息を弾ませ、お松が上擦った声で叫んでいた。
「──一歩違いでしたよ。ついさっき、葛籠を持って出ていかれたところです。おお痛」
「……そんな……」
汗だくの顔を歪め、呻きながら空を仰いだお松は、ぎりりと歯を食い縛ると身を翻した。
「ちょ、ちょっとお松さん!どこへ行くんですか。まさか火事場へ戻ろうってんじゃないでしょうね」
仙一郎が身を乗り出すと、「ええ、そうです!」とお松が眦を釣り上げて言った。
「火からお店を守って、旦那様は死ぬ気ですよ!そんなこたさせられません!」
「待った、待った!……ええいもう、じゃあ私も行きますよ!あなた一人で行かせるわけにはいかんでしょう」
やけっぱちな口調で言うなり、半纏を脱ぎ捨てて仙一郎が立ち上がった。
「富蔵、猪牙を捕まえろ」
へぇ、と富蔵がすっとんで行く後を、お松が追う。
お凛は驚きと共に主を見上げ、思わず胸を熱くした。
「大角屋さんを止めるんですね?見殺しになんて出来ませんもんね。合点承知です!」
「いやぁ、旦那さんはもう無理だ。諦めよう」凛々しく表情を引き締めて、青年がきっぱりと言う。
「は……?」
「どうしてもって言うんだからさ、男の決心に水を差すのも野暮天ってもんだろうよ。立派に本懐を遂げてもらって、後日線香でも上げに伺うとするさ。お松さんのことはお任せください、ってお伝えしたら憂いもなかろう」
「はぁ……?」
「お松さん、この仙一郎がお供しますよ!」
てきぱき長着を尻端折りにすると、顎が落ちそうになっているお凛を残し、韋駄天のごとく表へ飛び出して行く。
衝撃からどうにか立ち直ったお凛が通りに出ると、薄暮の漂う油堀川の橋の袂に、猪牙舟の船頭と言葉を交わしている仙一郎たちの姿があった。
「私も連れて行って下さいまし!」仙一郎とお松が舟に乗り移ったのに続いてお凛も乗り込むと、仙一郎が目を剥いた。
「馬鹿かお前は、火事場へ行くんだぞ?」
「そうだよ、お凛、こっちへおいで!」
富蔵とお江津が泡を食って口々に言う。
「大丈夫です。力持ちですから!」
そういう問題か、と珍しく真っ当なことを言う仙一郎に、
「舟から降りずに大人しくしておりますから!ほら、間に合いませんよ!」と腕まくりをしつつ迫ると、青年はぐぬぬ、と言葉に詰まった。
「……絶対に降りるなよ」
諦め顔で船頭に舟を出させる。暗い水面を鋭く割って走り始めた舟の上で、お凛は斬りつけるように冷たい風に目を細めつつ、青灰色に沈んでいく空を懸命に見詰めていた。
1
お気に入りに追加
88
あなたにおすすめの小説
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
安政ノ音 ANSEI NOTE
夢酔藤山
歴史・時代
温故知新。 安政の世を知り令和の現世をさとる物差しとして、一筆啓上。 令和とよく似た時代、幕末、安政。 疫病に不景気に世情不穏に政治のトップが暗殺。 そして震災の陰におびえる人々。 この時代から何を学べるか。狂乱する群衆の一人になって、楽しんで欲しい……! オムニバスで描く安政年間の狂喜乱舞な人間模様は、いまの、明日の令和の姿かもしれない。
夜珠あやかし手帖 ろくろくび
井田いづ
歴史・時代
あなたのことを、首を長くしてお待ちしておりましたのに──。
+++
今も昔も世間には妖怪譚がありふれているように、この辻にもまた不思議な噂が立っていた。曰く、そこには辻斬りの妖がいるのだと──。
団子屋の娘たまはうっかり辻斬り現場を見てしまった晩から、おかしな事件に巻き込まれていく。
町娘たまと妖斬り夜四郎の妖退治譚、ここに開幕!
(二作目→ https://www.alphapolis.co.jp/novel/284186508/398634218)
抜け忍料理屋ねこまんま
JUN
歴史・時代
里を抜けた忍者は、抜け忍として追われる事になる。久磨川衆から逃げ出した忍者、疾風、八雲、狭霧。彼らは遠く離れた地で新しい生活を始めるが、周囲では色々と問題が持ち上がる。目立ってはいけないと、影から解決を図って平穏な毎日を送る兄弟だが、このまま無事に暮らしていけるのだろうか……?
葉桜よ、もう一度 【完結】
五月雨輝
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞特別賞受賞作】北の小藩の青年藩士、黒須新九郎は、女中のりよに密かに心を惹かれながら、真面目に職務をこなす日々を送っていた。だが、ある日突然、新九郎は藩の産物を横領して抜け売りしたとの無実の嫌疑をかけられ、切腹寸前にまで追い込まれてしまう。新九郎は自らの嫌疑を晴らすべく奔走するが、それは藩を大きく揺るがす巨大な陰謀と哀しい恋の始まりであった。
謀略と裏切り、友情と恋情が交錯し、武士の道と人の想いの狭間で新九郎は疾走する。
【完結】絵師の嫁取り
かずえ
歴史・時代
長屋シリーズ二作目。
第八回歴史・時代小説大賞で奨励賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
小鉢料理の店の看板娘、おふくは、背は低めで少しふくふくとした体格の十六歳。元気で明るい人気者。
ある日、昼も夜もご飯を食べに来ていた常連の客が、三日も姿を見せないことを心配して住んでいると聞いた長屋に様子を見に行ってみれば……?
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
Millennium226 【軍神マルスの娘と呼ばれた女 6】 ― 皇帝のいない如月 ―
kei
歴史・時代
周囲の外敵をことごとく鎮定し、向かうところ敵なし! 盤石に見えた帝国の政(まつりごと)。
しかし、その政体を覆す計画が密かに進行していた。
帝国の生きた守り神「軍神マルスの娘」に厳命が下る。
帝都を襲うクーデター計画を粉砕せよ!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる