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人喰いつづら(五)
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「どうも腑に落ちなかったんですよ。あなた、いつも懐に入れられるくらいの小さなものしかくすねなかったそうじゃありませんか。なのに、なんだって葛籠なんて大きなものに手を出したんだろうかと。目立つ上に中身は空ときてる。おまけに泥徳和尚に預けた時には、葛籠が禍々しいものだと教えていったでしょう?……あれが人食い葛籠だと知っていて盗んだんだ。違いますか?いや、ただの好奇心なんですけどね」
稲荷脇に出ていた水茶屋の床机にかけたお松の前で、仙一郎が興味津々という表情で言った。
「あの葛籠はご店主一家の秘中の秘だろうから、あなたはご一家に信頼されていたんでしょうねぇ。それなのに葛籠を盗んで姿を消すなんておかしいじゃありませんか。……きっとあなたは、あの恐ろしい葛籠をご店主から引き離したかったんでしょう?あなただけじゃない。お嬢さんも同じように考えていた……」
お凛は目を見開いた。それでおつたが、わざわざあんな風に釘を刺しにやってきたというのか。
堀の水面を音もなく通り過ぎる一艘の荷足船に遠い視線を置いていたお松は、ほっと真綿のような息を吐きながら、やがて独り言のように口を開いた。
「──旦那様はあの通り、妙に気のおやさしいところがおありでしょう? だからつい、あれも、これも、と旦那様の持ち物に手が伸びちまって」
お松は自嘲気味にぐいと唇を歪めた。
「……あたしは相州の山奥の生まれなんですがね。二親が病気の上に子沢山で、にっちもさっちもいかなくてねぇ。子供の時分に身売りするみたいにして江戸に連れてこられて、色々あって……まぁ幸運なことに遊所じゃなく女中奉公をあてがわれたんですよ。さんざんこき使われて酷い目にもあったし、見ての通り口が悪いんで揉め事も起こしましたけど、気働きもきくし仕事も早くて役に立つっていうんで、じきに大角屋さんに引き抜かれたんです。……ところがねぇ、あんなお大尽のお暮らしを見ていると、何だかむかっ腹が立っちまいましてね」
幼い頃から貧窮に呪われるようにして育ったことへの恨みつらみが、盗みという形で目の前の大商人に向かったのだという。
「旦那様はあの通りおっとりとしたお方ですけれど、初代や二代目のご店主方はずいぶん非道な商売をしてお店を大きくしなすったそうでしてね。それで有り余る身代を作った上に、お付き合いといっちゃあ一晩で何百両がすっ飛ぶような遊び方をするしさ、お子様たちはお大名の姫様若様かってな暮らしぶりでしょ。だもんで、悪い虫が騒いじまって」
金目当てというよりも、八つ当たりか嫌がらせのようなものだった。だからわざと文斉の持ち物ばかりを狙ったのだという。
しかし、何かかにかと盗みを働くお松を、当の文斉は見て見ぬふりをした。お松を遠ざけることもしなかった。勘付いたおつたが奉公を解くよう勧めても、聞き入れる気配もなかった。
「なんて肝っ玉の小さい男だろうって最初は調子に乗っていたんですけれどね、段々それにも腹が立ってきて、ある日言ったんですよ。どうして黙ってらっしゃるんですよって。どうせ貧乏人だと憐れんでいるんですか。さぞ見下してらっしゃるでしょうね。あんたなんぞ、ご先祖の身代で遊び暮らしてるくせに、って。ひどい女中でしょう?昔はほんと性悪女だったんですよ」
そうしたら、と黒々とした睫毛に囲まれた大きな目を、悪戯っぽく見開いて見せる。
「その通りだ。私のやってることなぞ罰当たりでくだらないことだ、って神妙におっしゃるんですよ。あんたを見下してるわけじゃない。首にしたり、お縄にかけて、いなくなっちまうのが嫌なんだって、しんみり言うんですもの。……困っちまいましたよ、あたし」
ふわっと目元のあたりが紅色に染まるのを、お凛はびっくりして凝視した。……あら。あらら。つまり……そういうことなんだろうか。
「それから、旦那様の様子をよく見てましたらね、何だかひどく寂しげで、暗いお顔をなすってることが多いもんで……まるで生きているのが嫌みたいですね、何がそんなにご不満なんですかって訊いてみたんですよ」
なるほど、遠慮のない女中らしい問いだ。自分の事は棚に上げて、お凛は恐れ入った気分でお松を眺めた。
「旦那様は怒りませんでした。それどころか、そんなことを尋ねてくれた人は初めてだ、って嬉し泣きしそうになってましたよ。で、あの葛籠の話を聞かせて下さいましてね。なんておぞましい話だって、あたしも胸が悪くなっちまって」
茶碗で両手を暖めていたお松の、なめらかな額が曇った。
「あの葛籠は四代前の初代文斉でいらしたご曾祖父様から、お店が危機に陥った時に使うようにって伝えられてきたそうでしてね。ご曾祖父様はその呪いで亡くなられたとかで」
あの、自ら葛籠に入った店主であろうか、とお凛と仙一郎はちらと目を合わせた。
葛籠の由来は定かではないが、言い伝えられているところによると、初代文斉が店を立ち上げた時期に手に入れたものであったという。初代店主は野心あふれる若者で、店をもり立てようと阿漕な手段も厭わなかった。ある時商売敵の店を乗っ取った初代文斉は、店の守り神と呼ばれていたこの葛籠を手に入れたそうだ。
「これに願えば叶えられぬことはないのです」と商売敵は悄然として語った。それならば大角屋が潰れるよう願えばよかったのにと初代がせせら笑うと、「私はもう疲れた。だがあなたには役に立つであろうから差し上げよう。騙されたと思って、まぁ試してごらんなさい」と男はうっすら笑って答えたらしい。
願いを叶える葛籠などと嘲笑った初代文斉だが、試しに願掛けをしてみたところこれが叶った。別の頼みごとをするとこれも叶った。ことごとく叶った。代償は葛籠いっぱいの飯であったり、清酒十樽であったり、初代が大切にする錦鯉であったりした。それが野良犬や野良猫へと変わる頃には、驚愕は確信に変わっていた。さらに確信は信仰へと変わり、やがて……
──大角屋の呪いとなった。
「四代前のご店主は……大火事から店を守るために葛籠に祈って難を逃れた後、ご自分が生贄になったというんですよ。しかも、それが最初じゃあなかった」
「最初じゃない……」
お凛が思わず繰り返すと、ぶるっとお松が身震いした。
「その前にも、船を嵐から救うためだとか、投資の大損を穴埋めするためだとかで葛籠に願掛けをして……お子様の一人を葛籠に捧げたんだとか……」
語尾が聞き取れぬほど小さくなる。冷たい木枯らしにうなじを撫でられた気がして、お凛はぎくりと首を縮めた。
「表向き、お子様は拐かされて、ご曾祖父様は気が触れて失踪なすったということになっているそうですけれど。ま、本当のところはあたしにも知りようがありませんが」
ことの真偽よりも、文斉の様子の方が案じられてならなかった、とお松は言った。
「旦那様は、ご自分もいつか葛籠に願掛けをすることになるんじゃないかって、お身内の方々やご自分までもを、いつか手にかける日が来るんじゃないかって、心底恐怖して生きていらしたんですって。ご家族が増えるほど、お店が大きくなればなるほど、ますます恐ろしくて堪らなくなってきた、葛籠に頼ることなくご家族や店を守れる自信がないって。夜も眠れぬ日もあるそうでしてね。
──あたし、旦那様はそんな意気地のないお方じゃありゃしません、お店だって奉公人が皆で支えているんだから傾いたりしません、お気を強くお持ち下さいまし、あたしもこの手癖の悪さを直しますから一緒に踏ん張りましょう、って発破をおかけしたんですよ」
妙な励まし方もあったもんですよねぇ、とお松はくすりと笑った。苦い笑いだが、目は鮮やかな澄んだ光を浮かべている。夏の陽射しを思わせるような美しさだ。そら、仙一郎なんてもう煎茶で酔っ払ったみたいな顔をしている。
刹那、鳥総松を見下ろして、自分は臆病者だと呟いた文斉の姿が目に浮かんだ。手放したいのに手放せない。己を蝕む毒だとわかっているのに、その強大で蠱惑的な力を恃みにしなければ不安で不安で堪らない……
「……でも、あたしの発破くらいじゃあ、どうにもならなかった」
空っぽの湯飲みを見下ろす切れ長の美しい目が、葛籠の底なしの虚無を見下ろしているかのように昏くなった。
お松に励まされ、文斉は幾度も葛籠を手放そうと試みた。けれども、どうしても果たせなかった。商いに小さな問題が持ち上がる度、葛籠が納めてある蔵へふらふらと入って行きそうになるのを、お松が必死になって止めたこともあったという。
「そんな時でしたかね、おつた様があたしにご相談事を持ちかけていらっしゃったのは」
父である文斉が、あまりにも憂い顔であるのが案じられてならない、何か思い当たる節はないだろうか、とおつたが尋ねたのだという。
お松は幾度かおつたと話す内に、彼女が心底父親を案じていることを感じ、思い切って葛籠のことを打ち明けた。
「おつた様は仰天なすってましたけど、ご先代様から葛籠の話を伺っていたそうで、どういうことなのかすぐにわかって下さいました。賢いお嬢様なんですよ」
おつたは幾日も考えた末、あることを提案した。
「屋敷には人目があるから、焼き捨てたり壊すことは難しい。だから葛籠が盗まれたということにしてしまおう。あれを、旦那様の目の届かぬところへ、永久に隠してしまおう。そうおっしゃったんです」
「お店の盛衰にかかわることになっても、ですか」
仙一郎が茫洋とした眼差しを向けて尋ねると、お松はきっぱりと頷いた。
「左様です。旦那様お一人に重荷を背負わせ、苦しめて何の繁栄だろうか。こちとら葛籠ごときに縋りつくほど落ちぶれちゃいない、って啖呵を切ってらっしゃいましたよ」
凄みのある笑みがお松の紅い唇に浮かぶ。
「おお、大角屋の女人方は女丈夫の猛者揃いだ」仙一郎が締まりのない顔で惚れ惚れと言った。
「おつた様はご自分で葛籠をこっそり運び出すとおっしゃったんですが、そこはあたしにやらせて下さいとお願いしたんです。何しろ前科がございますからね。昔取った杵柄で、盗人の真似事なんざお手の物ですよ」
葛籠はひどく怒っていた、とお松は言った。
「たらふく食わせてくれる大店にいたってのに、こんな盗人の女に拐われちゃあ、そりゃ腹も立てるでしょうね。本当はおつた様が谷中に用意して下さった家に隠れるつもりだったのが、葛籠が大層気味の悪い声でわめくんですよ。上野へ着く頃にはもうへとへとになっちまっていて、どうにもならなくて目の前にあったお寺に預けたんです」
後日寺を探ってみて、葛籠が深川木場の通称「あやかし屋敷」に預けられたと知ったのだという。おつたは、仙一郎の手元にあればひとまず安心なのではないか、文斉には決して渡さないよう旦那さんに頼んでおこうと言った。
「ですが、それじゃ、お松さんもずっと身を隠さなくちゃいけなくなるでしょう? それでいいんですか」
お凛は躊躇いながら尋ねた。
「そのう……お松さん、大角屋の旦那様のお側に、いたいんじゃありませんか? 旦那様もそうなんですよね」
「──あんた、こましゃくれたこと言うねぇ」
白い歯を零してにこりとすると、お松はすうっとなだらかな肩を下げた。
「だからあたしがお誂え向きなのさ。盗人が盗みに入ったんなら旦那様もお上に届けて大騒ぎなさるだろうけど、旦那様はあたしをお縄にはしたくないわけ」
お松と葛籠を探そうにも、大事にして人手を繰り出すわけにはいかないというわけか。自分自身を盾に使おうとはなんと思い切った、しかし健気な心意気だろうかとお凛はちょっぴり切なくなった。
「でもねぇ、文斉さんはこちらの胸が痛むくらいに悲しんでおいでですよ。葛籠はともかく、お松さんは帰って差し上げたらどうですか。惚れた女にいきなり去られるなんて、そりゃあもう身を裂かれるような苦しみですよ。私なんて想像するだけで死んじまいそうだ」
仙一郎が胸を押さえて嘆息し、子犬のように目を潤ませながら鼻をすする。梅奴か染吉に捨てられるところでも想像しているのであろう。
「──駄目です。それはできない相談です」
かすかに青ざめながら、お松は低く唸るように言った。
「あたしが戻ったら、今はよくても、いずれ葛籠はどこだ、葛籠をくれと、おっしゃる時がきっと来ます。あたしはそれを突っぱねる自信がないんですよ。だから、旦那様が葛籠をきっぱり捨てるご決心ができない限り、戻れません」
「決心ですか」仙一郎が白い顎の先を摘んで小首を傾げた。「その決心というのは……どうやったら確かめられるもんなんですか?どうしたら、その決意が真実なのか、わかるものなんですかねぇ」
邪気のない顔で尋ねる仙一郎に、お松は強張った、しかし強い決意を浮かべた視線を返した。
「──その時が来れば、わかります。……その時が、来れば……」
稲荷脇に出ていた水茶屋の床机にかけたお松の前で、仙一郎が興味津々という表情で言った。
「あの葛籠はご店主一家の秘中の秘だろうから、あなたはご一家に信頼されていたんでしょうねぇ。それなのに葛籠を盗んで姿を消すなんておかしいじゃありませんか。……きっとあなたは、あの恐ろしい葛籠をご店主から引き離したかったんでしょう?あなただけじゃない。お嬢さんも同じように考えていた……」
お凛は目を見開いた。それでおつたが、わざわざあんな風に釘を刺しにやってきたというのか。
堀の水面を音もなく通り過ぎる一艘の荷足船に遠い視線を置いていたお松は、ほっと真綿のような息を吐きながら、やがて独り言のように口を開いた。
「──旦那様はあの通り、妙に気のおやさしいところがおありでしょう? だからつい、あれも、これも、と旦那様の持ち物に手が伸びちまって」
お松は自嘲気味にぐいと唇を歪めた。
「……あたしは相州の山奥の生まれなんですがね。二親が病気の上に子沢山で、にっちもさっちもいかなくてねぇ。子供の時分に身売りするみたいにして江戸に連れてこられて、色々あって……まぁ幸運なことに遊所じゃなく女中奉公をあてがわれたんですよ。さんざんこき使われて酷い目にもあったし、見ての通り口が悪いんで揉め事も起こしましたけど、気働きもきくし仕事も早くて役に立つっていうんで、じきに大角屋さんに引き抜かれたんです。……ところがねぇ、あんなお大尽のお暮らしを見ていると、何だかむかっ腹が立っちまいましてね」
幼い頃から貧窮に呪われるようにして育ったことへの恨みつらみが、盗みという形で目の前の大商人に向かったのだという。
「旦那様はあの通りおっとりとしたお方ですけれど、初代や二代目のご店主方はずいぶん非道な商売をしてお店を大きくしなすったそうでしてね。それで有り余る身代を作った上に、お付き合いといっちゃあ一晩で何百両がすっ飛ぶような遊び方をするしさ、お子様たちはお大名の姫様若様かってな暮らしぶりでしょ。だもんで、悪い虫が騒いじまって」
金目当てというよりも、八つ当たりか嫌がらせのようなものだった。だからわざと文斉の持ち物ばかりを狙ったのだという。
しかし、何かかにかと盗みを働くお松を、当の文斉は見て見ぬふりをした。お松を遠ざけることもしなかった。勘付いたおつたが奉公を解くよう勧めても、聞き入れる気配もなかった。
「なんて肝っ玉の小さい男だろうって最初は調子に乗っていたんですけれどね、段々それにも腹が立ってきて、ある日言ったんですよ。どうして黙ってらっしゃるんですよって。どうせ貧乏人だと憐れんでいるんですか。さぞ見下してらっしゃるでしょうね。あんたなんぞ、ご先祖の身代で遊び暮らしてるくせに、って。ひどい女中でしょう?昔はほんと性悪女だったんですよ」
そうしたら、と黒々とした睫毛に囲まれた大きな目を、悪戯っぽく見開いて見せる。
「その通りだ。私のやってることなぞ罰当たりでくだらないことだ、って神妙におっしゃるんですよ。あんたを見下してるわけじゃない。首にしたり、お縄にかけて、いなくなっちまうのが嫌なんだって、しんみり言うんですもの。……困っちまいましたよ、あたし」
ふわっと目元のあたりが紅色に染まるのを、お凛はびっくりして凝視した。……あら。あらら。つまり……そういうことなんだろうか。
「それから、旦那様の様子をよく見てましたらね、何だかひどく寂しげで、暗いお顔をなすってることが多いもんで……まるで生きているのが嫌みたいですね、何がそんなにご不満なんですかって訊いてみたんですよ」
なるほど、遠慮のない女中らしい問いだ。自分の事は棚に上げて、お凛は恐れ入った気分でお松を眺めた。
「旦那様は怒りませんでした。それどころか、そんなことを尋ねてくれた人は初めてだ、って嬉し泣きしそうになってましたよ。で、あの葛籠の話を聞かせて下さいましてね。なんておぞましい話だって、あたしも胸が悪くなっちまって」
茶碗で両手を暖めていたお松の、なめらかな額が曇った。
「あの葛籠は四代前の初代文斉でいらしたご曾祖父様から、お店が危機に陥った時に使うようにって伝えられてきたそうでしてね。ご曾祖父様はその呪いで亡くなられたとかで」
あの、自ら葛籠に入った店主であろうか、とお凛と仙一郎はちらと目を合わせた。
葛籠の由来は定かではないが、言い伝えられているところによると、初代文斉が店を立ち上げた時期に手に入れたものであったという。初代店主は野心あふれる若者で、店をもり立てようと阿漕な手段も厭わなかった。ある時商売敵の店を乗っ取った初代文斉は、店の守り神と呼ばれていたこの葛籠を手に入れたそうだ。
「これに願えば叶えられぬことはないのです」と商売敵は悄然として語った。それならば大角屋が潰れるよう願えばよかったのにと初代がせせら笑うと、「私はもう疲れた。だがあなたには役に立つであろうから差し上げよう。騙されたと思って、まぁ試してごらんなさい」と男はうっすら笑って答えたらしい。
願いを叶える葛籠などと嘲笑った初代文斉だが、試しに願掛けをしてみたところこれが叶った。別の頼みごとをするとこれも叶った。ことごとく叶った。代償は葛籠いっぱいの飯であったり、清酒十樽であったり、初代が大切にする錦鯉であったりした。それが野良犬や野良猫へと変わる頃には、驚愕は確信に変わっていた。さらに確信は信仰へと変わり、やがて……
──大角屋の呪いとなった。
「四代前のご店主は……大火事から店を守るために葛籠に祈って難を逃れた後、ご自分が生贄になったというんですよ。しかも、それが最初じゃあなかった」
「最初じゃない……」
お凛が思わず繰り返すと、ぶるっとお松が身震いした。
「その前にも、船を嵐から救うためだとか、投資の大損を穴埋めするためだとかで葛籠に願掛けをして……お子様の一人を葛籠に捧げたんだとか……」
語尾が聞き取れぬほど小さくなる。冷たい木枯らしにうなじを撫でられた気がして、お凛はぎくりと首を縮めた。
「表向き、お子様は拐かされて、ご曾祖父様は気が触れて失踪なすったということになっているそうですけれど。ま、本当のところはあたしにも知りようがありませんが」
ことの真偽よりも、文斉の様子の方が案じられてならなかった、とお松は言った。
「旦那様は、ご自分もいつか葛籠に願掛けをすることになるんじゃないかって、お身内の方々やご自分までもを、いつか手にかける日が来るんじゃないかって、心底恐怖して生きていらしたんですって。ご家族が増えるほど、お店が大きくなればなるほど、ますます恐ろしくて堪らなくなってきた、葛籠に頼ることなくご家族や店を守れる自信がないって。夜も眠れぬ日もあるそうでしてね。
──あたし、旦那様はそんな意気地のないお方じゃありゃしません、お店だって奉公人が皆で支えているんだから傾いたりしません、お気を強くお持ち下さいまし、あたしもこの手癖の悪さを直しますから一緒に踏ん張りましょう、って発破をおかけしたんですよ」
妙な励まし方もあったもんですよねぇ、とお松はくすりと笑った。苦い笑いだが、目は鮮やかな澄んだ光を浮かべている。夏の陽射しを思わせるような美しさだ。そら、仙一郎なんてもう煎茶で酔っ払ったみたいな顔をしている。
刹那、鳥総松を見下ろして、自分は臆病者だと呟いた文斉の姿が目に浮かんだ。手放したいのに手放せない。己を蝕む毒だとわかっているのに、その強大で蠱惑的な力を恃みにしなければ不安で不安で堪らない……
「……でも、あたしの発破くらいじゃあ、どうにもならなかった」
空っぽの湯飲みを見下ろす切れ長の美しい目が、葛籠の底なしの虚無を見下ろしているかのように昏くなった。
お松に励まされ、文斉は幾度も葛籠を手放そうと試みた。けれども、どうしても果たせなかった。商いに小さな問題が持ち上がる度、葛籠が納めてある蔵へふらふらと入って行きそうになるのを、お松が必死になって止めたこともあったという。
「そんな時でしたかね、おつた様があたしにご相談事を持ちかけていらっしゃったのは」
父である文斉が、あまりにも憂い顔であるのが案じられてならない、何か思い当たる節はないだろうか、とおつたが尋ねたのだという。
お松は幾度かおつたと話す内に、彼女が心底父親を案じていることを感じ、思い切って葛籠のことを打ち明けた。
「おつた様は仰天なすってましたけど、ご先代様から葛籠の話を伺っていたそうで、どういうことなのかすぐにわかって下さいました。賢いお嬢様なんですよ」
おつたは幾日も考えた末、あることを提案した。
「屋敷には人目があるから、焼き捨てたり壊すことは難しい。だから葛籠が盗まれたということにしてしまおう。あれを、旦那様の目の届かぬところへ、永久に隠してしまおう。そうおっしゃったんです」
「お店の盛衰にかかわることになっても、ですか」
仙一郎が茫洋とした眼差しを向けて尋ねると、お松はきっぱりと頷いた。
「左様です。旦那様お一人に重荷を背負わせ、苦しめて何の繁栄だろうか。こちとら葛籠ごときに縋りつくほど落ちぶれちゃいない、って啖呵を切ってらっしゃいましたよ」
凄みのある笑みがお松の紅い唇に浮かぶ。
「おお、大角屋の女人方は女丈夫の猛者揃いだ」仙一郎が締まりのない顔で惚れ惚れと言った。
「おつた様はご自分で葛籠をこっそり運び出すとおっしゃったんですが、そこはあたしにやらせて下さいとお願いしたんです。何しろ前科がございますからね。昔取った杵柄で、盗人の真似事なんざお手の物ですよ」
葛籠はひどく怒っていた、とお松は言った。
「たらふく食わせてくれる大店にいたってのに、こんな盗人の女に拐われちゃあ、そりゃ腹も立てるでしょうね。本当はおつた様が谷中に用意して下さった家に隠れるつもりだったのが、葛籠が大層気味の悪い声でわめくんですよ。上野へ着く頃にはもうへとへとになっちまっていて、どうにもならなくて目の前にあったお寺に預けたんです」
後日寺を探ってみて、葛籠が深川木場の通称「あやかし屋敷」に預けられたと知ったのだという。おつたは、仙一郎の手元にあればひとまず安心なのではないか、文斉には決して渡さないよう旦那さんに頼んでおこうと言った。
「ですが、それじゃ、お松さんもずっと身を隠さなくちゃいけなくなるでしょう? それでいいんですか」
お凛は躊躇いながら尋ねた。
「そのう……お松さん、大角屋の旦那様のお側に、いたいんじゃありませんか? 旦那様もそうなんですよね」
「──あんた、こましゃくれたこと言うねぇ」
白い歯を零してにこりとすると、お松はすうっとなだらかな肩を下げた。
「だからあたしがお誂え向きなのさ。盗人が盗みに入ったんなら旦那様もお上に届けて大騒ぎなさるだろうけど、旦那様はあたしをお縄にはしたくないわけ」
お松と葛籠を探そうにも、大事にして人手を繰り出すわけにはいかないというわけか。自分自身を盾に使おうとはなんと思い切った、しかし健気な心意気だろうかとお凛はちょっぴり切なくなった。
「でもねぇ、文斉さんはこちらの胸が痛むくらいに悲しんでおいでですよ。葛籠はともかく、お松さんは帰って差し上げたらどうですか。惚れた女にいきなり去られるなんて、そりゃあもう身を裂かれるような苦しみですよ。私なんて想像するだけで死んじまいそうだ」
仙一郎が胸を押さえて嘆息し、子犬のように目を潤ませながら鼻をすする。梅奴か染吉に捨てられるところでも想像しているのであろう。
「──駄目です。それはできない相談です」
かすかに青ざめながら、お松は低く唸るように言った。
「あたしが戻ったら、今はよくても、いずれ葛籠はどこだ、葛籠をくれと、おっしゃる時がきっと来ます。あたしはそれを突っぱねる自信がないんですよ。だから、旦那様が葛籠をきっぱり捨てるご決心ができない限り、戻れません」
「決心ですか」仙一郎が白い顎の先を摘んで小首を傾げた。「その決心というのは……どうやったら確かめられるもんなんですか?どうしたら、その決意が真実なのか、わかるものなんですかねぇ」
邪気のない顔で尋ねる仙一郎に、お松は強張った、しかし強い決意を浮かべた視線を返した。
「──その時が来れば、わかります。……その時が、来れば……」
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