深川あやかし屋敷奇譚

笹目いく子

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人喰いつづら(二)

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 そんな馬鹿な、と胸裡で呟くお凛をよそに、

「ほう、願いを叶えてくれる葛籠ですか」

 二日酔いも吹き飛んだかのように、仙一郎の背筋がしゃっきり伸びた。爛々と目を光らせながら、風呂敷の上に鎮座する葛籠に触れようとした途端、「触るでない」と泥徳がさっと手を上げ、主の鼻先をしたたかに打った。

「これはな、恐ろしい葛籠なのだ。迂闊に手を触れるな」

 鼻先をさすりながら抗議しようとした主は、老僧の顔色を見て言葉を飲み込んだ。豪放磊落を絵に描いたような僧侶は、仙一郎の二日酔いが伝染ったかのように青ざめてふるえていた。

「……昨年の師走の終わりのことじゃった。寺を一人の女が訪ねてきてな。この禍々しい葛籠をどうか預かって欲しいと請われたのだ」

 僧侶の視線が葛籠に落ちる。葛籠は、縦二尺八寸、横一尺四寸、深さ一尺二寸ほどで蓋がついている。木枠に竹で編んだ上に黒漆を塗ってあり、いかにも頑丈そうだ。正面に下がり藤の紋が入れてあり、婚礼道具が入っていてもおかしくない風格漂うものだった。

「その女は、女中を勤めていた大店の店主の手元から、これを盗んできたと言った。代々店主に伝えられ、店の繁栄を支えてきた、これは幸運の葛籠と呼ばれておったそうな。……手癖の悪い女でな、度々家の中のものを盗み出しては金に変えていたそうなのだが、あの葛籠にどんな秘密が隠されているのだろうかと、ある日出来心で盗み出したのだという。しかし……これはただ幸運をもたらすだけの縁起物などではなかった」
「──と、おっしゃいますと……?」

 お凛も、ごくりと息を飲んで仙一郎と共に身を乗り出した。
 ざわ、と庭を不意の風が吹き抜け、みしりと屋敷のどこかが軋む音が微かに聞こえた。

「……今朝、千両が当たったと知った後、儂は何をしようとしていたと思う?」泥徳がぎょろりと目を見開いて言う。
「──儂はな、ふと気がついたら、可愛がっておった猫をこの葛籠に放り込もうとしていたのだ。こう……餌でも与えようとするかのように」

 葛籠に、餌をやろうとするかのように。

「……女は、こう言っておった。この葛籠は始終飢えておって、喰いたくて堪らずにおるのだと。腹が減って腹が減って堪らん。願いを聞き届ける代わりに餌をよこせと、持ち主をせっつくのよ。それも……ただの餌では満足せん」
「──生き、ですか……」

 怯えるどころかますます驚喜に顔を輝かせ、仙一郎がかすかに笑う。

「生き餌だけじゃあない」泥徳が声をひそめた。「持ち主にとって大事なものは、何でも喜んで喰らうらしい。儂は危ういところで猫を逃がしたが、葛籠の奴め、それならと、儂の秘蔵の古田織部の茶碗をよこせと頭の中で喚きおったわ」

 葛籠の所有者は、その声を頭の中に聞くのだそうな。欲しがれ、欲しがれ、よこせ、よこせ、と囁くおぞましい声は、やがて持ち主の心を虜にして自由を奪うほどに大きくなる。そして、持ち主の心の内に潜む欲望を煽り、掻き立て、意のままに支配して行くのだという。盗みを働いた女は、自分が葛籠の誘惑に負ける前に安全な場所に預けたいと、必死に泥徳に頼み込んだ。
 修行を積んだ僧である泥徳は、容易に葛籠の言いなりにはならなかった。逆に葛籠を御してやろうとすら試みた。だが、気づかぬ内に泥徳の精神に浸み込んでいた葛籠の声は、高潔な老僧の秘めたる願望を暴き出していた。

「……まずは、葛籠の力を試してみようなどと思い立った時には、すでに葛籠の術中に落ちていたのだろうな」

 千両を当てた泥徳に、葛籠は代償を要求した。

──餌、餌、餌をよこせ。喰わせろ、喰わせろ、早く喰わせろ。もっともっともっと。

 鼓膜を突き破り、頭の中をかき回すような、怨霊のごとく呪わしい声色で泣き叫ぶ葛籠の声は、四半時も聞かされればいかなる偉丈夫でも気が狂うほどだという。禍々しい葛籠を調伏しようと試みた泥徳だったが、やがて精魂尽き果て、朦朧とする内に己の両手が勝手に動き、織部の茶碗を葛籠に投げ込む様子をなす術もなく見ていたのだった。

「正気に返ってから慌てて葛籠を開いてみたが、茶碗は影も形ものうなっていた」

 あれは千両どころか、金では贖えぬ傑作だった、と十も老けた顔で付け加える。

「──それで、和尚の願望というのは……諦めることになすったんですか?」

 仙一郎が無邪気な声で問うと、老僧がふと表情を消した顔を上げた。

「……諦めることは、難しかった。だから試してみずにはおられなかったのだ。本当に、我が願いが叶うものなのか……」
「それは……どんな願い事なんですか?」

 主が重ねて問うた途端、沈黙した泥徳の体から、じわりと黒い影が滲み出るのを見た気がした。

「……お前さんの腕は、大したものだ。茶だけが美味くとも茶の湯を極めるには程遠いが、逆にいくら茶禅一味を極めたとしても、茶が不味くては話にならん。儂の茶は、美味いぞ。だがどういうわけか、お前さんの点てた茶は、いつもそれより美味く感じられてならんのだ……」

 ぶつぶつと呟く声が、お凛の肌の上を蜘蛛の群れのように這うような錯覚を覚える。蜘蛛は無数の糸を引きながら、獲物を搦め捕ろうとうごめいている。ぐるぐる巻きにして、身動きとれぬようにしてしまった後、ゆっくり味わおうと餌を引きずって行く……葛籠の、暗く底の無い箱の内側へと。

「それで……葛籠を前にしてふと考えた。もし……もしも、お前さんよりも美味い茶を点てたいと願ったら、どうなるだろうか、と。……そのためには、いかなる代償も払えるであろうか、とな」

──いかなる代償も。

「だが……よく思料してみれば、ことは単純だった。葛籠に願うまでもない。お前さんが茶を点てることがなくなればいいのだ。のう?いかにも簡単な話だ」

 奇妙に明るい光を帯びた僧侶の両目が、あっけらかんとした笑みを浮かべるのを、ぞっとしながらお凛は見詰めた。それは、どういう意味なのだろうか。考えたくもない想像が頭をよぎる。

「この葛籠はいつでも腹を空かしておってな。人の一人や二人なぞ、わけなく、跡形もなく、飲み込んでしまえるのだ……」

 そう言うが早いか、見た目を裏切る敏捷さで老僧が動いた。仙一郎の襟元を、皺のある、しかしがっしりと太い指が掴んだかと思うと、ぐんと引っ張る。柳のような仙一郎は、うわ、とひとたまりもなく引きずられてじたばたする。

「お、和尚さん、待った待った!落ち着いて!ちょっと正気に戻りましょう、ね?」
「暴れるな。なぁに、成仏できるように経はあげてやるから案ずるな」
「いや、そんなもん結構ですから!私美味しくないですから!二日酔いだし!」

 畳の上を引きずられながら、主が、げぇっ、と目を剥いた。和尚の片手が葛籠の蓋を持ち上げている。昏い、昏い闇が、濃い墨のように溢れ出てくるのが見えるようだ。長火鉢に赤々と燃えていた炭がにわかに翳り、鳥肌立つほどに冷たい空気が部屋に満ちてくる。

「お、和尚様、旦那様、あの」願いを叶える葛籠だとか、生き餌だとか、一体全体何が起きているのだ。ただの葛籠なのだから、放り込まれたからどうということもなかろうし、あの小さな箱に主が納まるとも思えない。ということは、泥徳の話はただの法螺か。だが、それにしてはこの異様な空気は何なのか。混乱しながら手を出しあぐねていると、不意に仙一郎がこちらを向いて叫んだ。

「お凛!富札、札を燃やせ!」
「えっ、ふ、札?」

 今この状況に、富籤の札など何の関係があるのか。お凛が目を白黒させると、蜘蛛の巣にかかった羽虫のようにばたばたしつつ、裏返った声で主が怒鳴った。

「そうだ、千両の富札を焼いてくれ!早くしろ!私はまだ死にたくないぞ!」
「ええっ!?……は、はい!」

 何だかわからないままお凛はだっと二人に走り寄り、すいませんと内心で詫びつつ、両手のふさがった和尚の懐から紙の富札を掴み出した。そのまま無我夢中で長火鉢に取って返し、消えかけていた炭の上に札を抛った。
 必死に火を掻き立てるとちりちりと紙の端が焦げ始め、やがて薄い炎が上がった。
 
(千両を燃やしてしまった……)焦げ臭い匂いを嗅ぎながら、己に呆然とする。しかしこうなってはもう手遅れだ。小気味よい速やかさで橙色の炎が千両を飲み込んでいく様を、お凛は喘ぎながら凝視していた。

「──ん?これは何じゃ。どうしたんじゃ……?」

 背後の声にさっと振り向くと、今にも葛籠に仙一郎の頭を突っ込もうとしていた老僧が、ぼんやりと己の両手と青年を見比べているのだった。

「おお……な、なんとしたことだ。儂は何をしようと……」

 みるみる顔色を失った泥徳は、火傷したかのように葛籠から手を離し、ついでに仙一郎も放り出した。あいて、と呻いて畳にごろりとひっくり返った主は、場違いに朗らかな声であははと笑った。

「いやはや……千両の代償は、茶碗だけでは足りなかったようですな。そいつはよほど空腹らしい。ま、これで千両は無くなったことだし、当座は大人しくなるんじゃありませんか」

 ますます着崩れた着物を直そうともせず、汗だくになったままやれやれと笑う。

「笑い事か!危うくお前さんを殺めるところだったんだぞ。す、すまん、こんなつもりは毛頭……儂は己が恥ずかしい」

 今にも泣き出さんばかりに顔を赤くして項垂れる僧侶に、いやいや、と主は気軽な調子で手を振った。

「私ちっとも気にしませんから、和尚さんも気にしないで下さいよ。それにしても、いやぁ、すごい代物ですね。こんな怪異には滅多にお目にかかれるもんじゃありません。もうぞくぞくしちゃって堪りませんな。有難く預かりますよ」

 危うくわけのわからぬ葛籠の餌食とされそうだったことも、この青年にかかればぞくぞくするほど愉快な体験であるらしい。

「お前さん、正気か?こいつは人の欲につけ込んで、あの手この手で誘惑してくるんだぞ。儂でも抗えなかったものを、浮き草みたいなお前さんが耐えられるのか?」
「大丈夫ですったら。なにしろ私は天眼通ですしね。覗き見じゃありませんよ。それにこのお凛もおりますし。きっちり躾けてやりましょう。どーんとお任せ下さい」

 ええ……?と疑わしそうな目で僧侶が仙一郎とお凛を交互に見ている。お凛も信頼の欠片もない視線で主を見遣るが、葛籠に頬ずりしそうな勢いの青年は自信満々なのであった。
 泥徳は逡巡の末、躊躇いながら首肯した。

「……そこまで言うのなら、任せるとしよう。だが、くれぐれも葛籠の声に耳を貸すんじゃないぞ。こいつはな、最後には持ち主を飲み込もうとさえするそうだ」

 唾を飲み込み、和尚は怯えた表情で言った。

「件の女が言うには、その店の初代店主は、ある日自ら葛籠に入り、それっきり出てはこなかったそうじゃ」
「ええっ!?」
「へぇ……」
 
 真っ青になったお凛とは反対に、仙一郎は感心したように首をひねるばかりである。この変人め。

「葛籠は、店の蔵の奥に置かれてあったそうでな……」

 海鼠壁の立派な蔵であったという。その蔵の二階の奥深く、薄暗い暗がりに、黒漆の葛籠がひっそりと置かれてあったそうだ。ーー老僧の声に耳を傾ける内に、その景色がふと眼前に浮かんだ。葛籠の前に、人影があった。りゅうとした姿の老年の男だ。葛籠を静かに見下ろしていた老人は、おもむろに葛籠の蓋を開くと、己の頭を供物のように箱の中へと差し入れた。
 まるで蛇に飲まれる獲物のごとく、男の体が何かに掴まれ、ずるずると音もなく箱に落ちていく。断末魔の絶叫も、恐怖の悲鳴も、箱の内で暴れる音も聞こえてはこない。ごそ、がさ、と男の体が箱の縁にぶつかる音がかすかに聞こえるのみだ。あの小さな箱に、大人の男の体が納まるわけがない。だが、底なし沼でもあるかのように、男の背中が、手が、脚が、ゆっくりと、しかし確実に吸い込まれていくのだ。
 やがて男の白い足首が箱の内側へと消えると、葛籠はただ虚無を吐き出す箱となって、薄暗い蔵の床にべったりと黒い影を落としていた。
 お凛は瞬きして幻影を振り払うなり、ひゅっと鋭く息を吸った。これは、幻だろうか。それとも、葛籠が見せている過去の持ち主の最期なのだろうか。
 耳の奥で心ノ臓が立てる音を聞きながら主を見れば、仙一郎は満面の笑みを浮かべ、黒々とした艶のある葛籠を見下ろしていた。

「だ……旦那様、そんな人食い箱を引き受けるなんていけませんよ!危ないですよ!やめましょうよ」
「ははぁ、人食い箱か。上手いことを言う」
「あのですねぇ!」

 膝を打つ主に歯噛みすると、つるりとした丸い瞳がおかしそうにこちらを見た。

「あれ?まさかお前、この箱が怖いのかい。祟りも呪いも信じないお前が珍しいもんだねぇ」
「そりゃあ、信じちゃいませんけど。そんな馬鹿な話、あるわけないですから……」

 そうは言っても、目の前で和尚のあんな異様な行動を見せられたら、何やら不安になるではないか。ぐっと詰まるお凛に、「じゃ、いいじゃないか」と仙一郎がぺろりと舌でも出しそうな顔で言った。

「まったく食いすぎだぞ、お前は。この節操なしめ」

 子犬を叱りつけるように葛籠に語りかける青年を、和尚は奇怪なものを見るかのごとく、額に汗を浮かせて凝視したのだった。
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