深川あやかし屋敷奇譚

笹目いく子

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師走の客(三)

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(ーーこの石のことかしら)
 
 ほどよく角が取れた、小ぶりな西瓜を少し潰したような形の石だ。青灰色のざらざらとした表面をしていて、石英か何かが混じっているのか、砂粒のような輝きがちかりちかりと瞬いている。まぁ、ちょっと山奥の河原に行けば、ごろごろ転がっていそうな石だ。
 ううう、ううう、とますます唸り声が高くなる。お凛は青くなって青年の顔を覗き込んだ。こんなに苦しそうに呻いていて、大丈夫なのだろうか。医者を呼んだ方がいいのではないか。心ノ臓がばくばくと速くなり、手のひらに汗が浮いてくる。石がどうこうとか言っていたけれど、そんなことを気にしている場合ではないんじゃーー

(……あれ?)

 立ち上がりかけたお凛は、ぴたりと動きを止めた。耳をそばだて、青年をじいっと見下ろす。

「ううーん……うう……おもい……」

 青白い顔をした青年は、確かにか細く唸っている。額にうっすら汗が浮いて、いかにも苦しげだ。
……だけど。

 ううう、うううう、うおお……

(これは、誰の声?)

 野太く低い唸り声が聞こえてくる。まるで、洞穴で熊が唸っているかのようだ。お凛は目玉だけを左右に動かし、部屋の中を見回した。他には誰も、いない。

 うううう……ううー、おおお……

 やがて、お凛の瞳が、吸い寄せられるようにある物の上に止まった。青年の頭の上の、石。
 石が、唸っている。

「ーーまさか」

 思わず声に出し、お凛は自分の思いつきを笑った。石がどうして唸るわけがあるだろう。馬鹿馬鹿しい。
 ううう……という声は、密やかに、しかし時に青年の呻き声を飲み込むようなうねりとなって、耳に忍び入ってくる。……風か何かの音だろう。きっとそうだ。それとも、青年の声がどこかに響いているとか。

 まぁいいや。この石を、とにかく持ち上げればいいんだっけ。

 お凛は気を取り直すと、開いたままの唐紙から顔を覗かせた。廊下の先に、恐々とこちらをうかがう富蔵と、女中らしき女の姿が見える。お凛が石を指差すと、二人がぶんぶんと申し合わせたかのように頭をふった。

……ふむ。何だか知らないけど、まぁやってみようか。

 懐から紐を取り出し手早く襷掛けしたお凛は、石の前に回り込んだ。 
 もう一度廊下を見遣ると、二人の男女は固唾を飲んでお凛を見詰めている。別に石が噛みつくわけでもなし、何をそんなに怯えているんだろう?
 不可解に思いつつも、よっ、と両手で石を掴んだ。ひやりと冷たい、ざらついた石の感触が手のひらに伝わる。

ーーせぇのっ!

 奥歯を噛み締めながら渾身の力を両腕に込めた。

「あ……!?」

 手応えがなかった。勢い余った両腕が頭の上にぶんと振り上げられ、つられて尻もちを突きそうになる。
 石を掴み損ねたのだろうか?咄嗟に足元を見れば、石はそこに見当たらない。慌てて頭上を見上げると、両手の間には、一尺ばかりの岩がしっかりと挟んであった。

ーー何、これ。変なの。

 まるで、軽石か張り子のように重さがない。しっかりとした石の肌触りはあるのに、中身はがらんどうであるかのように軽いのだ。
 すっかり拍子抜けしたお凛は、めつすがめつして石を見回した。どうってことのない石だ。こんなものに、何を皆であたふたとしていたのだろう。その時、お凛は、あっ、と青年を見た。
 唸り声が止まっていた。か細い青年の声も、石から響いてくるかのようだった声も。心なしか青年の顔色がよくなっている気がする。弱々しかった呼吸も、穏やかに深くなったようだ。

「……い、いかがでしょうか?」富蔵の掠れた声が廊下の奥から響いてきた。
「はい、この通り」

 片手で石をぽんぽん弾ませながら二人に示すと、ひゃああ!という悲鳴が返ってきた。
 
「な、なんてこった!やりなすった!」
「やった!やったよ!」

 手を取り合って歓喜する二人は、顔をくしゃくしゃにして今にも泣き出しそうだった。

 石を片手に載せたまま、お凛は伸び上がって二人に尋ねた。

「あのう……この石、どうすればいいんでしょうか?もう下ろしてもいいですかね」
「いや、いやいやいや、駄目です!そりゃいけません!」

 途端に飛び上がった女中が、脱兎のごとく走ってきて、

「これ、これで縛り上げて下さい!」と荒縄を押し付けてきた。
「えっ……い、石を、縛るんですか?」
「はい!どうぞふんじばってやって下さいまし!」

 青ざめて目を吊り上げながら、鼻息荒く言い切る丸顔の女中を、お凛は唖然としながら眺めた。相手は石なんだから、暴れるわけでも勝手に転がるわけでもなかろうに。まぁ、色々面妖なところのあるお屋敷と家人たちであるし、今更問いただすだけ野暮というものだろう。さっさと済まして帰ろう、と思いつつ素直に頷いた。しかし、縄を受け取ってぐるぐると石を縛っていると、どうにも失笑が喉の奥に沸いてくる。これでもかと石を縛り上げる己と、それを恐ろしげに見守る大人が二人。冷静になると途方もなく滑稽な図だ。お凛は笑ってはいけないと唇をぎゅっと結び、世にも神妙な顔で、大盗賊をお縄にするかのような厳重さで情け容赦なく縛ってやった。

「……これで、いいでしょうか?」

 縄でぐるぐる巻きの、茶色い何だかよくわからない物体と化した石を持ち上げて見せる。
 わあっ、と二人が拍手喝采し、ありがとう、ありがとう、と這うようにして頭を下げた。

「ーーもう、手を離してもいいよ。よくやった」

 突然、床で眠っていた青年がぱちりと瞼を開いて声を発した。ひぇっ、と今度はお凛が仰天し、石を取り落とす。
 どしん!重い響きと共に石が畳に墜落した。下男と女中が思わず後ずさり、はっと息を飲んで青年に視線を向ける。青年はむくりと床から体を起こして首だの肩だのを回すと、うーん、と伸びをした。

「平気平気、もう縛り上げたから悪さはできないよ。あーあ、えらい目に遭った。うわぁ、ひげがじょりじょりじゃないか。月代も伸びてるし!髪結いを呼んでおくれ」
「旦那様、ようございました!まったくあたしは寿命が縮む思いでございましたよ」
「本当ですよ。まさかこんなひどい祟りにお遭いになるなんて!だから解いたら駄目だって申し上げたのに……」
「そりゃもういいからさ、髪結い……」

 今の今まで寝込んでいたことよりも、身だしなみの方が気になるらしいこの青年が屋敷の主らしい。それにしても、祟りとか言っただろうか?何の話をしているのだろう。とりあえず、もう帰ってもいいのかな。店の手伝いをしないと……

「ーーあ、そこのお前さん」青年が急に声をかけてきた。「お前さん面白い子だねぇ。祟りを祓っちまうなんて驚いたな。おかげで助かったよ!神通っていうんじゃなさそうだけど、まさか妖じゃないよね?役小角えんのおづぬ安倍晴明あべのせいめいの生まれ変わりかい?いやそれとも、金太郎か武蔵坊弁慶の生まれ変わりとか?」

 そんなもんであってたまるか。せめて女人を挙げたらどうなのだ。いやそういう問題じゃないか。

「ものは相談だが、お前さん、ここで女中奉公なぞする気はないかな。お前さんみたいな用心ぼ……じゃない、物怖じしない女中がいてくれると、私は色々助かるんだよねぇ。この屋敷には曰くつきの物やお客がよくやってくるもんだから、なかなか使用人が居着かなくてねぇ」

 ぺらぺらと縦横無尽にまくしたてる青年を、お凛は珍妙な生き物を見ている気分で、ただただ顔を引きつらせながら眺めていた。
 その後、髪結いを呼んですっかり身奇麗になった青年は、茶の間で改めて仙一郎と名乗り、ことの経緯をこう語った。
 曰くーー

「あの石はねぇ、大入道おおにゅうどうが化けたもんでね。え?大入道だよ、聞いたことあるだろう?でっかい坊さんみたいな姿の妖怪だよ。で、この石がだな、触ると祟って人が病に罹っちまうんだよ。そして、石を持ち上げて力比べに勝たないと呪いが解けないわけさ。ところが大入道が化けた石だからねぇ、力士が何人かかったって持ち上がりゃしない。過去に何人も祟られて命を吸い取られたって話だよ。だが、かれこれ十年くらい前に、神通のある坊さんが縄で縛ってどうにか封じて、それが巡り巡って私のところへやってきてねぇ。つい縄を解いちまったんだよね。だってさ、本当に祟られるか試してみたいだろう?それで見事に寝込んじまったってわけ」

 女中が運んできた飯をもぐもぐと口に運びながら、仙一郎は目を輝かせて嬉しげに続けた。

「いやぁ、苦しかった苦しかった!あの石が腹にずしんと乗っかっている悪夢ばかり見てねぇ。雲を突くようにでかい大入道の奴が睨んでいるんだよ。ありゃあなかなかできない経験だね。まぁ一度で充分だけどさ」
「旦那様、こいつは早いところ山にでも捨ててきましょうよ。またどんなことが起こるかわかったもんじゃないですよ」富蔵が気味悪そうに石をちらちら見ながら囁いた。
「何言ってるんだい!こんなお宝を捨てるなんてもったいない!大入道なんだよ?祟るんだよ?大事に床の間に飾って置かなきゃ。拾い物をしたもんだよ、いやほんと」

 がしがしと石を手のひらで撫で、頬を上気させて悦に入っている青年を、二人の使用人はげんなりした顔で眺めた。
 不意に仙一郎がこちらを向いた。飴玉みたいなつるりと丸い瞳が、新しい玩具を与えられた子供のような笑いと好奇心を浮かべてお凛を観察している。

「そういうわけだから、奉公のこと、考えといておくれよ」

 そういうわけもどういうわけも、この青年の語ることはまるで要領を得ない。とっちらかったままの頭で、ひとつぽっかりと浮かんできた疑問を口に出していた。

「あのう……なぜ、私をお呼びになったんですか?下手したら、私まで祟られるじゃありませんか?」

 あっ、と富蔵たちが身を固めた。そうだ。触れれば呪われて病みつくのだから、使用人たちは近づくのさえ嫌がったのだ。なのにお凛には石を持ち上げて見せろとは、ずいぶんな話ではないか。この石が祟るとか、大入道だとかはちっとも信じられないが、よくよく考えるとその点だけは腹立たしかった。

「申し訳ございませんです。旦那様が意識を失くされる前に、どうしてもと言いつけられまして……」富蔵が顔色を失い頭を下げる。
「たぶんあなたなら大丈夫だとおっしゃったんです。相すみません」お江津というらしい女中もしどろもどろになって言う。
「……旦那様、私のことをご存じなんですか?どこかで、お会いしたことがありましたか?」

 怪訝に思って尋ねると、仙一郎は品のいい唇に不思議な苦笑を浮かべ、

「あると言えば、ある。まだない、と言えば、ない。私もあんまり気が進まなかったんだけどねぇ。お前さんが祟りを追っ払う体質らしいってのは知っていたけどさ、私はほら、怪異が大好きだからさぁ。残らず怪異を追っ払われたらたまらない。そうはいっても死んじまったら元も子もないし、背に腹は変えられないしで……」

 とわけのわからぬことを言った。

*** 
 
ーーその青年、仙一郎から、お凛を女中に雇いたいという申し入れがあったのは、年が明けてすぐのことだった。
 年季奉公の新規雇い入れは弥生の五日と定められているが、それまで日雇い扱いにするからすぐに来いと急かされた。
 その頃には、あの屋敷が「あやかし屋敷」などと呼ばれていて、旦那の仙一郎が「天眼通の旦那」として厄介な趣味事に耽っている変人であるらしいと、お凛の耳にも入っていた。  
 
「給金もいいし、旦那一人の世話をすりゃいいんだから条件は悪かねぇ。柳亭の家人でいらっしゃるってんだから身元は確かだ。ただ、遊び人の変わり者だって噂なのがなぁ……気が進まなきゃ断っちまいな、お凛」

 父母も話を進めたものか蹴ったものかと、たいそう複雑そうな様子であった。
 かくいうお凛も、迷いがなかったわけではない。あの日仙一郎が語ったことは、あまりにも突拍子がなく、現実離れしていた。あんな主の元で、果たしてやっていけるのであろうか。
 しかし尋常でなく図太い性質たちのお凛は、長く思い悩むことはなかった。奉公先を探していた所であったし、妙ちきりんな主の言動さえ我慢すれば、十五になろうという娘には恵まれ過ぎているほどの高待遇なのだ。これを逃す手はない。

「大丈夫、大丈夫! 腕っ節には自信があるから任せといて。ちっとやそっとの相手には負けないからさ。妙な石だろうと変人の旦那さんだろうと、返り討ちにしてやるわ」とお凛は細腕に力瘤を作って見せながら勇ましく言った。
「いやお前……奉公に上がるんであって討ち入りにいくんじゃないんだよ?女中の仕事がどんなもんか、わかっているんだろうな?」

 と、両親は大いに不安そうに言った。
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