深川あやかし屋敷奇譚

笹目いく子

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生き人形(六)

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 浅草寺にほど近い、聖天町の裏店に、亀吉という人形師は住んでいた。
 お凛を伴った仙一郎が薄汚れた腰高障子をほとほと叩いて訪いを入れると、眠そうな目を擦りながら四十路になろうかという男が顔を覗かせた。

「ーー寝不足かい。昨日の晩は大層な働きだったらしいから、無理もないか」と仙一郎が不躾に言った途端、男は一瞬剣呑な目つきで二人を睨み、それから不意ににやりと笑った。

「うかゐのご夫婦があんまり気の毒でさ、万年屋の坊ちゃんの計画も面白そうなんで、ひとつ乗ってみようと思いやしてね」

 張り子の人形がごろごろと転がり、桐の手足や作りかけの玻璃の目玉、女の鬘だのがその辺に投げ出された奇怪な長屋に、二人は招き入れられた。
 土瓶から冷めた茶を口の欠けた茶碗に注ぎ、仙一郎とお凛に勧めた亀吉は、そう言って切れ長の目を細くした。

「昨日の夜、おみやさんの人形が戻ってきたってうかゐのご夫婦が駆け込んで来てさ、どういうことかと思って俺ぁ万年屋へ向かったんで」

 人気の途絶えた店先に辿り着いて見ると、勝手口の方から手招きする清太郎がいた。

「これから最後の大芝居を打つから、手を貸してくれと言われてね」

 求められるままに、おみやが着ている着物を取りに戻り、蔵に隠してあった清太郎の人形を運び出し、清太郎の布団に寝かせた。清太郎におみやの着物を着せて、張り子の面をつけてかつらを被せる。
「どうもありがとう」と清太郎ははっきり言ったという。

「首尾よく運びましたかい。そいつぁよかった。いや、こんな愉快な企みはねぇな。まったく楽しかったぜ」

 板敷に胡坐をかいた亀吉が痛快そうに笑った。

「……あのう、それじゃあ、おみやさんの人形を連れ出しに来たのは、うかゐのご夫婦なんでしょうか?」

 お凛が不思議に思っていたことを尋ねると、亀吉は苦笑いして茶をすすった。

「旦那さんたちが?まさか。二人とも還暦近いんだぜ。鼠小僧でもあるまいし、そんな盗人まがいの芸当ができるもんか。奉公人の誰かがやったんだろう?」
「いいえ、皆さん知らないって……」

 長屋の外の井戸端で、隣近所のおかみさんたちがどっと笑い声を立てるのが、妙に鮮明に耳に届いた。
 きっと、屋敷に忍び込んだことに気が咎めて、言い出せずにいるんだ。そうに決まっている。だって。

……人形は歩いたりしない。

 昼間だというのに薄暗い部屋の中で、そこらに転がる人形たちが、ふとこちらを見た気がした。

「ーーそう言えば」

 乾いた、しかしどこか粘ったような口調で人形師がぼんやりと言う。

「うかゐの旦那さんたちが、おかしなことを言ってたっけ。おみやの足の裏がひどく汚れていたって。まるで……どこかから歩いてきたみたいだ、ってな」

 独り言のような声を聞きながら、思わず上がり框に腰を下ろした仙一郎に目を向けた。
 すると、奇天烈な趣味の変人の旦那は、世にも美しいものを見るかのように、ただ愛しげに精妙極まりない人形の群れを眺めていた。

***

 それからわずかに一月後。潰れたはずのうかゐが再建され、店主夫婦が戻ってきたそうだった。奉公人を呼び戻し、さっそく名高い香り露も売り出したというので、仙一郎が辰巳芸者のために買い求めに走ったのは言うまでもない。
 万年屋への借金で潰れる寸前であった店は、勝右衛門が突如として借金棒引きを申し入れ、破産を免れたという。
 万年屋の店主は人が変わったかのように穏やかになってしまい、昔叩き潰した商売敵の元を尋ね歩いては己の所業を詫び、できる限りのことをさせてもらう、と店の再建にあちらこちらで手を貸しているらしかった。
 万年屋は当然内証が苦しくなったが、どういうわけか店主一家も奉公人たちも幸せそうだというから不思議なことだ。店を知る人々は、そう言い合っては首を傾げるのだった。

 水面をびっしりと覆う落葉が、錦の織物のように赤や黄の模様を描いている。

「ーー旦那様。坊ちゃんはもう押しかけてこないっていうのに、また舟遊びなんですか?今度はどういう大層な憂さがおありなんですか」

 橋の欄干から見下ろしたお凛に、辰巳芸者を侍らせた主が、うへぇ、とあからさまに目を剥いて見せた。

「いいじゃないか。一件落着した祝いだよ。それにさ、結局あの人形もうかゐに戻っちまったし。せっかく歩いた呪いの人形だったってのにさぁ。私は意気消沈しているんだよ」

 そう嘆くわりに、染吉と差しつ差されつうふふあははと愉しげなのは、どこの誰であろうか。

「まぁ、何ですかそれ。怪談ですか?……ああ、怪異と言えば、怖ぁい話がありますよ」

 釣り糸を垂らしていた梅奴が、そう言って花のような顔を上げた。
 
「少し前にね、明け方まだ暗い時分に、この辺りで舟に乗った女童めわらしを見たって話があるんですよ」

 お凛は一瞬の間を置いてから身を乗り出した。 

「女童……?」
「そうそう。青い友禅のような着物を着て、朝靄の中、きいきい音を立てる舟に立っていたって。船頭もいないのに舟は勝手に木場を進んで、すうーーっと消えて行ったんですって」

 刹那、目の前に、濃密な青い闇が漂う水の上を音もなく進む舟と、そこに佇む人形の姿を見た気がした。

「あらまぁ、怖いねぇ。誰かを取り殺しにでも行く途中だったのかねぇ」
 
 べん、と染吉が三味線を鳴らす。

「染のような物の怪にだったら、取り殺されたいもんだ。ああ、いい香りだねぇ。やっぱり香り露は大したもんさ」

 仙一郎が染吉のうなじにうっとりと顔を寄せた途端、

「嫌ですねぇ、この助平」

 ごつんという音がして、三味線の撥でしたたかに額を殴られた主が頭を抱える。
「あ痛ぁ」という嬉しげな声を聞き流し、お凛は高い秋空の下に広がる木場を見渡した。
 赤とんぼがちらほらと、そこここに飛びはじめていた。
 あでやかで、どこか物寂しさを感じさせる錦繍の水面を、冬の気配を孕んだ冷たい風が吹き抜ける。風は遠くの木遣り歌を幻のように運んで、いずこかへと去って行った。 


                                おしまい
 
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