深川あやかし屋敷奇譚

笹目いく子

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たたり振袖(四)

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 翌日、一ツ目橋に程近い越後屋若狭で上生菓子を贖った帰り道、せっかくだからと深川八幡に寄り道して、門前仲町にある『すえ吉』を訪ねてみることにした。
 お江戸で「なかちょう」と言えば、深川八幡と通称される富ヶ岡八幡宮の参道である門前仲町もんぜんなかちょうを指すと相場は決まっている。茶屋がひしめきあう繁華な通りは、昼は八幡参りの参詣客で賑わい、夕暮れ時からは辰巳芸者が闊歩する花街へと変貌し、夜な夜な酔客であふれるのだ。じりじりとうなじを焼く日差しと人いきれに汗をかきながら、一の鳥居に近い火の見やぐらを望む通りを歩いていると、前を行く仙一郎がそわそわとしはじめた。

「ああ、染吉そめきち梅奴うめやっこは達者にしているかなぁ。近頃とんとご無沙汰だった。ねぇ、お凛。お前、菓子を半分持って先にお帰りよ。一人で食べていいからさ。私はちょいと二人に挨拶して……」
「真っ昼間から何をおっしゃってるんですか。きりきり歩いてくださいよ」

 面倒くさそうにお凛が言うと、あのねぇ、と主が哀れみの眼差しを向けてきた。

「子供のお前にはわからないだろうけどね、男ってのはたまにはいい女に会わないと、気力が沸かないもんなんだよ。辰巳芸者の気風のよさってのは、そりゃあいいもんでね。こう、きゃんで威勢がよくてさ。男を足蹴にするような勇ましさで、痺れるんだよねぇ」
「あらそうですか。じゃ、私が蹴ってあげますよ」

 そう言うなり、鼻の下を伸ばしている仙一郎の踵めがけて爪先を繰り出すと、「うわ」と叫んで飛びすさった。道楽息子のわりには身が軽い。

「主人に向かって何ということをするんだお前は!何だその、惜しかった、みたいな顔は」

 青い顔をしてしぶしぶ歩き出した主の後を、お凛は澄ました顔でしずしずと歩いた。
 やがて、ちりひとつなく掃き清められた店先に、藍の暖簾が清々しく翻るすえ吉が見えてきた。江戸に数軒の店舗を持つだけあって、店構えはなかなかのものだ。出入りする客層も懐に余裕のありそうな町人や、売れっ子らしい芸者衆が目についた。店内は衣紋掛けに吊るされた色とりどりの着物がずらりと並び、太物の反物が壁に作りつけられた棚にぎっしりと積まれ、繁盛ぶりが窺える。

「あっ、これは仙一郎様」

 慌てて出てきた藤吉が、店の上がり框に両手をついて挨拶をした。

「昨日は厄介なものをお引き受けくださり、本当にありがとう存じます」
「おお、柳亭の……これはこれは」

 奥から店主の清兵衛せいべえも遅れて現れ、藤吉と共に深々と頭を下げる。どうぞ奥へ、という再三の勧めをやんわりと断ると、清兵衛はようやく折れて、帳場の近くに二人を招いた。

「その、いかがですか。は……何か悪さをしてはおりませんでしょうか?」

 奉公人が茶と菓子を置いて去ると、おそるおそる清兵衛が尋ねた。

「いいえ、ちっとも。おとなしいもんです。私がお預かりしたからにはもう安心ですよ。どうぞお心安らかに」

 左様でございますか、と店主と藤吉の顔が明るく晴れた。

「いや、こう申すのはなんでございますが、万が一のことがあってはと、お願い申し上げてから生きた心地もしませんで」

 清兵衛が肩を下げ、安堵と疲労を浮かべた顔で言った。

「お嬢様がお怪我をなすったそうで。お労しい限りです」

 神妙に仙一郎が応じると、深い嘆息が返ってきた。

「ありがとうございます。あれには本当に哀れなことでした。命が助かっただけでもよかったと、思うしかございません」

 顎にぎゅっと皺を寄せながら低く呻く店主は、己を納得させるかのように見える。

「失礼ですが、ご縁談に障りが出てしまったとか……」

 ちょっと、何という無神経な、とお凛が思わず抗議の視線を送ったが、主は柳に風と受け流し、涼しい顔をしたものである。

「はい。大伝馬町の太物問屋『青松』の若旦那様とのお話が進んでおりまして……結納品も揃えていたところだったのですが」

 大店である『青松』の若旦那は二十二の利発な青年だそうで、お菊をたいそう気に入っていたらしい。だが、不吉な振袖の噂と、消えない傷を負ったお菊に、二親が難色を示したのだという。ひどい話だ。世間とはそのようなものかもしれないが、まったくひどい。

「そうでしたか。お嬢様がさぞ気落ちしておられるでしょうね」

 悶々とするお凛をよそに、仙一郎はいかにも辛そうに眉を下げた。

「ええ、それはもう。ですが近頃は、だいぶしゃんとして参りました。娘もまだ十九です。体に傷があろうと構わぬという殿方が現れるまで、嫁になど行かないと啖呵を切っておりますよ」

 清兵衛がくすりと笑うと、後ろに控えている藤吉の頬がふわりと緩んだ。

「ところで……」仙一郎が首を伸ばして小上がりを窺った。「ここで、最初の火が出たそうですね」

 はい、と藤吉が帳場の左手を指差した。

「あの、一番目立つところに衣桁を置いてございました」

 お凛もそっと首を伸ばしてみたが、畳には焦げ跡も何も残ってはいない。周りには火の気のある物も見当たらない。どういうわけで火が出たのか、ますます不思議だった。

(……でも、着物から火が出るなんて、あるわけがないし)

 しきりに首を捻っていると、仙一郎が、そろそろお暇します、と言うのが聞こえた。

「──店を訪ねたところで、藤吉さんの話以上のことはわかりませんでしたね」

 再び仲町を歩きながら、お凛は青年の背中に向かって言った。

「うーん」

 眠たそうな返事が返ったかと思うと、紗の羽織を粋にまとった仙一郎が首を捻ってこちらを見た。

「いや、わかったよ。こいつは祟りだ。間違いない。でなければあんなところから火なんぞ出ないさ」

 ずっこけそうになりながらお凛が絶句していると、

「もし」

 背後から女の声が近づいてきた。
 振り返れば、二十になるかどうかという若い娘が、人波をかき分けてくるところだった。

「もし、仙一郎様、少々お待ちくださいまし」

 まぁ、なんて綺麗な人だろう、とお凛はまじまじと娘を見上げた。柳の葉のような優美な眉、吸い込まれそうに黒々と輝く双眸、繊細なおとがいとほっそりと白いうなじが、女のお凛から見ても見惚れるほどに美しい。

「おや、私をご存知で。失礼ですが、どなた様でしたでしょう?」

 仙一郎はもちろんでれでれと目尻を下げ、蛸のごとく骨抜きになった様子で娘をにこにこ見つめている。

「あの、私……すえ吉の娘の、菊でございます。あの振袖をお受け取りになったと伺いまして……」

 心なしか青白く強張った顔で、娘が両手を揉むようにして言った。

「ああ、あなたが……」

 目を瞠ったお凛の隣で、仙一郎も息を飲んだようだった。

不躾ぶしつけなことを申し上げ、申し訳ございません。ですが……あの振袖、あれはどうか、焼き捨ててくださいませんでしょうか」

 え、と訝しむ仙一郎に、娘は取り縋らんばかりにして言い募った。

「私は恐ろしいのです。あれは祟られております。どうか、どうかお願い申し上げます」

 上擦った声を揺らしながら訴えるお菊を、二人は困惑しながら凝視するばかりだった。
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