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1巻
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◆ ◆ ◆
それから五日後、それをはっきりさせるチャンスが到来しました。その日の午後、いつものようにお茶をしていた私は、またしても変な味のするお菓子を出されました。今度は何だか腐った肉の臭いがします。お菓子でこんな臭いがするなんて怪しい……そう思った私は、臭いをかぐとそのまま皿に戻しました。
「まぁ、王女殿下。このお菓子は陛下から賜ったものですわ。それを無下になさるなんて……!」
最近怪しいものを口にしなくなった私に苛立ってか、ダニエラが咎めてきました。これが陛下から下賜されたお菓子? 番探しに忙しいとこちらに顔も出さない陛下が、私を気にかけるとも思えませんが……
「そう? でも、あまりにも癖の強い香りなのでご遠慮しますわ」
「まぁ! 陛下のお心を拒否するなど不敬な!」
「では、ダニエラ、あなたに差し上げるわ。私は陛下のお気持ちだけいただきます」
「な……!」
「陛下がくださったということは、かなり高級品なのでしょう? この国では人気のあるお品なのかしら?」
「そ、それは……」
「そうでしょうね。誠実で公正な陛下が、同盟国の王族の私に適当なものを贈ることなどありませんものね」
「あ、当たり前ですわ!」
「じゃ、あなたが食べてみて?」
「……え?」
私がお菓子を勧めると、ダニエラは目に見えて狼狽えました。まさかそう切り返されるとは思わなかったのでしょう。
「……っ! そ、そんな、陛下からのお品を私ごときが口になど出来ませんわ!」
「あら、どうして? 正式に妃になった私がいいと言っているのよ? 何か問題でも?」
これだけはっきりと拒否するなんて、問題があると証明しているようなものなのだけど……彼女はそれに気がついているのでしょうか?
「……つ、番でもないくせに! 形だけの王妃のくせに、偉そうな口叩くんじゃないわよ!」
そう叫んだダニエラは、手元にあったティーポットを私めがけて投げつけてきました。……何の罪もないティーポットは、私の左肩にぶつかって床に落ち、派手な音を立てて割れてしまいました。
「何事ですか!?」
可哀想なティーポットの悲鳴に、ドアの外にいた数人の護衛騎士が駆けこんできました。彼らが見たのは服を濡らした状態でソファに座る私と、その足元に広がるティーポットの破片、そしてタオルを手に私に駆け寄るラウラの姿でした。
一方、駆けつけた騎士たちを見て、ダニエラはようやく冷静になったようです。
「王女殿下が陛下を侮辱されたのです! そ、それで私は……」
「な……! 陛下を!? 本当ですか!?」
「王女殿下! いくらお妃様になられるとはいえ、我らが陛下を侮辱されるなど……!」
どういう茶番でしょうか……。さすがに私もダニエラの話についていけず、一瞬ポカンとしてしまいました。侮辱というのであれば、怪しげなお菓子を陛下の名で出したダニエラの方ではないでしょうか。
「陛下を侮辱したつもりはありませんわ。ただ、陛下からいただいたお菓子の香りがあまりにも強くて……でも、無下にするわけにもいきませんでしょう? だからお気持ちだけいただいて、お菓子はダニエラに差し上げると言っただけです」
「お菓子を……?」
「ええ。お二人もいかがですか? ダニエラの話ではとても人気のあるものだそうですわ」
そう言って私がお菓子の皿を騎士たちに差し出すと、ダニエラが狼狽えました。一方の騎士はそんな様子には気づかず、お菓子に手を伸ばしましたが……臭いをかぐと、訝しげな表情を浮かべました。
「これは……本当に陛下から……?」
「ええ。そのように聞きましたわ。そうよね、ダニエラ?」
ダニエラにそう呼びかけましたが、彼女は狼狽えながらも私を睨み付けてきました。でも、その表情はばっちり騎士たちにも見られていますわよ? 騎士たちも、どちらかと言えばダニエラ側なのでしょう。彼らは同じ王城に勤める同僚ですし、獣人です。番を押しのけて妃となる私をよく思っていないのでしょうが、さすがにこのお菓子はおかしいと感じたらしく、どう対応すべきか迷っているようにも見えました。
「どうされましたか?」
場が膠着状態になってしまった中、穏やかな声で部屋に入ってきたのは宰相様でした。大きな声が外まで届いたため、様子を見に来たのでしょうか。部屋に入ってきた宰相様は室内を見回すと、にこやかだった表情を固くされました。
「これは……どういうことですか? なぜ王女殿下のお召し物が濡れているのです?」
皆が宰相様に注目していましたが、そんな視線を気にも止めず、宰相様は側にいた騎士に尋ね、騎士は自分たちが見聞きしたことを説明し始めました。さり気なくダニエラを庇っていますが……そこはもう仕方ないのでしょうね。
「陛下から? 本当ですか、ダニエラ?」
陛下からお菓子が下賜されたと聞いた宰相様の表情がますます険しくなりました。ということは、やはり違った、ということなのでしょうか……
「あ、あのっ……! 私はっ……」
「本当かどうかを聞いているのです。はいかいいえの返事も出来ませんか?」
「そ、それは……」
にこやかなお姿しか知らなかった宰相様ですが、今はまるで別人のような冷たさです。やはり宰相ともなると優しいだけでは務まらないのですね。宰相様は騎士が持っていたお菓子を手に取ると、すぐに顔を顰めました。臭いがおかしいとわかったためでしょうか。
「ダニエラとシーラを捕らえておいてください。後で詳しく話を聞きます」
「そ、そんな……っ! 私は……!」
ダニエラが抗議の声を上げましたが、宰相様が冷たく一瞥すると真っ青になってしまいました。シーラに至っては小刻みに震えていますし、騎士たちも顔色が悪く見えます。優しげに見えても、さすがは一国の宰相でいらっしゃるのですね。
「エリサ様、お怪我は? 火傷なさっていませんか? それにお召し物も替えなければ……」
「ありがとう。お茶は冷めていたから火傷はないと思うわ」
ラルセンの皆さんが冷たい空気に浸っている中、声をかけてくれたラウラに、私は笑顔で答えました。彼女に心配をかけてしまったことが一番辛いですわね……それに、さすがに濡れたままでは身体が冷えてしまいますし、それなりに痛かったので痣になっているかもしれません。
「申し訳ございません、王女殿下。そうですね。まずは着替えと怪我がないかの確認をお願いします」
冷え切って固まっているように感じられた室内の空気をほどいたのは、やはり宰相様でした。こちらに向ける表情は一転して穏やかで、私は内心ほっとしました。
「え、ええ」
「王女殿下のお身体が最優先です。その間に片付けておきますので」
「ええ。わかりましたわ」
「では、着替えが終わりましたらドアの外の護衛にお知らせください。怪我があればすぐに医師を手配いたします」
「ありがとうございます」
こうしてラウラ以外は全員部屋を後にしたため、私は濡れた衣装を脱いで痣になっていないか確認しました。少し赤くはなっていますが、問題なさそうです。それを見たラウラも、新しい衣装を手にしながらほっとした表情を浮かべていました。
「よかったですわ、大したことがなくて」
「心配かけてごめんね。でも、どうやらダニエラの独断……というわけではないようね」
「そうですわね。お菓子に異物を入れたのは、厨房でしょう」
「これで嫌がらせが終わるといいのだけれど……」
私は小さくため息をつきました。大事にしてダニエラの行為を表面化させましたが……何度経験しても、このようなことは気分のいいものではありません。それに、発覚しても向こうは自分が悪いとは思わずに逆恨みして、やることが陰湿になるかもしれません。そういうケースもこれまでに何度も経験しているので想定内ですが……全く、そんな暇があるならもっと建設的な、そう、陛下の番を探す手伝いでもすればいいのに、と思います。
その後、宰相様が再びいらして、頭を下げて謝罪されてしまいました。私としては大したことではありませんし、嫌がらせさえやめてもらえればそれで十分です。母国マルダーンがやっていることを思えば反感を持たれるのは当然ですし、そこに番問題が絡めば、ますます許しがたいと思われても仕方ありませんもの。本当に、あの国を離れてもまだ悩まされるなんて……こうなったら早く離婚して、王女の身分などゴミ箱にサクッと捨ててしまいたいですわね。
それからダニエラとシーラの姿を見ることはありませんでした。私としても、空気が重くなる侍女は遠慮したかったのでほっとしたのは確かです。変な細工がされることもなくなり、ようやく食事を楽しめるようになりました。後で宰相様が教えてくれましたが、ダニエラたちは厨房の者たちと一緒に私に嫌がらせをしていたそうです。嫌がらせに加担していた者たちは全員、解雇か部署替えとなり、今後は私の食事も毒見をつけるので安心してほしいと仰っていました。近々、宰相様が自ら選んだ侍女を付けてくれるそうです。今度は空気を重くするような方でないことを祈りたいものです。
侍女が交代した後の私は、快適な快適を送れるようになりました。虫などが入っていないかを気にしながらの食事も、なかなかに大変なのです。そんなストレスが消えただけでも十分ですが、新しく付いてくれた侍女たちは気さくで親切な方でした。
新しい侍女は、ベルタさんとユリアさんといい、ベルタさんは獣人ですが、ユリアさんは人族でした。二人とも信頼出来ると宰相様が仰っていました。
ベルタさんは狼人で、艶々の美しい黒髪と青紫色の瞳を持つ美人さんです。背が高く顔立ちも中性的で、パッと見は美少年のようにも見えます。騎士団に属しているそうで、表情も所作もきりっとしていてかっこいいのです。
一方のユリアさんは胡桃色の優しい色合いの髪と深緑の瞳を持つ、凛とした知的美人さんです。眼鏡もとってもお似合いで雰囲気が先生のようですが、実際に優秀な教師だそうです。私が教師を付けてほしいとお願いしたのもあり、これからは彼女に教えを乞うことになりました。
ベルタさんは陛下の側近のレイフ様の妹さんで、ユリアさんはケヴィン様の遠縁で、お二人は顔見知りでした。見た目はユリアさんの方が上に見えますが、実年齢はベルタさんの方が上だとか。これは獣人の寿命が長いことが影響しているのだそうです。
ベルタさんかユリアさんが一緒という条件付きではありますが、庭を散歩する許可もいただきました。これだけでも非常に気分が晴れます。この王宮の庭はマルダーンのような格式ばったものではなく、割と自然な雰囲気を残した庭になっていて、私はこちらの方がずっと好みでした。森に隣接する小屋で暮らしていたから、落ち着くのかもしれません。
とはいっても、稀にすれ違う獣人の方々は私にはいい印象がないようで、何か言いたげな表情で見られています。
「エリサ様、一人では絶対に外に出ないでくださいね」
「え? ええ……」
「ここにいる侍女や騎士にエリサ様に手を出す者はいないけど、脳筋馬鹿がたまにいるから」
ベルタさんから念を押されました。なるほど、一人だと文句を言われたり絡まれたりする可能性があるのですね。でも、母国も同じような環境だったので、それほどストレスは感じませんでした。
これまで暇を持て余していた時間は、ユリアさんの授業です。まずはこの国の基本的な知識やマナーを教えてもらうことになりました。一応私も母国ではマナーなども習いましたが……これも国が変われば内容も変わります。基本的な知識にしても、マルダーンはラルセンを軽視していたため、取り上げられることはありませんでした。形だけの王妃とはいえ、この国について何も知らないのでは話になりませんし、平民になってここで暮らすことになれば一般常識は必須です。元より勉強がしたいと思っていたところです。これからは楽しい時間になりそうな気がします。
◆ ◆ ◆
「エリサ姫、長らくお待たせして申し訳ございませんでした」
二日ほど穏やかな時が過ぎた頃、笑みを浮かべてやって来たのは宰相様でした。優しそうな表情にこちらの表情も和みます。まぁ、中身は黒そうですが、美形でいらっしゃるので眼福ですわね。宰相様には最愛の番がいらっしゃるそうです。残念? そうですわね、陛下は気難しそうな印象が強いので、宰相様のような方が相手だったらよかったのに……とは思います。少なくとも、表面だけでも取り繕えたでしょうから。
宰相様から渡されたのは二枚の契約書で、今回の結婚についてのものでした。そこには、白い結婚で別居婚とし、三年後に離婚すること、王妃としてどうしても必要な仕事には出ること、番が見つかったら速やかに離婚して王宮を去ること、この国で暮らす間は身の安全を保障すること、などが書かれていました。どうやら……私の希望はほぼ含まれているようです。でも……
「あの……王妃としての仕事とは?」
「ああ、主に夜会です。基本的に獣人は番を人前に出したがらないので、出ても短時間ですね。結婚式は花嫁がいないと話になりませんので出ていただきます。準備もあるので、こちらは半年後を予定しております」
「半年後ですか。でも、その間に番が見つかったら……」
「その時は大変申し訳ございませんが、中止となります」
「そうですか」
番が現れたら即離婚と聞いていたので、そこに文句はありません。むしろウエルカム!
「あの、番が見つかった後の生活は……」
「それに関しては、出来るだけご希望に沿いたいと思います。平民になりたいと仰っていましたが……さすがにいきなりは難しいでしょう。誰か人族の者を後見人として立て、徐々に慣れていただくのが最善かと」
「そうですね。こちらには伝もありませんし……どうかお願いします」
こうなっては宰相様にお願いするしかないでしょう。まぁ、いきなり放り出されても、母国での貧しい生活を思えば何とかなりそうではありますが……ラウラも一緒だから出来るだけ安全は確保しておきたいのですよね。
でも、私の希望ばかり汲んでいただいているようで、何だか不公平な気がします。マルダーンから出られただけでも有難いのに、こうして贅沢な生活を送っていいのでしょうか……税金を払っているラルセンの皆様に申し訳ないですわ……
「……何と言いますか、私の我儘ばかり通していただいて申し訳ないですわ。本当に、よろしいのでしょうか?」
「ええ、構いませんよ。むしろ、婚姻を結びながら愛せないことをお許しください」
「それは仕方ありませんわ。本能に逆らえるはずもありませんもの。むしろそれを承知でこんな同盟を迫った我が国の方こそ、申し訳ございません」
「……王女殿下は……聡明な方なのですね。あなたのような方でよかった」
そう仰っていただいて、一層申し訳なく感じてしまいましたわ。私の方こそ、国から逃れるために利用しているも同然なのに、こんなによくしていただいているのですもの……
さて、希望通りに別邸への移動となりますが、さすがに遠い場所では母国との関係に亀裂が生じる可能性があるので、王宮内の一角になるそうです。そこはこぢんまりとした離宮で、亡くなった何代か前の国王陛下の番が余生を送られた場所なのだとか。そこで私は、数人の侍女や護衛と暮らすことになるようです。
「離宮にはいつ引っ越しを?」
「エリサ様がよろしければ、今からでも構いませんよ」
「よろしいのですか?」
「ただし、こちらも護衛として侍女や騎士を配置させていただきます。さすがに他国の王族である王女殿下をお一人で、というわけにはいきませんので」
「それは仕方ありませんわ。むしろ、私などに付くことになる方には申し訳ないですわ」
「そんなことはありませんよ。王女殿下は両国間の同盟の証。我が国も三年前から水害など天災の対応に追われています。その中での同盟は復興の大きな助けとなっているのですから」
「でも……」
「それくらいの道理もわからない無能な者は、残念ながらこの王城に相応しくありません。人選はしっかりいたしましたので、今後はお心を煩わせることはないと思います」
「そうですか。何から何までありがとうございます」
こうして私は念願の別居生活を手に入れました。聞けば結婚式までは特に公務もないとのこと。元より仮の王妃なので、国内で式は挙げるそうですが、大がかりなお披露目はしないそうです。私としても離婚前提での婚姻なので、派手なことは遠慮したいところです。それに母国ではろくな教育も受けられなかったので、教養のなさがばれてしまうのが恥ずかしい、という切実な理由もありました。
◆ ◆ ◆
私が離宮に引っ越してから早いもので、気が付けば一月が経ちました。
離宮での別居生活は……大変快適でした。ここは天国か? と思うくらいです。一日三度の温かくて美味しい食事と二度のおやつ、雨漏りも隙間風もない綺麗で立派な部屋に、ふっかふかで寝心地最高のベッド。いつだってお湯が出る広いお風呂に、お茶をするにはぴったりのバルコニー。綺麗に整えられて、でも自然な雰囲気が残る素敵な庭と東屋。そして……嫌な空気にならない侍女や護衛の皆さんたち。ええもう、ここはきっと天国なのでしょう。私にとっては人生最高の時間かもしれません。一日一食すらも危うく、雨漏りと隙間風の小屋で侵入者の影に怯えながら、ラウラと身を寄せ合って暮らしていた母国での生活を思うと、王宮に足を向けて寝るなんて罰当たりなことは出来そうにありません。
ちなみに……陛下は最初の謁見以来、姿どころか影すらも見ておりません。ええ、清々しいほどの放置っぷりです。お陰で私も心置きなく別居生活を満喫させていただいています。うん、こういうのを亭主元気で留守がいいと言うのでしょうか? え? 違う? そうですか……でも、こんな素晴らしい待遇で置いてくださるのですから、もう感謝しかありません。
「あ~もう、エリサ様のお菓子は最高~」
そう言って焼き菓子に手を伸ばしたのはベルタさんです。一日二度のお茶の時間に、私はお菓子を作ってここに勤める皆さんに配るのが日課になりつつあります。ベルタさんはすっかり私のお菓子を気に入ってくださって、今では私のような番が欲しい、と言っています。冗談だとは思いますが、目が本気に見えるのは気のせいでしょうか……でも、背が高くクールビューティーなベルタさんは美少年にも見えるので、そう言われるとドキドキしてしまいますわ。
陛下や宰相様も美形ですが、美形すぎると言いますか、神々しいと言いますか、威厳がありすぎて気軽に話しかけられる雰囲気ではないのですよね。そのせいか、私にはベルタさんの方が理想的に見えてしまいます。まぁ、あのろくでなしの父を見て育ったので、男性が苦手……というのもあるでしょうが……
「ベルタはエリサ様がお気に入りねぇ……」
「当たり前でしょ! 私は可愛いものが大好きなの。エリサ様もラウラもとっても可愛いじゃない」
力説するベルタさんを呆れ顔で眺めながら、お茶の香りを楽しんでいるのはユリア先生です。教師ということもあり、すっかり先生と呼ぶのが癖になってしまいました。でも、先生も止めはしないし、むしろそう呼ばれると目の奥が和らぐのを感じるので、きっと嫌ではないのでしょう。
先生の授業はわかりやすく丁寧で、それでいてしっかり自分で考えないといけないため、ケヴィン様の時と同様、全く気が抜けません。容赦のない厳しい先生ですが、頑張った分はちゃんと見て褒めてくださるので、ますますやる気が出るのです。ラウラと夕飯のデザートを賭けて、どっちが多く褒められるか競争しているのは内緒です。
「それにしても……エリサ様もラウラも、健康的になったわね」
「そうね、初めて会った時は痩せて頬もコケて髪もぱさぱさだったけれど……最近は見違えるように綺麗になってきたわね」
「磨き上げるのが楽しいわ。やっぱり素材がいいと違うわよね」
ベルタさんは美容に詳しく、私とラウラはベルタさんに肌や髪の手入れの仕方を教えてもらったり、時にはマッサージをしてもらったりで、最近は随分と健康的になったように思います。そういえば、以前は月のモノが不安定で、その時はふらついたり気分が悪くなったりしましたが、今はそういうこともほとんどなくなりましたわね。
「それにしても、エリサ様のその匂いは……番除け?」
「え? ええ、そうみたいですね。私はわからないのですけれど……」
「そうね、私もよ。ベルタは気になるの?」
「うん、まぁ、獣人は匂いに敏感だからね。でも……番除けの香水以外にも何か使っている? 二人とも同じ匂いがするけど」
「香水以外ですか……?」
さて、何のことでしょうか? 番除けの香水はラウラも使わせてもらっているのですが、それ以外には特になかったと思いますが……
「もしかしたら……お風呂で使っている薬草かもしれませんね」
「薬草?」
ラウラの言葉に、心当たりがありました。ああ、そういえば湯船に薬草を入れていましたわね。
「ええ、干した薬草を湯船に入れて浸かると、皮膚の乾燥を防いでくれるのですよ。エリサ様は皮膚が弱いので、昔から使っていたんです。どこにでも生えていますから、マルダーンでは庶民がよく使っています」
「へぇ、そんなものがあるんだ」
「クリームは作るのが大変ですが、お風呂ならお湯に入れるだけで済むので簡単なんです」
そう言ってラウラは浴室から干した薬草を持ってきてくれました。ちょっと癖がありますが、私にとっては子どもの頃から愛用している懐かしい香りです。
「なるほど。やっぱり国が違うと習慣も違うんだね」
「試してみますか?」
「え? いいの?」
「ええ、これ、離宮の庭にも生えていたので大丈夫です」
「そっか、じゃ、試してみよう」
ベルタさん、美容に関することには敏感ですわね。こういうところはしっかり女性なんだなぁと感じますわ。お菓子以外でお二人にお返しが出来て、私もラウラも嬉しくなりました。いつも、していただいてばかりですからね。
「ユリア先生も、よろしければどうぞ」
「ありがとう。私も乾燥に弱くて困っていたのよ。早速試してみるわ」
「ああ、人族って皮膚が弱いものね。獣人はそんなことはないのだけど」
「ええ? そうなんですか? 羨ましいです。私、すぐあかぎれになってしまうし、今日も紙で手を切ってしまって」
「ああ、私も紙でしょっちゅう切るわ。そこは獣人が羨ましいわね」
どうやら紙で皮膚を切るのは人族だけのようです。獣人はやはり体が丈夫なのですね。
「あ~でももったいない! こんなに可愛くなってきたのに、三年はここで過ごさなきゃいけないなんて!」
「それは仕方ないでしょ。国同士の約束なのだから」
「それでも! 可愛い乙女二人が男っ気もなく過ごすなんて時間がもったいないよ! もしかしたら誰かが二人を探しているかもしれないのに!」
「それこそ番だなんて言ってくる相手がいたら困るじゃない。特にエリサ様は王妃様なのよ」
「ああもう、陛下も何であんな約束したんだろう!」
私たちがここで三年を過ごさなくてはいけないことをお二人はご存じで、ベルタさんは私の境遇に強く憤ってくれました。彼女にしてみれば、番と認識出来なくなる香料を使って三年も過ごすのは時間の無駄だそうです。もしかしたら私たちに番の獣人がいるかもしれない、それならその相手にとっても気の毒な時間だというのがベルタさんの考えです。獣人あるあるよねぇとユリア先生は呆れていますが……それだけ獣人にとって番の存在は重要なようです。
◆ ◆ ◆
それから数日経ったある日の夜。乱暴に離宮の扉を叩く音がして、私は目が覚めてしまいました。滅多に人が来ないこの離宮に、こんな時間に人が訪ねてくるとはどういうことでしょうか……もしかして、陛下の番が見つかった、とか?
確かに番が見つかったらすぐに出ていくとの契約ですが……さすがにこんな夜中に知らせに来ることはないでしょう。それとも、番至上主義の獣人にとってはこれが通常運転なのでしょうか?
そんなことをぼんやり思っていると、ラウラがガウンを手に入ってきました。ラウラも目が覚めてしまったようで、何事かと不安げにしています。この時間はベルタさんもユリア先生もいらっしゃらず、残っているのはラウラと護衛騎士だけなので、確かに不安です。
う~ん、もし今すぐ出ていけと言われると……困りましたわね、荷造りも何も出来ていませんから。あ、でも、ここにあるものは全て陛下が用意してくださったものなので、持っていってはダメでしょうか? 出来れば当面を過ごせるだけの服や生活必需品をいただけると助かるのですが……
「エリサ王女!」
それから五日後、それをはっきりさせるチャンスが到来しました。その日の午後、いつものようにお茶をしていた私は、またしても変な味のするお菓子を出されました。今度は何だか腐った肉の臭いがします。お菓子でこんな臭いがするなんて怪しい……そう思った私は、臭いをかぐとそのまま皿に戻しました。
「まぁ、王女殿下。このお菓子は陛下から賜ったものですわ。それを無下になさるなんて……!」
最近怪しいものを口にしなくなった私に苛立ってか、ダニエラが咎めてきました。これが陛下から下賜されたお菓子? 番探しに忙しいとこちらに顔も出さない陛下が、私を気にかけるとも思えませんが……
「そう? でも、あまりにも癖の強い香りなのでご遠慮しますわ」
「まぁ! 陛下のお心を拒否するなど不敬な!」
「では、ダニエラ、あなたに差し上げるわ。私は陛下のお気持ちだけいただきます」
「な……!」
「陛下がくださったということは、かなり高級品なのでしょう? この国では人気のあるお品なのかしら?」
「そ、それは……」
「そうでしょうね。誠実で公正な陛下が、同盟国の王族の私に適当なものを贈ることなどありませんものね」
「あ、当たり前ですわ!」
「じゃ、あなたが食べてみて?」
「……え?」
私がお菓子を勧めると、ダニエラは目に見えて狼狽えました。まさかそう切り返されるとは思わなかったのでしょう。
「……っ! そ、そんな、陛下からのお品を私ごときが口になど出来ませんわ!」
「あら、どうして? 正式に妃になった私がいいと言っているのよ? 何か問題でも?」
これだけはっきりと拒否するなんて、問題があると証明しているようなものなのだけど……彼女はそれに気がついているのでしょうか?
「……つ、番でもないくせに! 形だけの王妃のくせに、偉そうな口叩くんじゃないわよ!」
そう叫んだダニエラは、手元にあったティーポットを私めがけて投げつけてきました。……何の罪もないティーポットは、私の左肩にぶつかって床に落ち、派手な音を立てて割れてしまいました。
「何事ですか!?」
可哀想なティーポットの悲鳴に、ドアの外にいた数人の護衛騎士が駆けこんできました。彼らが見たのは服を濡らした状態でソファに座る私と、その足元に広がるティーポットの破片、そしてタオルを手に私に駆け寄るラウラの姿でした。
一方、駆けつけた騎士たちを見て、ダニエラはようやく冷静になったようです。
「王女殿下が陛下を侮辱されたのです! そ、それで私は……」
「な……! 陛下を!? 本当ですか!?」
「王女殿下! いくらお妃様になられるとはいえ、我らが陛下を侮辱されるなど……!」
どういう茶番でしょうか……。さすがに私もダニエラの話についていけず、一瞬ポカンとしてしまいました。侮辱というのであれば、怪しげなお菓子を陛下の名で出したダニエラの方ではないでしょうか。
「陛下を侮辱したつもりはありませんわ。ただ、陛下からいただいたお菓子の香りがあまりにも強くて……でも、無下にするわけにもいきませんでしょう? だからお気持ちだけいただいて、お菓子はダニエラに差し上げると言っただけです」
「お菓子を……?」
「ええ。お二人もいかがですか? ダニエラの話ではとても人気のあるものだそうですわ」
そう言って私がお菓子の皿を騎士たちに差し出すと、ダニエラが狼狽えました。一方の騎士はそんな様子には気づかず、お菓子に手を伸ばしましたが……臭いをかぐと、訝しげな表情を浮かべました。
「これは……本当に陛下から……?」
「ええ。そのように聞きましたわ。そうよね、ダニエラ?」
ダニエラにそう呼びかけましたが、彼女は狼狽えながらも私を睨み付けてきました。でも、その表情はばっちり騎士たちにも見られていますわよ? 騎士たちも、どちらかと言えばダニエラ側なのでしょう。彼らは同じ王城に勤める同僚ですし、獣人です。番を押しのけて妃となる私をよく思っていないのでしょうが、さすがにこのお菓子はおかしいと感じたらしく、どう対応すべきか迷っているようにも見えました。
「どうされましたか?」
場が膠着状態になってしまった中、穏やかな声で部屋に入ってきたのは宰相様でした。大きな声が外まで届いたため、様子を見に来たのでしょうか。部屋に入ってきた宰相様は室内を見回すと、にこやかだった表情を固くされました。
「これは……どういうことですか? なぜ王女殿下のお召し物が濡れているのです?」
皆が宰相様に注目していましたが、そんな視線を気にも止めず、宰相様は側にいた騎士に尋ね、騎士は自分たちが見聞きしたことを説明し始めました。さり気なくダニエラを庇っていますが……そこはもう仕方ないのでしょうね。
「陛下から? 本当ですか、ダニエラ?」
陛下からお菓子が下賜されたと聞いた宰相様の表情がますます険しくなりました。ということは、やはり違った、ということなのでしょうか……
「あ、あのっ……! 私はっ……」
「本当かどうかを聞いているのです。はいかいいえの返事も出来ませんか?」
「そ、それは……」
にこやかなお姿しか知らなかった宰相様ですが、今はまるで別人のような冷たさです。やはり宰相ともなると優しいだけでは務まらないのですね。宰相様は騎士が持っていたお菓子を手に取ると、すぐに顔を顰めました。臭いがおかしいとわかったためでしょうか。
「ダニエラとシーラを捕らえておいてください。後で詳しく話を聞きます」
「そ、そんな……っ! 私は……!」
ダニエラが抗議の声を上げましたが、宰相様が冷たく一瞥すると真っ青になってしまいました。シーラに至っては小刻みに震えていますし、騎士たちも顔色が悪く見えます。優しげに見えても、さすがは一国の宰相でいらっしゃるのですね。
「エリサ様、お怪我は? 火傷なさっていませんか? それにお召し物も替えなければ……」
「ありがとう。お茶は冷めていたから火傷はないと思うわ」
ラルセンの皆さんが冷たい空気に浸っている中、声をかけてくれたラウラに、私は笑顔で答えました。彼女に心配をかけてしまったことが一番辛いですわね……それに、さすがに濡れたままでは身体が冷えてしまいますし、それなりに痛かったので痣になっているかもしれません。
「申し訳ございません、王女殿下。そうですね。まずは着替えと怪我がないかの確認をお願いします」
冷え切って固まっているように感じられた室内の空気をほどいたのは、やはり宰相様でした。こちらに向ける表情は一転して穏やかで、私は内心ほっとしました。
「え、ええ」
「王女殿下のお身体が最優先です。その間に片付けておきますので」
「ええ。わかりましたわ」
「では、着替えが終わりましたらドアの外の護衛にお知らせください。怪我があればすぐに医師を手配いたします」
「ありがとうございます」
こうしてラウラ以外は全員部屋を後にしたため、私は濡れた衣装を脱いで痣になっていないか確認しました。少し赤くはなっていますが、問題なさそうです。それを見たラウラも、新しい衣装を手にしながらほっとした表情を浮かべていました。
「よかったですわ、大したことがなくて」
「心配かけてごめんね。でも、どうやらダニエラの独断……というわけではないようね」
「そうですわね。お菓子に異物を入れたのは、厨房でしょう」
「これで嫌がらせが終わるといいのだけれど……」
私は小さくため息をつきました。大事にしてダニエラの行為を表面化させましたが……何度経験しても、このようなことは気分のいいものではありません。それに、発覚しても向こうは自分が悪いとは思わずに逆恨みして、やることが陰湿になるかもしれません。そういうケースもこれまでに何度も経験しているので想定内ですが……全く、そんな暇があるならもっと建設的な、そう、陛下の番を探す手伝いでもすればいいのに、と思います。
その後、宰相様が再びいらして、頭を下げて謝罪されてしまいました。私としては大したことではありませんし、嫌がらせさえやめてもらえればそれで十分です。母国マルダーンがやっていることを思えば反感を持たれるのは当然ですし、そこに番問題が絡めば、ますます許しがたいと思われても仕方ありませんもの。本当に、あの国を離れてもまだ悩まされるなんて……こうなったら早く離婚して、王女の身分などゴミ箱にサクッと捨ててしまいたいですわね。
それからダニエラとシーラの姿を見ることはありませんでした。私としても、空気が重くなる侍女は遠慮したかったのでほっとしたのは確かです。変な細工がされることもなくなり、ようやく食事を楽しめるようになりました。後で宰相様が教えてくれましたが、ダニエラたちは厨房の者たちと一緒に私に嫌がらせをしていたそうです。嫌がらせに加担していた者たちは全員、解雇か部署替えとなり、今後は私の食事も毒見をつけるので安心してほしいと仰っていました。近々、宰相様が自ら選んだ侍女を付けてくれるそうです。今度は空気を重くするような方でないことを祈りたいものです。
侍女が交代した後の私は、快適な快適を送れるようになりました。虫などが入っていないかを気にしながらの食事も、なかなかに大変なのです。そんなストレスが消えただけでも十分ですが、新しく付いてくれた侍女たちは気さくで親切な方でした。
新しい侍女は、ベルタさんとユリアさんといい、ベルタさんは獣人ですが、ユリアさんは人族でした。二人とも信頼出来ると宰相様が仰っていました。
ベルタさんは狼人で、艶々の美しい黒髪と青紫色の瞳を持つ美人さんです。背が高く顔立ちも中性的で、パッと見は美少年のようにも見えます。騎士団に属しているそうで、表情も所作もきりっとしていてかっこいいのです。
一方のユリアさんは胡桃色の優しい色合いの髪と深緑の瞳を持つ、凛とした知的美人さんです。眼鏡もとってもお似合いで雰囲気が先生のようですが、実際に優秀な教師だそうです。私が教師を付けてほしいとお願いしたのもあり、これからは彼女に教えを乞うことになりました。
ベルタさんは陛下の側近のレイフ様の妹さんで、ユリアさんはケヴィン様の遠縁で、お二人は顔見知りでした。見た目はユリアさんの方が上に見えますが、実年齢はベルタさんの方が上だとか。これは獣人の寿命が長いことが影響しているのだそうです。
ベルタさんかユリアさんが一緒という条件付きではありますが、庭を散歩する許可もいただきました。これだけでも非常に気分が晴れます。この王宮の庭はマルダーンのような格式ばったものではなく、割と自然な雰囲気を残した庭になっていて、私はこちらの方がずっと好みでした。森に隣接する小屋で暮らしていたから、落ち着くのかもしれません。
とはいっても、稀にすれ違う獣人の方々は私にはいい印象がないようで、何か言いたげな表情で見られています。
「エリサ様、一人では絶対に外に出ないでくださいね」
「え? ええ……」
「ここにいる侍女や騎士にエリサ様に手を出す者はいないけど、脳筋馬鹿がたまにいるから」
ベルタさんから念を押されました。なるほど、一人だと文句を言われたり絡まれたりする可能性があるのですね。でも、母国も同じような環境だったので、それほどストレスは感じませんでした。
これまで暇を持て余していた時間は、ユリアさんの授業です。まずはこの国の基本的な知識やマナーを教えてもらうことになりました。一応私も母国ではマナーなども習いましたが……これも国が変われば内容も変わります。基本的な知識にしても、マルダーンはラルセンを軽視していたため、取り上げられることはありませんでした。形だけの王妃とはいえ、この国について何も知らないのでは話になりませんし、平民になってここで暮らすことになれば一般常識は必須です。元より勉強がしたいと思っていたところです。これからは楽しい時間になりそうな気がします。
◆ ◆ ◆
「エリサ姫、長らくお待たせして申し訳ございませんでした」
二日ほど穏やかな時が過ぎた頃、笑みを浮かべてやって来たのは宰相様でした。優しそうな表情にこちらの表情も和みます。まぁ、中身は黒そうですが、美形でいらっしゃるので眼福ですわね。宰相様には最愛の番がいらっしゃるそうです。残念? そうですわね、陛下は気難しそうな印象が強いので、宰相様のような方が相手だったらよかったのに……とは思います。少なくとも、表面だけでも取り繕えたでしょうから。
宰相様から渡されたのは二枚の契約書で、今回の結婚についてのものでした。そこには、白い結婚で別居婚とし、三年後に離婚すること、王妃としてどうしても必要な仕事には出ること、番が見つかったら速やかに離婚して王宮を去ること、この国で暮らす間は身の安全を保障すること、などが書かれていました。どうやら……私の希望はほぼ含まれているようです。でも……
「あの……王妃としての仕事とは?」
「ああ、主に夜会です。基本的に獣人は番を人前に出したがらないので、出ても短時間ですね。結婚式は花嫁がいないと話になりませんので出ていただきます。準備もあるので、こちらは半年後を予定しております」
「半年後ですか。でも、その間に番が見つかったら……」
「その時は大変申し訳ございませんが、中止となります」
「そうですか」
番が現れたら即離婚と聞いていたので、そこに文句はありません。むしろウエルカム!
「あの、番が見つかった後の生活は……」
「それに関しては、出来るだけご希望に沿いたいと思います。平民になりたいと仰っていましたが……さすがにいきなりは難しいでしょう。誰か人族の者を後見人として立て、徐々に慣れていただくのが最善かと」
「そうですね。こちらには伝もありませんし……どうかお願いします」
こうなっては宰相様にお願いするしかないでしょう。まぁ、いきなり放り出されても、母国での貧しい生活を思えば何とかなりそうではありますが……ラウラも一緒だから出来るだけ安全は確保しておきたいのですよね。
でも、私の希望ばかり汲んでいただいているようで、何だか不公平な気がします。マルダーンから出られただけでも有難いのに、こうして贅沢な生活を送っていいのでしょうか……税金を払っているラルセンの皆様に申し訳ないですわ……
「……何と言いますか、私の我儘ばかり通していただいて申し訳ないですわ。本当に、よろしいのでしょうか?」
「ええ、構いませんよ。むしろ、婚姻を結びながら愛せないことをお許しください」
「それは仕方ありませんわ。本能に逆らえるはずもありませんもの。むしろそれを承知でこんな同盟を迫った我が国の方こそ、申し訳ございません」
「……王女殿下は……聡明な方なのですね。あなたのような方でよかった」
そう仰っていただいて、一層申し訳なく感じてしまいましたわ。私の方こそ、国から逃れるために利用しているも同然なのに、こんなによくしていただいているのですもの……
さて、希望通りに別邸への移動となりますが、さすがに遠い場所では母国との関係に亀裂が生じる可能性があるので、王宮内の一角になるそうです。そこはこぢんまりとした離宮で、亡くなった何代か前の国王陛下の番が余生を送られた場所なのだとか。そこで私は、数人の侍女や護衛と暮らすことになるようです。
「離宮にはいつ引っ越しを?」
「エリサ様がよろしければ、今からでも構いませんよ」
「よろしいのですか?」
「ただし、こちらも護衛として侍女や騎士を配置させていただきます。さすがに他国の王族である王女殿下をお一人で、というわけにはいきませんので」
「それは仕方ありませんわ。むしろ、私などに付くことになる方には申し訳ないですわ」
「そんなことはありませんよ。王女殿下は両国間の同盟の証。我が国も三年前から水害など天災の対応に追われています。その中での同盟は復興の大きな助けとなっているのですから」
「でも……」
「それくらいの道理もわからない無能な者は、残念ながらこの王城に相応しくありません。人選はしっかりいたしましたので、今後はお心を煩わせることはないと思います」
「そうですか。何から何までありがとうございます」
こうして私は念願の別居生活を手に入れました。聞けば結婚式までは特に公務もないとのこと。元より仮の王妃なので、国内で式は挙げるそうですが、大がかりなお披露目はしないそうです。私としても離婚前提での婚姻なので、派手なことは遠慮したいところです。それに母国ではろくな教育も受けられなかったので、教養のなさがばれてしまうのが恥ずかしい、という切実な理由もありました。
◆ ◆ ◆
私が離宮に引っ越してから早いもので、気が付けば一月が経ちました。
離宮での別居生活は……大変快適でした。ここは天国か? と思うくらいです。一日三度の温かくて美味しい食事と二度のおやつ、雨漏りも隙間風もない綺麗で立派な部屋に、ふっかふかで寝心地最高のベッド。いつだってお湯が出る広いお風呂に、お茶をするにはぴったりのバルコニー。綺麗に整えられて、でも自然な雰囲気が残る素敵な庭と東屋。そして……嫌な空気にならない侍女や護衛の皆さんたち。ええもう、ここはきっと天国なのでしょう。私にとっては人生最高の時間かもしれません。一日一食すらも危うく、雨漏りと隙間風の小屋で侵入者の影に怯えながら、ラウラと身を寄せ合って暮らしていた母国での生活を思うと、王宮に足を向けて寝るなんて罰当たりなことは出来そうにありません。
ちなみに……陛下は最初の謁見以来、姿どころか影すらも見ておりません。ええ、清々しいほどの放置っぷりです。お陰で私も心置きなく別居生活を満喫させていただいています。うん、こういうのを亭主元気で留守がいいと言うのでしょうか? え? 違う? そうですか……でも、こんな素晴らしい待遇で置いてくださるのですから、もう感謝しかありません。
「あ~もう、エリサ様のお菓子は最高~」
そう言って焼き菓子に手を伸ばしたのはベルタさんです。一日二度のお茶の時間に、私はお菓子を作ってここに勤める皆さんに配るのが日課になりつつあります。ベルタさんはすっかり私のお菓子を気に入ってくださって、今では私のような番が欲しい、と言っています。冗談だとは思いますが、目が本気に見えるのは気のせいでしょうか……でも、背が高くクールビューティーなベルタさんは美少年にも見えるので、そう言われるとドキドキしてしまいますわ。
陛下や宰相様も美形ですが、美形すぎると言いますか、神々しいと言いますか、威厳がありすぎて気軽に話しかけられる雰囲気ではないのですよね。そのせいか、私にはベルタさんの方が理想的に見えてしまいます。まぁ、あのろくでなしの父を見て育ったので、男性が苦手……というのもあるでしょうが……
「ベルタはエリサ様がお気に入りねぇ……」
「当たり前でしょ! 私は可愛いものが大好きなの。エリサ様もラウラもとっても可愛いじゃない」
力説するベルタさんを呆れ顔で眺めながら、お茶の香りを楽しんでいるのはユリア先生です。教師ということもあり、すっかり先生と呼ぶのが癖になってしまいました。でも、先生も止めはしないし、むしろそう呼ばれると目の奥が和らぐのを感じるので、きっと嫌ではないのでしょう。
先生の授業はわかりやすく丁寧で、それでいてしっかり自分で考えないといけないため、ケヴィン様の時と同様、全く気が抜けません。容赦のない厳しい先生ですが、頑張った分はちゃんと見て褒めてくださるので、ますますやる気が出るのです。ラウラと夕飯のデザートを賭けて、どっちが多く褒められるか競争しているのは内緒です。
「それにしても……エリサ様もラウラも、健康的になったわね」
「そうね、初めて会った時は痩せて頬もコケて髪もぱさぱさだったけれど……最近は見違えるように綺麗になってきたわね」
「磨き上げるのが楽しいわ。やっぱり素材がいいと違うわよね」
ベルタさんは美容に詳しく、私とラウラはベルタさんに肌や髪の手入れの仕方を教えてもらったり、時にはマッサージをしてもらったりで、最近は随分と健康的になったように思います。そういえば、以前は月のモノが不安定で、その時はふらついたり気分が悪くなったりしましたが、今はそういうこともほとんどなくなりましたわね。
「それにしても、エリサ様のその匂いは……番除け?」
「え? ええ、そうみたいですね。私はわからないのですけれど……」
「そうね、私もよ。ベルタは気になるの?」
「うん、まぁ、獣人は匂いに敏感だからね。でも……番除けの香水以外にも何か使っている? 二人とも同じ匂いがするけど」
「香水以外ですか……?」
さて、何のことでしょうか? 番除けの香水はラウラも使わせてもらっているのですが、それ以外には特になかったと思いますが……
「もしかしたら……お風呂で使っている薬草かもしれませんね」
「薬草?」
ラウラの言葉に、心当たりがありました。ああ、そういえば湯船に薬草を入れていましたわね。
「ええ、干した薬草を湯船に入れて浸かると、皮膚の乾燥を防いでくれるのですよ。エリサ様は皮膚が弱いので、昔から使っていたんです。どこにでも生えていますから、マルダーンでは庶民がよく使っています」
「へぇ、そんなものがあるんだ」
「クリームは作るのが大変ですが、お風呂ならお湯に入れるだけで済むので簡単なんです」
そう言ってラウラは浴室から干した薬草を持ってきてくれました。ちょっと癖がありますが、私にとっては子どもの頃から愛用している懐かしい香りです。
「なるほど。やっぱり国が違うと習慣も違うんだね」
「試してみますか?」
「え? いいの?」
「ええ、これ、離宮の庭にも生えていたので大丈夫です」
「そっか、じゃ、試してみよう」
ベルタさん、美容に関することには敏感ですわね。こういうところはしっかり女性なんだなぁと感じますわ。お菓子以外でお二人にお返しが出来て、私もラウラも嬉しくなりました。いつも、していただいてばかりですからね。
「ユリア先生も、よろしければどうぞ」
「ありがとう。私も乾燥に弱くて困っていたのよ。早速試してみるわ」
「ああ、人族って皮膚が弱いものね。獣人はそんなことはないのだけど」
「ええ? そうなんですか? 羨ましいです。私、すぐあかぎれになってしまうし、今日も紙で手を切ってしまって」
「ああ、私も紙でしょっちゅう切るわ。そこは獣人が羨ましいわね」
どうやら紙で皮膚を切るのは人族だけのようです。獣人はやはり体が丈夫なのですね。
「あ~でももったいない! こんなに可愛くなってきたのに、三年はここで過ごさなきゃいけないなんて!」
「それは仕方ないでしょ。国同士の約束なのだから」
「それでも! 可愛い乙女二人が男っ気もなく過ごすなんて時間がもったいないよ! もしかしたら誰かが二人を探しているかもしれないのに!」
「それこそ番だなんて言ってくる相手がいたら困るじゃない。特にエリサ様は王妃様なのよ」
「ああもう、陛下も何であんな約束したんだろう!」
私たちがここで三年を過ごさなくてはいけないことをお二人はご存じで、ベルタさんは私の境遇に強く憤ってくれました。彼女にしてみれば、番と認識出来なくなる香料を使って三年も過ごすのは時間の無駄だそうです。もしかしたら私たちに番の獣人がいるかもしれない、それならその相手にとっても気の毒な時間だというのがベルタさんの考えです。獣人あるあるよねぇとユリア先生は呆れていますが……それだけ獣人にとって番の存在は重要なようです。
◆ ◆ ◆
それから数日経ったある日の夜。乱暴に離宮の扉を叩く音がして、私は目が覚めてしまいました。滅多に人が来ないこの離宮に、こんな時間に人が訪ねてくるとはどういうことでしょうか……もしかして、陛下の番が見つかった、とか?
確かに番が見つかったらすぐに出ていくとの契約ですが……さすがにこんな夜中に知らせに来ることはないでしょう。それとも、番至上主義の獣人にとってはこれが通常運転なのでしょうか?
そんなことをぼんやり思っていると、ラウラがガウンを手に入ってきました。ラウラも目が覚めてしまったようで、何事かと不安げにしています。この時間はベルタさんもユリア先生もいらっしゃらず、残っているのはラウラと護衛騎士だけなので、確かに不安です。
う~ん、もし今すぐ出ていけと言われると……困りましたわね、荷造りも何も出来ていませんから。あ、でも、ここにあるものは全て陛下が用意してくださったものなので、持っていってはダメでしょうか? 出来れば当面を過ごせるだけの服や生活必需品をいただけると助かるのですが……
「エリサ王女!」
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