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番外編~レニエ⑤

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 夜着にガウンを羽織っただけの無防備な格好でソファに眠るジゼル嬢。その姿を見た時は夢かと思い、暫くその場から動けなかった。そっと近づくが目を覚ます様子はない。疲れているのだろう、随分深く眠っているように見えた。
 ソファに横になり無防備に寝顔を晒すなど、襲ってくれと言っているようなものだった。少し開けた口に視線が釘付けになるが頭を振って理性を引っ張り出した。マズい、この状況は非常にマズい……

 大きく息を吐き出してから彼女に声をかけた。早く寝室に行ってほしい。上司だし年が離れているから意識されていないのかもしれないけれど俺も男なんだ。彼女のためにも無体なことはしたくないし、今はまだ時期じゃないんだ。クロエの惨劇を思い出して冷静さを取り戻した。そう、今はまだ時期じゃない。

「シャリエ嬢」

 名を呼んでも目覚める気配がなく、仕方なく身体を揺さぶって名を呼んだ。肩の柔らかさに心拍数が上がるがそれを理性で押しとどめる。

「し、室長!?」

 目を開けて暫くぼんやりしている彼女は少し幼く見えて愛らしかった。それでも直ぐに意識がはっきりしたのか飛び上がりそうなくらいに驚いた。そんな表情すらも愛らしく見える。どうしてここにいたのかと問えば、俺が部屋の鍵を忘れて行ったからだと言った。自分のことよりも人を優先する彼女の優しさに胸が痛む。このまま抱きしめられたらと思うが彼女を危険に晒したくない。お休みと言って彼女を寝室に送り出した。
 その後、このままここにいてはダメだと思い部屋を出た。打ち上げの場に戻り、雨漏りの件とシャリエ嬢と部屋を交換したとそれとなく話しておく。こうすれば変な噂が立つことはないだろう。私と噂になればジョセフとの婚約も解消できるかもしれないし、私が娶るしかなくなるかもしれない。そんな風にも思ったが、真面目で健気な彼女にそんな瑕疵を付けたくなかった。

 翌朝、もっと訳の分からないことになった。話をしていたら彼女が急に泣き出したのだ。どんなに仕事で厳しいことを言われても泣かなかった彼女の涙にすっかり動転してしまった。しかも自分が泣いていることにも気づいていない。話を聞けば家で随分辛い思いをしているのだと察せられた。シャリエ家のことは既に調べてあるから事情は把握している。次女ばかりを溺愛し、長男長女を蔑ろにするシャリエ伯爵は有名だ。直ぐに涙は止まったけれど涙を浮かべながら必死に笑おうとする姿が痛々しく、目について暫く離れなかった。涙を拭う役目を自分がと思うのに手を伸ばせなかった。

 視察から帰った俺を次の衝撃が走った。ジョセフから正式にジゼル嬢と婚約させられたと報告があったからだ。内々に話を進めていることは知っていたが実際にそうなると聞かされるとショ
ックは大きかった。

「ご心配なく。仮の婚約ですよ。俺はいずれ解消するつもりです。ジゼル嬢にも時期を見てそう告げるつもりですから」

 彼はそう言ったけれど、休暇を取って数日が過ぎた頃、ジゼル嬢が沈んでいるように見えた。表面上はいつもと変わらないがため息が増えているし目も腫れているように見える。ジョセフに何か言われたのかと心配になる。宰相府に呼ばれた後、執務室に戻るとジゼル嬢が休憩室に残っていた。私が昼までにと頼んだ書類があるからと待っていてくれたのだ。そんな生真面目さも愛おしい。

「すまない。何だか休みの後から元気がないようだったから。その……目が……」

 決してプライベートには踏み込まないようにと思っていたのに抑えられなかった。戸惑いの中に何か違う色を浮かべて俺を見上げる。どうして泣いていたんだ? ジョセフとの婚約はそんなに嫌か? ジョセフには悪いがそうだったらどんなにいいだろうかと胸が騒ぐ。

「……泣いて、いたの?」

 気が付けば彼女の髪に手を伸ばしていた。ああ、こうして触れたかったんだ、ずっと。心が躍るがここは職場だ。理性を総動員して抱きしめたい衝動を抑えた。話を聞くと彼女はジョセフとの婚約に戸惑っているようだった。それを嬉しく思うが、一方で別の懸念が深まった。他に想う男がいるのだろうか……前髪を触った手が勝手に頬に向かう。滑らかな肌が手に伝わってくる。そうしているうちに彼女の顎に手をかけていた。今だけは目を逸らされたくなかった。

「ああ、誰か想う相手がいるのかな? いるなら……助けになれるかもしれないけれど……」

 恐る恐るそう尋ねたが、しばらく考えた末彼女は首を左右に振った。その姿に歓喜する。俯いてしまった彼女に胸が熱くなって思わず抱きしめたくなった。でもまだだ。もう少しそのままでいてくれ。そうしたらなりふり構わず口説くから。

「……あなたに想われる、幸運な男は、一体誰なのだろうね?」

 思わずそんな言葉が出てしまったけれど、彼女に聞こえてしまっただろうか。願わくはそれが自分になるといい。動けないことがもどかしい。



 思いを募らせる間にドルレアク公爵から呼び出された。何事かと思ったら嫡男を廃嫡して長女を後継者にするという。その婿の件での相談だった。

「婿ですか……」

 長女のラシェル嬢は最終学年だっただろうか。聡明で美人だと評判だが、浮ついたところのないしっかりした令嬢だとも聞いている。公爵家の婿となれば最低でも伯爵家、次男か三男か……最近文官になった者の顔が何人か思い浮かぶ。

「爵位はどうなさるのです? それによって変わってきますが」

 爵位を継ぐのがラシェル嬢なら補佐に向いている者を、爵位を婿が継ぐなら相応の力量と裏切らない忠誠心など求められるものが変わる。ラシェル嬢は優秀だから自身が継ぐことも出来るだろう。その場合は

「娘は相手に継いでほしいと願っている。子を産む時は思うように動けないからと」
「そうですか。それでしたらそれだけの能力と、他所で子を作らない自制心の強い男でないと……」
「ああ、侯爵、相手は決まっているんだ」

 そう言うと公爵はグラスの中身を煽り、側に立つ執事にグラスを向けた。執事が追加を注ぐ。

「決まっている?」

 婿候補の話じゃなかったのか。それに相手が決まっているなら相談など必要ないだろう。そう打診すれば済むだけだ。ドルレアク公爵家からの希望なら断る家などないはず……

「まさか、難しい家なのですか?」

 公爵が相談と言うなら、相手は面倒な家なのだろうか。これがフォルジュ公爵の縁者などなら厄介だし、子爵家や伯爵家でも没落している場合は難しいだろう。ああそうか、ミオット家の養子にしろということか。

「難しいと言えば難しいな。伯爵家の嫡男だ」
「嫡男……」

 それは厄介だな。大事に育てた嫡男を寄こせなどと言えば反発を食らう。次男がいるならまだしも、一人息子ともなれば恨みが残るかもしれない。酒に口を付ける。極上の蒸留酒が喉を焼いた。さすがは公爵家、いい酒だ。

「それで、相手は?」

 相手を知らなければ話が進まない。俺に相談することかと思わなくもないが、関係があるのだろう。執事が新たに酒を次に来たので受け取った。

「ああ、シャリエ伯爵家のエドモンだ」

 グラスを持つ手が止まった。



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