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母の願い
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思いがけない名前が出て驚いた。確かに母はエドモンとミレーヌを産んだ後、出血が酷くて亡くなったと聞いている。
「お母様の願いとは、何でしたの?」
「エリゼは……ミレーヌを産んだ後、衰弱していった。そんな彼女が気にしていたのがミレーヌのことだったんだ」
そこで父は一度、深く息をした。
「この子のせいで私が死んだと思われないかと。ジゼルやエドモンがそう言ってミレーヌを責めたりはしないだろうかと。ジゼルもまだ母が恋しいからきっと寂しいだろう。その辛さをミレーヌにぶつけたりしないかと心配だと……だから、だから私は……」
母がそんなことを言っていたなんて……弱っていく中で、生まれたばかりの幼子をどんな思いで見ていたのだろう。それはわからない。でも、母が心配する気持ちもわからなくはなかった。私が同じ状況になったら同じような不安を抱えただろう。
母の死はミレーヌのせいじゃない。双子じゃなくても出産で亡くなる女性は少なからずいるのだから。母の場合はたまたま双子で、一人よりも不安要素が大きかっただけ。それでも口さがない者は好き勝手言う。母はそれを案じたのだろう。
そして父は母の言葉をそのまま受け取り、ミレーヌを最優先にしていたのか。母を溺愛していたから、母の最期の願いと思い必死に守ってきたのだろう。そうした場合、どうなるのかなど想像もしないで。その結果がこれだ。母が恐れていた状況を当の父が作り出していたなんて、笑い話にもならない。
「……だったとしても、お父……シャリエ伯爵の私とエドモンへの仕打ちを許せる理由にはなりませんわ。ミレーヌをあんな風にしたのはあなた様です。ご自身で何とかなさって下さい」
「ジゼル……」
尚も父は縋る目を向けたけれど少しも心が動かなかった。むしろレニエ様のいらっしゃるお屋敷に押しかけたことへの怒りが勝った。
「ミオット侯爵……」
「シャリエ伯爵、私はジゼルの意に従う」
父が泣きそうな顔でレニエ様を見上げたけれど、返ってきたのは拒絶の言葉だった。レニエ様は私の意に反することはなさらなかった。
「……申し訳、ありませんでした……」
肩を落としたまま深々と一礼した父は背を向けてドアに向かった。可哀相に思えたけれどここで手を差し伸べれば父もミレーヌも変われない。今の事態を起こしたのは自分たちなら、それを受け止めるのも彼らでなければならない。父がドアの向こうに消えると部屋の空気が軽くなった気がした。
「レニエ様、ありがとうございます」
隣に座るレニエ様の手を取ってお礼を述べた。縁を切ったのにまた煩わせてしまったことが申し訳ない。
「いや、構わないよ。でもあのまま放っておいたらジゼルは彼らのことばかり考えてしまうだろう?」
「それは……」
「彼らのことで君が気に止むのが嫌だった。それに、私は嫉妬深いらしい」
そう言うと手を握り返して指を絡められた。それだけのことなのに頬が熱を持つ。
「とてもそんな風には見えません」
「そりゃあ、ジゼルに嫌われたくなくて必死に隠しているからね」
茶目っ気のあるそんないい方に思わず吹き出してしまった。お陰で気持ちが凄く軽くなった。ミレーヌのことは心配だけど、今は父に任せるしかない。エドモンに言っても『知るか』の一言で終わるだろうし、こんな話を持っていくことはないだろう。心配はないはずだ。
「シャリエ家のことは私も調べておくよ」
「そんな! これ以上お手を煩わせるのは……」
「仕事上、普段からあちこちに人をやって調べているんだ。だから大した手間ではないよ」
「そう、ですか。すみません、もう縁が切れたのに……」
「そこも織り込み済みだから。気にしないで」
そう言うと腰に手を回されてぐっと引き寄せられた。半人分あった距離が一気に詰められてレニエ様の存在感が一層強くなった。心臓が煩いくらいに鳴って心が張り裂けそう。父やミレーヌのことなどそれだけですっかり頭の中から消えてしまった。
「ジゼル」
「……レニエ、様……
近付く顔に今度こそと思いながら目を閉じた。乾いた感触の何かが唇に触れて、何度も啄むように繰り返される。それだけでもかっと頭に血が上って行くのを感じた。こういう時、どうしたらいいのかと戸惑っていると、何かが口の中に入り込んで息が止まった。それが何なのかを理解すると、一層羞恥に心臓が跳ねた。このまま心臓が飛び出してどこかに行ってしまいそう……
「……レ、レニ、エ……様……」
最後には息が出来ずに苦しくて名を呼んだ。
「ジゼル、可愛い……」
きっと唇が触れるかどうかの距離で囁かれた言葉に居た堪れなくなったけれど、それ以上に空気を求めていた。
「こういう時は鼻で息をするんだよ」
顔中に軽いキスが降って来て目を開けられなかった。恥ずかしい……こんな時どんな顔をすればいいのだろう……
「ああ、これ以上は我慢が出来なくなるね。やめておこう」
少し掠れた声が耳元で響き、背中がゾクゾクと泡立った。男性とこんな風に触れ合うことすら初めてだから、どうしていいのかわからない。こんなことならオリアーヌにでも聞いておけばよかった。そんな時間はなかっただろうけど……
「このままジゼルを愛でていたいんだけど、まだ仕事が残っているからね」
「あ……」
レニエ様は最近仕事を持ち帰っていると聞く。私との時間を少しでも取るために。侍女の話では以前は滅多に家にも帰っていなかったらしい。王宮に部屋があるからそこに寝泊まりしていたのだろう。
「何かお手伝い出来ることは……」
「ああ、ありがとう。でも持ち帰ったのは私がサインしなきゃいけないものなんだ」
「そうですか」
だったら私に手伝えることはない。資料作りや清書ならいくらでも出来るのに。
「忙しいのは異動を控えているのもあるんだ。異動になったら今ほど遅くなることもないから大丈夫だよ。ジゼルもそう。新しく入った二人は優秀だし、彼らが仕事を覚えれば残業も殆ど必要なくなるだろう」
その為の準備が忙しかったんだよとレニエ様は笑った。それならいいのだけど……無理をして体調を崩してしまわれないかが心配だった。
「お母様の願いとは、何でしたの?」
「エリゼは……ミレーヌを産んだ後、衰弱していった。そんな彼女が気にしていたのがミレーヌのことだったんだ」
そこで父は一度、深く息をした。
「この子のせいで私が死んだと思われないかと。ジゼルやエドモンがそう言ってミレーヌを責めたりはしないだろうかと。ジゼルもまだ母が恋しいからきっと寂しいだろう。その辛さをミレーヌにぶつけたりしないかと心配だと……だから、だから私は……」
母がそんなことを言っていたなんて……弱っていく中で、生まれたばかりの幼子をどんな思いで見ていたのだろう。それはわからない。でも、母が心配する気持ちもわからなくはなかった。私が同じ状況になったら同じような不安を抱えただろう。
母の死はミレーヌのせいじゃない。双子じゃなくても出産で亡くなる女性は少なからずいるのだから。母の場合はたまたま双子で、一人よりも不安要素が大きかっただけ。それでも口さがない者は好き勝手言う。母はそれを案じたのだろう。
そして父は母の言葉をそのまま受け取り、ミレーヌを最優先にしていたのか。母を溺愛していたから、母の最期の願いと思い必死に守ってきたのだろう。そうした場合、どうなるのかなど想像もしないで。その結果がこれだ。母が恐れていた状況を当の父が作り出していたなんて、笑い話にもならない。
「……だったとしても、お父……シャリエ伯爵の私とエドモンへの仕打ちを許せる理由にはなりませんわ。ミレーヌをあんな風にしたのはあなた様です。ご自身で何とかなさって下さい」
「ジゼル……」
尚も父は縋る目を向けたけれど少しも心が動かなかった。むしろレニエ様のいらっしゃるお屋敷に押しかけたことへの怒りが勝った。
「ミオット侯爵……」
「シャリエ伯爵、私はジゼルの意に従う」
父が泣きそうな顔でレニエ様を見上げたけれど、返ってきたのは拒絶の言葉だった。レニエ様は私の意に反することはなさらなかった。
「……申し訳、ありませんでした……」
肩を落としたまま深々と一礼した父は背を向けてドアに向かった。可哀相に思えたけれどここで手を差し伸べれば父もミレーヌも変われない。今の事態を起こしたのは自分たちなら、それを受け止めるのも彼らでなければならない。父がドアの向こうに消えると部屋の空気が軽くなった気がした。
「レニエ様、ありがとうございます」
隣に座るレニエ様の手を取ってお礼を述べた。縁を切ったのにまた煩わせてしまったことが申し訳ない。
「いや、構わないよ。でもあのまま放っておいたらジゼルは彼らのことばかり考えてしまうだろう?」
「それは……」
「彼らのことで君が気に止むのが嫌だった。それに、私は嫉妬深いらしい」
そう言うと手を握り返して指を絡められた。それだけのことなのに頬が熱を持つ。
「とてもそんな風には見えません」
「そりゃあ、ジゼルに嫌われたくなくて必死に隠しているからね」
茶目っ気のあるそんないい方に思わず吹き出してしまった。お陰で気持ちが凄く軽くなった。ミレーヌのことは心配だけど、今は父に任せるしかない。エドモンに言っても『知るか』の一言で終わるだろうし、こんな話を持っていくことはないだろう。心配はないはずだ。
「シャリエ家のことは私も調べておくよ」
「そんな! これ以上お手を煩わせるのは……」
「仕事上、普段からあちこちに人をやって調べているんだ。だから大した手間ではないよ」
「そう、ですか。すみません、もう縁が切れたのに……」
「そこも織り込み済みだから。気にしないで」
そう言うと腰に手を回されてぐっと引き寄せられた。半人分あった距離が一気に詰められてレニエ様の存在感が一層強くなった。心臓が煩いくらいに鳴って心が張り裂けそう。父やミレーヌのことなどそれだけですっかり頭の中から消えてしまった。
「ジゼル」
「……レニエ、様……
近付く顔に今度こそと思いながら目を閉じた。乾いた感触の何かが唇に触れて、何度も啄むように繰り返される。それだけでもかっと頭に血が上って行くのを感じた。こういう時、どうしたらいいのかと戸惑っていると、何かが口の中に入り込んで息が止まった。それが何なのかを理解すると、一層羞恥に心臓が跳ねた。このまま心臓が飛び出してどこかに行ってしまいそう……
「……レ、レニ、エ……様……」
最後には息が出来ずに苦しくて名を呼んだ。
「ジゼル、可愛い……」
きっと唇が触れるかどうかの距離で囁かれた言葉に居た堪れなくなったけれど、それ以上に空気を求めていた。
「こういう時は鼻で息をするんだよ」
顔中に軽いキスが降って来て目を開けられなかった。恥ずかしい……こんな時どんな顔をすればいいのだろう……
「ああ、これ以上は我慢が出来なくなるね。やめておこう」
少し掠れた声が耳元で響き、背中がゾクゾクと泡立った。男性とこんな風に触れ合うことすら初めてだから、どうしていいのかわからない。こんなことならオリアーヌにでも聞いておけばよかった。そんな時間はなかっただろうけど……
「このままジゼルを愛でていたいんだけど、まだ仕事が残っているからね」
「あ……」
レニエ様は最近仕事を持ち帰っていると聞く。私との時間を少しでも取るために。侍女の話では以前は滅多に家にも帰っていなかったらしい。王宮に部屋があるからそこに寝泊まりしていたのだろう。
「何かお手伝い出来ることは……」
「ああ、ありがとう。でも持ち帰ったのは私がサインしなきゃいけないものなんだ」
「そうですか」
だったら私に手伝えることはない。資料作りや清書ならいくらでも出来るのに。
「忙しいのは異動を控えているのもあるんだ。異動になったら今ほど遅くなることもないから大丈夫だよ。ジゼルもそう。新しく入った二人は優秀だし、彼らが仕事を覚えれば残業も殆ど必要なくなるだろう」
その為の準備が忙しかったんだよとレニエ様は笑った。それならいいのだけど……無理をして体調を崩してしまわれないかが心配だった。
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