あなたに愛や恋は求めません【書籍化】

灰銀猫

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第二部

感情を失った者の末路

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「私には弟がおりました。母親は違いましたが私たちは大変仲が良かったのです。弟は陽気で人懐っこい子でした」

 ティオの五つ下の異母弟は身体を動かすのが好きだったこともあり騎士を目指したという。真面目で努力家だった弟はティオの口利きもあってゾルガー家に就職した。明るい性格の彼は直ぐに騎士団に馴染み、三年目にはゾルガー家のメイドをしていた女性と結婚し子にも恵まれた。

 だが二人目が生まれて五年後、悲劇が襲った。盗賊討伐に出ていた彼の部隊が壊滅的な被害を受けたのだ。

「二十数人いた中で生き残ったのは三人だけでございました。皆生きているのが不思議なほど深い傷を負いました」

 彼らは何とか一命を取り留めたが、程度の差はあれ精神にも深刻な傷を負っていたという。

「目覚めた弟は、感情を失っておりました」

 その言葉に息を呑んだ。感情を失ったって……それは……

「奥様が想像された通りです。旦那様と、よく似ていました」

 何と言っていいのか、言葉が何も浮かばなかった。ティオの弟は献身的な家族の看病と医師の尽力によって一年もすれば普段の生活が送れるくらいには回復した。身体は。だけど感情は閉ざしたままだったと言う。それでも家族は弟に話しかけ、少しずつ癒されて行っているように見えたという。

 でも、そうなると今度は感情の起伏が極端になった。もう大丈夫だと陽気に笑ったかと思えば次の瞬間には死んでしまいたいとさめざめと泣き出く。寄り添おうとすればするほど家族は振り回されて消耗し、そんな妻子の様子に弟が一層病むという悪循環に陥っていった。

 子どもたちへの影響を案じた医師が暫く弟と離れた方がいいのではないかと提案した直後、彼は突然命を絶った。自分が見捨てたせいだと妻は自責の念に囚われて一層病み、下の子が成人した直後、自ら命を絶った。子どもたちはゾルガー領の屋敷で成人を迎えたが、一人はふらりと出かけたまま未だ戻らず、残る一人は領邸で人を避けるように暮らしているという。

「感情を失ったように見えたのは、余りにも辛い経験に耐え切れず心に蓋をしたからだと、医師はそう言っていました。それを無理にこじ開ければ恐怖は甦り、傷ついた心がまた血を流し出すのだと」

 一度開けてしまえば蓋を戻すことは出来ないのだと、そう告げるティオの表情は痛みに耐えていた。ティオはわかっていたのね、ヴォルフ様を癒すことがどれだけ難しいかを。だから無理をせず時間に任せようと言ったのだ。弟と同じく感情を失ったヴォルフ様の元で、ティオはどんな思いを抱えていたのかしら。それは私などには想像出来ないほどに重く苦しいものだったはず。ヴォルフ様がティオの言葉を疑わない理由が分かった気がした。

「全ての者が弟のようになるわけではないでしょう。ですが、どうなるかなど誰にも、医師ですらわからないのです。医師とて万能ではありませんから」

 最悪の未来が頭をよぎって身体の真ん中が凍り付きそうになった。ヴォルフ様がそんな風になるなんて……想像しただけで心が握り潰されたように痛む。

「そういうことだ。公爵やアーレント王はそれを狙っているのだろう。俺が使い物にならなくなればこの国は乱れるし、ゾルガー侯爵夫人の肩書で国を内側から操ることも出来る。あの娘に子が生まれれば尚更だ」

 そうなってはもう国の乗っ取りだわ。そんなことを考えていたの? いえ、権謀術数なんて当り前だし、王妃様を嫁がせたのだってその手の思惑があったからなのでしょうけれど。幸い王妃様はローゼンベルク人として生きることを選んで下さったから彼らの思惑は不発に終わった。公爵の王妃様への不遜な態度はその苛立ちの表れかもしれないわね。だからヴォルフ様にも平気で非道なことが出来るのかもしれない。でも……

「それではクラリッサ様は……」

 クラリッサ様のヴォルフ様への想いは本物だと思う。そんな彼女がヴォルフ様を苦しめる可能性のある選択を望むかしら?

「あの娘には都合のいい例、上手くいった例しか話していないのだろう」
「そんな……」

 それではクラリッサ様は何も知らず……でも、それならあんなに自信満々に言い切れるのもわかるわ。公爵がその気になれば耳に心地よい話だけを選んで聞かせるなんて簡単よね。でも娘の純粋な恋心を利用するなんて……信じられないわ。

「俺という餌を与え献身的に支える妻だと煽てておけばあの娘は満足する、そう考えているのだろう」
「餌だなんて……」
「実質そうだろう?」

 否定しきれなかった。ヴォルフ様が苦しむ横で嬉々として世話をする彼女の姿が浮かんでしまったから。実質的な世話は使用人の仕事だから、彼女がするのは側で励ますくらいでしょうね。そして公爵たちはそんな彼女を妻の鑑だと大袈裟に称賛する……あり得るわね。

「真の目的は我が国を内から操って支配下に置き、グレシウスに対抗することだろう」
「ではクラリッサ様はそれを隠すための?」
「ああ。話だけ聞けば美談だし、王族の願いとなればこちらも断り難い。今は関税も絡んでいるからこちらは強く出られないと思っているのだろう」

 淡々と他人事のようにそう仰ったけれど、裏に隠された悪意が余りも酷過ぎる。母親が違うとはいえ王妃様は王や公爵の姉妹なのに。

「第二夫人として迎えることも考えたが……」
「え?」
「あれが連れてくる医師や侍女は間者だ。監視して弱みを握ればアーレントをけん制出来る。寝返らせて情報を得ることも……」
「旦那様、不用意に奥様を不安にさせる発言はお控えください!」

 ティオがヴォルフ様の言葉を遮った。初めて見る厳しい物言いに動揺していた心が一層波打った。

「旦那様、夫が新たに妻を迎え入れる話など冗談であっても禁句でございます。それでなくても奥様はお子が来て下さらないとお悩みなのです。つまらぬ負荷をおかけにならないで下さい」

 急に話が変わって戸惑う私の横でティオが小声でヴォルフ様に説明してくれたけれど……ティオ、どうしてそのことを知っているの? 私、そのことはロッテやザーラくらいしか……二人に視線を向けると気まずそうに目を伏せられた。ティオ、二人から話を聞いていたのね! って、聞かない筈がないわね……でも、そのことは黙っていて欲しかったのに……

「すまなかった」
「え? い、いえ、謝っていただく様なことは……」

 ティオに気を取られていたところに謝られて面食らってしまった。

「子のことだ。悩んでいたのか?」

 うう、その話をなさるの? ヴォルフ様には悩んでいるなんて知られたくなかったのに……

「悩むといいますか、もう一年近く経つのにまだなので、もしかして子が出来ない体質なのかと……」

 いくらヴォルフ様が私を蔑ろにしないと言って下さっても、後継を産めないうちは正妻だと大きな顔なんか出来ないわ。どんなに身分が高くても子が産めなければ婚家で肩身の狭い思いをするのは当たり前だし、お義姉様だって両親や兄に心無いことを言われて苦しんでいた時期もあった。卒業した友人たちに子が出来たという知らせがちらほら流れてくるから最近は余計に気になってしまう。閨の回数が足りない訳ではないと思うし、だったら私の問題なのよね……子が出来やすいように色々試しているし、悩み過ぎてもダメだと言われるから気にしないようにはしているけれど……

「そうだったのか。悪かった」
「い、いえ、これも授かりものといいますか、作ろうと思って出来るものではありませんから……」

 だから謝っていただくものではないわ。相性もあると聞いたことがあるし。それに作ろうと思っていると来てくれなかったり、逆にまだいいと思っていたら出来てしまったりすることもあると言うわ。リーゼ様は後者だったと言っていたし。

「あの、本当にお気になさらずに。ヴォルフ様のせいではありませんから」
「いや、俺のせいだ。お前に避妊薬を飲ませていた」
「……は?」

 い、今、ヴォルフ様は何ておっしゃった? 避妊薬って聞こえたのだけど……




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