あなたに愛や恋は求めません【書籍化】

灰銀猫

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第二部

現れた隠し子

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 ヴォルフ様のお子だという男児を連れて来ていたのは、先日舞踏会で声をかけてきたザイデル伯爵だった。あの時隠し子の話を出したのは既にこの子の存在を知っていたから? 警戒が膨れ上がるけれどヴォルフ様はまだお戻りにならない。相手は伯爵家当主、無下にも出来ず私が応接室で対応するしかない。気が重いわ、ヴォルフ様が否定されたのに連れてきたということは相当な確信がおありなのよね。

 ザイデル伯爵の隣に座る男児はまだ十に満たないように見えた。顔色がよくないのは緊張しているだけではなさそう。小奇麗な服を着ているけれど痩せているように見える。黒髪と緑瞳だけど髪は茶を煮詰めたような黒で、青みがかったヴォルフ様よりもフレディ様に近いわ。瞳も黄色味を足したような色だし、目が大きくて目尻が下がっているせいか優しい印象。似ているのは色だけだわ。

「この子はルーディーと申しまして、侯爵のお子だと言っております」
「ルーディー……ですか」

 名を繰り返すと男児が小さく頷いた。それはヴォルフ様と同じく狼の意を持つ名前だわ。

「この子の話では侯爵は十年前、ルーディー殿の母親に一目惚れし、互いに惹かれ合ったそうです。かなり熱心に口説かれたと」

 十年前ならお義父様が倒れて当主代行を務め始めた頃よね。あのヴォルフ様が一目惚れ? 熱心に口説く? 

「必ず迎えに行くので待っていてほしいと。その証拠にこちらを渡されたそうです」

 そう言って取り出したのは家紋が入った指輪だった。繊細に刻まれたそれはすり減って一部が消えているけれど、紛れもないゾルガーの家紋だった。ヴォルフ様が持つ当主の証の指輪よりも一回り小さいその意味は……

「家紋入りの指輪を持つのは当主と次期後継者のみ。夫人もその意味がお判りでしょう?」
「え、ええ……」

 それはわかるわ。一回り小さいのは後継と定められた者の証。だけど本当にヴォルフ様がこれを? それにヴォルフ様が女性を熱心に口説いたなんて……やっぱり想像も出来ないわ。でもこの指輪を持つなら偽者だと言い切れないわ。ヴォルフ様に確かめないと。

「……そうですか。それで、お母様は今どちらに?」

 そもそもどうして母親がいないのかしら? もしかして亡くなった? だから伯爵が一緒に?

「本来なら母親が同席するのが筋ですが、実は母親は先日、病に倒れましてね。女一人で子を育てて無理が祟ったのでしょう。今は神殿が運営する救護院で養生しております」
「救護院に?」

 救護院は貧困層のためのもので十分な治療を受けられないと聞くわ。大丈夫なのかしら? 迎えに行くべき? でもヴォルフ様に無断で勝手なことは出来ないわ。身元の知れない者をこの屋敷に迎え入れれば使用人まで危険に晒すから。

「そうですか。どちらの救護院ですの?」
「おお、夫人はお優しい方のようだ! 安心しましたよ。かなり衰弱しているようなので早急にこちらにお引き取り願います」

 食いつき気味に伯爵がそう勧めてきたけれど、安心ってどういう意味かしらね。こんな話、はいそうですかと頷くと思っているの?

「引き取るかどうかを決めるのは主人です。先ずは病状の確認が先ですわ」
「なんと! ですがこの子の母親はかなり具合が悪いのです。悠長なことをしていては手遅れになってしまいますぞ。人の命は儚いものですからな」

 どうしてそんなに急かすのかしら? そこまで悪いのに伯爵は放っておいたの? 詐欺師は相手に考える間を与えないと夫人教育で言われたことが頭に浮かんだ。

「家長の許しなく勝手なことは出来ませんわ」

 そう言うと伯爵は何かを言おうとしたけれど、次の瞬間大きく息を吐くとソファに背を預けた。

「やれやれ、夫人といっても侯爵がいらっしゃらなければ何も出来ないご様子ですな。まだお若いだけに侯爵も家政を任せるのは心許ないようだ」

 あからさまに馬鹿にした言動に怒りが湧いたけれど、伯爵の向こうに立つグレンが小さく首を左右に振るのが見えた。挑発に乗ってはダメってことね。それにグレンの表情が伯爵は信用出来ないと言外に伝えている。

「解釈はご自由に。でも主人もまずは病状の確認を優先するでしょう。高熱が出ている時に移動してはかえって危険です。感染症なら迎え入れるにも準備が必要ですし。かなり衰弱していらっしゃるのでしょう?」
「そ、それは……」

 妊婦の移動だって気を使ったのよ。衰弱しているならなおさらよ。それにその間にヴォルフ様に判断を仰ぐことも出来る。先ずはヴォルフ様に詳しく伺わないと……いえ、今はそれよりも……

「お母様はどちらの救護院にいらっしゃるのかしら? 直ぐに医師を手配しますわ。それに必要な物も。ああ、ティオ、直ぐにルーザー先生に連絡を。行き先は追って連絡しますから、往診に出る準備をお願いして」
「はい、奥様」

 振り返ってそう告げると、ティオは側にいた侍女に何やら言付、侍女は直ぐに部屋を飛び出していった。

「ルーディー君、お母様がいらっしゃる救護院の名前を教えて下さる?」

 ザイデル伯爵を無視して優しく直接男児に尋ねた。この年なら自分が住んでいる地区名くらいは知っているはず。

「……ヴェ、ヴェルン地区……のオルバー通り、です」 
「ヴェルン地区のオルバー通りね。教えてくれてありがとう。ティオ、わかる?」
「はい、そこならキルヒ救護院でございましょう。当家の使用人の何人かはそこの出身でございますれば」

 ティオの答えにザイデル伯爵が僅かに表情を強張らせた。

「そう、じゃルーザー先生にそのように。ルーディー君、お母様の名前は?」
「エ、エマ、です……」
「エマ様ね。わかったわ、今日中に伺うから安心して」

 ルーディーは緊張に顔を強張らせたけれど、今日中に医者が診るというとほっとした表情を浮かべた。

「ところでザイデル伯爵、この子とはどういう関係ですの?」

 同行したからには相応の関係があるとみるのが普通。もっともその場合、衰弱しているお母様をそのまま放置しているなんてあり得ないのだけど。

「ああ、実は妻が救護院に慰問に行きましてね。そこで院長からこの子の母親がヴォルフという名の貴族を探していると聞きまして。妻も心当たりがないわけではなかったので話を聞いたのです」
「まぁ、慰問でですか」

 孤児院や救護院への援助は貴族夫人の嗜みの一つだけど、実際に足を運ぶ夫人は少ない。意外だわ、あの夫人が。

「ええ。父親がこの家紋入りの指輪を誓いの証として置いていったと。妻はゾルガー家に籍を置いていたので直ぐにわかったのです。全く偶然とは奇なものですな」

 なるほどね。それにしても……伯爵が話している間のルーディー君の表情が強張っているように見えたのは気のせいかしら? 後で私の後ろにいたマルガに尋ねた方がよさそうね。

「なるほど、それはいつのお話ですの?」
「ああ、確か……三日、いや四日前でしたかな。妻はすぐにでもと思ったのですが、なんせゾルガー家から追い出された身。自分が訪ねるのは気が重いと、私が領地から戻るのを待っていたのですよ」
「まぁ、そうでしたの」

 子がいたのならまだしも、次期当主に媚薬を盛る女性なんて家に置いておけないわ。出奔の理由を作った張本人なのに追い出されただなんて、夫人は媚薬を盛ったことを反省していないのね。それに……本当に気の毒だと思うなら医師に診察をお願いするくらいは出来たでしょうに。人に急かす割にはご自身では何もしないのね。時間が経っているから焦っているのかしら? 親身になって力を貸したわけではなさそうね。別の思惑があるってことかしら。

「わかりましたわ。今日中に医師の診断を元にどうするか決めます。ルーディー君はいかが? それでいいかしら?」

 そう尋ねると少年は暗緑の瞳を大きく見開いてから頷いた。医師に診せると聞いて安心したみたいね。

「しかし夫人、こうしている間にも母親の容体が急変するかもしれませんぞ。まずは屋敷に迎えるべきです。母親に何かあれば夫人が次期後継者の母堂を見殺しにしたとの誹りを受けることになりますぞ。それとも」

 そこで伯爵は一旦言葉を区切ると、意味ありげな視線を向けてから口元だけで笑った。

「ご自身が産むつもりだった後継者をどこの誰とも知れぬ女に奪われて勘気を起こされたかな? しかし夫人は一年近く経つのにまだ孕む兆候がない様子。ここは第二夫人として受け入れて、度量の大きさを示すところではないかな?」

 じっとりと粘り気のある声が心臓に絡まりつき、ゆっくりと締め付けてくるような不快さが襲った。目の前が緋に染まるような感情が身体の奥から込み上げてきて息が苦しくなる。

「そこまでだ」

 言い返そうとしたその刹那、空気を切り裂くような鋭い声が響いた。低くてよく通るそれは、私に安心をもたらしてくれる人のものだった。




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