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これで終わり、とはいかなくて…

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 有無を言わせないヴォルフ様に物申せる人などいなかった。互いに相手を先にと言い合う私たちを暫く眺めていた医師が、だったら先に奥様をと言い出して結局私が先になってしまった。幸い手の怪我だけで他には問題なく、ようやくヴォルフ様の診察になった。

 ヴォルフ様の診察の様子を眺めながら、無事に帰れたことに改めて安堵した。乱暴されることがなかったのはリシェル様が王族で卑俗な発想がなかったお陰かもしれない。私を仲間にしようという魂胆もあったでしょうけれど。あれがクラウス様だけだったら結果は違ったでしょうね。クラウス様もリシェル様の前では紳士でいたかったのかもしれない。暗器と呼ばれる武器を幾つか隠し持って行ったけれど、出番があったのは幸いにも一つだけで済んだ。

「問題ありませんな」

 一通り診察を終えた医師が重々しくそう告げた。足を重点的に診てもらっていたけれど、足の裏には火傷などもなく、傷一つないと言っていい状態だと重ねて言われてほっと息を吐いた。あの中で怪我一つなかったのはさすがだわ。ゾルガーの騎士たちの中に軽い怪我を負った者がいたので彼らの診察をお願いした。ゾルガーの侍医は今、姉に付いているから。

 診察を終えて客間からヴォルフ様の執務室へと移動した。既にティオや着替えを済ませたグレンやアベルが集っていた。

「ティオ、姉のところから知らせは?」
「まだ産まれたという知らせは届いておりません」
「そう……」

 姉が産気付いた話は本当だった。タイミングがよすぎるというかなんというか……お陰で姉がクラウス様の元に向かうことを避けられたのは幸いだったかもしれない。

「ヴォルフ様……」
「俺も行こう」
「よろしいのですか? でも……」

 この後も後始末があるのではないのかしら?

「後のことは王太子がすると言っていた。俺の出番はない」

 どうやらあの件はヴォルフ様の手を離れたようね。でも、リシェル様も絡んでいるのなら王家の管轄になる。クラウス様も国の罪人だからヴォルフ様がどうこうする話じゃないし。

「旦那様、奥様、先ずは湯あみを。姉君の別邸へ向かうのはそれからにして下さい。不衛生なままでは生まれた赤子にもよくないでしょう」
「そうね、わかったわ」

 確かにこの格好では不衛生よね。私は執務室を辞して自分の部屋に向かった。

「イルーゼ様、よくご無事で!」
「ロッテ、心配かけてごめんなさい」

 部屋に入ると感極まったロッテが駆け寄ってきた。

「もう! お願いですから危険なことはお止めください! どんなに心配したか……」

 ロッテが目を潤ませた。今回はロッテにも内緒にしていたから余計に不安にさせてしまったわ。

「ごめんなさい」
「イルーゼ様のことだから止めても無駄なのはわかっています! でも、事前に教えてください!」
「……わかったわ。今度からはロッテにはちゃんと話すわね」

 そう言うと一瞬目を丸くしたけれど、いつもの力の抜けた笑みを見せてくれた。そのまま彼女に手伝って貰って身を清めた。さすがに古屋敷は埃っぽかったし、化粧なども王宮で直したきりだったのよね。きっと凄い顔になっていたと思う。暗くてよかったわ。

「お姉様の話は聞いている?」
「はい、ティオ様の元に何度か連絡が」
「そう。お産は順調なのかしら」
「それが……時間がかかっているようです」

 ロッテがティオから聞いた話では陣痛が弱くて中々産まれないのだという。ルーザー医師や優秀な産婆を付けているけれど、それで絶対に大丈夫だといえないのが出産なのよね。出産で命を落とす母子は少なくない。姉は身体が小さいから最初から医師が心配していたけれどその通りになったのね。気が急くけれど私が行っても役には立たない。仲がいいなら励ましも効果がありそうだけど、今の関係では邪魔だと思われそうな気がするわ……

 湯あみを終えてヴォルフ様の執務室に向かうと、既にヴォルフ様の準備は出来ていて、口頭でグレンやアベルに今回手に入れた証拠をまとめるよう指示を出していた。邪魔をしない様にソファに座るとティオがお茶を淹れてくれた。いつもの味にホッとする。やっぱり屋敷が一番落ち着くわ。

「奥様、昨夜は一睡もされていないでしょう? 少し休まれては?」
「ありがとう。でも姉のことが気になってきっと眠れないわ。様子だけでも見に行きたいの」
「左様ですか。では軽食をご用意します。少しでもお腹に何か入れてからお出かけください」

 そう言われて気付いたわ。そういえば昨夜から殆ど何も口にしていなかった。早く様子を見に行きたいけれど、何も食べずに行くのも辛いわね。初産は長丁場になると聞くし、お産でバタバタしている別邸で食事を頼むのは迷惑だろうし。

「ありがとう。そう言われたらお腹が空いて来たわ。軽いものでお願いね」
「かしこまりました」

 ティオが頭を下げて下がった。戻って来た時には食べ物が乗ったワゴンを押していた。室内に美味しそうな匂いが広がって思わずお腹が鳴ってしまったわ。今のは不可抗力よ……

「待たせた」

 ヴォルフ様も話が終わったのかソファにやって来て私の隣に座った。今度はヴォルフ様のお腹の音が聞こえたわ。ヴォルフ様だってあれから何も食べていないでしょうし、私よりもよく動いていたのだからお腹が空くわよね。

「ヴォルフ様、もうよろしいのですか?」
「ああ。それよりも腹が減った」

 ぽつりと呟かれた言葉に飾り気が全くなくて素のヴォルフ様を見た気がした。それだけのことが何だか嬉しい。予想通りヴォルフ様は優雅に、でも私の三倍の量は食べた様に思う。食べっぷりがよくて思わず見惚れてしまうわ。そういえばハリマン様は体型を気にして食べる量をやたら気にしていたけれど、ヴォルフ様のように気持ちよく食べる方が一緒に食べていても楽しいわね。デザートまで食べてようやく気が済んだ。思った以上にお腹が空いていたらしい。

「さ、そろそろ行くか」
「はい」

 気が付けばお昼近くになっていた。それでもまだ出産したとの連絡がない。姉は体力がなさそうだから長引くのは危険な気がするわ。

 二人で馬車に乗り込んで姉の別邸に向かった。別邸までは実家よりも近いけれど、街中は昨日の賑わいが残っていた。そういえば気になっていたことがあるのよね。何となく聞く機会を逃していたからちょうどいいわ。

「ヴォルフ様、姉の子はどうされるおつもりですか? ガウス家の子として育てますの?」

 そう、気になっていたのは姉の子の今後。実家はカリーナの子を兄夫婦の実子にする予定だけど、姉の子はまだどうするか聞いていなかった。二、三か月違いの子を兄夫婦の子にするのも難しい気がする。

「フィリーネはガウス家の血を引いていないから難しいだろう。我が家のように血統を気にしない家は稀だからな」
「そうですよね」
「あの子どもはアルトナーが引き取りたいと言っている」
「アルトナーが?」

 それは思いもしなかったわ。そりゃあクラウス様のお子だから血は継いでいるけれど、クラウス様は罪人として捕まったわ。今度こそ処刑は免れない。そんな父親を持つ子を? アルトナー侯爵が受け入れるの?

「アルトナーの当主には娘一人しかいない。夫人は難産で次の子を望めないが当主は第二夫人を拒んでいる」
「じゃ、本気で?」
「ああ。ただし表立ってはクラウスの子ではなく前当主の隠し子の子として引き取るそうだ」

 それで大丈夫なのかしら? そりゃあクラウス様のお子だから血は濃いけれど、罪人の子よ? それに姉の評判は悪いし婚外子。そんな子を引き取るなんて夫人としては面白くないんじゃ……

「心配ない。望んでいるのは夫人だ。第二夫人を娶られるよりはマシだと思っているのだろう」

 確かに第二夫人を娶るとなると面倒よね。第二夫人が男児を生めば実家が黙っていないだろうし、そうなれば夫人の立場は一層悪くなってしまう。それよりは……ってことかしら。



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