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兄の廃嫡

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 エルマ様たちとのお茶会から十日が経った。エルマ様とギレッセン様のことは下手に口を出せないだけに余計に心配が募ったけれど、お二人の式は二月後に迫っている。今になってまた婚約者を変更になるなんてことはない、わよね? そう願いたいけれどわからないわ、私も直前に解消になっているから。全く、恋情とは厄介ね。エルマ様もお姉様が跡を継がれていたらもっと穏やに過ごせたでしょうに。

 一方で私はリーゼ様に言われたことが気になっていた。ヴォルフ様に恋をするなんて思いもしなかったけれど夫婦になったのならいいのかしら、と思う気持ちが生まれていた。確かにヴォルフ様は感情を表さないし私たちの間には世間で言う甘い空気なんて存在していないけれど、お優しいし私の気持ちも気遣って下さる。閨だって身勝手な男性は自分優先だって聞いていたけれどヴォルフ様はそんなことはない、と思う。多分……

 でも、もし好きになったらヴォルフ様との約束を破ることにならないかしら。そう思ったら急に気持ちが冷えた気がした。せっかく信用して下さるようになったのにそれを失ってしまうかもしれない、そんな気がしたから。

 やっぱりダメだわ。それにもしそうなったとしてもそれは私の片想いでしかない。ヴォルフ様から気持ちが返ってくることがなければ不毛だし、そうなって今のこの心地よさを失いたくない。余計な感情を持たなくてもヴォルフ様の妻は私で、子を産むのも私だもの。それで十分だとの結論に達してそれ以上考えることをやめた。

 それよりもお義姉様から手紙が来てそっちの方が問題だった。兄が毎日のようにどこかに出かけているらしく夜遅くに帰って来るのだと知らせてくれた。ヴォルフ様に話をすると兄が通っているのは商人らが集まる倶楽部で、事業の損失を埋めるためにあちこちに声をかけているのだという。

「そんなに無節操に声をかけて、大丈夫なのでしょうか……」

 疑り深いくせにあっさり騙された兄だから不安しかなかった。焦っているのでしょうけれど、これ以上損失を出されたらさすがに実家が潰れてしまうわ。お義姉様のためにもそれは避けたいのに。

「あれが誰と何をしているかは監視している」

 さすがはヴォルフ様ね。その言葉にほっとしたわ。でも……ヴォルフ様から聞いた話は全く安心出来るものではなかった。

「そうですか。やはり兄は……」
「廃嫡する」

 私が言う前にその先を言われてしまったわ。言うのを躊躇ってしまったことに気付かれてしまったかしら。こんな弱気な態度ではゾルガー夫人として相応しくないと思われてしまったかもしれない。もっと強くならないと……

「無理はしなくていい。言い難いことは俺に言わせればいい」
「ですが……」
「俺には痛む心がないから問題ない。今回は家族のことだ。決断し難いことは理解している」

 もしかして私のためにそんな風に言って下さっているのかしら。

「お前は度胸もあって気も強いが、まだ世に出たばかりだ。それに汚い世界に触れて生きてきたわけでもない。いきなり俺と同等なことが出来るとは思っていない。フレディもそうだ。荷が重いと思うことは俺にやらせればいい」

 その言葉に目の奥が痛くなった。大丈夫だと、自分のペースでいいと言われているようで安堵が胸に広がる。感情がわからないなんて信じられないわ。

「ありがとうございます。きっと追いつきますから、それまではよろしくお願いします」
「だから気負わなくてもいい。無理に汚れる必要もない」

 それはヴォルフ様が汚れているという意味なのかしら? そんなことはないわ。貴族社会に混乱を招かないよう秘密裏に手を下すのは不要な混乱を避けるためだもの。実家がこのまま破産すれば多くの取引先に損害を与えてしまうし、そのせいで関係者には相当な迷惑をかける。それに使用人や民にもしなくてもいい苦労を掛けてしまう。それを回避するために誰にも知られないように手を汚すことを汚れるなんて言葉で片付けたくない。綺麗ごとだけでは世の中は回らないもの。

 それからはヴォルフ様が兄の廃嫡に向けて動き出して、私はお義姉様を呼んでその旨を話した。お義姉様も前回の訪問で覚悟は出来ていたらしく、寂しそうな笑顔で了承して下さった。あんな兄でも夫婦として二人の間には私にはわからない何かがあるのでしょうね。

 それから三日後、ヴォルフ様は父を呼び出した。婚姻式以来なのに少し見ない間に一層父が老け込んでいた。それだけ実家の状況がよくないのでしょうね。兄が新たな事業相手を必死に探しているけれどいい返事は未だに貰えないと聞く。一方で怪しげな者たちに誘われているとも。

「ガウス伯爵、長男は廃嫡しろ」
「……それは、決定でございますか」
「そうだ。今回の被害は甚大だ。なのに実効性のある対策を考えられなかっただけでなくまた怪しい商人に騙されている。被害が出る前に廃嫡しろ」

 ヴォルフ様が淡々と告げる言葉を父は顔を青くして聞いていたけれど、最後には大きく力を落として俯いてしまった。手が小さく震えている。兄には愛情があったのかしら。

「わ、私が責任を取って爵位を……」
「嫡男に爵位を譲っても一層状況は悪くなるだけだ」
「……かしこまり、ました……」

 絞り出すように父が答えた。父もわかっているのでしょうね、兄では無理だと。父も出来る当主ではなかったけれど、それでもワイン事業は順調であんな怪しい商会と手を結ぶようなことはしなかった。当主としては父の方がまだマシだった。

「しかし……あれが納得するか……」

 確かにあの兄に納得させるのは大変でしょうね。いえ、何を言っても納得しそうにないわ。

「納得しなければ、これを使え」

 そう言うとヴォルフ様が小さな小瓶を懐から取り出してテーブルに置いた。手のひらに隠れてしまうほどの小さな薄灰色のガラスで出来たそれは静かにその存在を主張していた。

「飲めば高熱が出て、熱が下がった後は手足に麻痺が残る」
「これ、が……」

 子どもがかかる病気の一つに、大人になってからかかると重症化して麻痺が残るものがある。それと変わらない症状と経過になる毒があると貴族なら一度は耳にしたことがあるものだった。

「どうしてもと言うならこれを飲ませろ。手足が不自由になれば廃嫡するしかなくなる」

 父は茫然とガラス瓶を見つめていた。これは兄をあんな風に育てた責任を取れという意味かしら。

「使わないなら返してもらう。この薬は王家が管理しているものだ」
「……かしこまりました」

 重苦しい空気の中、父はそう言って瓶を手にした。屋敷を後にする父の背は丸く、随分小さくなったように見えた。そこには私が恐れていた昔の父の面影は見つからなかった。



 それから十日後、兄が高熱を出して寝込んだとお義姉様から連絡があった。父の説得は功を成さなかったのだと悟った。こうなることがわかっていたし納得もしていたけれど、いざそうなると胸がざわついたのはわずかに残っていた家族の情だったのかもしれない。



 一方、そうしている間に姉の方にも動きがあった。兄が熱を出したとの連絡があった翌日、姉から私宛に手紙が届いたのだ。その中身を読んだ私は直ぐにヴォルフ様の執務室に向かった。

「どうした?」
「姉の元にクラウス様から手紙が届いたそうです。姉の手紙にそのように……」

 そう言いながら姉からの手紙をヴォルフ様に渡すと、ヴォルフ様が手に取って文字を追った。その中にはクラウス様から、会いたい、腹の子は俺の子か? あれからずっと気にしていたなどの文字が並んでいた。

「そう、か。一度会いに行くか?」
「よろしいのですか?」
「ああ。姉の様子をこの目で確かめたいと思っていたところだ。都合のいい日を知らせろと返せ」
「わかりましたわ」

 返事を送ると翌日返事が届いた。いつでもいいというのでヴォルフ様が五日後を指定した。




 姉の元に向かうその日、私は飾りが少ない濃緑のシンプルなデイドレスを纏い、宝飾品も控えて地味な格好にした。妊娠中の姉を刺激したくなかったから。

「お待たせしました」

 今日の供のザーラとマルガと共に玄関ホールに向かうと、ティオとアベル、護衛の騎士が八人待っていた。だけど……

「ティオ、ヴォルフ様は?」

 肝心のヴォルフ様の姿がないわ。一緒に行くと仰っていたわよね?

「ここだ、イルーゼ」
「え?」

 声の発した方に視線を向けて、思わず息を呑んだ。



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