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未来の義甥との昼食
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夫人教育を再開して三日目の朝、夜闇が白闇へと移り変わる中を姉を乗せた家紋なしの馬車が静かに領地へと向かった。共に向かうのは母と姉と母の侍女が一人ずつ、ゾルガー家から派遣された侍女と医師見習い、我が家とゾルガー家の護衛が三人ずつ。二台の馬車でひっそりと隠れるように王都を後にした。病気療養のための三日間の旅程は人目を避けたものになるだろう。これまで観光気分で派手に旅していた姉にとっては初めてのものになるはずだ。
私も父と共に見送りに出たけれど、姉は私とは言葉どころか視線すらも合わせなかった。立場が逆転した今を受け入れられないのか、合わせる顔がないと恥じているのか……最後まで姉の気持ちはわからないままだったわ。
「最後まで、イルーゼ様に謝罪されませんでしたね」
「ええ、相変わらずでしたね」
「そうね」
父は早々に部屋に戻り、ここにはロッテとバナンしかいない。二人とも姉の態度に思うところはあるのだろうけど、大人しく領地に向かってくれただけで御の字だと思う。もしかしたら最後の最後でごねるかもしれないと思ったから。
でも、もしそうなったら姉は生涯幽閉か、最悪毒を得ることになるのでしょうね。ヴォルフ様にはそれだけの力があり、その時には父が抵抗しても無駄なのでしょう。そうならないためにも父は必死に母と姉に言い聞かせていた。その労力が水の泡にならないことを祈りたいわ。
その日もいつも通りにゾルガー邸に向かった。今日は五侯爵家の会議があるそうでヴォルフ様は不在だったけれど問題はない。教育は主にブレンや侍女頭のスージーが担ってくれるからヴォルフ様とは昼食やお茶の時間に顔を合わせるだけだけど、今日はフレディ様から昼食を共にと声をかけられた。三人で共にすることはあるけれど、二人は随分久しぶりだわ。だから最初にあの騒動のことを謝罪した。
「フィリーネは、大丈夫なのか?」
返ってきたのは意外にも姉を案じる言葉だった。
「ありがとうございます。幸い依存症は大したことがなかったようです。ルーザー先生のお薬があれば普段と変わりなく過ごしていますわ」
「そうか……すまなかった。俺が、ちゃんと向き合っていたらこんなことには……」
「そんな! フレディ様のせいではありませんわ」
まさか謝罪されるとは思わなかったわ。でもそうなったのも姉に問題があったせいだもの。フレディ様の婚約者になって増長したのだから。
「いや、最初に拒絶したのは俺の方だった。その……令嬢が苦手だったから……」
フレディ様は幼い頃から令嬢に追いかけられていて苦手意識があったが、姉は婚約者に選ばれた途端フレディ様にベタベタしはじめたのだとか。夜会では給仕に対し威圧的に詰っている姿を見て、その二面性に恐怖を感じ避けてしまったのだと。
でもフレディ様が姉に嫌悪感を持っても仕方ないわ。重ねてお詫びを告げるとフレディ様は納得していないようだったけれど、そんな風に思って下さっただけでもあの姉には過ぎたことだと思う。姉は未だに反省していないように見えるもの。フレディ様はちゃんと反省して前を向いているのね。
「叔父上とはどうだろう? 会話は出来ているのか?」
「え?」
姉への謝罪も意外だったけれど、まさかヴォルフ様とのことを聞かれるとは思わなかったわ。
「いや、その……叔父上は表情が変わらないしあの口調だろう? ちゃんと話が出来ているのかと思って」
視線を逸らして言い難そうにしている姿に思わずじっと見てしまった。フレディ様からそんな風に言われるなんて思いもしなかったわ。
「だ、大丈夫ですわ。ヴォルフ様はちゃんと私の話を聞いて下さいます。私の父なんかよりもずっとですわ」
「そ、そうか」
思わず早口になってしまったけれど、フレディ様が安堵の表情を向けてきた。
「叔父上はその……子供の頃に苦労されたせいで……心に傷を負われていて……」
躊躇いながらも私の反応を窺うように告げられた言葉に驚いた。あの超然としたヴォルフ様が心に、傷?
「……それは、一体……」
そんな極めて個人的なことを聞いていいのかとの戸惑いよりも信じられない思いが勝った。誰よりも強く傷つくことなどなさそうなヴォルフ様が? とてもそんな風に見えないのだけど……
「すまない、詳しいことを俺から言うのは……だが叔父上は世間で言われるような非情な方じゃない。君は……俺の両親のことは知っているか?」
「……そう、ですね。世間で言われている程度のことは」
それはフレディ様のお父様が駆け落ちした話ね。確か学園にいた頃から恋人がいたけれど相手は身分が低い方だったとか。ゾルガー当主と王女を両親に持つお父様との結婚は絶望的だったと。お父様は決められた女性と結婚したけれどそれに耐えられず駆け落ちしたと聞くわ。市井で暮らしている間に生まれたのがフレディ様だったとも。
「本来なら跡継ぎになれる立場ではなかった俺を叔父上は後継として育ててくれた。だが、俺の弱さのせいでその期待を裏切ってしまった……」
眉の間に皴を刻む姿には深い自責の念が滲んでいるように見えた。彼は後継となろうと努力していたのでしょうね。その努力は実を結ばなかったけれど。
「俺は叔父上に一生かかっても返せない恩がある。そんな俺がこんなことを言うのは図々しかもしれないが……君には叔父上のことを誤解して欲しくなくて……」
目を泳がせて語る様子に驚いてしまったわ。もしかして物凄く緊張している? これが言いたくて昼食に誘ったのかしら?
「そう、ですか。でも……わかりますわ」
「え?」
「フレディ様の言われたこと、私もわかります。ヴォルフ様は私の言葉をちゃんと聞いて下さいましたから」
そう、初めて妻にして欲しいと押しかけた時もヴォルフ様はちゃんと私の言葉に耳を傾けてくれたわ。父や母だって私の話なんかろくに聞いてくれなかったのに。あの時のことを思い出したら恥ずかしさと共に温かいものが胸を満たして頬が緩んでしまったわ。
「フレディ様、私は姉に比べて可愛げがないと家では放っておかれました。誰も私の話を聞いてくれませんでしたが、ヴォルフ様は初対面の時も私の話を聞いて下さいました」
「そ、そうか」
「ヴォルフ様はお優しいと私も思います。だから誠心誠意ヴォルフ様にお仕えしたいと、そう思っていますわ」
自然と笑顔が出てしまったわ。この会話が凄く心地いい。後継争いの噂もあったからお二人は不仲だと思っていたけれど、本当は全く違ったのね。
「そう言ってくれて……嬉しいよ。俺はこの家の後継には向いていない。だから叔父上の手伝いをしていきたいと思っている。それを君にも伝えておきたかったんだ」
ああ、私が嫁いだ後で余計な火種になるのを心配されていたのね。やっぱりフレディ様も優しいわね。
「そう言って頂けると私も心強いですわ。ゾルガー家の当主は大変な立場ですもの。どうかヴォルフ様をお支え下さい。私からもお願い申し上げますわ」
「あ、ありがとう」
フレディ様が笑顔を私に向けたわ。初めてじゃないかしら。彼も不安だったってことかしら?
「よかったよ。君の子と後継争いをする気はなかったからね」
「え? あ……」
そう言うことね。考えてもいなかったけれど……でも、後継争いで兄弟が殺し合うなんてことも珍しくはないものね。でもその心配はないと。フレディ様はそれを言いたかったのね。
私も父と共に見送りに出たけれど、姉は私とは言葉どころか視線すらも合わせなかった。立場が逆転した今を受け入れられないのか、合わせる顔がないと恥じているのか……最後まで姉の気持ちはわからないままだったわ。
「最後まで、イルーゼ様に謝罪されませんでしたね」
「ええ、相変わらずでしたね」
「そうね」
父は早々に部屋に戻り、ここにはロッテとバナンしかいない。二人とも姉の態度に思うところはあるのだろうけど、大人しく領地に向かってくれただけで御の字だと思う。もしかしたら最後の最後でごねるかもしれないと思ったから。
でも、もしそうなったら姉は生涯幽閉か、最悪毒を得ることになるのでしょうね。ヴォルフ様にはそれだけの力があり、その時には父が抵抗しても無駄なのでしょう。そうならないためにも父は必死に母と姉に言い聞かせていた。その労力が水の泡にならないことを祈りたいわ。
その日もいつも通りにゾルガー邸に向かった。今日は五侯爵家の会議があるそうでヴォルフ様は不在だったけれど問題はない。教育は主にブレンや侍女頭のスージーが担ってくれるからヴォルフ様とは昼食やお茶の時間に顔を合わせるだけだけど、今日はフレディ様から昼食を共にと声をかけられた。三人で共にすることはあるけれど、二人は随分久しぶりだわ。だから最初にあの騒動のことを謝罪した。
「フィリーネは、大丈夫なのか?」
返ってきたのは意外にも姉を案じる言葉だった。
「ありがとうございます。幸い依存症は大したことがなかったようです。ルーザー先生のお薬があれば普段と変わりなく過ごしていますわ」
「そうか……すまなかった。俺が、ちゃんと向き合っていたらこんなことには……」
「そんな! フレディ様のせいではありませんわ」
まさか謝罪されるとは思わなかったわ。でもそうなったのも姉に問題があったせいだもの。フレディ様の婚約者になって増長したのだから。
「いや、最初に拒絶したのは俺の方だった。その……令嬢が苦手だったから……」
フレディ様は幼い頃から令嬢に追いかけられていて苦手意識があったが、姉は婚約者に選ばれた途端フレディ様にベタベタしはじめたのだとか。夜会では給仕に対し威圧的に詰っている姿を見て、その二面性に恐怖を感じ避けてしまったのだと。
でもフレディ様が姉に嫌悪感を持っても仕方ないわ。重ねてお詫びを告げるとフレディ様は納得していないようだったけれど、そんな風に思って下さっただけでもあの姉には過ぎたことだと思う。姉は未だに反省していないように見えるもの。フレディ様はちゃんと反省して前を向いているのね。
「叔父上とはどうだろう? 会話は出来ているのか?」
「え?」
姉への謝罪も意外だったけれど、まさかヴォルフ様とのことを聞かれるとは思わなかったわ。
「いや、その……叔父上は表情が変わらないしあの口調だろう? ちゃんと話が出来ているのかと思って」
視線を逸らして言い難そうにしている姿に思わずじっと見てしまった。フレディ様からそんな風に言われるなんて思いもしなかったわ。
「だ、大丈夫ですわ。ヴォルフ様はちゃんと私の話を聞いて下さいます。私の父なんかよりもずっとですわ」
「そ、そうか」
思わず早口になってしまったけれど、フレディ様が安堵の表情を向けてきた。
「叔父上はその……子供の頃に苦労されたせいで……心に傷を負われていて……」
躊躇いながらも私の反応を窺うように告げられた言葉に驚いた。あの超然としたヴォルフ様が心に、傷?
「……それは、一体……」
そんな極めて個人的なことを聞いていいのかとの戸惑いよりも信じられない思いが勝った。誰よりも強く傷つくことなどなさそうなヴォルフ様が? とてもそんな風に見えないのだけど……
「すまない、詳しいことを俺から言うのは……だが叔父上は世間で言われるような非情な方じゃない。君は……俺の両親のことは知っているか?」
「……そう、ですね。世間で言われている程度のことは」
それはフレディ様のお父様が駆け落ちした話ね。確か学園にいた頃から恋人がいたけれど相手は身分が低い方だったとか。ゾルガー当主と王女を両親に持つお父様との結婚は絶望的だったと。お父様は決められた女性と結婚したけれどそれに耐えられず駆け落ちしたと聞くわ。市井で暮らしている間に生まれたのがフレディ様だったとも。
「本来なら跡継ぎになれる立場ではなかった俺を叔父上は後継として育ててくれた。だが、俺の弱さのせいでその期待を裏切ってしまった……」
眉の間に皴を刻む姿には深い自責の念が滲んでいるように見えた。彼は後継となろうと努力していたのでしょうね。その努力は実を結ばなかったけれど。
「俺は叔父上に一生かかっても返せない恩がある。そんな俺がこんなことを言うのは図々しかもしれないが……君には叔父上のことを誤解して欲しくなくて……」
目を泳がせて語る様子に驚いてしまったわ。もしかして物凄く緊張している? これが言いたくて昼食に誘ったのかしら?
「そう、ですか。でも……わかりますわ」
「え?」
「フレディ様の言われたこと、私もわかります。ヴォルフ様は私の言葉をちゃんと聞いて下さいましたから」
そう、初めて妻にして欲しいと押しかけた時もヴォルフ様はちゃんと私の言葉に耳を傾けてくれたわ。父や母だって私の話なんかろくに聞いてくれなかったのに。あの時のことを思い出したら恥ずかしさと共に温かいものが胸を満たして頬が緩んでしまったわ。
「フレディ様、私は姉に比べて可愛げがないと家では放っておかれました。誰も私の話を聞いてくれませんでしたが、ヴォルフ様は初対面の時も私の話を聞いて下さいました」
「そ、そうか」
「ヴォルフ様はお優しいと私も思います。だから誠心誠意ヴォルフ様にお仕えしたいと、そう思っていますわ」
自然と笑顔が出てしまったわ。この会話が凄く心地いい。後継争いの噂もあったからお二人は不仲だと思っていたけれど、本当は全く違ったのね。
「そう言ってくれて……嬉しいよ。俺はこの家の後継には向いていない。だから叔父上の手伝いをしていきたいと思っている。それを君にも伝えておきたかったんだ」
ああ、私が嫁いだ後で余計な火種になるのを心配されていたのね。やっぱりフレディ様も優しいわね。
「そう言って頂けると私も心強いですわ。ゾルガー家の当主は大変な立場ですもの。どうかヴォルフ様をお支え下さい。私からもお願い申し上げますわ」
「あ、ありがとう」
フレディ様が笑顔を私に向けたわ。初めてじゃないかしら。彼も不安だったってことかしら?
「よかったよ。君の子と後継争いをする気はなかったからね」
「え? あ……」
そう言うことね。考えてもいなかったけれど……でも、後継争いで兄弟が殺し合うなんてことも珍しくはないものね。でもその心配はないと。フレディ様はそれを言いたかったのね。
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