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姉の処遇
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ヴォルフ様の言葉に父が目と口を大きく開いて固まり、母は両手を口に当てて目を丸くし、姉は無表情でヴォルフ様を見上げていた。何も言わないのはその重みを理解しているからだと思いたいわ。従わなければ私との婚約は我が家有責で破棄、それに共同事業もとなれば……我が家は破滅だわ。
「そっ、それはっ!!」
「麻薬中毒の身内など枷にしかならん。従うならその件はこちらで手を打つが俺も万能ではない。この件を抑えるのがどれほど難しいか理解しているか? ガウス家にそれが出来るか?」
真冬の明け方を思い出させる冷たい声に父が口を開けたまま動きを止めた。瞬きすらも止めた様はまるで古びた人形みたいだった。
「……い、いえ……」
父は目を閉じて小さく頭を左右に振った。どうやっても無理だと悟ったらしい。両親にも姉にもそんな力はないわ。私にも。我が家は娘が『ゾルガー家の婚約者』に選ばれたからちやほやされていただけで、その庇護がなければ何の力もない。
でも……もしこのことが世間に知られたらヴォルフ様も糾弾されて厳しい立場に立たされるのではないかしら? 筆頭侯爵家だからといって何でも出来るわけじゃない。ヴォルフ様が我が家にここまでしてくれる理由がわからないわ。切り捨てた方が絶対に楽だもの。この手も……一体どういうつもりなのかしら。疑問に思うのに手から伝わる体温のせいで頭が上手く回らない……
「従わない者に手を貸せるほど俺も酔狂ではない。出来ぬと言うなら縁を切るだけだ」
このままではガウス家はお終い。それは決定事項。ゾルガー家とシリングス家への慰謝料だけでも相当な額になる。共同事業が頓挫すれば投資した分は不良債権になるし、信用を失った我が家のワインなんか誰も買わなくなるわ。ワインに麻薬が混入しているかもしれない、なんて噂が立つのは目に見えているもの。そうなればあっという間に資金繰りに困って爵位を返上するしかなくなる……
「流行り病となればシリングスも円満白紙しかない。被害を最小に抑えたければ従え。そうすれば貴族でいられる」
従わなければ近い未来に平民落ちってことよね。でも、そうなるのでしょうね。王家にしてみれば王女のサロンに出入りしていた令嬢が麻薬中毒なんて許し難いでしょうから。リシェル様が怪しいと思っても証拠がないからそんなこと口に出来ないのが現実。もしリシェル様の狙いがこれなら……まんまと引っかかってしまった我が家の落ち度だわ。
「既に手は打ってある。言う通りにすれば問題はない」
「て、手を……?」
父の呆然とした声が聞こえたけれど気持ちは同じだった。あれからそれほど日は経っていないわよ。それで手を売ったってことは麻薬のことは以前からご存じだった? まさか姉以外にも被害者がいたとか? わからないことばかりだわ。でも、今はヴォルフ様に縋るしか我が家が生き残る方法はないことだけは確かね。
「一体何を……」
「余計な詮索はするな。領地に行ってもいいと言うまで部屋から出すな。面会もだ。使用人も我が家の者を送るがそれ以外でも決まった者だけを側に置け。時期が来たら連絡する。それまでは徹底しろ」
「……は、はい」
「使用人を……わ、わかりました……」
姉も父も状況を理解したらしい。父は不本意そうだけどゾルガー家の使用人が付いてくれるなら安心だわ。我が家の使用人だけじゃ心許ないもの。父の膝上に乗せた手が強くズボンを握りしめているのが見えた。自分によく似た最愛の娘だったものね。父にとっては我が身のように感じているのかもしれない。
「姉を守りたかったら言う通りにしろ。何度も言うが俺も万能ではない。後で綻びが出そうになったらその時は消すしかなくなる」
「は、はい……」
姉のためと言われたら父は逆らえないわね。この話を受けた以上、勝手な真似をすれば命はないってことね。もう純潔を失った姉に良縁は期待出来ないし、もしかしたらこのまま病気を理由に死ぬまで領地から出られないかもしれないけれど、それも自業自得よ。大人しくハリマン様と結婚すればよかったのだから。こうなったらヴォルフ様にお任せするしかないわ。
「イルーゼ、明日から家に来るように」
驚いて思わず見上げてしまったわ。ヴォルフ様の表情は変わらない。
「え? ですが、婚約は……」
「継続する」
「……は?」
「…………え?」
何と言われたのか直ぐには理解出来なかった。下りてきた言葉は私の想像の真逆だったせいかもしれない。この婚約でヴォルフ様が得るメリットがあったかしら? いえ、こうなってはデメリットしかないわ。ヴォルフ様なら他にいくらでも当てがあるでしょうに……ちらっとリシェル様の姿が浮かんだ。
「どっ、どうしてですか? 姉は薬物中毒ですのよ? それに婚約者以外の男性と関係を持ってしまっています。そんな姉を持つ私はゾルガー家には相応しくありません」
自分で言って情けないけれどそれが現実よ。問題のある姉を持つ私はゾルガー家の夫人に相応しくない。
「問題ないと言っただろう。姉は病にかかっただけだ。俺がそう言えば世間はそうだと受け入れる。俺の妻になるのはお前だ」
最後の言葉に目を瞠った。本当に私が妻に? いつの間にか手が離れていた。そのことを寂しく感じる自分がいたけれど、貰った言葉は心を温めてくれた。
「姉の側に置く使用人は信用出来る者か裏切れない者に絞れ。困っている使用人に法外な援助の一つもしてやれば一生忠誠を誓うだろう」
「は、はい」
父が返事をしたけれど……これはバナンと相談した方がいいかもしれないわね。父じゃ当てにならないもの。いえ、領地なら兄の方が適任かしら?
「フィリーネよ」
「は、はい……」
俯いていた姉がゆっくり顔を上げた。警戒を露わにしているのは罵倒されると思っているからかしら。でもこの状況ではそうなっても仕方がないものね。これまでの行動を思えば率先して騎士団に付き出されても文句は言えないもの。
「心して過ごせ。大人しくしていればいずれ戻れるかもしれん。が、当分は無理だと心得ろ。貴族でいたければ指示に従え」
「……はい」
プライドが高く贅沢に慣れた姉は平民落ちなど受け入れ難いはず。だったら従うしかないわ。それは姉にとっては最高の枷になる。死ぬまでとヴォルフ様は言わなかったから、そこに希望を見出して我慢するしかないもの。
領地に送る際の指示を出した後、ヴォルフ様は帰っていった。わからないことばかりだけど婚約破棄にはならなかったし、姉のことも対応して下さるという。命拾いしたのよね? 慰謝料が払えないから平民になるしかないと思っていただけにまだ信じられないけれど。馬車を見送った私の前には魂が抜けたような父がよろよろと部屋に向かっていくのが見えた。そう言えばこの父がよく姉の行動を記録しようなんて思い付いたわね。不思議に思って側にいたバナンに尋ねてみた。
「あれは私が独断で記録していたものなのです」
苦笑と共に告げられた言葉に納得した。やっぱり。
あの父にそんな気の利くことなど出来ないわよね。
「ありがとうバナン。お陰で家の名誉が守れたわ」
礼を言うとバナンが黙って一礼した。この家が何とか回っているのも彼のお陰だわ。父が何もしていないどころか娘の動向すら把握していないなんて知られたら恥ずかしいどころの話じゃなかったもの。もっともヴォルフ様には見透かされている気がするけれど。あとは両親と姉がどこまで真摯に対応するかよね。三人そろって領地に隔離できたらいいのに……
婚約が継続されるなんて、まだ信じられない気分だわ。部屋に戻ってザーラに間違いじゃないか尋ねたい。右手に残った熱の名残だけが妙に鮮やかに残っていた。
「そっ、それはっ!!」
「麻薬中毒の身内など枷にしかならん。従うならその件はこちらで手を打つが俺も万能ではない。この件を抑えるのがどれほど難しいか理解しているか? ガウス家にそれが出来るか?」
真冬の明け方を思い出させる冷たい声に父が口を開けたまま動きを止めた。瞬きすらも止めた様はまるで古びた人形みたいだった。
「……い、いえ……」
父は目を閉じて小さく頭を左右に振った。どうやっても無理だと悟ったらしい。両親にも姉にもそんな力はないわ。私にも。我が家は娘が『ゾルガー家の婚約者』に選ばれたからちやほやされていただけで、その庇護がなければ何の力もない。
でも……もしこのことが世間に知られたらヴォルフ様も糾弾されて厳しい立場に立たされるのではないかしら? 筆頭侯爵家だからといって何でも出来るわけじゃない。ヴォルフ様が我が家にここまでしてくれる理由がわからないわ。切り捨てた方が絶対に楽だもの。この手も……一体どういうつもりなのかしら。疑問に思うのに手から伝わる体温のせいで頭が上手く回らない……
「従わない者に手を貸せるほど俺も酔狂ではない。出来ぬと言うなら縁を切るだけだ」
このままではガウス家はお終い。それは決定事項。ゾルガー家とシリングス家への慰謝料だけでも相当な額になる。共同事業が頓挫すれば投資した分は不良債権になるし、信用を失った我が家のワインなんか誰も買わなくなるわ。ワインに麻薬が混入しているかもしれない、なんて噂が立つのは目に見えているもの。そうなればあっという間に資金繰りに困って爵位を返上するしかなくなる……
「流行り病となればシリングスも円満白紙しかない。被害を最小に抑えたければ従え。そうすれば貴族でいられる」
従わなければ近い未来に平民落ちってことよね。でも、そうなるのでしょうね。王家にしてみれば王女のサロンに出入りしていた令嬢が麻薬中毒なんて許し難いでしょうから。リシェル様が怪しいと思っても証拠がないからそんなこと口に出来ないのが現実。もしリシェル様の狙いがこれなら……まんまと引っかかってしまった我が家の落ち度だわ。
「既に手は打ってある。言う通りにすれば問題はない」
「て、手を……?」
父の呆然とした声が聞こえたけれど気持ちは同じだった。あれからそれほど日は経っていないわよ。それで手を売ったってことは麻薬のことは以前からご存じだった? まさか姉以外にも被害者がいたとか? わからないことばかりだわ。でも、今はヴォルフ様に縋るしか我が家が生き残る方法はないことだけは確かね。
「一体何を……」
「余計な詮索はするな。領地に行ってもいいと言うまで部屋から出すな。面会もだ。使用人も我が家の者を送るがそれ以外でも決まった者だけを側に置け。時期が来たら連絡する。それまでは徹底しろ」
「……は、はい」
「使用人を……わ、わかりました……」
姉も父も状況を理解したらしい。父は不本意そうだけどゾルガー家の使用人が付いてくれるなら安心だわ。我が家の使用人だけじゃ心許ないもの。父の膝上に乗せた手が強くズボンを握りしめているのが見えた。自分によく似た最愛の娘だったものね。父にとっては我が身のように感じているのかもしれない。
「姉を守りたかったら言う通りにしろ。何度も言うが俺も万能ではない。後で綻びが出そうになったらその時は消すしかなくなる」
「は、はい……」
姉のためと言われたら父は逆らえないわね。この話を受けた以上、勝手な真似をすれば命はないってことね。もう純潔を失った姉に良縁は期待出来ないし、もしかしたらこのまま病気を理由に死ぬまで領地から出られないかもしれないけれど、それも自業自得よ。大人しくハリマン様と結婚すればよかったのだから。こうなったらヴォルフ様にお任せするしかないわ。
「イルーゼ、明日から家に来るように」
驚いて思わず見上げてしまったわ。ヴォルフ様の表情は変わらない。
「え? ですが、婚約は……」
「継続する」
「……は?」
「…………え?」
何と言われたのか直ぐには理解出来なかった。下りてきた言葉は私の想像の真逆だったせいかもしれない。この婚約でヴォルフ様が得るメリットがあったかしら? いえ、こうなってはデメリットしかないわ。ヴォルフ様なら他にいくらでも当てがあるでしょうに……ちらっとリシェル様の姿が浮かんだ。
「どっ、どうしてですか? 姉は薬物中毒ですのよ? それに婚約者以外の男性と関係を持ってしまっています。そんな姉を持つ私はゾルガー家には相応しくありません」
自分で言って情けないけれどそれが現実よ。問題のある姉を持つ私はゾルガー家の夫人に相応しくない。
「問題ないと言っただろう。姉は病にかかっただけだ。俺がそう言えば世間はそうだと受け入れる。俺の妻になるのはお前だ」
最後の言葉に目を瞠った。本当に私が妻に? いつの間にか手が離れていた。そのことを寂しく感じる自分がいたけれど、貰った言葉は心を温めてくれた。
「姉の側に置く使用人は信用出来る者か裏切れない者に絞れ。困っている使用人に法外な援助の一つもしてやれば一生忠誠を誓うだろう」
「は、はい」
父が返事をしたけれど……これはバナンと相談した方がいいかもしれないわね。父じゃ当てにならないもの。いえ、領地なら兄の方が適任かしら?
「フィリーネよ」
「は、はい……」
俯いていた姉がゆっくり顔を上げた。警戒を露わにしているのは罵倒されると思っているからかしら。でもこの状況ではそうなっても仕方がないものね。これまでの行動を思えば率先して騎士団に付き出されても文句は言えないもの。
「心して過ごせ。大人しくしていればいずれ戻れるかもしれん。が、当分は無理だと心得ろ。貴族でいたければ指示に従え」
「……はい」
プライドが高く贅沢に慣れた姉は平民落ちなど受け入れ難いはず。だったら従うしかないわ。それは姉にとっては最高の枷になる。死ぬまでとヴォルフ様は言わなかったから、そこに希望を見出して我慢するしかないもの。
領地に送る際の指示を出した後、ヴォルフ様は帰っていった。わからないことばかりだけど婚約破棄にはならなかったし、姉のことも対応して下さるという。命拾いしたのよね? 慰謝料が払えないから平民になるしかないと思っていただけにまだ信じられないけれど。馬車を見送った私の前には魂が抜けたような父がよろよろと部屋に向かっていくのが見えた。そう言えばこの父がよく姉の行動を記録しようなんて思い付いたわね。不思議に思って側にいたバナンに尋ねてみた。
「あれは私が独断で記録していたものなのです」
苦笑と共に告げられた言葉に納得した。やっぱり。
あの父にそんな気の利くことなど出来ないわよね。
「ありがとうバナン。お陰で家の名誉が守れたわ」
礼を言うとバナンが黙って一礼した。この家が何とか回っているのも彼のお陰だわ。父が何もしていないどころか娘の動向すら把握していないなんて知られたら恥ずかしいどころの話じゃなかったもの。もっともヴォルフ様には見透かされている気がするけれど。あとは両親と姉がどこまで真摯に対応するかよね。三人そろって領地に隔離できたらいいのに……
婚約が継続されるなんて、まだ信じられない気分だわ。部屋に戻ってザーラに間違いじゃないか尋ねたい。右手に残った熱の名残だけが妙に鮮やかに残っていた。
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