あなたに愛や恋は求めません【書籍化】

灰銀猫

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侯爵夫人教育

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 翌日、侯爵夫人としての教育を受けるため侯爵家に向かった。殆ど接点がないフレディ様と一緒だから気が重いけれど、これから家族になれば付き合いも増える。この間に普通に会話が出来るくらいにはなりたかった。

 案内されたのはヴォルフ様の執務室の向かい側にある部屋だった。ここはヴォルフ様を手伝う使用人たちの仕事場で、ヴォルフ様の執務室と同じくらいの広さがあった。左側には執務用の机が三つ並び、右側の奥には二人掛けのソファが二つテーブルを挟んで置かれ、壁側にも一人掛けのソファがある。ここは休憩用かしら? 壁は全て棚になっていて、中身は見えないけれど多分この家に関する資料が収められているのだろう。内装はヴォルフ様の執務室と同じだけど、置かれた調度類でここが使用人用だと物語っていた。

 ソファに案内されると二人掛けのソファに案内されて、ザーラがお茶を淹れてくれた。

「ヴォルフ様はいらっしゃるの?」
「旦那様は王宮です」
「王宮?」
「はい。陛下から登城要請がございました。それに五侯爵家の会議も開かれるそうです」
「会議を……」

 五侯爵家の会議はこの国の方向性を決める重要な会議だと聞いている。本当にお忙しいのね。

 暫くするとフレディ様がやって来たわ。お会いするのはあの夜会以来ね。あの時は簡単な挨拶しか出来なかったけれど、そう言えば彼は私が叔父の婚約者になったことをどう思っているのかしら? 聞きたいけれどまだそんな段階じゃないわね。

「今日は、よろしくお願いいたします」

 向かい側のソファまでやって来たフレディ様に立ち上がって挨拶すると、気を使わなくていいと制された。そのまま共にソファに腰を下ろすと、ティオがフレディ様にお茶を淹れて渡した。

「今日からお二人にはゾルガー侯爵家の領地経営をお手伝い頂きます。今日は簡単に領地の特徴についてご説明させて頂きます」

 ティオのその言葉から始まった勉強会。講師はティオと夜会でヴォルフ様に付いていたブレン、昨日訪問した際にヴォルフ様の指示を受けていた赤毛の従者だった。赤毛の青年はアベルと名乗り、三人の中では一番体格がよく若かった。それでも私よりも十は上だろうか?

 彼らの説明からゾルガー家の領地の広大さと産業の多様さを知った。領地は我が国の南東に位置し、領邸までは馬車で三日かかるという。地図で見せてもらったけれど我が家の三倍はありそうだし、領邸のある街は大きな川の近くにある国内で三番目の規模だ。ちなみに二番目に大きな街はそこから更に南にあるゾルガー領内の街で、ここは海に面していて交易の要所になっている。
 産業の主軸は交易と豊かな農地に由来する穀物だった。最近はワインの醸造に力を入れているとか。実家と縁を結んだのも元はこのワインの技術提携のためだったわね。他にも野菜や果物の栽培、酪農、絹や綿織物にも力を入れていると言う。変わったものでは薬草や馬車の製造で、どちらも国内でも一、二を争うほどだった。そう言えば侯爵家の馬車はどれも乗り心地がよくて快適だったわ。
 フレディ様は真剣に話を聞き、時々質問をしていたけれど、私は残念ながら何かを質問出来るような状態ではなかった。学園で領地経営の特別授業は受けたけれど私は淑女科、領地経営を専門に学ぶ領主科だったフレディ様には遠く及ばないわ。これでは領地経営でお手伝いできることなどないかもしれない。やる気だけでは無理なのね。でも諦めたくないわ。先は長いもの、今からでも勉強すればいいわよね。

 お昼までは概要の説明が続いた。昼食はどうするのかと思ったらフレディ様とテラスでどうかとティオに勧められてしまったわ。殆ど交流がなかったので戸惑うけれど、仲良くなる機会でもあるわね。この家に馴染むためにもお受けしたわ。

 出された料理はさすが筆頭侯爵家と感心するほどに美味しかった。フレディ様と私では量が違うのはティオの気遣いかしら。フレディ様のは私の倍以上はあるわよ。

「フレディ様はたくさんお食べになるのですね」

 何か話しかけなければと色々考えたけれど、出てきたのはそんな言葉だった。もっと気の利いた言葉が出てこないのかしらと自分がちょっと残念に思えたけれど、家族やハリマン様、教師以外の男性と話す機会がなかったのよ。淑女科は令嬢しかいないし。

「……どうだろうか? これが普通だと思っていた」

 視線を合わせることもなくそう言いながらフォークを口元に運んでいく。

「……そうですか」

 ううっ、話が先に続かないわ。フレディ様はあまり話をする方ではないと聞いたけれど、思った以上かもしれない。沈黙が苦しいけれどちゃんと私から話しかけたわよ。とにかく会うたびに一言は話しかけるようにするわ。女性が苦手のようだから急に馴れ馴れしくしても嫌がられそうだし。

「…………ないのか?」

 再びフレディ様の声を聴いたのは食後のお茶をティオが淹れてくれた時だった。彼から声をかけてくるとは思っていなかったから油断していたし声が小さくて聞こえなかった。

「え?」

 意外過ぎて思わず視線を向けたら目が合ってしまった。初めてではないかしら、視線が合ったのは。ヴォルフ様と同じ緑色かと思ったけれどフレディ様の方が少し薄くて暗い感じがするわ。

「あなたは叔父との婚約が嫌ではないのか?」

 もう一度掛けられた質問ははっきり耳に届いたけれど、それを尋ねられるとは思わなかったわ。でも、結婚すれば彼の義理の叔母になる。同じ年で叔母と甥だなんて変な感じね。

「嫌だと思ったことは一度もありませんわ。むしろ光栄です」

 そう答えると眉間に微かに皴が出来た。もしかして権力目的と思われたかしら? 

「シリングス公爵令息は姉と想い合っておりましたから。二人の邪魔をしなくて済んだ安堵の方が大きいのです」
「……そう、か」

 彼はまだハッセ様への想いを捨てきれていないだろうから、こう言えば納得しそうよね。事実でもあるけれど。

「貴族の結婚は政略が殆どです。ですが互いに誠実に向き合えば信頼関係を築くことは可能でしょう。ヴォルフ様とそうなればと思っていますわ」

 フレディ様の目が大きく開いて私を見た。でもそれが現実なのよ。恋情で結ばれても死ぬまで仲良く過ごせるとは限らないし。

「君は……いや、何でもない」

 視線を落とした様子からは何でもないようには見えないけれど、フレディ様のお父様は政略結婚に耐え切れず出奔なさったし、フレディ様もハッセ様に想いを寄せて姉との交流を拒んでいた。理よりも情が先に来るのでしょうね。それが悪いとは言わないけれど、貴族として生きるのは辛そうだわ。

「お二方、そろそろよろしいですか? 午後からはフレディ様は実務を少しずつ見て覚えて頂きたいとの旦那様の仰せです」

 ティオが休憩時間の終わりを告げた。

「イルーゼ様はゾルガー家の家政についてお話させて頂いてもよろしいですか?」
「ええ、もちろんよ」

 実際嫁いだら家政が私の主な仕事になる。だったらそちらを優先すべきよね。

「ではイルーゼ様は旦那様の執務室に移動願えますか?」
「ヴォルフ様の執務室に?」
「はい。旦那様はまだお帰りになりませんがあちらの部屋で侍女頭も交えてご説明させて頂きます」
「わかりましたわ」

 同じ部屋では声が重なってやりにくいものね。私は立ち上がってヴォルフ様の執務室に歩を進めた。

「…………叔父上は……優しい方だよ」

 すれ違いざまフレディ様の小さな声が届いた。思わず振り返ったけれど、彼は私に背を向けていてその表情はわからなかった。




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