スピカを探してー海鷲の初恋ー

ちい

文字の大きさ
上 下
7 / 20

第7話 雛鳥は親鳥を信じてしまう

しおりを挟む
 俺と尾上の出会いは1937年昭和12年。
 日中戦争真っ只中にあって、戦闘機にのりたい、空を飛びたいと大はしゃぎしていた俺は、実戦に至るまで一度も挫折も怖さも知らないままに来てしまっていた。
 空に上がれば、敵機を誰よりも多く撃墜してやるんだと息巻いて、怖いもの知らずもここまで来たら大馬鹿者だなと今思えば恥ずかしくなるほどに若かった。
 当時すでに腕利きの戦闘機乗りとして名をはせていた尾上が実戦配備前の最終訓練担当だと知った時は大喜びで、技を盗んでやるんだと意気揚々と駐機場へ向かった。
 使い慣れた色褪せがところどころにある飛行服をきた眼光の鋭い尾上と向かい合い、俺はこの人を超えるとさえ怖いもの知らずのままだった。
そんな俺を見透かしていた尾上は異様なまでに静かな声色で問うてきた。
「お前、何のために乗る?」
 何を聞かれているのかが最初は全く分からなかった。
 なかなか答えられない俺に、続けて尾上はこう聞いた。
「空に上がってもし列機が敵機をもう少しで墜せるからと、戻れという命令を無視して飛んだとする。 お前は士官あがりの指揮官機としてどうする?」
 強烈な静けさの中に、背筋が寒くなるような迫力のある低い声だった。
「私はそいつも連れて戻ります。 無論敵機は墜とします。」
 仲間を見捨てるなんてことはできないだろうと俺はごく自然に答えた。
 それも満点の回答のはずだと自信満々に答えてしまった。
「お前、戦闘機乗りとして欠陥商品だな。 もう二度と乗らんで良い。」
 尾上は発動機を点検していた整備担当にもう飛ばないから撤収しろと伝えると俺には何も語ることはないというように司令部へ向かってもと来た道を戻っていってしまう。
「ちょっと待ってください! 俺は飛びたい!」
 俺は尾上の背後から声をかけ、すぐに正面に回り込んで行く手をふさいだ。
「弱い搭乗員を錬成する暇は俺にはない。 無為に機体を損なうのも気が引ける、どけ。」 
 尾上は向かい合って立っていた俺に一瞥をくれて、たったの一度も振り返らずに駐機場からあっさりと姿を消してしまった。
「なんなんだよ!」
 百戦錬磨の戦闘機乗りに烙印をおされてしまった俺は生まれて初めて挫折を味わった。
 次の日も、次の日も、俺は尾上のもとへ許可を願い出たが許されることはなかった。
 他の同期の者たちは次々と大空へ飛び立っていくのに、尾上の担当である俺だけが地上から見上げるだけの毎日だ。
 俺は尾上憎しのままで、突き抜けるような蒼い空にすら腹立てていた。
「川村といったか?」
 早坂という上官が、尾上の言いつけ通りに駐機場でひたすらに空を見上げていた俺に話しかけてきた。
 育ちが良いらしいという噂通りの優男で、公家なのかというくらいゆっくりの口調、怒ったところなど見たこともないというほどの穏やかな人柄は尾上とは正反対で、若手からは人気のあった三十路男だ。
「私になんの用事でしょうか?」
 俺は無礼にも無礼を重ね、立ち上がりもせずに不貞腐れたままでいた。
「なるほど、尾上が気に入りそうな雛だな。」
「なんですか、それ。」
 雛だなんていわれて気持ちが良いわけがなかった。
 早坂は苦笑いすると、わずかに首をかしげてこう言った。
「この戦時下に一刻も早く優秀な戦闘機乗りを数多く、いや、何でもかんでも育て上げろと、獲得しろという航空隊の風土にあって、尾上がこの度は君一人しか見ないと宣言した意味を本当にわかっているか?」 
「知りませんよ、そんなもん。」
 当時の俺は上官に対する口の利き方も知らず、尾上以上に怖いものがなかっただけに早坂のことを完全になめていたように思う。
だが、早坂はそんな俺の様子を微塵も気にする様子もなく面倒見のよい笑顔を浮かべ、すぐそばに腰を下ろした。
 若気の至りとはよく言ったものだが、早坂がすぐそばに座ってくることにすら俺は苛立っていた。
尾上が求めている物を俺が解明できないままは哀れだと、まるで子供に諭すようにして、謎解きをさせられている気がした。
立ち上がってその場を去ろうとした俺に早坂は静かに座れと命じてきた。
 上官の命令とあっては仕方がなく座りなおしてはみたが、どうにも早坂とは会話がしたくなかった俺は不遜にも背を向けて座っていた。
「なぁ、川村少尉。 群を抜いて出来が良かった君を尾上が預かりたいと言った。 そして、一向に空に上げようとしない。 どれだけ上から早く飛ばせろ、早く仕上げろと尻をたたかれていても尾上は頑として動かない。 何故かな? ……一つ良いことを教えてやろう。 尾上は元来この飛行隊所属ではない。 それなのに、君の担当を願い出た。 はてさて、何故なのか? 戦闘機乗りとして名をはせている尾上が君を特別待遇しているんだ。 これは実に愉快なことだと思うが?」
 早坂は柔らかな微笑みを浮かべているが、知的な目で静かに俺を問い詰めようとする。
「そんなこと知りませんよ! 俺はただ飛びたいだけなんだ!」
 俺は視線の先にあった機体を指さして、声を荒げるしかできなかった。
「何故?」
 そんな様子には見向きもせず、早坂は尾上と同じことを聞いてきた。
もう幾度となく繰り返されている問答だった。
「戦闘機は美しいからです! 空に上がるのが好きで何が悪いのですか! それなのに、俺はずっとここから見上げるしかない! 見てるだけで何にも変わりやしない!」
 もうやけくそだ。
尾上から下された命令は『せいぜいそこから、空を見ていろ。』のみ。
 毎日、毎日、ひたすら、駐機場に腰を下ろして、空を見上げる。
 もう我慢の限界だった上に、別の上官からも同じ問答をされるとはと舌打ちする他ない。
 霞ヶ浦へ来て早1週間。俺の訓練はひたすらに空を見上げるだけ。
繰り返される問答は『何故飛びたいのか?』だけ。
「何も変わらないか……。」
 早坂は何故か大ため息をついて俺の顔を見た。
「では、川村少尉、あの機体をみて思う所はあるか?」
 早坂が頭上を飛んでいる一機の艦戴機を指さす。
 ついさっき、ちょっと重く鈍い音をしていた機体だ。
こう毎日眺めていたら、それぞれの機体の癖がよくわかる。
「発動機とラダーがまずいんじゃないですか? 音が悪いし、風にずいぶんと操縦桿もっていかれてますし。 数日みていますが、俺なら絶対にアレにだけは乗りたくない。」
「へぇ、よく見ているな。 通常の若手なら気づくことはできないだろうよ。」
 早坂は気持ちの良いほどに大笑いした。
 俺はどういう意味の大笑いかわからずに早坂の次の言葉を待っていた。
「いつ何時、どの機体で空へあがるかわからないからこそ、機体の特徴がすぐさまわかる必要がある。 それができてこそ技術を生かせる。 確かに、強い戦闘機乗りは自分が一番で良い。 ただ、それが許されるのは死なないという前提条件を満たしているからだ。 その瞬間の撃墜数は問題じゃない。 敵機を墜としたければ生き続ける他ない。 生きていればそれだけ飛行時間も伸び、飛行技術の習得状況も格段に跳ね上がる。 戦闘機乗りは海軍の財産、つまりは兵器そのものだ。 だが、質の悪いことに心のある兵器ときた。 だから、強くあらねばならんのだよ。」
 早坂ははいていた手袋を脱ぎながら、小さく笑った。
「空に絶対はない。 絶対はないからこそ、考えるんだ。 戦略のない愚かな飛行とは何かな? 生きるために何でもかんでも敵前逃亡しろと言うことではないよ? だが、ここぞという時にのみ己の命を盾にすべきだとは思うがね。 尾上も私も指揮官機にのる身の上だ。 そして、士官あがりの君もいずれは同じ道を歩むだろう。 列機の命を預かり、護る反面、いざという時にはその列機の命を国のために盾にすることさえ選択することになる。 綺麗ごとでは済まないこともあるんだ。 育てる側からの助言をするとしようかな? ただの兵器に手間をかける馬鹿はどこにもいない。 使えない兵器君に状況把握能力をつけさせる訓練はさせないよ。 馬鹿を列機にすえるつもりなんて毛頭ないってことだ。 さて、川村、君は機体の状況をもう把握できるようになったという自覚はあるか?」
 早坂の言葉に俺は息をのんだ。
 確かに、知らず知らずのうちに俺は発動機の音を耳で聞き分けられるようになっていたのだから。
 早坂は面白そうに笑って、こう付け加えた。
「同期として尾上をかばうつもりはないが、尾上は絶対に無駄なことはさせない。 それだけは保証しよう。 さて、話しは以上だが、君は戦闘機にのって何をしたいんだい?」
 肩をぽんぽんとたたかれた瞬間、俺は憑き物が完全に落ちた。
 そして、早坂を押しのけるようにして、尾上のいる指揮所へ駆け出した。
 背後で早坂が大笑いしているのがほんの少し気になったが、もうどうでもよかった。
 埃の匂いのする建物に駆け込んで、尾上がいる部屋へ飛び込んだ。
「尾上大尉! もういい加減、俺を乗せてください!」
 何故かにやけてくる顔を隠すこともなく、俺はまっすぐに尾上を見た。
 尾上は地図で顔を隠すと、徹底的に知らんぷりをしている。
「尾上大尉!」
 手で地図を取り上げると、尾上は面倒くさそうにようやく俺を見た。
「ちっとはまともな回答があるんだろうな?」
 湯呑片手に、尾上は片眉を持ち上げる。
突き放すような雰囲気ではなく、今度はしっかりと俺の顔をみてくれた。
「戦闘機にのりたい!」
「あん!? お前は阿呆か?」
「あんなに美しい乗り物はない!」
「川村、お前の言うように戦闘機は美しい。 だけれど、存在意義をはき違えたら護りたいものが護れなくなる。 飛びたいだけならよそでやれ。」
「あぁ、違うんです! うまく言えない。 俺は飛びたい。 国を護るために、誇りのある美しい戦闘機に俺は乗りたい!」
「……ほう? じゃ、あの回答は出たのか?」
 尾上は机の上に頬杖をついて、聞いてやろうじゃないかというように見た。
「俺は墜ちません。 たった一機になっても戻ります。 国のために絶対に戻ります。」
「仲間はどうした? お涙頂戴の仲間はどうするんだ?」
 尾上は足を組みなおして、ふうっと息を吐いた。
「そいつらも自分で戻るから、俺も俺を戻します。 俺の指揮官機、俺の列機なら、絶対に同じ発想のもとに自分で戻るから、それを信じます。」
 尾上はほんの少し目を見開いてから、にやりと笑んだ。
そして、すっと立ち上がると、俺の胸のあたりにこぶしを押し付けた。
「あ~なまっちまったわ。 行くぞ。 飛びたいんだろ?」
「はい!」
 尾上の後を追うようにして駐機場に出ていく。
 足取りが異様に軽い。馬鹿みたいに尾上の背中が急に頼もしく思え、この人についていこうと青二才は誓ってしまった。
「強くないと死ぬ。 それが俺たちのいる世界だ。 機体と人員を連れて戻る。 そうしないと、誰がその後の国を護れるんだ? 操縦桿は誰もが握れるもんじゃない。 お前が死ぬってことは、国を護る人員が減るってことだ。 お涙頂戴の感情論は捨てちまえ。」
「はい!」
「やるだけやって戻る覚悟のない奴と機体の個別性がわからん奴は俺の部下にはいらん。」
「……それって、どういう意味ですか?」
「川村、俺はお前をうちの隊に連れ帰るためにここにきたんだ。 それなのに、優秀な雛というもっぱらの噂のお前ときたらまったく使い物にならん。 時間の無駄使いをしたわ。」
 尾上は手袋をはきながら、足で俺の太ももの裏側を軽く蹴飛ばした。
「とっとと仕込んでやるから、ここをでるぞ。」
 蹴飛ばされた太ももの痛みがわからない。
 俺は尾上が何を言っているのかがわからなかった。
ぽかんとしてしまった俺の顔を呆れたように見た尾上は一つ息をついた。
「お前を横須賀へ連れて帰るって言ってんだ。 うちの上に約束して俺はここに来た。 連れて行かねば俺の任務不履行だ。」
「え? 俺が横須賀? 横須賀航空隊にですか?」
「なんだ、不満か?」
 尾上は得意げに笑っている。俺に不満があるわけがないのを百も承知なのだ。
海軍きっての伝統ある航空隊と聞いて胸を躍らさない男がいるだろうか。
「不満なんてありません! ありがとうございます!」
「ただ喜んでいられるかどうかわからんがな。」
 尾上は不敵に笑んで、我先にと機体に飛び乗った。
 その言葉通り、それからの日々はもう思い出したくないほどの地獄だった。
 尾上はびっくりするくらいの技量保持者であるが、誰かを教えるのは不向きだと思う。
 丁寧に指導するなんてことは無縁だったのだ。
一度見せたらもうおしまい。
 俺が同じことができなかったら、集中力が足らんだの、観察眼がなさすぎるだの、『今日は7回死んだな。 お前は7回、国を殺した。』と殴られるのだから理不尽の極みだ。
尾上の同期として早坂もまた名のある戦闘機乗りだったが、その早坂ですらこの尾上のしごきには苦笑いして俺を慰めてくれたくらいだ。
 いずれは叩き上げの搭乗員達を率いる立場になる士官なのだから、彼らが納得するような技量・度胸は群を抜いて身に着けておく必要があるのだと尾上は俺をしごきぬいた。
1日飛べば体重が3キロ落ちてしまいかねない訓練の後に、尾上にしこたま飯を食えと言われる日々。疲労から食事が喉を通らない時も尾上は俺にこう言うのだ。
「いつまで三流やってんだ。」
 目の前で平然と飯を食われ、地図を広げられ、ダメ出しをはじめられる。
 傍から見ればさっさと逃げ出せばよいのにと思われても仕方がない環境だ。
 それでも、尾上と空に上がることが楽しくて仕方がなかった。どれだけ飛んでも、どれだけ追いかけても、尾上には届かない。その背中を追いかけるのが楽しくて仕方がない病だったのだろう。
 現代でいう所のドッグファイトを、天候無視で日に4回繰り返すみたいな怒涛の日々。
 その最終日に俺はようやく一度だけ尾上のケツをとれた。
「ようやく1回とれたじゃないか。」
 最終訓練の過酷さに機体から降りると足が立たなくなって、駐機場にそのまま寝転がった時も、疲れもなくひょうひょうと傍に立って、その様子を笑っていた尾上。
 尾上は寝転がっていた俺の頭をなでて、こう言ってくれた。
「一緒に空にあがるぞ、川村。」
 今でもこの時のことをよく覚えている。ただひたすら、馬鹿みたいに嬉しかった。
 考えてみればたったの1か月半だ。
尾上はあっさりと俺を横須賀へ連れ帰ると霞ヶ浦の上官に申し入れをして、俺に荷物をまとめるように言った。
同期の驚いた顔をみながら、俺はさもありなんとため息だ。
だが、たぶん、どの同期よりも俺はうまいと思う。
何せ、腕利きと名高い尾上の技術を曲がりなりにも身につけさせられたのだ。
尾上の飛び方が当たり前になっていた俺は、それが当たり前じゃないことを知らないままにルーキーとして着任。
そして、どの先輩方にも、驚いた顔をされた上に心底ねぎらわれた。
 さらには当時の航空参謀に呼びだされて大笑いされたこともよく覚えている。
大変だっただろうにと、涙を出して大笑いされたのだから。
あれから5年、太平洋戦争開戦後もかわらず俺は尾上直下の部下であり続けている。
年月が流れ、尾上は少佐、俺は中尉。
お互いに、下士官をそれなりに抱える上級士官になってしまった。
 しかしながら、この腐れ縁はなかなかに切れず、問題児の尾上にはその参謀扱いの川村が必要ということらしく、転属も何もかもが一緒だ。
 怪我するタイミングも同じ。内地から戻されるのも同じ。二度目の怪我も同じ。
そして、惚れる女までもが同じとか。もう泣きたくなる。




時の流れとはまことに無常。
この度の大怪我もあっさりと完治してしまい早々に退院することとなり、わが身の健康さを呪いたい気分だ。
 尾上という問題児を残して先に娑婆に出るというのが不安でならなかったのだが、さすがというか、むちゃくちゃというか、本人の強い意志という名の暴挙で尾上も逃げるように一緒に退院することになった。
 これにはさすがの燈子もびっくりしたように目を丸くしていた。
尾上が急遽退院するなんてことは冗談だと思っていたのだろう。
 本気で心配している燈子と向かい合った尾上はばつが悪そうに口をへの字にしている。
「尾上さん、まだちゃんと骨くっついてないですよ? ダメですよ!」
「まだ飛ばんから心配いらん。」
 自分を見上げてくる燈子の目から必死に目をそらす尾上。
 恋愛感情を初めて知った子供かよとつっこみたくなるような甘酸っぱい雰囲気だ。
「川村たちを放し飼いにできんのだ。 仕方がないので退院する。」
 言うに事を欠いて、俺たちに責任転嫁する恐ろしいほどの腰抜け具合に、脱力しそうになる。いつもの尊敬する上官殿の威厳はどこへやらだ。
「燈子さん、無茶しないように私がしっかりと見張りますから、ご安心を。」 
 燈子の視線を俺に預けると、尾上はいそいそと軍用車に乗り込んでしまう。
 まったく燈子に対しては子犬のごとく逃げ回る尾上に尊敬の念を捨て去りそうになる。
「燈子さん、引いたら負けですからね。私が密偵しますので。 大丈夫!」
 ものの見事に凹んでしまっている燈子の心を何とか持ち上げようと俺はそっと耳打ちをする。ここまでくればもはや無償の愛。
 燈子を笑顔にしてやるために、俺は尾上を売ってやる。
 燈子に別れを告げるように片手をあげて、俺も乗り込む。
 窓をあけて燈子に手を振るのは俺の役割で、尾上は知らん顔だ。
本当に素直じゃない。
 しばらく車を走らせて、むすっとしたままの尾上がようやく口を開いた。
「何を話していた?」
「今頃ですか! そういう所だけ疑り深いのやめてもらえませんか?」
「川村、さっさと言わんとわかってんだろうな?」
「白状することなんて何もありませんよ? それより、はい、これお手紙です。」
 尾上は嫌がって受け取ろうとしなかったが、強引に押し付けた。
 渋い顔をしながらゆっくりと便箋に目を落とし、大きなため息をもらした。
 尾上は盛大に困った顔のまま、読んでみろと俺に手紙を差し出した。
「読めませんよ! 尾上さん宛の愛のこもったものを!」
 突き返すと、全身全霊で頼むというように手紙を握らされた。
「いいから!」
「あ~もう! どうして俺があんたの恋文を読まんといかんのですか……。」

【尾上馨少佐
 ご自分がお怪我をされておられても、いつも部下の方々のことを案じる姿を尊敬いたしております。しかしながら、戦時中と言えど、あなたが運び込まれてくる度に、私は身が縮みあがる想いです。
 すぐに治ってしまわれては、また怪我をされて戻られる日々に、いっそもう少し回復されねば良いのにと恨めしく想ってしまうこともあります。
あなたに何かあれば私は生きて行けそうにありません。
あなたは馬鹿にされるでしょうが、私はあなたでなければどうしても嫌なのです。
 飛行機にのってしまわれると人がかわってしまうように精悍なお顔をされるとのことですが、私はあなたの何気ない笑顔が大好きですなのです。
その笑顔が失われることのないように、後生ですから、こんな私のために二度と怪我をされませんように。                         高野燈子  】
 
俺は燈子さんに悪いなと思いながらも、上官命令に従って読んでみる。
 読めば読むほど、尾上の顔がまともにみられない。
目をやるとこらえきれずに笑ってしまいそうだ。
 鉄壁の指揮官殿が可愛い小鳥に絡まれているような文面だ。
「どうしろって言うんだ!」
 真剣に落ち込んでいる尾上がたいそう可愛らしく思え、俺は窓の外に目をやり、声を殺して笑ってしまった。
もう我慢の限界だ。
こみあげてくる可笑しさを止められない。
「笑顔が大好きだそうで、何よりじゃないですか!」
「うるさい!」
 尾上は俺の襟首をつかんでいるが、全身全霊で困り果てている。
「生きていけないそうですし、責任をおとりになっては?」
 隣にいる尾上の顔が盛大に歪む。
 むすっとして、窓の外を見ているあたり、尾上もわかっている。
「梅木さんの方がよっぽど素直ですわ。 男の本能に忠実ですし。」
 破れかぶれな一言だ。さっさとまとまってくれ。
あんたたちがまとまってくれさえすれば俺が救われるんだと叫んでやりたい。
「うるさい! お前、上官になんて口ききやがるんだ。」
「5年も一緒にいたらこうなりますわ! こんな時代なんだから、気に入っている女を抱くくらいばち当たらんでしょうが!」
 尾上はもう知らんというように腕を組んだ。
 やけにその仕草に腹が立った俺は手紙を尾上に押し付けた。
「女一人幸せにできん佐官なんて笑い種です。」
 俺の言葉に尾上は盛大に舌打ちした。そして、もう言い返してこなかった。
 それが尾上だ。否を認めているときは素直に反省する。
 この可愛げのある上司を俺はどうにも見捨てることができそうにない。
 哀しいかな、燈子は実に見る目があるのだ。
「あぁ、もういつものだんまりですか! たかだか可愛らしい小鳥一羽に撃墜ですか? 少佐の階級が泣いてますわ! さっさと抱きしめてしまえばいいんですよ!」
「できるか! 阿呆!」
 そして、この時の尾上と俺はまだとんでもない痴話騒動がこの後に待っているとは知らなかった。


Take time to deliberate, but when the time for action comes, stop thinking and go in.
Napoleon(ナポレオン・ボナパルト) 
 【じっくり考えろ。 しかし、行動する時が来たなら、考えるのをやめて、進め。】

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ハメられ婚〜最低な元彼とでき婚しますか?〜

鳴宮鶉子
恋愛
久しぶりに会った元彼のアイツと一夜の過ちで赤ちゃんができてしまった。どうしよう……。

教え子に手を出した塾講師の話

神谷 愛
恋愛
バイトしている塾に通い始めた女生徒の担任になった私は授業をし、その中で一線を越えてしまう話

ドSな彼からの溺愛は蜜の味

鳴宮鶉子
恋愛
ドSな彼からの溺愛は蜜の味

甘い束縛

はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。 ※小説家なろうサイト様にも載せています。

パート先の店長に

Rollman
恋愛
パート先の店長に。

幼馴染以上恋人未満 〜お試し交際始めてみました〜

鳴宮鶉子
恋愛
婚約破棄され傷心してる理愛の前に現れたハイスペックな幼馴染。『俺とお試し交際してみないか?』

クリスマスに咲くバラ

篠原怜
恋愛
亜美は29歳。クリスマスを目前にしてファッションモデルの仕事を引退した。亜美には貴大という婚約者がいるのだが今のところ結婚はの予定はない。彼は実業家の御曹司で、年下だけど頼りになる人。だけど亜美には結婚に踏み切れない複雑な事情があって……。■2012年に著者のサイトで公開したものの再掲です。

おとなりさんが元彼だなんてツイテナイ!!

鳴宮鶉子
恋愛
一生独身で生きていくと駅前の高層マンションの低層階を分譲したのに、お隣さんが最悪な別れ方をした元彼で……

処理中です...