スピカを探してー海鷲の初恋ー

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第6話 師匠、尾上馨という男

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 海軍航空隊から一番近い病院が高野燈子の勤務先であり、俺たちの収容先だ。
 燈子と言えば、仕事はそつがなく、丁寧。誰から見ても、しっかりとした印象を与える。
軍人ならば、まさに妻にしたい女性。
夫が家にいないことが多い軍人の家庭ではしっかりと家を守ってくれる女性が好まれるのだから、燈子はうってつけな女性ということだ。
 そこそこに美人であり、性格も良く、仕事もできるときたら、もうその倍率は格段にはねあがる。
上級士官の妻には良家の子女が選ばれるのが常識だったが、この時代においては数少ない職業婦人であり、癒しを与えるような笑顔と言葉を持つ年頃の燈子には縁談話が舞い込んでやまない。
 つい先日、尾上よりさらに上官にあたる男との縁談が舞い込んだらしいのだが、燈子は逢うこともせずに辞退し彼女の同僚がその縁談を受けることとなったばかりだ。
 当時は恋愛結婚は本当に稀であり、多くの男女が見合いで夫婦となるのが主流だったのだが、この尾上と燈子はその流れにのらない二人だった。
「燈子ちゃんは誰かすいた男がいるのか?」
「もう誰かのものだったりして。」
「いやいやいや、そんなはずはない。」
 燈子が何故縁談を一向に受けようとしないのかと暇を持て余した男たちが興味津々噂するのをもはや防ぎきれない状況だった。
全員軍人、しかも飛行機乗りは女好きが多い。内臓は元気そのもの、手足が折れていようともお口は元気いっぱいなのだ。
興味津々の的は燈子だけではなかったのだが、最近ではもっぱら燈子がやり玉に挙げられている。
理由は単純明快。
 高野燈子が誰の誘いにものらず、笑顔でしれっとして受け流してしまうからだ。
 その原因が隣の部屋にいる尾上少佐にあるとはこの面々の誰一人想像がついていないのだろう。
それも仕方のないことなのだが、なかなかにこの話題が収まらないのが面倒に思えてならない。
「川村、お前、何か知ってるか? お前、ちょくちょく話しこんでるだろ?」
 こんな風に飛び火するのは毎度のことながら、俺は只今失恋の痛みに耐えているんだ、少しそっとしておいてくれと毛布を鼻先までひきあげることにした。
 無言で拒否の意思表示だ。
 それでも、一番面倒な先輩分が絡んでくるであろうことも想定内。
「川村、教えやがれ! まさか、てめえが原因じゃないだろうな!」 
「知らんです!」
俺が原因だったら、もっと手早く解決しているわと吐き捨ててしまいたいがこらえる。
 俺よりひと回りでかい図体でのしかかってくるのを何とか寸手のところで身をかわし、ベッドから逃げ出す。
まくれ上がった毛布から埃の匂いがして、ついで消毒薬の匂いが鼻先をかすめる。
右腕に丁寧にまかれた包帯は燈子がついさっきとりかえてくれたものだった。
燈子に巻いてもらった包帯ですら愛おしいやや病の俺は我ながら阿呆だと思う。
 尾上少佐に真っ向から言ってやりたいくらいだ。
『早くしないと高野燈子が誰かの物になっちまいますよ、例えば俺とか?』
 もっとも言えるわけがないのだが、同じ隊の男たちに異様に人気があることを知らしめてやりたい。
 そこそこの男たちが、こぞって高野燈子が良いと口にすることを尾上はわかっているのだろうかと小さく息をもらした。
「俺が挑むかな。」
 面倒くさい男、もとい梅木がやけに真面目に話しだした。
 梅木は自分に自信があるのだろうが、燈子が好む部類の男ではない。
 背も高く、整った顔立ちをしているが、基地ごとに女がいるのではないかというほど女癖が悪い。
凄腕の搭乗員ではあるが、酒癖も悪いし、良い男ですよとお勧めすることだけは絶対にないという先輩だ。
「やめておかれることを上申します。 遊べる女性ではないですし、落ちませんよ。」
梅木とやりあうのは面倒くさかったが、この男が燈子に近づくのだけは阻止したい。
「わからねぇだろうが? 押し切ってみればなんとかなるかも。 あんなにほそっこい身体だ、なんなら力づくだ!」
 梅木は自信満々に力こぶを見せて笑っている。『やれ、梅木!』と言わんばかりに盛り上がる周囲の何も考えていない暇つぶしの歓声が苛立ちを倍増させた。
「バカバカしい。」
「バカバカしいかどうかやってみなけりゃわからんだろうが? 多少無体なことをしてでも手に入れてみたいじゃないか。あの高嶺の花ちゃんを手折る楽しみあるだろ? なんならお前も競ってみるか? かけようじゃないか?」
普段なら絶対に請け合わない安い喧嘩だったが、梅木の言葉は見事なまでに俺の琴線に触れた。
「かけにもなりませんよ。」
 我ながら棘のある言葉だったと思うが、喧嘩上等だ。
「言葉には気をつけろよ、川村!」
 胸倉を思い切りつかまれたが、俺はニヤリと笑う。
「本物を見る目のない梅木さんが俺に勝てるわけないでしょう?」
「いい度胸だ!」
 梅木の拳が俺の頬を打った。口内に血の味が広がったが、痛みはそれほど感じなかった。
 怒りが上回っていたので、むしゃくしゃついでに殴り合いをうけてたつことにした。
「後輩をなめんでくださいよ!」
 病室の壁に手をつくようにして、立ち上がり、俺は梅木の頬を思い切り殴ってやった。
 第一線のパイロット同志の喧嘩はそう簡単にはおさまることはない。
 怪我で入院が続いていただけに体力ならいくらでもあるのだ。
 だが、次の瞬間だった。
その猛るような気持ちを一気にさます光景が視界に飛び込んできた。
 急激に熱が冷めていく。それどころか、背筋に冷たいものが流れ落ちた。
 部屋の入り口に尾上が腕を組んで立っていたのだ。
 しかも、とてつもなく静かな表情のまま、言葉を全く発さない。
 つまりは、激怒の最上級ということだ。
 入り口に背を向けている梅木にはまだ尾上が見えていない。
状況は最悪だ。殴り合いはお預けにして、一刻も早い解決を目指す。 
「梅木さん、そんなに、むきにならんでくださいよ。」
「今更、何言ってやがる!」
 梅木の腕をつかみ、背後に尾上がいるのだと目配せをしてみるが全く気付く様子がない。
「ふざけていただけですよ、すみませんでした。」
 この阿呆、背後を見ろと再度、目で視線を後ろへと知らせるが、梅木はがっかりするほどに気が付かない。
「もうよせ。」
 眼鏡の優男がふいに俺たちの間に体をはさみこみ、梅木をにらみつけた。
「酒井、邪魔すんじゃねぇ!」
「邪魔はしていない。 同期のよしみで止めてやってるだけだ。 背後をみろ。」
 基本的に正反対の性質の酒井は少し前まで読んでいた本で梅木の胸のあたりを軽く小突いた。
 酒井の言葉に俺は同調するように頷いた。
 酒井もまた、尾上の登場に一刻も早くこの場を収めることに必死だ。
 ここで尾上をさらに怒らせるのは得策ではない。
 尾上が一度怒ってしまったら、その後はもう生き地獄だ。
 だが、その酒井の忠告はほんの少しだけ遅かった。

「体力がありあまっているのはわかるが、ほどほどにしろ!」

 鶴の一声、いや、鬼の一声だった。
 はじかれるようにして振り返った梅木の顔色が一気に蒼ざめる。
 尾上はやけににっこりと笑って、すでに開いている扉をわざと今頃になってノックしてみせる。
軽快に響いたノック音がこれほどまでに恐ろしい音に聞こえるとはと俺はごく自然に背筋を伸ばした。
「邪魔して良いか? 梅木中尉?」
 ノックの矛先は梅木なのだとわかるように尾上は片眉だけあげて、わざとらしく小首をかしげた。
 俺の肩の横で酒井が小さく『まずい。』とつぶやいた。
 確かにまずい状況だ。この雰囲気は突飛な行動を尾上がとる時のそれだ。
尾上の目が最上級の怒りを秘めているのだから、このバカ騒ぎの他に怒りの元凶があり、それは完全に梅木のようだ。
「何かありましたか?」
 ほぼ同時に、俺と酒井が同じ台詞を口にしていた。
 しかし、尾上は俺たちには目もくれず、ぎろりと梅木だけを見た。
 廊下をかけてくる足音がして、尾上は廊下を軽く振り返って、意味ありげに廊下へもう一度でていった。
「ちょうどいい。 君もきたまえ。」
 尾上が呼び止めた人物の背を押して病室へ再度戻ってきた。
 梅木の前へと尾上にさらに背を押された女性は緊張のあまり真っ青な顔をしている。
「さぁ、梅木。 この看護婦殿の名前は?」
 いきなり何を言い出すんだというように、病室の中にいた全員が唖然とした顔をする。
「横井美恵子さんです。」
 梅木は内容がよくわからないままに燈子の同僚の名前を姓名間違わずに答える。
 美恵子は燈子よりはやや長身で、色の白い肌が際立つような女性で、幾分、勝気な印象があったが如何せんこの状況下ではその勝気も成りをひそめた。 
「記憶力はしっかりとあるようで、何よりだ、梅木。 俺の隊にろくでなしはいないはずなんで、心配はご無用ですよ?」
尾上はわざとらしいほどに紳士の体で美恵子に微笑みかける。
興味のない女性に対してのみではあるが、そつのない対応をできる技が尾上にはばっちりあるのだ。さすがに英国帰りのエリート士官は違うと場違いな感想をもち尾上をまじまじと観察してしまう。
「良い縁があったのなら早く報告せんか、梅木。」
 張り付いた笑顔のまま言葉を放つ尾上を見て、病室にいた全員がいきなり何を言い出すのだという雰囲気になりざわついた。
「ちょっと待ってください!」
 梅木は我を忘れたようにあわてて、尾上のもとへ駆け寄る。
「何を待つんだ? 祝いを受け取らんつもりか?」
 閻魔大王が現世にいたとしたならこんな声かもしれんと思うほどに、低く恐ろしい声だ。
 尾上はさらに強烈な一言を口にした。
「妊娠三か月とはなかなかに素早いことだ。」
 静かに伸ばした尾上の手が梅木の胸倉をつかみ、一気に引き寄せた。
 もう梅木には戦う術がなかった。
尾上の強烈な一言に、梅木同様、俺はぽかんと口を開けた。
「妊娠!?」
 酒井が場を切り裂くような素っ頓狂な声をあげた。
「俺は許可を出そうと思っている。 酒井、お前は何か意見があるか?」
 確かに、軍人の結婚には上官の許可が必要だ。それにしても、いきなりすぎる。
「いいえ、意見などありません。 実にめでたい話ですし……。」
 酒井はお手上げだと俺に目をやった。この状況では俺だってどうしようもない。
「さて、梅木。 祝いを受け取るのか?」
徹底的に詰将棋をしないと気が済まない尾上の言葉は艦艇の主砲より強い気がする。
 完全に敗北した梅木は小さくうなずいた。
「梅木、祝いだ。」
 尾上に紙きれ一枚を手渡された梅木はそれを見て、ひたすらに固まっている。
それは結婚の許可証だった。
全ては計算づくで、もう何もかもを海軍上層部に尾上は通していたということになる。
 そんなこんなで病室内に一気に不穏な空気が漂う。
 自業自得とはいえ男一人の人生が秒殺で決められたのだから仕方がない。
 恐ろしいほどの公開裁判。
まるで、全員へのみせしめそのものだ。
尾上はゆっくりと全員の顔を見渡して、わかっているなというように、静かに、えげつなく綺麗なまでににっこりと笑った。
「以上だ。 わかれ。」
 尾上の解散命令で中央に集まっていた者たちがそれぞれに自分のベッドへ戻っていく。
 海軍航空隊きっての色物集団と揶揄される俺たちの親玉である尾上の躾は時にとんでもない威力を発揮する。
しばらくは誰もが品行方正で暮らすことだろう。
 ちらりと俺に目をやった尾上は、わずかに目配せをした。
「はいはい。 この状況を何とかしろということでしょう?」
 俺は絶望的に破壊されつくしたこの雰囲気を一気にかえるために、美恵子と梅木に近づいて微笑む必要があるようだ。
「心配はいりません。 梅木さんは立派な軍人です。 それにしても体を大切にしないと!」
 誰かがこの沈黙を破り、笑いごとにすり替える必要があるのだとしたら、これは俺の役割だと言わんばかりに尾上が口の端をわずかにあげていた。
「可愛い赤ん坊がうまれてくるんでしょうね~、美男美女だし!」
 心にもない言葉が簡単にでるあたりに、この事故処理に慣れている自分の性格の悪さを痛感せざるを得ない。
 美恵子の目に安堵いっぱいの涙が浮かぶのをみると、女性はこうしたものなのだろうなとか考えてしまう。
『あぁ、これが燈子だったらきっと俺は抱きしめてしまうけれど、やっぱり違うんだなぁ。』
 そんな不謹慎なことを想いながらも、女性受けに定評のある笑顔で美恵子を落ち着かせるように寄り添ってみる。
「梅木さん、おめでとうございます! こんなかわいい方が奥方とか!」
「そうだぞ、梅木!」
 俺と酒井はもう必死だ。
尾上のとんでもない行動パターンは今に始まったことではないが、俺も酒井も自分に害がないので素直に従う良い子に徹することにした。
 酒井はきっとまだわかっていない。
いくらぶっ飛んでいる尾上であろうとも、こんな形の公開処刑をするような男ではない。
それをわざわざ見せしめのように断行した理由は一つだ。
尾上は結構早い段階からあの話題をがっつりきいていたに違いないのだ。
『多少無体なことをしてでも手に入れてみたいじゃないか。』
 梅木よ、お前は一番敵にしてはならん男に睨まれた結果だったんだぞと、ほんの少し哀れに思った。
 俺はそれに気づいた時に、実は余計に笑えなくなっていた。
 尾上は女性に対してひどく冷酷になる時があることをそばにいて知ってはいたのだが、ちょっと想像を超えていた。
切り捨てることに慣れているというか、何とも表現しづらいのだけれど、一言でたとえるのならば己に害がなければ利用することに躊躇がない。
 女性に対しての判断や行動が、燈子が絡むと冷静さからほど遠く、ひどく感情的になるということが、一体どこから生まれてきているのかを、尾上はもう少し掘り下げて考えた方が良いと声を大にして言ってみたい。
 尾上だけがすっきりとした表情を浮かべ、梅木以外はまだ状況をつかみ切れておらず、とにかくおめでたいと騒ぐしかできない。
俺は場の空気だけかえると、そっとその中央から身を引き、尾上の傍へ歩み寄った。
「……すこぶるとんでもないです。」
 尾上は片眉だけあげて、何食わぬ顔だ。
「一件落着だろうが?」
「どこがですか? 収集までご自分でなさっていただきたいです。」
「そりゃ、適材適所だろうが。 みろ、大団円だ。 それにたるんどるから丁度良い灸をすえただけだ。」
 尾上は意地の悪い笑みを浮かべ、俺が梅木に殴られた方の頬を軽く手ではたいてきた。
「色男が台無しだな。」
「わざとやらんでも!」
「熱いことで何よりだ、川村中尉。」
 高笑いをしたまま踵をかえして、病室を出ていこうとした尾上が急に身を強張らせた。
 尾上の身体の向こう側から聞き覚えのある声が聴こえる。
「何かありましたか?」
 絶妙に微妙なタイミングで登場したのは何も知らない燈子だった。
「たった今、結婚が決まっただけだ。」
 尾上は一瞬表情をひきつらせたが、すぐに通常運転でさらりと言ってのける。
「え? 誰の? 誰のですか?」
 燈子の声が裏返り、顔色が一気に失われていく。
そんなに焦らなくても大丈夫なのにと思って見ると、燈子の指先は尾上の袖口をとっさにつかんでいた。
 袖口をつかまれた尾上が困っているのか俺に助けろと目配せをしてくる。
「横井さんですよ。」
 尾上のSOSを拾い続ける役回りはもう嫌だ。我ながらちょっとだけぶっきらぼうに言った気がしたが、当の燈子はそれどころではない様子だ。
「誰と!?」
 燈子は息をするのも忘れているんじゃないかというような不安げな表情で俺にきく。
 ここで俺よりそばにいる尾上に聞かないあたりが燈子の弱さだ。
 尾上の結婚だったらば卒倒してしまう。そんな事実を本人からは到底きけない。
 で、俺にきくのだ。本当に嫌になる。
「梅木さんですよ。」
 あからさまにほっとした表情はやめてくれよと思うけれど、そのほっとした表情がやけにかわいく見える。
 燈子は安心すると、尾上を見上げて微笑む。
そこは、俺に礼を言う所だろうと思うけれど、あまりに愛しなげな様子に許してしまう。
「……尾上さんじゃなくてよかった。 安心しました。」
「なんだそりゃ。」
 ぶっきらぼうな返答をしているものの、どことなく尾上も優しい目で燈子を見返す。
「あ! すみません!」
 燈子はあわてふためいて、つかんでいた尾上の袖口を離す。
 ほんの少しだけ面倒くさそうな顔をした尾上は松葉杖をただの棒切れよろしく手に持ったまま、廊下に出ようとした。
「足の治りが悪くなるのでちゃんと使ってください!」
 尾上の腕をとっさにつかみ、燈子がその動きを止めてしまう。
「ほっとけ! なくても歩ける。」
 尾上は困ったように眉根を寄せるが、燈子の手を無体に振りほどこうとはしない。
「だめです!」
 燈子はごく自然に尾上に寄り添い、松葉杖を押し付ける。
「わかったから、もうきゃんきゃん吠えるな。」
「きゃんきゃんって! 私は犬ですか?」
「同じようなものだろ? あ~うるさい!」
 尾上は何もなかったかのように、さっさと燈子と連れ立って自分の病室へ戻っていく。 
これにはさすがの酒井もこのやりとりで気が付いたみたいだった。
「おい、川村。 あれはなんだ?」
「はい、もうみなまできかないでください。 見たままがすべて真実です。」
 俺と酒井は尾上の恐ろしさにほとほと呆れるしかない。
 尾上はきっと自覚していない。
妊娠の一件は個別に処理するつもりではあったのだろうが、廊下をたまたま通りかかっただけの美恵子をあっさりと利用して、燈子を話題にした梅木をあの場で断罪する。
そんな後先を考えない突飛な行動をした理由を当の本人は全くわかっていないという恐ろしさだ。
とんでもない手法での事態の収束なんて、仕事上ではよくあることだが、仕事以外でこんなむちゃくちゃなやり方は思い返してみてもやはり初めてだったのだから、もういい加減に気づけば良いのに見ないふりをするのだ。ほとほと質が悪い。
「俺たち、ちょっと外で煙管してくるわ。」
 酒井と俺は逃げるようにして病室をでる。もうそれしかこの重苦しい何だかおかしい空気感から逃げられる方法が見つからなかった。
 酒井は俺にきっと聞きたいことだらけなのだろう。何故なら酒井は煙管とは無縁だ。
 ひたすら長い廊下を通り過ぎると、手狭な中庭へ抜けるアプローチがある。
戦時下のこの物資のない状況にあって、さすがは海軍という材質に光沢のある大理石のエントランス。その先には海がのぞむ絶好の立地だ。
 どうせなら燈子と肩を並べて立っていたかったが隣にいるのは三十路手前の眼鏡男だ。
「高野燈子の相手について聞いていいか?」
「相手というか、只今、攻略中というか?」
「年甲斐もなく、少佐が燈子ちゃんに挑んでるのか?」
「違いますよ、逆です、逆!」
「は? 燈子ちゃんが少佐に?」
「出逢って一年、ほとほと無下にされてますけどね。 ことにこの3か月はずっと突き放してばっかりですよ。」
「一年? あの人が内地に怪我で戻ってからずっとか?」
「そうですよ。 ずっと、燈子さんの片想い。」
「嘘だと言ってくれ! あの熊みたいな男だぞ? おい、ちょっと待てよ。 びっくりするような願ってもないような縁談を、彼女が何の迷いもなく断り続ける理由があの少佐?」
「俺だって信じたくなかったですよ。 でも、燈子さんは少佐じゃないとダメなんですから仕方がないでしょうが!」
 全く信じられないというような酒井の目は俺をじっと見据えて、心の中を見透かそうとしているようで嫌な感じだ。
「熊だぞ……。」
「その熊が良いんですから仕方がないでしょうが! 手作りの弁当を食うだけ食って『ありがとな』で終了。 尾上さんが好きそうな本を探してきてはまめに届けているのに、『ありがとな』で終了。 骨折した足が浮腫んでいるからとあの手この手で痛みがないようにと介抱しているのに『それで治るんか?』とか、『君は暇だな。』とか。 勇気を出して縁談話を断りましたと尾上さんに伝えてみたら『さっさと嫁に行けばよいのに。』と言われたそうです。 その度に、俺はほんとに殴ってやりたくなりますよ。」
「尾上さん、何を考えてるんだ? こんな望んでもない機会を……。 なぁ、お前さ。 俺はお前が燈子ちゃんに惚れてるって思ってたんだけど?」
 酒井は鋭い。
だから、俺はこの先輩のこういうところが一番苦手だ。
 眼鏡に隠されているが、この男の眼鏡の向こうにあるのは千里眼の気さえする。
「惚れていても、到底かないませんよ。 見たでしょう?」
 言葉にならない脱力感が襲い掛かってくる。
 燈子は尾上しか見えていない。
どれだけ俺がそばにいたって目に入るわけがない。
 入院生活で背筋まで衰えてしまったかというように背を丸めることが楽にできる。
「普通、お前と熊なら、お前だろう?」
酒井は俺をちらりとみてから、たまらないような顔をして空を見上げる。
「普通じゃなかったんですから、もう言わんでください! 燈子さんが俺を選ぶのなら、俺は尾上さんと戦いますよ。 でも、そうじゃない。 尾上さんだって本当はもうわかってる。 いずれ、燈子さんをそばに置きますよ。」
 酒井は腕を組むと渋い顔をしてから一つ頷いた。
「そりゃそうだな。 しっかしながら梅木のこともあったろうが、少佐も男だな。 びっくりだ。」
「梅木さんの『多少無体なことをしてでも手に入れてみたいじゃないか?』にはさすがに切れたんでしょうね。」
「まぁ、うちの大将はたまにとんでもないことをするけれど、あの人だからな、仕方ない。」
「全くです。」
「なぁ、ところで、燈子ちゃんの想い人が尾上さんだとわかった時、お前どう思った?」
 酒井は今にも大声で笑いだしそうな顔をして、こちらをうかがってくる。
「我が隊きっての男前が失恋した瞬間を知りたくてな。」
「何ですか、それは!」
「燈子ちゃんを奪ってみないのか? お前ならできるかもしれんぞ? なんてったって、梅木との喧嘩を買って出たくらいだからな。 尾上さん顔負けの怒りがあったとお見受けするが?」
「尾上さんが燈子さんを切り捨てた時、俺が拾います。 それだけですよ。」
「川村よ、お前、不毛な恋はやめなさいよ~。」
「酒井さんだってわかってるんでしょう? 俺にまわってくる順番なんてないんだ。」
「お前の方が燈子ちゃんに近いだろうに。 損な役回りだな。」
 全く嫌になる酒井の一言だ。嫌と言うほどに現実を突き付けてくる。
「本当に、生殺しとはこのことですよ。」
 俺はもう脱力感のままにしゃがみこむしかなかった。



思い返すこと一年前。
南方の前線から内地に戻されて、この病院に先に入院したのは俺だった。
内地に戻されることとなる約5日前。
南方戦線で、同日2回目の出撃中、米軍の奇襲にあい大乱戦となった。
こちらの生存機体は俺の隊のわずか3機。
グラマン10機の追撃をかわしながら、俺は手傷を追った列機の若手を基地へ何とか戻すことに必死だった。
 装填した機関銃はすべて使い切り、燃料はもう基地までようやく持つ程度。
ほうほうの体で、敵機をまきにまいて戦闘空域を離脱することができた。
何とか航空隊基地へ機体と人員をもちかえったという安堵感に、ようやく右腕の働きが悪いなと気が付いた。いつもの通りに着陸したまではよかったが降機しようにも足に力が入らない。
すると右のわき腹あたりがやけに水か油のような物でじわじわとぬれていく感覚に急に襲われ始めた。
ふと外に目をやると、駐機場にかけてくる大勢の整備と仲間のパイロット達の蒼ざめた顔がみえた。
『俺はどうしたんだろう?』
 耳鳴りがして、声が聴こえにくい上に、視界に靄がかかったようにかすみはじめた。
「川村! 俺がわかるか?」
 俺の機体の翼の上にいつの間にか飛び上がっていたらしい尾上が、俺の頬をたたいているがその感覚がない。
「尾上さん……。」
喉に何かがつまってうまく話せなくなっていた。急に呼吸が苦しくなり、むせこんだら血の塊が飛び出してきた。
「これ、なんだ?」
 まだ自分に何が起きているのかよくわからないままで、俺は尾上の顔をじっと見上げることしかできなかった。
「気を抜くんじゃないぞ!」
尾上があまりに必死に怒鳴りつけるから、俺は何を思ったのかおもわず笑っていた。
「笑ってる場合か!」
尾上に体を引きずりあげられるようにして機体から降ろされてみて、自分が死にかけていることにようやく気が付いた。
「馬鹿野郎が! だが、よく戻った! 死ぬんじゃないぞ!」
 尾上が俺の身体を背負ってくれている感覚はよくわかっていたが、『上官がこんなところまで出てこないでいいですよ。』なんて軽口はもう突然襲ってきた痛みで声にならなかった。
「川村、しゃべれ! 気を抜くな!」
 途切れそうになる意識は尾上の必死な声で繋ぎ止められていく。
「尾上さん……、痛すぎますわ、これ。」
 ようやく声がでたが、口腔内に広がっていく血の味が何とも恐ろしく感じ始める。
「俺と出ないとお前は無傷で戻ってこれんのか! この下手くそが!」
「下手くそを育てたのは誰ですか?」
 寒気と痛みに次いで、眠気が襲ってくる。尾上は俺のこの状況をわかっているかのように大声で話しかけ続けてくれている。尾上の背のあたたかさも、急いで駐機場を駆け抜けてくれていることもすべてが嬉しくて仕方がない。
「列機の盾になる指揮官機がどこにいる!」
「あははは、うちの雛どもは無事でしたか……。」
尾上の怒鳴り声が心地良いほどの安堵感をもたらして、俺はようやくほうと息を吐けた。
「無事どころかぴんぴんしとるわ! お前は自分の命の価値をちっとは考えろ!」
「俺に価値があって何より……。」
「川村!」
尾上が俺の名前を呼んでいてくれているが、どうにももう瞼があがらなくなった。
そう、尾上の列機として出ていた一度目とは違い、二度目の出撃の敵は濃霧だった。
尾上ならどうするかと考え、濃霧の中での大乱戦を避け、俺の隊は引くことに徹した。
だが、その退路を断つ様にグラマン10機が待ち構えていたのだ。
運の悪いことに列機の若手はそれが初の出撃だった。
あまりの驚きから冷静さを失い、あろうことか敵機と真っ向勝負を挑むかのような態勢をとってしまった。
それを護ることに必死で、俺の乗っていた機体は右側に相当数の機関銃を撃ち込まれてしまっていたのだ。
後に尾上から聞かされた話しによると、俺の機体の右側の破損は大きく、気づきもしなかったが車輪も半分降りていないままの着陸で、皆、蒼くなっていたそうだ。
当然と言えば当然ながら、俺の右腕、脇腹、右足は大怪我も大怪我、出血多量も良い所だったらしい。
 しっかりと目が覚めた頃、俺は尾上も部隊の仲間も誰一人いない横須賀海軍病院に戻されていた。
 早く完治させて戻らないと、尾上を誰が護るんだと苛立ちが募り、早く飛ばなければと空を見上げに外に出たら、お気に入りの場所に先客としていたのが高野燈子だった。
 空を見上げて、頭上を飛んでいく戦闘機を彼女はじっとみつめていた。
 すぐ背後にいる俺に全く気が付かずに、無心に見上げていた。
 こんなに無心に空を見上げる女性がいるのだなというのが最初の印象だ。
「飛行機が好きなのですか?」
 びっくりしたように振り返ると、燈子はこう言った。
『だって美しいでしょう?』
 あまりに嬉しそうに微笑む燈子に完全にやられてしまった。
 戦争の道具、戦争のための鍛錬、愛する飛行機が人を殺す、ただ好きで空へあがれなくなっていた俺にとって、目の覚めるような言葉だった。
 嬉しくて、ひたすらに嬉しくて、女性の前なのにひざを折って泣いてしまった。
燈子はそんな俺の身体をそっと支えて、もうひとつ、魔法の言葉をくれた。
『生きて、空に上がってください。 生きていなくちゃ、飛行機がかわいそうです。』
 考えてみれば、ひとめぼれだったのかもしれない。
 俺と燈子は神戸出身、同郷という点でもすぐにうちとけた。
 燈子の昼休みに、幾度となく一緒に空を見上げては飛行機の話をして笑いあった。
 互いに懐かしさの残る神戸弁で、穏やかな時間を過ごし、俺はおおよそ普通の婦女子なら興味のない航空力学や航空機の話をしては一人舞い上がっていた。
 だが、そんな穏やかな時間は2週間程度であっけなく終焉を迎えた。
 俺に遅れること2週間。
降りしきる雨の中、俺よりひどい怪我をして俺と同様に内地に戻されてきた男がいた。
そう、尾上だ。
その怪我を見た俺は自分でもびっくりするくらい半狂乱になったように思う。
『この人を殺しちゃならないんだ!』
俺は医者と看護婦に何回叫んだのか覚えていないくらい叫んだ気がする。
「俺がそばに居たらこんなことにはならなかった!」
 純粋に尾上を失うかもしれない恐怖に震えた。
 頭を抱えて、廊下にうずくまっていた俺を燈子が叱咤してくれた。
「中尉、あなたが喚き散らして、尾上少佐が助かるのならそうしてください。 違うでしょう? 次こそは護れるよう、あなたは少佐より早く治らねばならない。 さぁ、今、どうすべきか考えてください。」
 ぐうの音も出なかった。
 惚れた女性からの見事すぎる打撃は俺の胸をぶち抜いた。
機関銃を体に食らうより強烈だったように思う。
 燈子は静かにうなずき、ゆっくりと立ち上がると、同僚の看護婦にてきぱきと指示を出し始めた。
まだ若いのに、俺より3つ下なのに、その迷いのない目と声が俺の不安を一気に取り除いていく。
 生まれて初めて、女性を心底、格好良いと思ってしまった。
 燈子は任せておいてというように微笑んで、瀕死の尾上を一晩中、介抱してくれた。
 そして、俺はまんまと尾上に完全敗北してしまう。
 尾上のすぐそばにいた俺はものの見事に燈子が恋に落ちていくのを目の当たりにして、言葉がでなかった。こんな風に心は奪われていくのだなというように、諦めろという感情が自分の中にはっきりと生まれたことがわかってしまうほどに徹底的に失恋し、俺はただ見ている他なかった。
 そして、今に至るというやつだ。
「燈子さんは、尾上さんのために生まれてきたような女性ですからね。」
 酒井の前だと素直すぎるほどに悔しさを隠せない。
 尾上が登場する前に、せめて告白しておけばよかったと本当に後悔ばかりだ。
「分が悪すぎたんです。 相手が尾上さんじゃ戦えない。」
「お前、ほんとに尾上さんが好きだな。」
「酒井さんだって好きでしょう?」
「まったく嫌な男だな。」
「まったく嫌な男です。」
 大の男が二人そろって、尾上馨少佐に惚れているのだから仕方がない。
 そして、実のところ、尾上の良さを分かっているという点も俺達にとっては燈子の美徳だ。
 尾上は誤解されやすいが、尾上ほど部下を愛し、日本を愛している男はいない。
 権威と権力にはまったく無頓着だが、いざという時は自分の地位を簡単に利用してびっくりするような喧嘩をおっぱじめるところも何とも言えない魅力だ。
 肩書だけお偉い高級将校とは違い、とんでもなく優れた戦闘機乗りだという実がある点も酒井をはじめとする多くの戦闘機乗りから慕われている魅力だ。
 その上、整備関係者からも愛される不思議な男。
 唯一の才能のなさは女性関係がからっきしという点だ。
 降り注ぐほどのお嬢様方との縁談話を、どうしてか簡単に破談にしてしまう。
ついていけないと、多くのお嬢様方がそう表現して、辞退するのだ。
 だが、酒井と俺の見解はちょっと違っている。少佐はわざと破談になるように接しているのではというのが俺たちの見解だ。
 尾上は人として出来損ないではないし、十分紳士だ。それがろくでなしのような扱いを受けて縁談を破談にされるなんておかしい。尾上馨は根っからの軍人だが底抜けに優しい男なのだから、わざとやっているとしか思えない。
「燈子さんしか無理ですわ。 少佐の正しい取り扱いできる女性なんて他に居ませんよ。」
「お前には申し訳ないがあの少佐のあんなに優しい目を引き出せるなんて、燈子ちゃんはあっぱれだな。 適材適所なんだろうな。 もう運命という奴だ。」
「ぐさっとくるようなことをいちいち言わんでください。」
「すまん、すまん。 でも、燈子ちゃんが本当に大変なのはこれからだな。 尾上さんも本当は気づいてはいるが年季入ってるからな。」
「さっさとせんと、俺が奪いますからと脅してやりたいです。」
 男として泣きたくなってくる。
 酒井は面白がって、俺の背をたたいてくるが、もう知るか。
 俺はきっと不毛な想いのまま、燈子が尾上とうまくいくように支援していくのだろう。
 燈子の笑顔が護れるのならいいかとかなんとか、理由をつけて。
「横須賀航空隊に配属されるのもまた同じだし、2回目の入院くらい単独かと思いきや、尾上さんもまた怪我するし。 入院中くらい独占させてほしいものですよ。」
「そりゃ、災難だな。 でも異動に関しては少佐とお前はひとくくりで上は考えてるんだから仕方がないさ。 しかしながら本当に不毛だな、お前。 早く別の人をみつけないとな。」
 酒井はその後、自分の細君の話をいやというほど聞かせてきた。
 生まれたばかりの男の子の話も。そんな酒井がこの数か月後に殉職した。
 俺はこの日の酒井のことを忘れない。
 酒井の遺体は細君のもとに返されたが、それはもう酒井だとわからないものだった。
細君へのせめてもの気持ちを込めて、尾上は俺にあるものを託してくれていた。
 それは、生前の酒井をしのぶ遺品だった。
軍事情報が書き記されているノートや備品は、家族であっても渡してはならないと情報部が取り上げようとしたが、『酒井の筆跡がわかる唯一のものだ。 俺が燃やしたことにする。 何か文句があるのか?』と護り抜き、それを尾上は俺に託してくれていた。
 そして、情報部とやりあった後に少し遅れて尾上もまた酒井の細君のもとへ出向いてくれていた。
高級将校なのに、酒井の家族の前で人目もはばからず男泣きする姿に、細君は非常に心を打たれたと話をしてくれた。尾上の部下で酒井は幸せでしたと。  
 俺はやっぱり尾上馨が大好きだ。恋敵が少佐じゃなかったらよかったのに。
When a man is in love he endures more than at other times; he submits to everything.
    Friefrich Nietzsche(ニーチェ)                  【人は恋をしている時こそ、忍耐強くなり、どんな荒波でも乗り越えられる。】

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