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第23話 宗像約定
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性懲りもなく黄泉の最下層にお招きに預かった。
ごつごつとした岩を背にして、結構強烈な打撲をしたであろう右肘をさすりながら立ち上がった。
「殺風景すぎるだろうが!」
2回目ともなればやたらに冷静な自分に驚いた。
変な白昼夢をみせられ、真実らしいというおとぎ話をきき、冬馬に何故か責められた後にこれかと脱力する。
「毎度、毎度、黄泉へ投げ落とされる。 何だって言うんだ」
おかしいことに、動悸はおさまっていた。
呼吸もいくらかしやすくなっている。
私の身体が適応しはじめているのだろうか。
苦笑いだ。
「どうして責められなくちゃならない?」
多くの情報を得てみて、思考した果ての結果は、どうだっていいという一言しか出てこなかった。
運命や宿命は知らないし、生まれ変わり論とかもどうだっていい。
同じ立場と言うならばそれもどうだっていい。
ただ、理不尽につけ狙われるのは気に食わない。
理不尽に責められるのも、気に食わない。
お伽噺は大昔の現実だったのだろうが、今が同じだとは限らない。
馬鹿馬鹿しいと笑いながらも泣けてくる。
生まれてきた私を抱き上げて、父はきっと私のこれからを悟って泣いてくれたのだ。
徹底的に津島の祖父や母に介入させなかった理由は一つだ。
宗像本家の継承者しか知らない宗像の重荷のせいだ。
泰介がたった一度だけ厳しい顔をして幼い私に語ったのをよく覚えている。
その顔は父の顔ではなく宗像の主のものだった。
一子相伝。他言無用の一文。
【汝、滅ぼされし時、黄泉の御使い全ては無に帰すであろう。 汝、永久に御使いの物なり】
黄泉にあったという故郷を失った黄泉使い達は能力の根源を失ったも同然だった。
根源たる王樹を失った現世において生きる黄泉使い達は真の王たる宗像のたった一人によってその能力を得ている。
お前はお前のために生きているのではない。
黄泉使い達を生かすにはお前が死んではならない。
黄泉を護りたくばお前のその命を死守せよという意味だ。
継承者が生まれる度に、その子、次の子へと受け継がれる。
慈しまれてしかりなのは、このせいなのだと言い聞かされるのだ。
お前自身が慈しまれるのではない、お前の受け継いだ物を慈しまれるのだときこえる。
ここにきて頭の中で冬馬の言葉が幾度も繰り返される。
『徹底してお前一人を宗像に据えた。 お前一人をだ』
その代償をお前は知っているのかと冬馬を怒鳴りつけたい。
泣きたくないのに、頬を幾度も涙が流れていく。
誰も居ないことをいいことに、何も知らないくせにと大声で怒鳴ってみる。
眼前にはひたすらに続く砂漠。
砂が風に巻き上げられていてももう気にはならない。
「静梅来たれり。 静梅の玉来たれり。 玉戻りし時、黄泉の都は開かれり。 玉を宿し、狼を友とした者に玉座は開かれり」
一子相伝の一文の後半部分をゆっくりとつぶやいてみた。
朔と望、特に朔を友にする者にはさらなる負荷がかかるのだ。
「忘れるなかれ、汝こそが黄泉の王なり」
私の父は私の中に眠っていた王玉をそっと取り出し、自分の身に隠すことで、私に向かうはずだったすべての危険な物を自分に向けさせていたという。
そして、命を落とす寸前に父はどうやってかはわからないが私にそれを戻した。
なるべくその玉のありかが誰にも気づかれぬように魔法をかけてくれていたそうだ。
「苦しむことはないよ。 それを手放せば良いだけだ」
呼んでもないのに、目の前にはアレがいる。
ゆるやかに波打つ白髪は細く細く銀糸のようにも見える。
ピジョンブラッドの美しい瞳に、毒々しいほどの赤の唇が生えるほどの白磁の肌。
こちらへ手を差し伸べる彼女の細い指先にはねっとりとした禍々しさを内包する白い炎。
「断る」
黄泉での問答は御法度だったが、もう解禁にした。
くすくすと笑った彼女は片方だけ眉を持ち上げた。
「問答は御法度なのではないのか?」
「黄泉の住人と口をきいたわけではない」
「おや、面白いことを言う」
霧が晴れるようにすっきりとした頭で私はゆっくりと視線を持ち上げる。
こいつの顔は確実に見たことがあった。
鏡に映った自分。自信のない私の顔だ。
罪を犯したのなら私はコイツになる。
「この黒髪を手放すわけにはいかない」
「ほぉ、肝が据わったか?」
真っ白い髪をした私がゆっくりと微笑む。
「もう受け入れることにした」
私はゆっくりと足を踏み出す。
もう退かない。
退いたところで楽になることなど何もない。
「手放せ、静梅を!」
「だまれ!」
白い炎は私の紅の炎であっけなく焼き尽くされる。
「これは幻影。 玉が見せる質の悪い夢だ。 ここは黄泉ではないし、そもそも、私の顔をしたお前がアレであるはずがない!」
大きなガラスが割れるような大きな音が響き渡ると同時に、アレだった物が原型をとどめないほどに砕け散った。
ゆがめられた空間が少しずつもとの景色を取り戻していく。
静梅の玉を毛嫌いしすぎて、玉が怒ったのだろう。
こんな手の込んだ試金石をぶつけてきた。
この面倒な玉は私しか受け入れられなかった。だから、ここに私が居ると思うしかない。
泰介が私を選んだ。文句があるなら泰介に言えと思う。
私には大昔のその人のように自分の命を盾にするほどの勇気などない。
だって、自分が何者かなのかわかりやしないのだから。
それに命を盾にしたとして、その後に遺恨を残すことしかできないのなら、生にしがみついてでも遺恨を断つ未来を選ぶ。
かつての宗像の主がどれだけの想いがあったにせよ、未来に遺恨を残すことしかできなかったのは失態だろうがと思ってしまう。
私は生まれ変わりでも何でもない。
太古のいざこざの清算を押し付けられるのも気に食わない。
私にある特殊性をもって、私が選んで、私が好きにして良いはずだ。
獣に試され、父に試され、玉に試され、仲間に試される。
黄泉の制御に興味はないし、古からの因縁の決着なんて知ったことではない。
津島との因縁も宗像の悲劇も、私には何の関係もない。
誰も信用できない世界で生きるなど御免こうむる。
ぶつぶつとぼやきながら、山道を奥へ奥へとすすんでいく。
どうにも母屋へ戻りたくなかった。
無心になりひたすらに山道を突き進んでいく。
どれくらい歩いたのだろう。突如開けた空間にたどり着いた。
視界に広がるのは奥行きがかなりあるであろうごつごつとした岩肌むき出しの洞窟。岩穴の隙間から風がなだれ込み、ぞっとするような奇妙な音を響かせている。
風で削られたらしい砂岩に手を触れると、さらさらとした感触がした。
これが黄泉との境界線を築く千引岩。両側にはかなりお年をお召の桃木。
桃は邪を祓うとされ、この禁域の絶対防壁の一つでもある。
島根県東出雲町の国道沿いに【黄泉の国への入り口、黄泉平坂】と看板が出ている観光名所とは似て非なる物。いや、そう遠くもない物かもしれない。
黄泉平坂。
日本神話において、この黄泉平坂は伊弉諾と伊弉冉の物語で有名でもある。
黄泉に最も近い場所。
火の神を産んだことで命を落とした愛する妻を黄泉の世界へ迎えに行った夫である伊弉諾。しかし、伊弉冉は黄泉の世界の食べ物を口にしてしまったために一緒に帰れないと語る。
それでも伊弉諾があまりに諦めないので、伊弉冉は黄泉の神々に相談するから待っていて欲しいと伊弉諾に告げる。
待てど暮らせど伊弉冉が神殿から出てくる様子がないことにしびれを切らした伊弉諾は入ってはならないという約束を破り、そこで腐りはてた伊弉冉の姿を見て、恐れおののき脱兎のごとく逃げ出す。
約束を破った伊弉諾を伊弉冉は許すまじと黄泉の軍勢を連れて追いかける。
あの手この手で黄泉から逃げる伊弉諾は最後の出口近くにあった桃の実を投げつける。すると、桃の実を嫌がった黄泉の軍勢は近づこうとしなかった。
最後はたった一人で伊弉諾を追う伊弉冉。
引っ張るのに千人は必要というほどの巨石を出口に置き、伊弉諾は穴を塞いでしまう。この岩をはさんで、日本史上最初の夫婦喧嘩が始まる。
この黄泉比良坂は死者と生者の境界であり、夫婦喧嘩の場所でもあるというわけだ。
伊弉冉は言った。
『こんなことをするあなたのもとへは戻りません!』
伊弉諾はそれにこう答える。
『俺は今でも君が恋しいが、君の怒りがあまりにひどいので別れることにする!』
すると伊弉冉はさらにこう言う。
『こんなことをするなら、私はあなたの国民を一日に千人絞め殺してやる!』
それにも伊弉諾はこう答える。
『ならば俺は一日に千五百人生ませてやる!』
こうして一日千人が命を落とし、千五百人が生まれることになったというお伽噺。
「ひどい話だなぁ。 ちょっとだけ伊弉冉様の気持ちがわかる気がする・・・・・・」
命がけで子どもを産んだために命を落としただけでなく、愛する夫に死んだ姿が醜いと逃げ出される。
こんなにひどい扱いを受けたのに、伊弉冉はちゃんと己が何であるかを知っていた。だから、腐りはてた肉体からも多くの神が生まれて黄泉を統べる大神になった。
成長してからこのお伽噺について考えることがある。
この壮絶な夫婦喧嘩は伊弉諾と伊弉冉の自作自演ではないかと思うのだ。
伊弉冉は死後の魂を護るため、伊弉諾は現世の魂を護るために演じたのではないかと思ってしまう。何故なら、伊弉諾が黄泉の世界から戻り、禊をした時に生まれた月夜見が黄泉使いの生みの親とされている。
でも、本来なら現世に生きるはずの黄泉使いが、黄泉に受け入れられ、寿命も唯人より長く許されたのは伊弉冉の赦しあってのことのはずだ。
黄泉を護り、現世にはびこる悪鬼を排除する。
これは伊弉諾、伊弉冉の意志であり、月夜見の願いでもある。
こうした神話の系譜の先に私たちが居る。
黄泉使いの本分はここにある。
それがどうして血を血で洗うようなくだらないことばかりが繰り返される。
それぞれの思惑が仲間を殺し、排除し、化け物を生む。
千引岩にそっと手を触れる。
さすがにただの岩ではないらしく脈打つ鼓動を感じた。
この先へはまだいける自信がない。
でも、王玉をちゃんと身に戻したのだから私はいずれ冥府に宣誓しなければならない。
静梅戻れり、と。
ごつごつとした岩を背にして、結構強烈な打撲をしたであろう右肘をさすりながら立ち上がった。
「殺風景すぎるだろうが!」
2回目ともなればやたらに冷静な自分に驚いた。
変な白昼夢をみせられ、真実らしいというおとぎ話をきき、冬馬に何故か責められた後にこれかと脱力する。
「毎度、毎度、黄泉へ投げ落とされる。 何だって言うんだ」
おかしいことに、動悸はおさまっていた。
呼吸もいくらかしやすくなっている。
私の身体が適応しはじめているのだろうか。
苦笑いだ。
「どうして責められなくちゃならない?」
多くの情報を得てみて、思考した果ての結果は、どうだっていいという一言しか出てこなかった。
運命や宿命は知らないし、生まれ変わり論とかもどうだっていい。
同じ立場と言うならばそれもどうだっていい。
ただ、理不尽につけ狙われるのは気に食わない。
理不尽に責められるのも、気に食わない。
お伽噺は大昔の現実だったのだろうが、今が同じだとは限らない。
馬鹿馬鹿しいと笑いながらも泣けてくる。
生まれてきた私を抱き上げて、父はきっと私のこれからを悟って泣いてくれたのだ。
徹底的に津島の祖父や母に介入させなかった理由は一つだ。
宗像本家の継承者しか知らない宗像の重荷のせいだ。
泰介がたった一度だけ厳しい顔をして幼い私に語ったのをよく覚えている。
その顔は父の顔ではなく宗像の主のものだった。
一子相伝。他言無用の一文。
【汝、滅ぼされし時、黄泉の御使い全ては無に帰すであろう。 汝、永久に御使いの物なり】
黄泉にあったという故郷を失った黄泉使い達は能力の根源を失ったも同然だった。
根源たる王樹を失った現世において生きる黄泉使い達は真の王たる宗像のたった一人によってその能力を得ている。
お前はお前のために生きているのではない。
黄泉使い達を生かすにはお前が死んではならない。
黄泉を護りたくばお前のその命を死守せよという意味だ。
継承者が生まれる度に、その子、次の子へと受け継がれる。
慈しまれてしかりなのは、このせいなのだと言い聞かされるのだ。
お前自身が慈しまれるのではない、お前の受け継いだ物を慈しまれるのだときこえる。
ここにきて頭の中で冬馬の言葉が幾度も繰り返される。
『徹底してお前一人を宗像に据えた。 お前一人をだ』
その代償をお前は知っているのかと冬馬を怒鳴りつけたい。
泣きたくないのに、頬を幾度も涙が流れていく。
誰も居ないことをいいことに、何も知らないくせにと大声で怒鳴ってみる。
眼前にはひたすらに続く砂漠。
砂が風に巻き上げられていてももう気にはならない。
「静梅来たれり。 静梅の玉来たれり。 玉戻りし時、黄泉の都は開かれり。 玉を宿し、狼を友とした者に玉座は開かれり」
一子相伝の一文の後半部分をゆっくりとつぶやいてみた。
朔と望、特に朔を友にする者にはさらなる負荷がかかるのだ。
「忘れるなかれ、汝こそが黄泉の王なり」
私の父は私の中に眠っていた王玉をそっと取り出し、自分の身に隠すことで、私に向かうはずだったすべての危険な物を自分に向けさせていたという。
そして、命を落とす寸前に父はどうやってかはわからないが私にそれを戻した。
なるべくその玉のありかが誰にも気づかれぬように魔法をかけてくれていたそうだ。
「苦しむことはないよ。 それを手放せば良いだけだ」
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ゆるやかに波打つ白髪は細く細く銀糸のようにも見える。
ピジョンブラッドの美しい瞳に、毒々しいほどの赤の唇が生えるほどの白磁の肌。
こちらへ手を差し伸べる彼女の細い指先にはねっとりとした禍々しさを内包する白い炎。
「断る」
黄泉での問答は御法度だったが、もう解禁にした。
くすくすと笑った彼女は片方だけ眉を持ち上げた。
「問答は御法度なのではないのか?」
「黄泉の住人と口をきいたわけではない」
「おや、面白いことを言う」
霧が晴れるようにすっきりとした頭で私はゆっくりと視線を持ち上げる。
こいつの顔は確実に見たことがあった。
鏡に映った自分。自信のない私の顔だ。
罪を犯したのなら私はコイツになる。
「この黒髪を手放すわけにはいかない」
「ほぉ、肝が据わったか?」
真っ白い髪をした私がゆっくりと微笑む。
「もう受け入れることにした」
私はゆっくりと足を踏み出す。
もう退かない。
退いたところで楽になることなど何もない。
「手放せ、静梅を!」
「だまれ!」
白い炎は私の紅の炎であっけなく焼き尽くされる。
「これは幻影。 玉が見せる質の悪い夢だ。 ここは黄泉ではないし、そもそも、私の顔をしたお前がアレであるはずがない!」
大きなガラスが割れるような大きな音が響き渡ると同時に、アレだった物が原型をとどめないほどに砕け散った。
ゆがめられた空間が少しずつもとの景色を取り戻していく。
静梅の玉を毛嫌いしすぎて、玉が怒ったのだろう。
こんな手の込んだ試金石をぶつけてきた。
この面倒な玉は私しか受け入れられなかった。だから、ここに私が居ると思うしかない。
泰介が私を選んだ。文句があるなら泰介に言えと思う。
私には大昔のその人のように自分の命を盾にするほどの勇気などない。
だって、自分が何者かなのかわかりやしないのだから。
それに命を盾にしたとして、その後に遺恨を残すことしかできないのなら、生にしがみついてでも遺恨を断つ未来を選ぶ。
かつての宗像の主がどれだけの想いがあったにせよ、未来に遺恨を残すことしかできなかったのは失態だろうがと思ってしまう。
私は生まれ変わりでも何でもない。
太古のいざこざの清算を押し付けられるのも気に食わない。
私にある特殊性をもって、私が選んで、私が好きにして良いはずだ。
獣に試され、父に試され、玉に試され、仲間に試される。
黄泉の制御に興味はないし、古からの因縁の決着なんて知ったことではない。
津島との因縁も宗像の悲劇も、私には何の関係もない。
誰も信用できない世界で生きるなど御免こうむる。
ぶつぶつとぼやきながら、山道を奥へ奥へとすすんでいく。
どうにも母屋へ戻りたくなかった。
無心になりひたすらに山道を突き進んでいく。
どれくらい歩いたのだろう。突如開けた空間にたどり着いた。
視界に広がるのは奥行きがかなりあるであろうごつごつとした岩肌むき出しの洞窟。岩穴の隙間から風がなだれ込み、ぞっとするような奇妙な音を響かせている。
風で削られたらしい砂岩に手を触れると、さらさらとした感触がした。
これが黄泉との境界線を築く千引岩。両側にはかなりお年をお召の桃木。
桃は邪を祓うとされ、この禁域の絶対防壁の一つでもある。
島根県東出雲町の国道沿いに【黄泉の国への入り口、黄泉平坂】と看板が出ている観光名所とは似て非なる物。いや、そう遠くもない物かもしれない。
黄泉平坂。
日本神話において、この黄泉平坂は伊弉諾と伊弉冉の物語で有名でもある。
黄泉に最も近い場所。
火の神を産んだことで命を落とした愛する妻を黄泉の世界へ迎えに行った夫である伊弉諾。しかし、伊弉冉は黄泉の世界の食べ物を口にしてしまったために一緒に帰れないと語る。
それでも伊弉諾があまりに諦めないので、伊弉冉は黄泉の神々に相談するから待っていて欲しいと伊弉諾に告げる。
待てど暮らせど伊弉冉が神殿から出てくる様子がないことにしびれを切らした伊弉諾は入ってはならないという約束を破り、そこで腐りはてた伊弉冉の姿を見て、恐れおののき脱兎のごとく逃げ出す。
約束を破った伊弉諾を伊弉冉は許すまじと黄泉の軍勢を連れて追いかける。
あの手この手で黄泉から逃げる伊弉諾は最後の出口近くにあった桃の実を投げつける。すると、桃の実を嫌がった黄泉の軍勢は近づこうとしなかった。
最後はたった一人で伊弉諾を追う伊弉冉。
引っ張るのに千人は必要というほどの巨石を出口に置き、伊弉諾は穴を塞いでしまう。この岩をはさんで、日本史上最初の夫婦喧嘩が始まる。
この黄泉比良坂は死者と生者の境界であり、夫婦喧嘩の場所でもあるというわけだ。
伊弉冉は言った。
『こんなことをするあなたのもとへは戻りません!』
伊弉諾はそれにこう答える。
『俺は今でも君が恋しいが、君の怒りがあまりにひどいので別れることにする!』
すると伊弉冉はさらにこう言う。
『こんなことをするなら、私はあなたの国民を一日に千人絞め殺してやる!』
それにも伊弉諾はこう答える。
『ならば俺は一日に千五百人生ませてやる!』
こうして一日千人が命を落とし、千五百人が生まれることになったというお伽噺。
「ひどい話だなぁ。 ちょっとだけ伊弉冉様の気持ちがわかる気がする・・・・・・」
命がけで子どもを産んだために命を落としただけでなく、愛する夫に死んだ姿が醜いと逃げ出される。
こんなにひどい扱いを受けたのに、伊弉冉はちゃんと己が何であるかを知っていた。だから、腐りはてた肉体からも多くの神が生まれて黄泉を統べる大神になった。
成長してからこのお伽噺について考えることがある。
この壮絶な夫婦喧嘩は伊弉諾と伊弉冉の自作自演ではないかと思うのだ。
伊弉冉は死後の魂を護るため、伊弉諾は現世の魂を護るために演じたのではないかと思ってしまう。何故なら、伊弉諾が黄泉の世界から戻り、禊をした時に生まれた月夜見が黄泉使いの生みの親とされている。
でも、本来なら現世に生きるはずの黄泉使いが、黄泉に受け入れられ、寿命も唯人より長く許されたのは伊弉冉の赦しあってのことのはずだ。
黄泉を護り、現世にはびこる悪鬼を排除する。
これは伊弉諾、伊弉冉の意志であり、月夜見の願いでもある。
こうした神話の系譜の先に私たちが居る。
黄泉使いの本分はここにある。
それがどうして血を血で洗うようなくだらないことばかりが繰り返される。
それぞれの思惑が仲間を殺し、排除し、化け物を生む。
千引岩にそっと手を触れる。
さすがにただの岩ではないらしく脈打つ鼓動を感じた。
この先へはまだいける自信がない。
でも、王玉をちゃんと身に戻したのだから私はいずれ冥府に宣誓しなければならない。
静梅戻れり、と。
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