天は黎明の雷を知る

ちい

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身に着けるべきもの

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「う~ん。 どうしたもんか。 また、俺かよ!?」

 道場の上座と下座にわかれて、向かい合って座っている壮年の男は俺を見て、面倒ごとを押し付けて来たなとうなっていた。
 泰介の双子の兄である宗像公介は肩から羽織をかけていてわかりにくいが片腕しかない。それでも、誰もが彼が武道において一番の師匠だと言う。
 容貌は双子だと言うのに泰介とは似ても似つかない。男というより漢の感じがする。いかつい感じがするのに、雰囲気はどこか柔らかい。
 胡坐をかいて、どうしたものかと顎を指で撫でながら、俺をじっと見ている。
「お前さんは武道なんてもんとは無縁の暮らしをしてきたんだろう?」
 楽器をしていましたと答えるしかない俺に、彼はなるほどと笑った。
「弦は得意か?」
「どういう意味で答えたら良いのかわかりません。 楽器と武道はまったく違うでしょう?」
「そうとも限らない。 だいたい、得意なものは何をしたって得意なもんだ」
 公介はよっこらしょっと立ち上がって、俺の前へ来るとすぐ近くに座りなおした。
「良いか? 少年、良く聞けよ? 武道ってのは道だ。 そもそもが短期間で習得できるほど甘いものではない。 そして、本来、誰かをやりこめるためのものでもないと来た。 しかし、お前さんは一夜漬けでも闘えるようにならんといかん。 さて、どうするか。 そう、どうしようもない」
 そう言われてしまったら元も子もない。俺は唇をかむしかないじゃないか。
「宗像の子供たちは3歳を迎えた頃にはもう何かしらの武道をはじめていることが多い。 つまり、スタートが違う。 その彼らと同じようにできるわけがないしな」
「それでも!」
「そう、それでもやらねばならん。 だから、勝ち方だけを身に着ける」
「勝ち方だけ?」
「そうだ。 由緒正しき武道なんてもんは忘れてしまえ。 正統派よろしく着実に積み上げる時間なんぞ、お前さんにあるはずもない。 だがな、お前さんはおそろしいほどのアドバンテージを実は持っている」
 アドバンテージだと言われたところで何があるというのだ。
 武術の心得など何一つない俺がどうやって理不尽を跳ね返せると言うのだ。
「唯人が100年努力しようと手に入らないものがある。 才能ってのは腹が立つ話だが万人に平等じゃない。 つまり、神のえこひいきで勝ちゃ良いだけだ。 別段、武術を身に着ける必要なんかない」
「そんな! 俺は強くならなくちゃいけない。 だから、武術を教えて欲しいんだ!」
「それじゃ、お前さんは勝てないままだ。 良いか? 強くなりたいのか、勝ちたいのか、お前さんはどっちだ?」
 強くなることと勝つことは別だぞと公介は念を押すようにもう一度、俺に言った。
「どれだけ武道に優れた猛者でもな、魔法使いには勝てないって意味わかるか?」
 公介は続けてこうも言った。
 剣道の達人が真剣一つで妖魔を殺せると思うかと。
 俺は思わず息を飲んで目の前の男の顔をじっと見た。
「闘うことになる相手に勝てる術を身に着けろと言っている。 与えられた物を使う。 それで終わりだ」
「そんなこと言われてもどうしたらよいかわからない!」
「だから、お前さんはここに連れてこられた。 俺はそもそもそんな奴らばっかりのお師匠さんにされがちだからな」
 かかかと笑うと、公介は待ってろと言うと道場をでて、数分としないうちに小さなケースをもって戻ってきた。
 差し出されたものを開くと、そこにあったのはただの刺繍セット。
 意味がわからず首をかしげていると、公介はその中から1本だけ針を取り出して見せた。
「この針がお前さんの最初の目標だ」
 公介がにやりと笑んで、俺の手に針を握らせた。
「高階新、良いか? お前のアドバンテージである暴れ馬のその風を糸のように細く練り上げて、この針穴に通して見せろ。 それができるようになったら、次のステップに行かせてやる」
「俺のは制御できない!」
「そうらしいな。 だからこそ、やるんだよ」
「暴発したら皆を巻き込む!」
「だから、俺がいる」
 公介が片方だけ口角をあげた。指先で宙に四角を描くように動かすと、透明な壁ができああった。
「元々俺はこういうタイプではなかったんだが、何せ、腕を失ったから、こういうこともできるようになった。 新、ここは宗像だ。 しかも、ここには俺がいる。 お前の暴れ馬程度の風なんぞ、何ともない。 俺はお前以上の暴れ龍を知ってるからな。 つまり、お前が失敗したとしても誰にも害は及ばないってことだ」
 ほら、やってみろと公介があごでさししめした。
 意識してこれを使ったことはない。
 幼い日のあの暴発した時の光景が脳裏をよぎって、俺は思わず目を閉じた。
 パンっと両掌を合わせるような音がして、目をあけると、公介が長い組紐で俺のまわりにサークルを作ろうとしていた。
「つべこべ言う時間がお前さんにあるのかどうか、考えろ。 はい、このサークルまでな」
 公介があぐらをかいて、膝をたたいて、はじめろとぐっとにらんできた。
 俺を中心に半径5メートルのサークルが作られている。
 風が組紐にわずかでも触れたらやり直し。その度に、立ち上がれと言われて、合気道のような技で投げ飛ばされる。受け身など学んだこともない俺は打ち身だらけだ。
 日に4時間はこのサークルの訓練をする。残りの4時間は祝詞の暗記時間だった。
 公介は祝詞の言葉一つ一つには意味があると教えてくれた。
 日本という国は『言霊の幸わう国』と称されるように、言霊に対する信仰がある。
 言葉には霊力が宿り、口に出されて述べることにより、この霊力が発揮される。
 例えば忌み嫌われる言葉を話すと良くないことが起こり、逆に祝福の言葉で状況が好転するというものだ。
 祝詞には、こうした言霊に対する信仰が根底にあるため、一字一句に流麗で荘厳な言い回しを用いて、間違えることがないように慎重に奏上されるそうだ。
 黄泉使いは死の領域を扱うからこそ、神への信仰を忘れてはいけないのだと公介は言った。
 黄泉使いはただの黄泉の小間使い程度のもので、日本においてヒーローというのなら、生きた人間をも救ってくれる陰陽師の皆様の方がよっぽどヒーローだと笑った。
『俺達は人を救えはしないからな』
 公介はそう言ったのだ。
 黄泉使いは夜闇を生き、怪しき黒き物を排除するだけで、生身の人を護ることはそもそも本分にない。人を護るのは神であり、手出しはできないのだと言う。
「でも、俺は助けてもらった!」
 俺のこの言葉に公介が困ったように笑った。
 ルール違反だったんだとつぶやき、俺を救った一団は罰則を受けたと付け加えた。
 俺を救ったことで、大目玉をくらった3人の黄泉使いは懲罰を受けたらしい。怪我をしていた2名を不問にふすかわりに、チームのトップが懲罰水牢で3日間の潔斎を行い、その後、全要所の狩を単独でこなせと命じられたことをきかされた。
 それを聞いて愕然としていた俺に、公介がため息をもらした。
「体裁を整えたんだよ、うちのトップは。 大目玉を喰らったのは宗像の治外法権的な扱いの特殊部隊のようなもの。 そのリーダーが自由に動き回れるように、お前さんは使われただけだ」
「どういうこと?」
「懲罰水牢ってのは名目だけで、水牢はアイツにとってはただの回復の泉みたいなもんで何の害もない。 全要所への出入りも本来は一つ一つに事由を立てていくものだが、『すべての狩を行え』というのが罰則として与えられた任務となった以上、問答無用になる。 普段から『えこひいき隊』と揶揄されているからこそ、行動には慎重さが必要だったのだけれど、アイツはそれができるようなチームを抱えちゃいないし、それで良いとさえ言ってしまうから、トップ様は苦肉の策の大目玉をくらわしたってわけだ」
「問題ないということ?」
「そう、問題ない。 むしろ、単独で随分と情報通になって戻ってくると思うぞ?」
「宗像は……。 どうして皆、そんな人達ばっかりなんだ?」
「基本、お節介なんだな。 だから、神様達もえこひいきがすぎる」
「えこひいき?」
「いざという時に、宗像は必ず救われる。 神を奉り、祝詞を口にできるってのは実はすごい権利なんだぞ? この日本にあって、祝詞の威力を知ってる人間が何人いると? なぁ、神が万人に平等であるとは限らないのは何故かわかるか? 元は平等であったにせよ、気づく者と気づけない者に分かれるからだ」
 だから、気づく者になれと公介は言った。
「神は不要な場を準備することなどない。 今、ここで、新が祝詞を学ぶことさえもが準備されたものだったとしたら?」
 公介の言葉が俺の身体に優しく絡みついていくような気がした。
 この環境にあることが課題であり、必要だと与えられたものだったと受け入れた先に何があるのだろう。
 美蘭が言っていた言葉がふいに脳裏に浮かんだ。
 必要のないことは目の前に現れない。
 目の前にあるものを片付けていくだけ、向き合っていくだけ。
「祝詞の言葉は身を清らかにして、研ぎ澄ませてくれる」
 荒ぶる物を身に宿していると自覚しているのなら、学べと公介は言った。

「ひふみ よいむなや こともちろらね

 しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか

 うおえ にさりへて のますあせゑほれけん」

 耳馴染みの良い日本語の羅列。ひふみ祝詞というそうだ。

「いろは   にほへとち  りぬるをわかよ
 
 たれそ  つねならむ うゐのおくやま  
 
 けふこえて  あさきゆめみし
 
 ゑひもせすん 」

 ひふみ祝詞と表裏一体のいろは祝詞はさらに耳に心地よい響きが来る。
 ゆっくりとゆっくりと一音一音口にする。
 それで良いと公介が教えてくれた。
 清き、正しく、美しくをまずは知り、それを身に着けてから、逆を教えてくれる師匠の元へ行かせると公介は言った。その逆を教えてくれる師匠とは誰を指すのかはあっさりとわかってしまい、ちょっとうんざりした顔をした俺を横目に彼は笑った。

「泰介はそういうのが得意だ。 絶対にお前さんもアイツの元で学ぶ必要があるが、今はそれ以前の問題だからな」

 数か月経っても、俺は半径5メートルのサークルを卒業できない。
 だけれど、罰則で投げ飛ばされながら、受け身をとることができるようになった。
 俺が汗水流して訓練している横で、公介は緑茶と焼き菓子を並べてぼんやりとしているだけ。アドバイス一つない。
 だけれど、わずかでも風が荒れ狂うと俺が身構えた瞬間だけ、こちらに目をやり、指を鳴らして抑え込んでくれる。
 噴出してくる大粒の汗が瞼に流れ込んできても、瞬きをするなと教えられた通りに随分とできるようになった。だけれど、半径5メートルの壁が超えられない。
 苛立ってくる寸前の所で、いつもの祝詞タイムに切り替えられてしまう。
 公介がゆっくりと腰をあげて、終わりだといつものように口にすると思ったが、予想外の動きをした。
 すばやく俺の前に足を進めて、肩を押さえつけるようにして、その場に押さえつけられたのだ。
 間一髪だった。
 俺がもと居た場所には侵入者の突き出した刃の先がある。
 公介はそれを素手でつかんで立っている。
 パラリと何かが畳の上に遅れて落ちた。
 俺の髪だ。
 チクリと右の頬が痛んだかと思うと、生ぬるいものがこぼれおちてくる感覚がした。
 公介は手でつかんだ刃をそのままへし折り、相手の懐に間髪入れずに膝をねじりこんだ。
 片腕を感じさせない動きで、道場の破壊された壁の穴へ侵入者を押し出して行く。
 動くなと公介に言われ、立ち上がろうとした俺はようやく自分の身体に大きな傷があることを自覚した。
 斬られている。
 背中が痛い。いや、痛いどころの騒ぎじゃない激痛だ。
 胃を握りつぶされたような不快感。それに次いで、喉の奥に何かが詰まったようで気持ちが悪い。

「公介さん!」

 少女の声がする。後方に目をやると赤い髪の少女、美蘭だ。
 彼女が公介に大槍を投げて渡すと、公介はにやりと笑んだ。
 大槍は恐ろしいほどの重量感あるものなのに、ものともせずに公介はそれを振り回している。
「封術は私が!」
 美蘭が両手で印を組もうと声をかけたが、公介は必要ないとつぶやいた。
「もうできてる」
 公介はそう言うと、ちらりと足元に目をやった。
 大槍を振り回しながら、不思議な足の動かし方をしていると思っていたが、公介は足で何かを描いていたのだ。
「小僧、おじさんは引退したけれど、生粋の宗像なんだぞ?」
 公介は槍の先で指先をわずかに傷つけて血をにじませた。  
 指先ににじんだ血が足元にぽとりと零れ落ちた瞬間、地響きがするほどの大爆発が起こった。だけれど爆風はまてどくらせど俺には届かない。
 目の前の事態に理解できずにぽかんと口をあけてしまった。
 公介は爆風をコントロールしていたのだ。敵に向けてだけ害をなすよう制御していた。
 砂埃があたりをつつんだ。
 だが、確かに、向こう側に見えた男の顔を俺は知っていた。

「若宮……直人」

 白一色の羽織がやけに目立つ。頬には赤で線をひいたような傷がある。
 彼はそれを指先でぬぐって、にっこりと笑んだ。
 
「お前が件の若宮直人か……」

 公介が俺に動くなよというように目をやってから、美蘭に一つうなずいた。
 美蘭が指笛を鳴らすと、空間がぐにゃりと歪んだ。
 そこに導かれるように現れた全身黒装束の人物はゆっくりと足を進めると、公介の前に立った。
 
「ようこそ、宗像へ。 あぁ、失礼。 僕が宗像貴一だ。 『はじめまして』と言うべきかな?」

 彼はゆっくりと右手をあげてみせて、公介と美蘭を後ろに下げた。
 仮面に手をかけて、さっとそれをはずして投げ捨てた。

「ここは僕の領域の一つだ。 わざわざこんなに裏口からではなく、正面から来ていただけたらお茶の一つでも用意させたのに」
 
 圧倒的な覇気だ。
 彼は武器など何一つもっていない。
 それなのに、若宮直人がわずかに表情をこわばらせ、その場から動けなくなっている。

「あぁ、そうだった。 姉が随分と世話になったみたいで、お礼が随分と遅くなってしまったよ」

 その場にいた全員が思わず、息を飲んだ。
 貴一がいつ動いたのかがわからなかったのだ。
 いつ動いて、いつ日本刀を手にしたのかわからない。
 だけど、目の前の現実は、直人の首に刃が押し付けられている。
 直人もとっさに身体をひねってのがれようとしたようだが、首の薄皮一枚は切り裂かれており、苦痛の声をあげている。
 さらに流れるような身のこなしで貴一がその長い手足を動かす。
 ドンと音がして、直人の身体が地に叩きつけられ、さらに一撃を加えようと動いた貴一がほんのわずかに眉をひそめた。

「随分と余裕だね」

 貴一と彼の名を呼んだ公介に、彼は小さい声で待機と命じた。
 若宮直人がくるりと身を起こし、白刃を振り下ろそうとして、貴一がそれを足で蹴り飛ばした。
「自覚できている?」
 貴一がにやりと笑んで、直人の足を指さした。
 ぼとぼとと液体が零れ落ちる音がして、直人が急に膝を折った。呆然として貴一を見上げている直人の目の前で、貴一は地面に転がったままの直人の日本刀をつま先でトンとはじく。小さな衝撃でそれは脆くも崩れ去った。
「退いて、公介さん」
 貴一はおぞましいまでに綺麗に笑って、退避を命じた。
 公介は仕方ないとうなり声をあげ、俺の身体を担ぎ上げた。
 美蘭が心配そうに目をやったが、貴一は小さくうなずいた。

「さて、手が出せないとでも思っていたのかな?」

 足を払われた直人の身体は仰向けに転がった。
 手にしていた細い日本刀の切っ先で直人の肩を躊躇することなく刺し貫いた。
 貴一はふっと息を吐いてから、直人の顔をぐっと見た。
 はらりと長い黒髪が肩から零れ落ちるさまは優雅ではあったが、直人を睨みつけている貴一の目はどんな妖魔よりも恐ろしい光を秘めている。

「どうしたの? 君はそれほど弱くはないはずだけど? 僕と本気でやりあってみればよいのに。 若宮直人、いいや、雪渓夏子殿」

 待て、今、貴一は何と言ったか。
 雪渓夏子。
 俺はこの言葉の羅列を知っている。
 天人王号だ。
 公介の肩に担がれたまま彼らから離れて行く。
 俺は公介におろしてほしいと懇願した。
 俺はここから離れてはいけない。

「雪渓夏子は強者の王号。 天人王号だ。 彼を戦わせてはいけない!」

 あぁ、ダメだ。
 ダメなんだ。奴と戦ってはいけない。
 宗像がいくら強くとも、奴には勝てない。
 そうか、俺が若宮直人を敵視していたのは本能だ。
 いびつな影が俺をつけ狙ってくるような感覚の理由はこれか。
 宗像貴一は失ってはいけない人だ。
 これも本能だ。
 天人王号保持者から彼を護れるのは俺だけだ。
 バタバタと暴れる俺を公介が困ったように降ろしてくれた。

「そいつから離れて! そいつは」

 俺が大声をあげて伝えようとした時、宗像貴一が俺の方をじっと見た。
 琥珀色の瞳がこちらへとまっすぐに向いている。
 今日は眼帯をしていない。だから、両眼がはっきりと琥珀色であるとわかった。
 だけど、右眼がわずかに色が濃い。

「陽の天人王号の保持者といえど、僕には勝てないから安心して」

 陽の天人王号と貴一は口にした。
 ただの宗像が知っている内容ではない。
 どうしてという俺の問いに、貴一は静かに静かに笑んだ。

「僕はこいつより強い」

 指先で宙に何か描くとそれは紅の炎とかわる。
 指先でパチンと音を鳴らすと、その炎の色が一気に黒にかわった。
 黒い炎はゆらゆらと蓮の花を描く。

「黒蓮……」

 直人が信じられないと言うような声をあげて、つぶやいた。
 貴一は直人に向けてゆっくりと指先を動かし、炎を放った。
 そして、俺へと手を伸ばした。

「おいで」

 この声だ。
 知ってる。
 俺は無意識に駆け出していた。
 あぁ、身体の枠がなくなっていく。
 俺は風になったような感覚がした。
 
『桜を愛でよ、この月の夜に。 黒き蓮は風と共に苛烈な刃と変わるだろう』

 俺の声だ。
 俺は何を口にしている。

「僕はただの宗像貴一だよ。 そんな『ただの僕』だけど、まだ喧嘩を続けてみる?」

 貴一は喉を鳴らし、笑った。
 笑って見せているのに、表情は怒りに満ちている。
 
「あぁ、違うな。 喧嘩は君の勝ちだ。 君の狙い通りの結果になるだろうから、早々に戻って、飼い主に『静観せず』と僕が言っていたと伝えろ」

 直人はゆっくりと上半身を起こし、面白いというように口角を片方だけ釣り上げた。

「静音!」

 貴一の制止する声とほぼ同時だった。直人の背後から、その首筋へまっすぐに伸びた刀身が見えた。
 逃がすのかという少女の目に、何もするなというように貴一がきつく睨み返した。
 
「宗像は痛みを忘れない!」

 静音は歯を食いしばるようにして、刃を引いた。
 どうして、彼らはこうもこらえることができるのだろう。
 脳裏に優しく微笑んでくれた悠貴の姿が浮かんだ。腕も足も元に戻らないほどに傷つけられていた。
 
『どうして?』

 俺の声は風のように軽い。
 自分の声なのに、まるでそこにいないような音だ。

『アイツは平気で皆を傷つけた。 俺だって何度も狙われた。 これからも続く。 逃がすのか? 駄目だ。 アイツは逃がしてはいけない』

 怒りに音があったのなら、こんな音がするのだろうなと俺は思った。
 轟音と共に風が巻き上がってくる。
 透明で柔らかな風ではない。黒い炎をはらんだ苛烈な風だ。

「そうだね。 それでも、この風はダメだ。 僕はちっとも嬉しくない」

 貴一が形のないはずの俺の頭の上に手を置いた。
 すっと耳のあたりに口を寄せて、貴一は小さくこう告げた。

「必ず成す」

 短い言葉だったが、そこには俺以上の憤怒の情が隠されていた。
 わかっているから、今ではないと悟れというような響きも秘めている。
 でも、我慢してはいけない何かがあるんだと俺は自分の真ん中に冷たい炎が生まれ、どうしたらよいかわからなくなった。

『正しい者が常に護られるとは……限らないのに?』

 それでも正しい者の方が良いだろうと貴一の声がして、俺は意識を失った。
 


『天も神もどうしてこのような仕打ちができるのだろう』

 天が選んだはずの者を殺す。
 ただひたすらにまっすぐに正しくあろうとしたのに、殺す。
 正しい道を歩むのが間違いであるのならば、最も正しい者を葬ってやる。
 暗闇の中で誰かがむせび泣き、そして、つぶやいた。
 
『だから、お前は死ぬのだよ』

 痛い。苦しい。息ができない。
 首がぎりぎりと絞められていく。
 どれだけ涙を流して、やめてと声をあげたとしても届かない。
 
『どうして、僕が殺されなくてはいけないの?』

 お前が強者を選んでしまうからだよ。
 お前が最も高いところへ導いてしまうからだよ。
 天盤は11しかない。
 9つの天盤などどうでも良い。
 勝敗は数じゃない。
 最も高い位置にあるものと最も深い位置にあるものがおさえられればそれで良い。
 皆、それがわかっている。
 お前が連れてくる者はそのどちらも手に入れてしまうから、お前は死ぬ方が皆のためだ。
 お前がいなければすべては拮抗する。
 永遠に決着がつかず、神はお困りになるだろう。
 愉快じゃないか。
 至高の号を得る者は誕生せず、すべての天盤が少しずつ狂い始め、9つでついた決着も何もかもが白紙に戻る。
 
『だから、首をはねてしまおうな』

 冷たい刃物が首に押し付けられた。
 恐怖はもう遠のいていた。恐怖が二の次の扱いになっていたのだ。
 ただ目の前の現実を頭が理解できずに、混乱していた。
 僕を護ってくれていたこの人が僕を殺すと言うのなら、もうどうしようもない。
 僕はいちゃいけない。それが正しいのかもしれない。
 頬を大粒の涙がこぼれおちてくる。
 抵抗などできるわけがない。この目の前にいる人は僕の庇護者だ。
 僕が役目を果たすその時まで護ってくれるはずの人が敵だというのなら、どこに僕の味方がいると言うのだろう。
 冷たい刃は無情にも僕の首の皮膚を裂いたと思った。
 だけれど、首ではなく、肩に痛みが走った。
 ふざけるなと怒声が聴こえ、誰かが身体を抱き上げてくれたことで、首はおとされなかった。だけれど、血はあふれてくる。

『生きて良い。 生きるのが間違い何てことがあるわけない!』

 僕の腕は、その誰かの首に必死にしがみついていた。
 今更ながらに恐怖が責め立ててきた。
 僕の背をなでてくれた手のあたたかさに、身体の震えが止まらない。
 何故、お前がコレを救うのかと罵声が飛んだ。
 すると、敵も味方もないのだと誰かは言った。

『生きる選択は己でするものだ』

 暗闇の中にあってもきらりと光りを放つような白銀の髪色をしていた。
 
『このチビが天地を揺るがすほどの大物だというのなら、なおのこと、俺は生かす。  己に仇成すかどうかなどまだわからんしな。 それに、俺はこのチビの初めてのお友達だからな、助けてやる理由が存分にある』

 はっと顔を上げたら、彼の形の良い薄い唇がゆるやかに吊り上がった。
 彼は僕を下におろすと、あの人に剣の先をむけた。
 その上で、僕に走れと言った。
 建物の裏手にお前の守護者がいたはずだから根性で走れと言った。
 でも、僕は嫌だと思った。
 彼のそばを離れたら、また怖い目にあうような気がしたからだ。

『良いか? 天は見ている。 お前と俺に運があれば一緒にいられる。 そのためにまずはお前が度胸をみせろ。 俺の友達だろう? できるな?』

 彼の大丈夫だという笑顔は僕を救ってくれた。
 走れと言われて、満身創痍のまま、ひたすらに走り抜いた。
 血を失いすぎた眩暈でもうだめかもしれないと思った瞬間、赤い髪の男が僕に気づいてくれた。
 慌ててかけつけてきてくれ、何があったのかと驚いた顔をして抱きしめてくれた。
 僕は逃げなくちゃいけないと言った。
 それだけで彼はすべてを悟ってくれた。
 転がり落ちるように海へと駆け抜けたのに、逃げ切れなかった。
 待っていろと二人とも言ってくれたのに、度胸を見せろと言ったあの人も、一緒に居るからと言ってくれた赤い髪の人も結局は来てはくれなかった。
 暗く冷たい海に飲み込まれて、暗闇に手を伸ばして、もがき苦しんだ。
 肉が骨が奪われる痛みにだって耐えた。
 でも、二人は来てはくれなかった。
 それでも、僕は待っている。
 待っているしかできなかったから。
 でももう、一人の時間は嫌だ。

『一緒にいられるって言ったじゃないか!』

 俺は自分の大声で目が覚めた。
 伸ばしたままの手を握りかえしてくれた手は小さく柔らかい。
 ふわりと赤い髪が俺の頬にふれた。

「大丈夫か?」

 顔を覗き込んできたのは美蘭だった。
 俺は無意識にその赤い髪に手を伸ばした。
 目頭が急に熱くなって、涙があふれた。
 ここに、いたのか。
 この魂の色は知っている。

「美蘭……、紅い月をみたことはあるか?」

 俺の問いに美蘭の表情がみるみると蒼ざめていく。
 それが返答でしかない。

「あるんだよな?」

 俺は右腕で瞼を覆った。
 本当に天は見ているということだ。
 
「美蘭、話したいことがあるんだ」

 美蘭が静かにわかったとだけ答えてくれた。
 彼女はおそらくもうわかっている。
 俺はそう思った。
 



 
 
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