ファーストフラッシュ

紺色橙

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第三章 捨てる、捨てない

3-10

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 お菓子作りに興味があるのだと話せば、店長が本を貸してくれた。
 店にいる間にそれを眺める。
 発行年月日が随分と古い、昔のお菓子の本。中を見れば古めかしい言葉で綴られている。
 きっと今とやっていることはそう違わないだろう。
 新しい本は折り目がつけられ、店長はそれを家で作っていたんだろうと思わせた。

 もしオーブンがあったならこれを作れるかなと甘いにおいを嗅いで思う。
 店長が作る綺麗な焼き色のクッキー、ふわふわのスポンジ。
 あのデコレーションケーキのように綺麗に飾るのは無理だとしても、この土台を作れたら。
 
「図書館で借りてみたら?」
 借りた本を覗き込み依子さんが言う。
「図書館」
「もっと作りたいって思うのがあるかもよ」
 あくまでも貸してくれているのは店長の本で、店長が作りたいと思ったもの。
 だからオレが作りたいものを探してみたらどうかという提案だった。
 本を買うのは高いし借りれるならばそれが良い。
 だけど。

 荷物になってしまうな、と思った。
 店長の本は借りてもここで読むだけで持ち帰りはしない。
 図書館の本を借りたら家に持ち帰ることになる。
 あの家に物が増える。
 突然出ていかなければならなくなったときに、本を持ち出すのは大変だ。
 これは借りものだから少し待ってくださいと言えばケースケさんは待ってくれるだろうけど。

 
 ケースケさんはオレを追い出そうとしない。
 言ってくれた「ここにいてもいい」という言葉をオレは頼りにしている。
 それに甘えていたらいけないんだろうなとも思うのに、何もわからない振りをして言葉だけを飲み込んでしまいたい。

 本がなくとも荷物は増えた。
 夏服に変える頃になれば、月日が過ぎる速さを感じた。
 最初に買ってもらった冬服。
 次に買ってもらった夏服。

 連絡もせずに押しかけたオレをケースケさんは迎え入れてくれた。
 あの日、気持ち悪さが治まって周りを見る冷静さが戻った時、自然と涙が出た。
 ケースケさんは冴木さんと同じようにお世話になった人だ。
 あの時オレはそう思っていて、その顔が記憶の中でぼやけていることをひどく恥じた。
 だというのに当のケースケさんは押しかけたオレに優しくしてくれた。
 親切で優しい人という一歩離れたところからの印象が、あの時違った輪郭を明確にしたような気がする。

 明確になった輪郭にもう一度会いたくなった。
 もう一度会えばさらにもう一度。
 ケースケさんは驚きはしたが嫌な顔はしなかった。
 思えば最初から、ケースケさんにオレは甘えている。
 ゴミは捨てなければならない。だけどケースケさんは捨てなくていいと言った。
 お前にとってゴミなのかと、オレの絵に問うた。
 オレがただ描くだけの、お金にもならず何の役にも立たない絵を取っておいていいと言ってくれた。

 もし、オレが捨てたくないと思うなら捨てなくていいというのならば、オレはやっぱり――。

 首からかけた合鍵を服の下で握りしめた。
 
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