短編集『乙女のワンシーン』

紺色橙

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嗚呼、ベリー色の人生

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 春の光が差し込むワンルームで、私は鏡に向かっている。

 幸い花粉症ではない私は窓を開け、最高気温18度の風を部屋に迎える。
 入る光だけでは足らず、真上から照らす昼白色。



 学生時代に憧れていた先輩がいる。
 凛としたその姿。
 とても同年代とは思えなくて、進学して大人気分だった自分に恥ずかしくなったのを覚えている。

 ずっと先輩に憧れていた。
 彼女は別に生徒会の人でもないし、演劇部のカッコイイ男役でもないし、物凄い不良の問題児なわけでもない。
 だから先輩を見るのは偶然で、本当にただ偶然で。
 部活の後輩でもない私は『後輩』にもなれず、当然友達にもなれない。

 私はたまたますれ違う。
 私はたまたま目についた姿を一瞬だけ見やる。

 化粧をしていたのかな。
 思い出の中の先輩は凛とした目が特徴的。
 でも私は間近で正面から見たことなんてない。
 こっそり違うものを見る振りをして視界に入れた。
 その目元を意識して、化粧を始めたときからアイラインは黒を手にした。

 垂れ目にしたり、釣り目にしたり、目からはみ出さないようにしてみたり。
 何度も何度も描いた線。
 一発で、すっと引けるようになった線。
 でも何度描いても私の目は先輩の目にはならなかった。


 社会人になった頃、ようやく先輩は思い出の中の人だと気が付いた。
 妄想の中の人と言ったほうが正しいのかもしれない。
 きつい顔だと言われていた私は、可愛い子の動画を見て評判のアイラインを買いに行った。
 いつもなら買う黒が店にはなくて、手にしたことのない色を手にする。
『ベリー色』なんて、そんな。
 1500円の細いアイライナー。
 初めて薬局で安い化粧品を手にした時のように、店員さんを見られなかった。

 いつもと同じテーブルに置いた鏡の前。
 ベリー色の乗った私は思ったよりも不自然でなくて、動画の可愛い子と同じラインを引けていて、「案外いいじゃない」って思えた。

 用も無いのにそのままコンビニに行った。
 今度は店員さんを見て、支払いをすることができた。
 
 店員さんは私に変な視線を送っては来なかった。
 興味を持たれない程度に普通なんだなって思えた。
 じゃあ良いじゃん、これでも。

 何度やっても再現できなかった先輩。
 憧れは遠すぎて、私の背は丸まり黒いアイラインは更に顔を暗くした。
 きつい顔を際立たせ、きっと「どうせ」って気持ちが顔に書かれていた。

 何色で線を描いても私は先輩にはなれなかった。
 黒でも茶色でもピンクでも紺でもオレンジでも、なれなかった。

 動画の可愛い子を真似て、散財して、それを諦める頃気が付いた。
「誰も見てないし、私の好きなものでいいか」
 どうせ誰も私のアイラインなんて見ていないし、私の先輩も知らないし、私と先輩の差なんか知りもしない。
 眉毛が濃くなり過ぎたときも、口紅が歯についちゃったときも、シャドウを入れ忘れたことを駅に着いてから思い出した時も、「まぁまぁこんなもんでしょ」ってなれた。



 思い出の先輩に似た人を駅で見かけた。
 あくまでもきっとあれは、似た人。
 でも失礼ながら私は、その人をしっかりと見ることができた。

 こっそり見ない振りして見ていた先輩。
 あの時『後輩』にでもなれていたら、私のアイラインはもっと早くにカラフルになっていたかもしれない。

 でもまぁ人生、こんなもんでしょ。
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