おぞましく愛おしい

紺色橙

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 病院に色を貰いに行くというのは、自主的なものだ。色をくれる人がいれば疑似色素もシールも必要ない。だから当然催促や通達もない。自分が行かないと決めたら、ただそれだけのこと。
 まだ昼間は暑い10月。"熱い"ではなくなってきたし湿度も下がったが、"暑い"は残る。一転して天気が悪く冷えるときもあるんだから、キャンバスでなくても体調を崩す。そうすれば病院だって混む。それが予想されるところに行かなくて済むというのは楽だ。
 内心では少しの怯えを感じながらも、水瀬はどうにかこうにか日々を過ごした。

 通院予定をひと月過ぎれば、「このままいけるんじゃないか」と前向きな気持ちが湧いた。
 さらにふた月も経てば、「頼らずやっていけるじゃないか」と自信も沸いた。
 脱力しつつマッサージを受け、坂本にそれを話せば歯を見せ笑い喜んでくれた。


 順調だった。だった、のだ。


 少し仕事が忙しくて、やりたくない残業をした。おかげで、親切にかかってきた予約枠が空いたという電話を断ることになってしまった。
 木枯らしに吹かれ季節は移り、枯葉と共に飛んでいく。
 年末に向かう美容院は混んでいて、いつ見ても空き枠はずっとバツ×バツ×バツ×。仕事の予定が、見通しが立たないからと先のネット予約はしていなかった。親切な電話に甘えていたせいもある。机に頭を打ち付けても記号は変わらない。

「失敗した」

 世間はすっかりクリスマスに飾られている。スーパーの一角だってキラキラしている。だけどもショーウィンドウに映る自分は――。疲れのせいだ。世の中全部が悪く見えてしまうのは、ストレスが溜まっているせい。睡眠時間もあまり確保できていないし、何を食べようかと考え選ぶのもめんどくさくて、昨日何を食べたのかも覚えていない。ギャラリーだってペインターだって、疲れていたらこんな気分になるだろう……――なるだろうか。明るいライト、煌びやかな装飾は色を強調させている。を。
 青や白で統一されたツリー。金色に光る星と文字。積まれたプレゼント箱と結ばれた水色のリボン。デートのために、そして自分へのプレゼントとして提案された柔らかなピンクの服。大きな看板で大きな瞳を際立たせる深緑色。赤いサンタ帽をかぶった茶色のトナカイのぬいぐるみ。透明何もないは――。

 雨を降らせる厚い雲のようなその気分を、水瀬はよく知っている。

 思わず予約もなしに美容院へと飛び込んだ。
 初めて来たときから変わらない受付の若い女性は、申し訳なさそうな顔で「あいにくですが」と断わりを述べた。

 断られることも分かっていたし、仕事が忙しいからと予約を先延ばしにしていたのも自分のせい。仕方ない。そう分かっているけれど、自然と俯く。頭が重くて、電車の吊革に掴まればそれにすがった。
 寒いからと車内の窓は締め切られ、急行に乗ってしまえば新鮮な空気がドアから入る時間も短い。"色"が関係なくとも淀んでいる空気。それが水瀬をぎゅうぎゅうと押し潰してくる。カーブで体が揺れ、そのまま窓を割り外に放りだされてしまえばいいのにと妄想した。

 駅から家までの間にあるコンビニに入る。ここに入るのは意志ではなく決まり事のようなもの。何を食べたらいいかわからず、でも食べなければやっていけないことも理解していた。目線の高さにある新商品と書かれたパンを手に取り、更に同じものをもう一つ。砂糖がまぶされたパンはカロリーだけで考えるなら十分だろう。

 心が完全に落ちてしまう前に、病院に行くべきだ。"べき"と分かってはいるが、行けなかった。二時間の待ち時間を耐えられる気がしなかったし、そんなもののために休みを潰したくもなかった。
 ギャラリーだったなら、相手がいたのならそんな無駄をせずに済むのに、どうして自分は。
 俯いた考えは頭の中で巡り続ける。明るい思考に結びつけばいいものの、引き寄せるのは同じく悪い思考ばかり。これはキャンバスという性質のせいだと散々に学んできたのに、役に立たない。

 毎日同じルートで会社へ行き、毎日同じルートで家に帰る。途中コンビニでパン棚に寄り、目線の高さのパンを手に取る。何も、何も変わらない日々。
 個人宅がイルミネーションを光らせるのから目をそらす。足音を立てずにアパートの階段を上る。シャツは洗濯機へ、パンはテーブルの上。シャワーを浴びて、歯を磨いて――。

 生活できていた。けれどだんだんと眠れなくなった。布団をかぶっても心臓の音が体を揺らすだけで、体を横に傾ければ吐き気がする。寝よう寝ようと思うけれど、頭は熱く足は冷たい。気にしてもいなかった目覚まし時計の針の音。カチカチと刻まれるたびに焦りに支配される。
 カーテンの隙間から覗く窓の外が明るさを見せるころ、意識を失う日々。



 年末になり、掃除をして夕方前に会社を出た。最寄り駅の前でふと、マッサージ店が目についた。足が向く。
 店は夜までやっていたが、帰宅を優先する水瀬の視界には入っていても見えていなかっただけ。まだ明るい日のもとで、のぼりが静かに立っている。
 美容院で頭だけのマッサージをしてもらって改善していたのだから、全身やってもらえばさぞかし、と期待した。茶色とベージュに統一された店の中、呻き声を上げつつの60分。体は確かに軽くはなって、首から肩の痛みも消えた。体の痛みが消えた分、精神状態の変わらなさに笑えてくる。あいにく、水瀬の口角は少しも上がりはしない。

 年末年始に帰省する元気もなく、昼間から見もしないテレビをつけていた。
 テレビではカラー当てクイズや占いをやっていて、占い師が「いずれ離婚するからリムーバーを探しておきなさい」なんて言っている。リムーバーを探さないといけないのならこの人は相手がいるのかと、知りもしないスポーツ選手を見て思う。
 "剥がす"痛みはどれほどだろうか。離婚するというのだから、この人がペインターだろうとキャンバスだろうと揉めるのだろう。揉めるのならば、精神的な苦痛は既に感じていて、キャンバスとしては透明に戻ることで解放感すらあるのでは。

 染まることだけが幸せではないのかもしれない。色を直接注がれたこともないが、一度くっついてから離れるよりは、最初から最後まで透明なままでもいいのではないか。
 これまで生きてきた自分のまま。それは坂本に肯定されたこと。

「そうだよね」

 結局自分を慰められるのも自分しかいないのだと、水瀬は机に突っ伏す。腕の先には、食べていないパンが置かれたままになっていた。
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