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見て呉れ
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予約の取りづらい美容師に予約を入れるために、キャンセルがあったら連絡をくれと伝えた。さすがに平日昼間には難しいけれど、夕方からならどうにかする。どうにかする、ということに決めた。
決めてから実際に行動してみれば、残業などというものは精神負担が大きすぎることに気が付いた。みんなやっているし、仕方ないし、けどやりたくない。そんなのは誰しも思うこと。それでもその時に漂う色が、まるで夏の湿気のようにまとわりついて、さらなる悪影響を及ぼす。
色ではない湿気を纏い、美容院に行く時だけが癒し。
提案された通り、日数が経っていないときにはマッサージだけすることにした。メニュー表にも『ヘッドスパ』とあるから問題ない。
やる予定もないヘアカタログをめくる。めくった雑誌のモデルたちは髪色だって目の色だって様々で、どれもその人を良く見せている。水瀬は人の色を見れるスキャナーではないからはっきりとしたものは分からない。だけども人には似合う色がある。よく選んでしまう色がある。きっとそれは、魂の色に結びついているだろう。
カットでもカラーでもないのに指名はできないんじゃないか。提案を受けた後に気付いたけれど、予約したときはいつも坂本がついてくれた。
熱いほどではないお湯で頭を洗われ、ゆっくりと揉み解されると体の力も抜けていく。視界が遮られているせいか音と熱に集中できる。前髪の生え際から徐々に移動していく指先が分かる。そこから血流が良くなるのも。
柑橘のいい匂い。離れたところから聞こえる内容のはっきりしない話声、笑い声。片づけの音。区切られた向こう側からする水音。
肩から力が抜けて、開いていた手のひらが丸まる。眠る時よりも心地がいい。
そうして頻繁に通うようになっていた。
「病院めんどくさいなぁ」
暦が秋を告げようと、現実ではまだ暑い。カットクロスの下は半袖だ。冷房はかかっているけれど、一日働いて汗ばんだ腕がクロスに張り付かないか心配になる。そっと空気を入れた。
「怪我ですか?」
「いや、疑似色素貰おうと思って」
「具合悪いんですか?」
「最近はそんなに」
病院に行くことは習慣だと言ってもいい。それにいくら不味くても、一応精神安定には役立っている。頭のいい人たちが一生懸命作ってくれているのだ。
「調子悪くないなら、行かなくていいんじゃ」
「え」
行かないという選択。不味いから飲みたくないし行くこと自体が面倒臭いとは常々思っていたけれど、それでも行かなければならない、と思っていた。
「他の色を入れなくてもいいんじゃないですか。今のままで」
確かに。色を貰わなければ不安から逃げられないからめんどくさくても行っていたのだ。鬱状態になる前に、予防として。
ふわりと水瀬の髪に指が通される。五本の指で持ち上げられた髪がはらはらと落ちる。
「キャンバスの魂が透明だとしても、ここにいるあなたは透明じゃない。ありのままを受け入れられているのなら、しばらく病院に行かないってのはどうですか」
「行かない、か」
不安症状は減っている。頻繁に美容院に通ってマッサージをしてもらうことでストレスが減っているせいだろう。以前は「美容院に行くことがストレス解消になる」なんて信じられなかったけれど、水瀬も今ではそう思う。自分を捻じ曲げるのではなく、今を良くしようとする使い方なら、ストレス解消にもなる。
鏡の向こうで、背中の後ろで、輝く白い髪を見つめた。
坂本の指は大事そうに水瀬の髪を挟み、軽く引っ張る。よく手入れされた鋏が鏡のように色を映す。さくさく切られる髪に感覚はない。
「そうしてみようかな。不味いんですよ、疑似色素。錠剤とかカプセルとか、もっと飲みやすく保管しやすくなってくれたらいいんですけどね」
「ペインターのシールはどうです? いつも選ぶ色とかあるんですか」
「いや、そっちは大体いつも在庫が無いです。運よく選べた時もあったけど、『どれでもいい』って言った気がするな」
「キャンバスの人って、一度にいろんな色を貰っちゃうから具合悪くなるんじゃないかな」
「どうなんでしょうね。そうだとしたら、染色して"定着"させてくれる相手がほんとに欲しいですよ」
自分に色がついたなら、それはどんな心地だろう。水瀬は想像する。
シールから入り込むあの色が、流れ落ちずに定まってくれたらどんなにいいだろう。透明の水に絵の具をぽたりと垂らすように、いつもは滲んで曖昧になる。"青"を取り込もうとも、いつも"透明な青"になってしまうあれが、"青"として固着したなら。ガラスの向こう側が見えなくなるほど、その色に染まることができたなら。
現実的ではないが、悲観するほど最近の気分は悪くもない。
整えられた髪の向こうで、全体バランスを見る坂本と目が合った。
短く切られたばかりの髪は、いつも白髪が目立つ。
決めてから実際に行動してみれば、残業などというものは精神負担が大きすぎることに気が付いた。みんなやっているし、仕方ないし、けどやりたくない。そんなのは誰しも思うこと。それでもその時に漂う色が、まるで夏の湿気のようにまとわりついて、さらなる悪影響を及ぼす。
色ではない湿気を纏い、美容院に行く時だけが癒し。
提案された通り、日数が経っていないときにはマッサージだけすることにした。メニュー表にも『ヘッドスパ』とあるから問題ない。
やる予定もないヘアカタログをめくる。めくった雑誌のモデルたちは髪色だって目の色だって様々で、どれもその人を良く見せている。水瀬は人の色を見れるスキャナーではないからはっきりとしたものは分からない。だけども人には似合う色がある。よく選んでしまう色がある。きっとそれは、魂の色に結びついているだろう。
カットでもカラーでもないのに指名はできないんじゃないか。提案を受けた後に気付いたけれど、予約したときはいつも坂本がついてくれた。
熱いほどではないお湯で頭を洗われ、ゆっくりと揉み解されると体の力も抜けていく。視界が遮られているせいか音と熱に集中できる。前髪の生え際から徐々に移動していく指先が分かる。そこから血流が良くなるのも。
柑橘のいい匂い。離れたところから聞こえる内容のはっきりしない話声、笑い声。片づけの音。区切られた向こう側からする水音。
肩から力が抜けて、開いていた手のひらが丸まる。眠る時よりも心地がいい。
そうして頻繁に通うようになっていた。
「病院めんどくさいなぁ」
暦が秋を告げようと、現実ではまだ暑い。カットクロスの下は半袖だ。冷房はかかっているけれど、一日働いて汗ばんだ腕がクロスに張り付かないか心配になる。そっと空気を入れた。
「怪我ですか?」
「いや、疑似色素貰おうと思って」
「具合悪いんですか?」
「最近はそんなに」
病院に行くことは習慣だと言ってもいい。それにいくら不味くても、一応精神安定には役立っている。頭のいい人たちが一生懸命作ってくれているのだ。
「調子悪くないなら、行かなくていいんじゃ」
「え」
行かないという選択。不味いから飲みたくないし行くこと自体が面倒臭いとは常々思っていたけれど、それでも行かなければならない、と思っていた。
「他の色を入れなくてもいいんじゃないですか。今のままで」
確かに。色を貰わなければ不安から逃げられないからめんどくさくても行っていたのだ。鬱状態になる前に、予防として。
ふわりと水瀬の髪に指が通される。五本の指で持ち上げられた髪がはらはらと落ちる。
「キャンバスの魂が透明だとしても、ここにいるあなたは透明じゃない。ありのままを受け入れられているのなら、しばらく病院に行かないってのはどうですか」
「行かない、か」
不安症状は減っている。頻繁に美容院に通ってマッサージをしてもらうことでストレスが減っているせいだろう。以前は「美容院に行くことがストレス解消になる」なんて信じられなかったけれど、水瀬も今ではそう思う。自分を捻じ曲げるのではなく、今を良くしようとする使い方なら、ストレス解消にもなる。
鏡の向こうで、背中の後ろで、輝く白い髪を見つめた。
坂本の指は大事そうに水瀬の髪を挟み、軽く引っ張る。よく手入れされた鋏が鏡のように色を映す。さくさく切られる髪に感覚はない。
「そうしてみようかな。不味いんですよ、疑似色素。錠剤とかカプセルとか、もっと飲みやすく保管しやすくなってくれたらいいんですけどね」
「ペインターのシールはどうです? いつも選ぶ色とかあるんですか」
「いや、そっちは大体いつも在庫が無いです。運よく選べた時もあったけど、『どれでもいい』って言った気がするな」
「キャンバスの人って、一度にいろんな色を貰っちゃうから具合悪くなるんじゃないかな」
「どうなんでしょうね。そうだとしたら、染色して"定着"させてくれる相手がほんとに欲しいですよ」
自分に色がついたなら、それはどんな心地だろう。水瀬は想像する。
シールから入り込むあの色が、流れ落ちずに定まってくれたらどんなにいいだろう。透明の水に絵の具をぽたりと垂らすように、いつもは滲んで曖昧になる。"青"を取り込もうとも、いつも"透明な青"になってしまうあれが、"青"として固着したなら。ガラスの向こう側が見えなくなるほど、その色に染まることができたなら。
現実的ではないが、悲観するほど最近の気分は悪くもない。
整えられた髪の向こうで、全体バランスを見る坂本と目が合った。
短く切られたばかりの髪は、いつも白髪が目立つ。
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