おぞましく愛おしい

紺色橙

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 短くなった髪は、以前より白髪が目立つ気がする。光が当たり透けるように見えるからだろうか。

 あの日美容院を出れば、キャンバスが多くもつ不安症状は減っていた。四月の新しく明るく爽やかな存在を見ていられなくて店に行ったのに、出たころには気にならなくなっていた。自分を否定する自分がいなくなったからかもしれない。まったく気にしなくなったわけではないが、そんなときには坂本との会話を思い出す。この髪にどんな色を入れてもらえるだろう。ペインターに注がれたら、どんな風に染まるのだろう。きっと自分が染色剤で染めたのとは違う、鮮やかな色が出るに違いない。
 公表しているキャンバスが表に出している色を以前は恨めしくもあったが、今はただ羨ましく思う。

 満員電車に揺られ、ギャラリーの煙を受け入れる。それが水瀬の毎日だ。ただ通過していくだけの、定着しない色たち。あちらこちらから漂ってきて、ぶつかって、とぐろを巻いて、吹き抜ける。思わず眉をしかめた。吊革を握る手に力がこもる。
 どうせ貰えないのなら通り抜け・・・・もしないでいただきたい。色というのはその人そのものだから、知らない幾人に踏まれているに等しい。
 落ちそうになる意識に頭を振る。これだけ多くの人がいれば、気の合うペインターにも会えるかもしれない。色に敏感であれば、きっと。

 長い間思い悩んでいたことが、一朝一夕でなくなるわけもない。まるでいないものとして魂ごと踏みつけられるのが、なくなるわけでもない。それでも生活しなければ。

 髪を切りに行こうか。
 もうヘアカラーの相談はない。この白髪のままで生きていくと決めたのだ。だけれど……坂本の予約は取れるだろうか。人気の美容師を頼んでもいいものか。サイトに載っている真っ白な髪のその人。さすがカラーのプロは根元まで綺麗にしてある。
 水瀬は坂本指名で空いている日を選択し、カットだけの予約を入れた。前回から約一か月経った日のことだった。




 二か月も経てば人気の美容師を利用してもいいだろう。客なのだから日数は関係ないだろうに、水瀬はそんなことを思う。
 この二か月幾度となく坂本との会話を思い出し、自分に言い聞かせるようにしてきた。大丈夫、と呪いをかけるように。けれど髪が伸びるとともに前の自分に戻ってきたようで、不安症状が顔を出す。毎日の満員電車で泣きそうになり、どうして自分はギャラリーではないんだと恨み、二時間は待つことになるだろう病院に疑似色素を貰いに行こうかとため息をついた。

 疑似色素は美味しくない。喉を直撃してくる甘さで、変なハーブと独特な薬品臭さがある。そんなものをどろりと舌に張り付くようにして飲み込むのだ。もっとどうにかならないのかと飲むたびに思う。精神安定剤が混合されているらしいそれは、確かに効果があるのだけど。
 問題は味だけじゃない。平日はとっくに病院が閉まっているから土曜日に行くしかないが、そうするととにかく待ち時間が長いのだ。朝9時に行ってその薬を貰って出るのが受付終了時間の11時半だったなんてざらである。
 運が良ければペインターが献血ならぬ献色をしたシールを貰うことができる。彼らが直接色を移した特殊なシールを、キャンバスはそのまま肌に張り付ける。シールの色がなくなれば効果切れだ。これは保存期間が短い医療品で、タイミングよく提供者がいなければならない。お手軽だしデメリットもないし当然誰もがこっちを欲しがる。でもなんせ人気だから、あることに期待はしない。
 美容院はいい。予約が取れれば無駄な時間が無いし、平日の夜でもやっている。

 帰路ではない電車に乗って記憶通りの道を行けば、記憶通りの店があった。
 平日夜の予約。今雨は降っていないが、梅雨時期の傘立ては入口すぐ横で働いていた。

 水瀬は案内された席に座り、鏡の奥で動く白い頭を目で追った。
 相変わらず綺麗な色をしている。あれを保つのにどれだけの労力がかかるのだろう。
 歯を見せて笑う坂本が前の客を見送り、片づけを他のスタッフに任せている。鋏や櫛を指定の位置に戻し、何かを2つ3つ話して頷いて、その目が振り向いた。

「こんばんは。今日はカットだけですね」
「そうです。カラーは、しないほうがいいって言われたから」

 当の坂本は覚えているだろうか。そんな不安、疑い。

「前回から……二か月くらい経ってますね。どうでした? やっぱりカラーしたくなりました?」
「いや、したくないと言えば嘘ですけど、前ほどどうにかしないとって気持ちはなくなりました」

 以前ほど目をそらしたくはならない。美容院の鏡の前では、水瀬は断言できた。鏡の向こうで坂本が笑う。

「良かったです」
「あの、坂本さんはカラーが得意なんですよね。カットだけってのはやっぱり……客としてはあんまりですか」
「そんなことないですよ」
「あ、カットに不満があったとかじゃなくて、人気の美容師さんだから頻繁に予約入れるのも……」
「大丈夫ですって。いつでも大歓迎ですよ」

 髪を切る準備が整えられ、ぽんと肩に手を置かれた。体からふっと力が抜ける。

「前回、すごい楽になったんです。髪切ってさっぱりしたのもそうだけど、あの後ずっと坂本さんの言葉思い出してて」

 何もない透明からこそ、丸ごと受け止めてあげられる。溢れる色を受け止められる。キャンバス自分なら。
 白髪だってそうだ。色の抜け落ちたこの髪なら、相手の色もよく入るはず。きっと受け止めたことをよく理解してもらえるはず。
 同じことを悩み、同じことに言い訳をして、同じことを言い聞かせていたのに、坂本を前にするとはっきりと思えた。

「色の効果って強いですよね。明るい色は気分が上がるとか、暗い色は落ち着くとか、よく言われるものだけじゃなくてきっと自分だけの決まりがある。魂なんて不確かなものに色がついているなんて理解できないのに、納得してる。色は味方にもなるし敵にもなります。振り回されたりね」

 振り回されるというのは、まさに水瀬のことだろう。そればかりを気にして生きてきた。

「ここでは色を簡単に変えられる。魂が染まっていなくても、表面的にはどうとでもできます。それでいいというのなら、やりますよ」

 それで、よくない。見た目に表れてしまっている中身そのものが問題なのだ。だけれど一朝一夕で消えない見た目への執着はやはりばれていた。見た目を変えることで中身が変わることもあると、何百人も何千人も見てきたから思うところもあるんだろう。
 二か月経って伸びた髪に、坂本は優しく触れる。

「いつでも来てください。なんならカットでなくマッサージとかどうですか。そうしたら、経った日数なんて気にせず来れるでしょ」

 両手で撫でられるように頭を包まれる。水瀬はそれに目を閉じた。手の重さがじんわりとしみ込んでくるようだ。毛流れに沿って手が降りてくる。耳に坂本の小指が触れた。かすった程度なのに、暖かさを感じる。

 確かにそれならいいかもしれない、と提案を受け入れた。
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